えんじゅです。
ずいぶんご無沙汰してしまい、
申し訳ありませんでした。
ペタくれた方、ずっと同じ画面ですいませんm(_ _ )m

先日書店を覘いたら、村上春樹さんの『雑文集』という本が
積まれていました。
僕は村上さんのよい読者というわけではありませんが、
村上さんのエッセイ的なものは結構好きなので、
何気なく手にとって見たら、
村上さんが一昨年、エルサレム賞を授賞したときの挨拶、
「壁と卵」が載っていたので迷わず購入してしまいました(笑)

授賞式での村上さんの「壁と卵」の比ゆを用いた
イスラエル政府批判は、ずいぶん話題になったので、
ご存知の方も多いと思います。
当時イスラム原理主義集団のハマスとの抗争に端を発する
イスラエル政府によるガザ侵攻は国際的な批判を集めていて、
村上さんのエルサレム賞受賞にもその文脈で
多くの批判や警告が寄せられていたそうなのですが、
そうした逆風にもかかわらず村上さんはほとんど単身で
エルサレムに乗り込み、まさにそのイスラエルの中心で、
当のイスラエルへの痛烈な批判を行ったのです。

原文でも太字になってる、多くのメディアに取り上げられた
部分がこれです。

 もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって
割れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立ちます。


これに続けて、村上さんはこうも言います。

そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、
それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、
ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が
決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、
壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家に
どれほどの値打ちがあるのでしょう?


村上さんのこの発言をニュースで知ったとき、
僕は思わず喝采してしまいました。
イラクやイラン、そして今まさに話題になってるエジプトなど、
現在の中東問題の根幹には常にこのパレスチナ問題があり、
さらにその背後にはアメリカがいつも見え隠れしています。
今回のエジプトの騒乱もそうですが、
アメリカの<帝国>的振舞いがこうした事態を生み出しているとも
言えると思います。
実際村上さんも上の文章の後にこう書いています。

 さて、このメタファーはいったい何を意味するか?ある場合には
単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、
硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる
非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。


しかし彼はそのすぐ後にこうも言います。

 しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味も
あります。こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、
それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、
それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、
あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、
それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。
その壁は名前を持っています。
それは「システム」と呼ばれています。
そのシステムは本来我々を護るべきはずのものです。しかし
あるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を
殺させるのです。冷たく、効率よく、そして システマティックに。


「壁」の側に立って書くということは、
「神」(あるいは「創造主」、「道」、「独裁者」)になること、
あるいは「神」の代理人となって書くことにほかなりません。
これほど傲慢なことはありませんし、そんな権利や能力を
持ち合わせた人間などというものはどこにも存在しません。
「壁」(システム)はつねに「人間」を定義付けるものだからです。

僕はこれを読みながらどうしても、ドゥルーズのあるインタビューが
頭に浮かんで離れませんでした。
彼は68年5月の出来事(世に言う「5月革命」です)について、
それがまぎれもなくひとつの「生成変化」だったと熱く語りながら、
「歴史の行く末などというものと一緒にするな!」と
そのインタビューで強く語っていました。
何かになること、変革の主体や女性やマイノリティーなどに、
まさに「なる(生成する)」ことこそが、彼の哲学の根幹であり、
また、盟友であったフーコーの晩年の思想とも
深く共鳴するものだったからです。
そして人間、大人、男、市民こそが、マジョリティーの基準だとも
言っていました。



イギリス・フランスであれ、アメリカであれ、ソ連であれ、
中国であれ、日本であれ、
まさにこの「生成変化」こそが、<帝国>的なものから
我々が逃れられる唯一の術(すべ)だと僕は思います。
現にこのスピーチとは別なところで、村上さんはこう言っています。

 一九六八年はご存知のように、我々の世代にとってはきわめて
重要な意味を持つ年でした。(中略)そしてチェコではもちろん
「プラハの春」があった。世界中で「体制」に対するノーを
若者は叫んでいたのです――その相手が資本主義体制であれ、
共産主義体制であれ。しかしそれらの理想主義は、
圧倒的な権力によって踏みつぶされることになった。
そのような強い理想主義と、
厳しい挫折をくぐり抜けることによって、
我々の世代はほかにはない強さを身につけたような気がします。
そして僕らはそのような体験の中から、
既成の文学の枠組みを超え、
これまでにない新しい物語の枠組みを作り上げてきたわけです。
            (「ポスト・コミュニズムの世界からの質問」)


春樹と龍という、いわゆる「W村上」の登場は、
文字通り日本の文学(Japanese Literature)を一変させました。
そして今、特に村上春樹の文学は、
『海辺のカフカ』や『1Q84』の世界的成功に見られるように、
世界を変えようとしています。
その生成がどのような軌跡を描き、「壁」にどのような
穴を穿(うが)っていくのか、
W村上以降の僕らは常に注視していかなければいけませんね。

ちなみに村上さんはエルサレムに向かう前に
50年代アメリカの名作映画『真昼の決闘』を何度も見て、
決意を相当に固めてから空港に向かったそうです。
なんとも村上さんらしい話ですね。