えんじゅです。
ご無沙汰して申し訳ありませんでしたm(_ _ )m
書きたいこと、書くべきことは山の様にあるのですが、
いざPCの前に座ると何から書いてよいかわからず、
断念するというのが続いています。
まったくどうすればいいんでしょうね、こういう時って(;´▽`A``
それはさておき、今日は66回目の終戦記念日ですね。
靖国神社では菅内閣の閣僚全員は参拝を見送ったものの、
自民党の森喜郎議員を始めとした超党派の会
「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のメンバーや、
自民党の小泉進次郎議員などが例年通り参拝したようです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110815/t10014908511000.html
国会議員の特定宗教団体施設への参拝というのは、
近代政治の根本原則・政教分離に反するような気がするだけでなく、
思想的宗教的にも間違ってるような気がするのですが、
残念ながらそのことは誰も指摘しようとしないようです。
僕がこの戦没者慰霊の問題を深く考えるようになったのは、
高校の時に山形出身の文芸評論家・加藤典洋さんの『敗戦後論』を
読んでからですが、
加藤さんはこの本の中で太宰治や大岡昇平、J.D.サリンジャー、
ハンナ・アーレントなどの作品や思想に触れつつ、
戦没者慰霊の問題についても触れていました。
敗戦後論 (ちくま文庫)/加藤 典洋

¥998
Amazon.co.jp
「戦死者の弔い」を巡る加藤さんの論考「敗戦後論」に寄せられた
哲学者・高橋哲哉さんの反論への応答という形で書かれた
「戦後後論」と「語り口の問題」で主に展開されているのですが、
「汚れた死者を汚れたまま追悼する」ことを主張する加藤さんに対し、
高橋さんは
「まず死者の汚れの記憶を引き受けるべきだ」と主張しました。
この場合の「汚れ」とは、日本があの戦争において
被害者でも加害者でもあったことの「ねじれ」を言います。
加藤さんは高橋さんのこの反論を受けて
「ノン・モラル」の問題へと考えを進めていきます。
それは「非正義化」(いかに「正義」を回避するか)についての、
ひとつの有意義な考察だったとも言えると思いますが、
一方で僕はこの本を読んでからしばらく、
別のことを考えていました。
それは、なぜ加藤さんは「日本/アジア」と言う風に、
死者を分けて(言ってみれば「死者に国境線を引いて」)
考えなければいけないのか、と言うことです。
文庫版の「解説」で評論家の内田樹さんも引用していますが、
加藤さんは「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、
その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、
死者への謝罪にいたる道は可能か」と問います。
しかし戦争や震災に限らず、死は万人に訪れるものです。
また死を悼む行為も、国境を越えて普遍に見られるものの筈です。
ましてやそれが戦争という「国家間の」出来事から生まれた
犠牲(「強制連行/労働」や「抑留」も同様)であるなら、
それは「国家」と「国家」の、まさに「間」にあるものであり、
何らかの政治的立場を前提とするのでなければ、
そこに国境線を引く必然性は生まれないと思います。
死者(犠牲者)に国境はない。
靖国神社には大日本帝国(「日本国」ではない)の「英霊」が
祀られていますが、
そこを参拝するということは大日本帝国側の死者だけを悼む
ということであり、アジアの死者も、アメリカの死者も、
そこでは置き去りにされてしまう、ということでしょう。
それは日本本来の「武士道」や「随神(かんながら)の道」に
反した行為ではないでしょうか。
死者に対する畏れの感情、敵に対する労わりの感情こそが、
これら思想・宗教の本来的な姿だろうと思いますし、
僕ら生者の都合(政治目的)によって死者を分断することは
死者に対する最大の冒涜ではないでしょうか。
僕が見る限り、昭和天皇の玉音放送でさえ、
残念ながらこうした点では誤っていたように思います。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/syuusen.html
僕は個人的には昭和天皇に親愛の情を持っていますが、
三島由紀夫の『英霊の声』などに見られるように、
近代国家の最高指導者としてのその戦争責任には
言及されてしかるべきだとも思います。
英霊の聲 オリジナル版 (河出文庫)/三島 由紀夫

¥683
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下の動画は、元ちとせさんの『幻燈記』です。
昨年NHKでやってた『幻の甲子園』のテーマ曲で、
僕が最近、「終戦」をイメージする曲です。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200091008080030068/
戦争の犠牲者たちのことを想いつつ。
ご無沙汰して申し訳ありませんでしたm(_ _ )m
書きたいこと、書くべきことは山の様にあるのですが、
いざPCの前に座ると何から書いてよいかわからず、
断念するというのが続いています。
まったくどうすればいいんでしょうね、こういう時って(;´▽`A``
それはさておき、今日は66回目の終戦記念日ですね。
靖国神社では菅内閣の閣僚全員は参拝を見送ったものの、
自民党の森喜郎議員を始めとした超党派の会
「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のメンバーや、
自民党の小泉進次郎議員などが例年通り参拝したようです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110815/t10014908511000.html
国会議員の特定宗教団体施設への参拝というのは、
近代政治の根本原則・政教分離に反するような気がするだけでなく、
思想的宗教的にも間違ってるような気がするのですが、
残念ながらそのことは誰も指摘しようとしないようです。
僕がこの戦没者慰霊の問題を深く考えるようになったのは、
高校の時に山形出身の文芸評論家・加藤典洋さんの『敗戦後論』を
読んでからですが、
加藤さんはこの本の中で太宰治や大岡昇平、J.D.サリンジャー、
ハンナ・アーレントなどの作品や思想に触れつつ、
戦没者慰霊の問題についても触れていました。
敗戦後論 (ちくま文庫)/加藤 典洋

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「戦死者の弔い」を巡る加藤さんの論考「敗戦後論」に寄せられた
哲学者・高橋哲哉さんの反論への応答という形で書かれた
「戦後後論」と「語り口の問題」で主に展開されているのですが、
「汚れた死者を汚れたまま追悼する」ことを主張する加藤さんに対し、
高橋さんは
「まず死者の汚れの記憶を引き受けるべきだ」と主張しました。
この場合の「汚れ」とは、日本があの戦争において
被害者でも加害者でもあったことの「ねじれ」を言います。
加藤さんは高橋さんのこの反論を受けて
「ノン・モラル」の問題へと考えを進めていきます。
それは「非正義化」(いかに「正義」を回避するか)についての、
ひとつの有意義な考察だったとも言えると思いますが、
一方で僕はこの本を読んでからしばらく、
別のことを考えていました。
それは、なぜ加藤さんは「日本/アジア」と言う風に、
死者を分けて(言ってみれば「死者に国境線を引いて」)
考えなければいけないのか、と言うことです。
文庫版の「解説」で評論家の内田樹さんも引用していますが、
加藤さんは「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、
その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、
死者への謝罪にいたる道は可能か」と問います。
しかし戦争や震災に限らず、死は万人に訪れるものです。
また死を悼む行為も、国境を越えて普遍に見られるものの筈です。
ましてやそれが戦争という「国家間の」出来事から生まれた
犠牲(「強制連行/労働」や「抑留」も同様)であるなら、
それは「国家」と「国家」の、まさに「間」にあるものであり、
何らかの政治的立場を前提とするのでなければ、
そこに国境線を引く必然性は生まれないと思います。
死者(犠牲者)に国境はない。
靖国神社には大日本帝国(「日本国」ではない)の「英霊」が
祀られていますが、
そこを参拝するということは大日本帝国側の死者だけを悼む
ということであり、アジアの死者も、アメリカの死者も、
そこでは置き去りにされてしまう、ということでしょう。
それは日本本来の「武士道」や「随神(かんながら)の道」に
反した行為ではないでしょうか。
死者に対する畏れの感情、敵に対する労わりの感情こそが、
これら思想・宗教の本来的な姿だろうと思いますし、
僕ら生者の都合(政治目的)によって死者を分断することは
死者に対する最大の冒涜ではないでしょうか。
僕が見る限り、昭和天皇の玉音放送でさえ、
残念ながらこうした点では誤っていたように思います。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/syuusen.html
僕は個人的には昭和天皇に親愛の情を持っていますが、
三島由紀夫の『英霊の声』などに見られるように、
近代国家の最高指導者としてのその戦争責任には
言及されてしかるべきだとも思います。
英霊の聲 オリジナル版 (河出文庫)/三島 由紀夫

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下の動画は、元ちとせさんの『幻燈記』です。
昨年NHKでやってた『幻の甲子園』のテーマ曲で、
僕が最近、「終戦」をイメージする曲です。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200091008080030068/
戦争の犠牲者たちのことを想いつつ。