えんじゅです。
昨日に引き続いて「ことのは311」。
http://digital.asahi.com/20120224/pages/
2回目の今日は
難解な詩で有名な吉増剛造さんの『詩の傍(cotes)で』。
廃棄されたバスが一面の雪に埋まる極寒の北海道、
石狩川のほとりで朗読する吉増さんのパフォーマンスは
ものすごい迫力に満ちていて、言葉は悪いですが、
一見すると「ビョーキ」の人のよう。
詩そのものも、現代詩に慣れていない人が読むと、
一読しても何のことだかわからないかと思います。
けれどもそうした詩、パフォーマンスにはきちんと理由があって、
併載されたインタビューを読むと少しわかるかと思いますが、
詩中の表現を借りれば「cotes乃“s”=ム、音に、耳を澄ます」、
つまり「cotes」という仏語の最後の“s”の無音
(仏語では前に母音がある場合、単語の最後の子音は発音しない)に
耳を澄ますこと、
いいかえれば「沈黙の音に耳を澄ます」といったところでしょうか。
ジル・ドゥルーズは最後の著書となった『批評と臨床』の中で
こう書いていました。
「錯乱こそが、世界の端から端へと言葉を運び去るプロセスとして、
それらの形象を発明する。それは言語活動の境界線上における
出来事なのである。しかし、錯乱が臨床的状態に陥ってしまったら、
言葉はもはや何ものにも到達することはないし、
人はもはや言葉を通して何一つ聴くことも見ることもない――
みずからの歴史と色彩と歌を失ってしまった夜のほかには。
つまり、文学とは健康であることなのだ。」
- 批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)/ジル・ドゥルーズ
- ¥1,365
- Amazon.co.jp
また、『意味の論理学』という著書では、ルイス・キャロルなど、
無意味(Non-sens;ナンセンス)な文の意味を考え、
その意味を「意味の不在に対立するもの」と捉え
(つまり意味の空白を指し示すものと捉え)、
『ドゥルーズ キーワード89』という本によれば、
「意味の空白を意味する無意味は、あらゆる意味の背後にとりつき、
意味の領野全体に遍在しながら、あらたな意味の裁断を規定」
していたといいます。
- 意味の論理学〈上〉 (河出文庫)/ジル ドゥルーズ
- ¥1,050
- Amazon.co.jp
- 意味の論理学 下/ジル ドゥルーズ
- ¥1,050
- Amazon.co.jp
- ドゥルーズ キーワード89/芳川 泰久
- ¥2,100
- Amazon.co.jp
吉増さん自身はこの点を、次のように説明してたと思います。
「創作をする人はみな、そうだと思うけど、
素手で立ち向かうのは難しいことで、作家も絵描きも創作にあたっては、
絶望的な気分の中に自分を置かざるをえない。
死んじゃった方が楽だというような気分、
そのときに荒涼たる風景がみえてくる。
そこを通らないと創作はできない。
その荒涼たる地に何度も何度も行く。
被災された方たちの経験とは、遠く及ばないけれども」
荒涼たる風景とは、錯乱した大地の風景でしょう。
そこを通って何かを手に入れ、また引き返してみんなにそれを見せる。
「文学」の役割とはそういうものだと思いますし、
言い換えれば沈黙、無/意味の空白の中に、
その音を聞くということではないでしょうか。
吉増さんの作品は、そのことをよく示していると思います。