市川沙央『ハンチバック』読了。

 

25の国と地域で翻訳決定。話題沸騰の芥川賞受賞作がついに文庫化。

仏メディシス賞の「外国小説部門」最終候補にノミネート!

【2025英・国際ブッカー賞】【2025全米図書賞・翻訳文学部門】ロングリストに選出。

私の身体は生きるために壊れてきた。--

井沢釈華の背骨は、右肺を押し潰すかたちで極度に湾曲している。
両親が遺したグループホームの十畳の自室から釈華は、有名私大の通信課程に通い、しがないコタツ記事を書いては収入の全額を寄付し、18禁TL小説をサイトに投稿し、零細アカウントで「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」と呟く。
ある日、グループホームのヘルパー・田中に、そのアカウントを知られていることが発覚しーー。

 

何から書いてよいのか、書くべきなのか、考え込んでしまう。

が、とりあえずは、この一節の引用から始めよう。

 壁の向こうの隣人が乾いた音で手を叩く。私と同じような筋疾患で寝たきりの隣人女性は差し込み便器でトイレを済ませるとキッチンの辺りで控えているヘルパーを手を叩いて呼んで後始末をしてもらう。世間の人々は顔を背けて言う。「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ」と。だがそれは間違っている。隣人の彼女のように生きること。私はそこにこそ人間の尊厳があると思う。本当の涅槃がそこにある。私はまだそこまで辿り着けない。

 

この小説/作品の言いたいことは何でしょうか?とよく人は聞く。

そんなものがあるのかどうか、僕は知らないが、仮にたったひとつだけ、そう呼べるものがこの作品の中にあるとすれば、上に引用した部分こそが、作者・市川沙央が言いたかったこと、否、書きたかったことではないだろうか。

この一節を書くことにこそ彼女の20年余はあり、まさにその言葉こそが、今文学に、いや、世界に、必要な言葉なのではないだろうか。

 

2016年7月26日未明、神奈川県相模原市で重度知的障害者ら45名が殺傷される事件があったことは記憶に新しい。

加害者の男性は、重度障害者は生きているべきでない、という趣旨の発言をし、裁判で死刑が確定、現在拘置所で刑の執行を待っている。

『ハンチバック』は、こうした言説への応答として読めるだろうし、僕はそう読んだ。

これはまさしく、相模原事件後の小説なのだ。

と同時に、生活保護受給者に対して「さもしい顔して」などと評する人間たちへの応答、逆襲でもある。

言葉によって傷つけられたものは、言葉によって贖われる。

文中、旧約聖書からの引用は、そのことを如実に示している。

 

それにしても、文学にとって、宗教とはなんだろうか。

本作では主たる語り手の名が釈華/紗花(どちらも読みはシャカである)だし、上の引用にも「涅槃」という語があるし、しまいには旧約聖書からの引用まである。

もちろん、トルストイやドストエフスキーを引き合いに出すまでもなく文学と宗教が浅からぬ関係にあることは誰でもが知っている。

しかし一方で宗教に救われる者がいながら、他方では宗教に破滅させられるものもいる。

安倍晋三元総理の殺害犯がそうであろうし、イスラエルがパレスチナで行っている大規模な破壊も、宗教が齎しているものであることに違いはない。

 

ある意味では本作『ハンチバック』は、「宗教religion」というものの終わりを告げる書なのかもしれない。

宗教というものがその座を文学に譲って、歴史の彼方へと去っていくことを告げる。

「ハンチバック(せむし)」とは、まさしくそうした時代の歪みの表象=隠喩ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗い眼に涙なく

かれらは機にむかって歯をむき出す。

老いたドイツよ、俺たちが織るのはおまえの経帷子

三重の呪いを織り込んでやる――

織る、俺たちは織る!

 

ひとつの呪いは神に、

飢えと寒さに責められて祈りをささげた神に。

望みをかけて俺たちは待ちに待ったが

さんざからかったあげくあいつはあざむいた――

織る、俺たちは織る!

 

ひとつの呪いは王に、邦々をたばねる王に。

この苦しみを知りながら心和らげもせず

さいごの小銭まで絞りとり

俺たちを犬のように射ち殺させる王に――

織る、俺たちは織る!

 

ひとつの呪いは腹黒い祖国に。

薄汚い恥ばかりがはびこり

時いたらぬうちに花は手折られ

腐敗が蛆をふとらせる国――

織る、俺たちは織る!

 

杼は飛び、機はとどろき

俺たちは日に夜をついで織りつづける――

老いたドイツよ、織るのはおまえの経帷子

三重の呪いを織りこんでやる、

織る、俺たちは織る!