えんじゅです。
少しお休みをいただいてしまいました。
読んでいただいていた方、申し訳ありませんでしたm(_ _ )m
女優で70年代を代表するアイドル・グループ「キャンディーズ」の
元メンバーだった田中好子さんが亡くなり、
この3日ほど、TVでは葬儀の中継や報道、田中さんの功績を
紹介する内容のものが多かったと思います。
葬儀の終盤に流された田中さん本人の生前のメッセージなど、
田中さんの人柄を感じさせるものが多く、
またがん患者への支援を目的としたひまわり基金の設立など、
初めて知る内容のものも多かったです。
田中さん自身最後のメッセージで触れていた、
義妹で親友だったという女優の故・夏目雅子さんへの思いが、
そうした田中さんの人柄をより一層、強いものにしてたのでしょう。
http://www.asahi.com/special/plus/TKY201104250382.html
同じく夏目雅子さんを巡っては、最近、彼女が亡くなった当時夫だった
作家の伊集院静さんが、新刊(エッセイ?)を出していました。
伊集院さんは仙台在住だそうで、一週間ほど前にも新聞に、
東北の人々へ向けた心強いメッセージを寄せていたのを読みました。
あらためて、
夏目さんという強い存在感をいまだ放ち続ける人のことを考えます。
「強い人間」というものを、僕は時々意識します。
「強い人間」というのは何も、実力や詐術でもって他人を蹴落としたりする
人間のことではありません。
そういうのはむしろ、僕の定義では「弱い人間」です。
自分の欲求や世間的な価値に、奴隷のように付き従っている。
そういう意味で「弱い人間」です(もちろんそれもまた人間の姿ですが)。
「強い人間」というのはそれとはまったく逆の、
「利他的な」人間のことです。
彼・彼女らを強くしてるものは何か、それを僕は、時として考えます。
そうした人は一見孤独であったり、寂しがり屋であったり、
また「気遣いの人」でもあったります。
その一方で、ここぞ、というときには常人にはできないほどの
強い力を発揮することができます。
たとえばCoccoさん。
彼・彼女らを強くしてるものは何か、僕はそれが知りたい。
その強い力があれば、何か僕にもできるんじゃないか、
そう考えることがしばしばあります。
答えはまだわかりませんが、最近考えているのは、
Coccoさんがそうであるように、
彼・彼女らの背後には、時として死や病、別離、苦悩など、
一般的にはマイナスとして捉えられる出来事や感情があるように
思います。
フランスの思想家ミシェル・フーコーは
「生のもっとも強度な地点、その全エネルギーが集中する地点は、
生が権力と衝突し、これと争い、権力の力を利用し、あるいは
その罠を逃れようとするときである。」
と言っていたと言われますが(G.ドゥルーズ『フーコー』)、
この「全エネルギーが集中する地点」が
仮にそうした負の感情なり出来事が「権力」と衝突する地点であったと
すれば、
彼・彼女らはつねに、そうした負の事柄と真摯に向き合うことで、
それを自分の「力」として発揮してるのではないでしょうか。
- フーコー (河出文庫)/ジル ドゥルーズ
- ¥1,050
- Amazon.co.jp
言い換えれば彼・彼女らは、病や死、苦悩や憎悪といった日常を
自分の「力」としてるわけで、そうした日常の反転、
「限りある日常を生きる」ことこそが、彼らの力となっているのでは
ないでしょうか。
まぁこれは、社会学者・宮台真司さんの本
『「終わりなき日常」を生きろ』のもじりですが(;´▽`A``、
僕自身としても、こうした「限りある」日常を懸命に生きる。
大震災という未曾有の経験をした今だからこそなお、心の底から、
そう思いますね。
田中さんのご冥福をお祈りします。