えんじゅです。
中国での高速鉄道事故への政府当局の対応が、
国外はもとより、中国内部でも批判を集めています。
事故車両を現場近くの地中に埋めるなど、
証拠隠滅とも取れるような日本では考えられない対応を取った上に、
日本円にしてわずか最大約560万円で被害者遺族を懐柔しようとしたり、
辞任した責任者の代わりに脛に傷持つような人物を人事配置したりと
その対応は「非科学的」としか言いようのないものだと思います。
そもそも今日の社会主義国家の理論的基盤となったはずの
マルクスとエンゲルスは、
オーウェンやフーリエといった
彼ら以前の社会主義を「空想的社会主義」と呼んで、
彼らの主張する社会主義と区別してたはずです。
その区別の指標となったのはひとえに実証性、
つまり、いわゆる「唯物論」あるいは「唯物史観」だったはずです。
しかし現在の中国を見てるとどうしても、そうした実証性を捨て、
官僚の心理主義のみで突っ走ってるような気がしてしまいます。
ジャーナリストの岩瀬彰さんも指摘していましたが、
そうしたあり方は戦前・戦中の日本と非常によく似てるような気がします。
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ドゥルーズはよくマルクスを参照します。
特に72年に精神分析家のフェリックス・ガタリとともに書いた代表的著作
『アンチ・オイディプス』以降は頻繁に参照しますが、
マルクス以降の「マルクス主義者」を参照することは殆どありませんし、
むしろ批判的に見ていたように思います。
逆にマルクスが批判していたフーリエを、
晩年?には参照してたりもします。
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それはひとえに、「思考の官僚化」を避けていたからではないでしょうか。
「思考の政治化」とも言えそうな気がしますが、
ある政治的立場を明確にしてから思考を開始するのではなく、
むしろ思考の生成変化によって政治的立場が明らかになっていくような、
政治(ドゥルーズ=ガタリの言葉で言えば「マクロ政治」)から独立した
「思考の自由」を求めるようなものだったと思います。
ドゥルーズの思考は従って、
政治的立場(右か左か)を限定することができません。
彼の思想は
右にも左にも利用されます(まぁ左が多いのは事実ですが)が、
彼の思考そのものは決してどちらにも与していないと思いますし、
それゆえにこそ、「孤独な思考」でもあるとも思います。
いま、国家に必要なのは、こうした「孤独な思考」ではないでしょうか?