俺たち家族は、滝口親子の住まいから、そのまま自宅アパートに戻った。
真貴子にも、和貴にも、何一つ掛ける言葉が見当たらない。
正座をしている真貴子の膝に頭をもたれ掛けた和貴は、自宅に戻り、少し安心したのか、眠そうな目をして一点を見つめている。
先に沈黙を破ったのは、真貴子だった。
「ここ・・・、近すぎるよね。」
その声は低く、思いつめるような呟きだ。
真貴子が言う言葉の意味が、俺にはわからなかった。
「えっ?」
「ここは、近すぎるよ・・・。追って来たらどうするの?」
父のことだ。
俺にとっては当たり前の環境でも、真貴子には違う。
その問いかけに、俺は返事を探していた。
暫くの沈黙の中に、携帯電話の着信音が響いた。
真貴子の携帯電話だった。
着信画面を見た真貴子は、俺の方を見た。
「柏崎からだよ。」
新潟県の柏崎市に住んでいる、真貴子の母親からだった。
恐らく、滝口親子の家に居たときに、既に連絡をしていたのだろう。
俺にとっては義母にあたる真貴子の母は、今年85歳になる自分の母親、真貴子の祖母と2人で暮らしている。
柏崎にある家は義母の実家で、義母は真貴子が20歳になったときに、義父と離婚をしていた。
俺も義父とは会ったことがない。
真貴子の話では、娘には優しい父親だったが、ギャンブルにのめり込んでいたらしい。
義母との離婚の理由も、ギャンブルでつくった多額の借金によるものだと聞いていた。
その離婚を機に、義母は自分の実家である柏崎に出戻っていたのだ。
俺が知る真貴子の母方の家系は、厳格な家柄で、真貴子の祖母は若い頃には学校の先生をやっていたと聞いている。
亡き祖父も同じく学校の先生で、亡くなる前には校長まで務めていたようだ。
「もしもし、うん。大丈夫。今、家に戻って来たから。」
静まり返った部屋の空気が、電話の向こうの義母の声を拾い上げる。
その声が、俺にも微かに聞こえてきた。
「(和貴は大丈夫なのかい?ホントにケガもないんだね?そこは桐生くんの実家の近くだろうに・・・、そんなところに居て平気なのかい?今からでも、柏崎に来るかい?)」
義母も真貴子と同じ心配をしているようだった。
「うん、わかってる・・・、わかってるよ。」
「(お婆ちゃんが心配してるから、声を聞かせてあげて。・・・変わるね。)」
電話の向こうにいる、真貴子の祖母に変わるようだ。
「(真貴ちゃん、大丈夫かい?)」
85歳の高齢とは思えない、しっかりとした声だ。
話すスピードは遅いが、少し慌てた様子の義母よりハッキリと聞えてくる。
真貴子は、幼い頃から、この祖母のことを敬愛していた。
少々のことには動じず、物事の本質を見失わない人生経験豊富な祖母は、真貴子が目標とする存在だった。
「ありがとね。お婆ちゃん。大丈夫だから・・・、大丈夫だから、心配しないでね。」
敬愛する祖母の声を聞いた真貴子の目からは、涙が溢れ出した。
俺にとっては当たり前の環境だった父・昌洋の破壊行為。
それがどれ程、卑しく、下劣で、浅はかなものであったのか・・・、真貴子の目から溢れる涙が、俺に痛烈に訴えかけていた。
「(いいかい、真貴ちゃん。あんたはもう、母親なんだよ。気をしっかり持たにゃいけん。どんな事があっても、自分の子を守らにゃいけん。しっかり・・・、しっかりね。)」
「うんっ、わかってるよ。お婆ちゃん。・・・ありがとう。ありがとうね。」
涙声の真貴子は、もう、ありがとうと言うだけで精一杯のようだ。
祖母は、愛する孫を心配する気持ちはあっても、決して安易な言葉を発することはない。
「そんなところに居て平気なのかい?」と言った義母の言葉を聞いている筈だが、自ら柏崎へ呼び寄せる事はしない。
孫である以前に、和貴の母親である真貴子自身の判断に委ねようとしている。
どんな逆境にも、逃げることなく冷静になれという祖母のメッセージを、たった二言三言の会話の中に、真貴子はしっかりと感じ取っていた。
「お婆ちゃん・・・、こっちでなんとかするから。大丈夫だからね。お婆ちゃんも心配しないでね。」
溢れてくる涙を堪えながら話す真貴子の決意が、柏崎には戻らないという意思を伝えた。
既に離婚をしていた母親が、祖母の元へ戻っている。
孫である自分までが、それに続き甘える訳にはいかない。
ここで柏崎に戻れば、高齢の祖母へ心配をかける事になる。
真貴子は、そんな判断をしたのだろう。
「(そうかい。わかったよ。真貴ちゃん、頑張るんだよ。)」
自分たちの力で、目の前の逆境に立ち向かうという孫の言葉に、祖母はそれ以上なにも言わなかった。
電話は義母に変わり、「また連絡するから。」という真貴子の言葉で切られた。
涙を拭いながら決意の表情を見せる真貴子と、何も言えないままでいる俺の耳に、インターホンの音が聞こえた。
その音に、思わず真貴子が身構えた。