えんじゅです。

ずっと読んでいたドゥルーズの『フーコー』を

ようやく読み終えました。

フーコー (河出文庫)/ジル ドゥルーズ
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以前の記事でも書きましたが、

この本は1984年に物故した畏友フーコーの思想(哲学)について、

ドゥルーズがその2年後に、彼の全著作を総点検して明らかにしつつ、

ドゥルーズ自身の思想の「洗い直し」をも図った、

いわば「追悼の書」です。

「知」や「権力」、「規律」といったフーコーの主要な概念(ターム)を

繰広げながらフーコーの思想を点検し、

「襞(ひだ)」や「ダイアグラム(抽象機械・権力)」といった、

ドゥルーズ自身の概念につなげていくその手法は、

まさにドゥルーズとフーコーとの間にある「襞」を押し広げて

その<つながり>を白日の下にさらしていくという、

ひとつの試みだと思います。


「訳者後記」で訳者の宇野邦一さん

(ドゥルーズの教え子にして僕の最も信頼するドゥルーズ読み!)も

書いておられますが、

ドゥルーズはこの本の中で、親交の深かったフーコーとの

プライヴェートな想い出のようなものは一切書いていません。

ただフーコーの書いたもの、その思考の軌跡としての書物のみに、

焦点を絞って書いています。

哲学書だから、というのもあるでしょうが、それ以上に、

「哲学をする」のが哲学者の役割であり、また自分とその人との関係、

それを総ざらいすることこそが、一人の友人としての役割だと

感じたのではないでしょうか。

その意味ではおそらくこの本は、ドゥルーズからフーコーに宛てた

「友情の書(証)」でもあるでしょう。


ドゥルーズはあるところでフーコーとの関係を「本物の尊敬の念」と

書いています(「口さがない批評家への手紙」『記号と事件』)が、

まさにそうした、表面的なコミュニケーションのみに留まらない関係性、

思考の、もっとずっと奥深いところでのつながりが

彼らにはあって、『フーコー』はそれを明らかにしようとした本だと、

僕は思います。


ではそうした彼らの、

「もっとずっと奥深いところでのつながり」というのは、

一体どんなものだったのでしょうか。


フーコーにとっての主題というのは「人間(主体)の死」だと、

ドゥルーズは言います。

「知」や「権力」でもなく、ましてや監獄の構造などを下地にした

「規律訓練」(「調教」@フーコー)などでは毛頭なく、

あくまで近代的「主体」の死、その後に来るものは何か、

ということだったと、ドゥルーズは言います。


近代的「主体」というのは、現代人の多くがそうであるように、

「合理的」な思考方法によって物事を「合理的」に判断し、

ひとつひとつの事柄に対して「合理的」な決断を下していく、

その様式のことです。


16~17世紀、度重なる宗教戦争や啓蒙思想によって生まれた

この様式は、19世紀の終わりごろには

ニーチェによって「終わり」を予言されていたと言われますが、

20世紀の半ばに至って、それが現実的なものとなっていきました。

人種偏見や核兵器による大量虐殺、経済的「合理性」を追求するあまり

非合理的な社会状況を作り出してしまう経済・社会システム、

そして「最大多数の最大幸福」を目指して行けば行くほど、

一部の少数者の幸福度が低下していくという政治システム…。


こうした矛盾から生まれるものが「人間(主体)の死」であり、

「人間(主体)の死の後に来るもの」だとドゥルーズは言います。

「合理性」の根拠となるべきものが見当たらず、

人間の活動がその中心軸を失った状態でただカビ菌のように

増殖拡散していく世界。

中近世の「神」や近代の「人間」に代わって、そうした世界を

新たに支えるものは何なのか、

フーコーもドゥルーズも、それを探っていたような気がします。


そうした中で、フーコーの読解を通じてドゥルーズが注目するのが

「pli 襞(ひだ)」という概念(ターム)です。

フーコーは晩年、ギリシア・ローマ期の自己統治の技術の研究から

「自己への配慮」ということを言い出しますが、

「人間の死」を宣告した初期・中期からの、

この一見転向(主体回帰)にも見えるフーコーの思考を追跡する

道具として、ドゥルーズは「襞」を持ち出しています。


ギリシア・ローマ期の自己統治の技術というのは

言ってみればひとつの倫理観のようなもので、

古代ギリシア・ローマでは、社会において、家庭において、

そして個人において、自己統治の技術の練磨度が、

ひとつの指標となっていたそうです。

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まあ「身の処し方」のようなものだと思えばいいと思いますが、

フーコーは「性の歴史」というシリーズの中でこれを分析していました。

それによれば、たとえば家庭の中の性の役割について、

古代ギリシア・ローマでは、純粋な快楽としての性は認められては

いなかったといいます。

当時の男性(男性中心社会ですから)は、そうした快楽としての性を

求める場合、家庭の外にそうした場を求めなければならなかった

そうです。

今日で言えばまぁ風俗店(女性の方、ごめんなさい汗)のようなものを

イメージすればいいと思いますが、

とにかくそうした場で快楽を得ることが自己統治の技術のひとつとして

捉えられていたようです

(その意味でこれは原則的に性行為を禁じたキリスト教的な倫理観とは

また違います)。


こうした自己統治の技術が性だけでなく生活一般に、

古代ギリシア・ローマ、

特にストア派の哲学では定められていたわけですが、

フーコーはこうした自己統治の技術、「自己への配慮」の見直しこそが、

近代的な「権力」(生かす権力=生権力)や「人間」概念に抗する

唯一の道だと考えていたようです。


ただしこうした技術をそのまま現代に移植できるとは

フーコーも考えてはいなかったと、ドゥルーズは言います。

当時の社会は男性中心の社会ですし、市民の生活を支えていたのは

奴隷(他国との戦争で得た捕虜など)でした。

民主政・共和制とは言え、政治に参加できるのは市民権を持った

一部の成人男子のみでしたし、

その市民権も、永久に保障されるものではありませんでした。


フーコーはむしろ、こうした技術を現代に合わせた形で移植することを

考えていたと、ドゥルーズは言います。

当時(古代ギリシア・ローマ)と現代の共通項を探ること、

いわば「襞を押し広げること」が

「人間の死」に直面した現代の課題なのだと

ドゥルーズは締めくくっていますが、

ドゥルーズ自身、この『フーコー』のあとに、

まさに『襞』という名の書物で、

今度はまさにその「人間」が生まれた17世紀のバロック期について、

17世紀の哲学者ライブニッツとともに

「襞を押し広げていく」ことになります。

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僕は『襞』はまだ味読ですが、それへの導入として、

この『フーコー』は十二分に魅力的な本だと思いました。

みなさんも、興味があればぜひ読んでみてくださいニコニコ