決意の離脱 ー 1 ― | 父像~ふぞう~

父像~ふぞう~

著者 立華夢取(たちばな・むしゅ)


 俺たち家族は、滝口親子の住まいから、そのまま自宅アパートに戻った。

真貴子にも、和貴にも、何一つ掛ける言葉が見当たらない。

正座をしている真貴子の膝に頭をもたれ掛けた和貴は、自宅に戻り、少し安心したのか、眠そうな目をして一点を見つめている。

 先に沈黙を破ったのは、真貴子だった。


「ここ・・・、近すぎるよね。」


 その声は低く、思いつめるような呟きだ。

真貴子が言う言葉の意味が、俺にはわからなかった。


「えっ?」


「ここは、近すぎるよ・・・。追って来たらどうするの?」


 父のことだ。

俺にとっては当たり前の環境でも、真貴子には違う。

その問いかけに、俺は返事を探していた。

 

 暫くの沈黙の中に、携帯電話の着信音が響いた。

真貴子の携帯電話だった。

着信画面を見た真貴子は、俺の方を見た。


「柏崎からだよ。」


 新潟県の柏崎市に住んでいる、真貴子の母親からだった。

恐らく、滝口親子の家に居たときに、既に連絡をしていたのだろう。

俺にとっては義母にあたる真貴子の母は、今年85歳になる自分の母親、真貴子の祖母と2人で暮らしている。

 柏崎にある家は義母の実家で、義母は真貴子が20歳になったときに、義父と離婚をしていた。

俺も義父とは会ったことがない。

真貴子の話では、娘には優しい父親だったが、ギャンブルにのめり込んでいたらしい。

義母との離婚の理由も、ギャンブルでつくった多額の借金によるものだと聞いていた。

その離婚を機に、義母は自分の実家である柏崎に出戻っていたのだ。

 俺が知る真貴子の母方の家系は、厳格な家柄で、真貴子の祖母は若い頃には学校の先生をやっていたと聞いている。

亡き祖父も同じく学校の先生で、亡くなる前には校長まで務めていたようだ。


「もしもし、うん。大丈夫。今、家に戻って来たから。」


 静まり返った部屋の空気が、電話の向こうの義母の声を拾い上げる。

その声が、俺にも微かに聞こえてきた。


「(和貴は大丈夫なのかい?ホントにケガもないんだね?そこは桐生くんの実家の近くだろうに・・・、そんなところに居て平気なのかい?今からでも、柏崎に来るかい?)」


 義母も真貴子と同じ心配をしているようだった。


「うん、わかってる・・・、わかってるよ。」


「(お婆ちゃんが心配してるから、声を聞かせてあげて。・・・変わるね。)」


 電話の向こうにいる、真貴子の祖母に変わるようだ。


「(真貴ちゃん、大丈夫かい?)」


 85歳の高齢とは思えない、しっかりとした声だ。

話すスピードは遅いが、少し慌てた様子の義母よりハッキリと聞えてくる。

真貴子は、幼い頃から、この祖母のことを敬愛していた。

少々のことには動じず、物事の本質を見失わない人生経験豊富な祖母は、真貴子が目標とする存在だった。


「ありがとね。お婆ちゃん。大丈夫だから・・・、大丈夫だから、心配しないでね。」


 敬愛する祖母の声を聞いた真貴子の目からは、涙が溢れ出した。


 俺にとっては当たり前の環境だった父・昌洋の破壊行為。

それがどれ程、卑しく、下劣で、浅はかなものであったのか・・・、真貴子の目から溢れる涙が、俺に痛烈に訴えかけていた。


「(いいかい、真貴ちゃん。あんたはもう、母親なんだよ。気をしっかり持たにゃいけん。どんな事があっても、自分の子を守らにゃいけん。しっかり・・・、しっかりね。)」


「うんっ、わかってるよ。お婆ちゃん。・・・ありがとう。ありがとうね。」


 涙声の真貴子は、もう、ありがとうと言うだけで精一杯のようだ。

祖母は、愛する孫を心配する気持ちはあっても、決して安易な言葉を発することはない。

「そんなところに居て平気なのかい?」と言った義母の言葉を聞いている筈だが、自ら柏崎へ呼び寄せる事はしない。

孫である以前に、和貴の母親である真貴子自身の判断に委ねようとしている。

 どんな逆境にも、逃げることなく冷静になれという祖母のメッセージを、たった二言三言の会話の中に、真貴子はしっかりと感じ取っていた。


「お婆ちゃん・・・、こっちでなんとかするから。大丈夫だからね。お婆ちゃんも心配しないでね。」


 溢れてくる涙を堪えながら話す真貴子の決意が、柏崎には戻らないという意思を伝えた。

既に離婚をしていた母親が、祖母の元へ戻っている。

孫である自分までが、それに続き甘える訳にはいかない。

ここで柏崎に戻れば、高齢の祖母へ心配をかける事になる。

真貴子は、そんな判断をしたのだろう。


「(そうかい。わかったよ。真貴ちゃん、頑張るんだよ。)」

 

 自分たちの力で、目の前の逆境に立ち向かうという孫の言葉に、祖母はそれ以上なにも言わなかった。

電話は義母に変わり、「また連絡するから。」という真貴子の言葉で切られた。


 涙を拭いながら決意の表情を見せる真貴子と、何も言えないままでいる俺の耳に、インターホンの音が聞こえた。

その音に、思わず真貴子が身構えた。



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