瀬戸内海ぐるりアートとグルメの旅♪ 岐阜関ケ原古戦場記念館 編 | ふじを日記

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生きがいは旅行。海外、国内を問わず。初めて見る景色、
初めて食べる美味しいものが大好き。

 

瀬戸内海をぐるりとまわりつつ、アートとグルメを楽しむ旅に

行って来ましたキラキラ 総走行距離は約1,500キロびっくりビックリマーク

4泊5日です音譜

 

 

 

前夜、京都イタリアン「cenci」で美味しく楽しくディナーを食べ

東横イン琵琶湖大津に泊りました。平安神宮の辺りから車で

30分くらいで京都から離れるのでリーズナブルだし抑えやすいキラキラ

 

 

 

さて、翌朝。長い旅の最終目的地ですが、比叡山延暦寺と考えて

いましたが、なんかピンと来ず。それではと夫が関ケ原を提案して

くれました。これが大当たりニヤニヤ音譜 岐阜関ケ原古戦場記念館が

すごく楽しめました爆  笑音譜 約20分のシアター上映(予約優先)、

充実の博物館コーナー、展望フロアで大人500円とか、マジかニヤニヤ音譜

 

 

 

 

 

関ヶ原の戦いでの、各武将の家紋がずらりと並んだ幕がキラキラ

 

写真を撮り忘れましたが、1階にはグランドヴィジョン+シアターが

あって、こちらは予約優先でした。11時に到着しましたが、

当日予約の12時半が取れましたキラキラ 全く予備知識なく行ったので

ラッキーでした音譜 開演までの1時間で、贅沢な博物館のような

展示室を観て回れました音譜

 

まずグランドヴィジョンを立ち見で観て、その後に着席の

シアターがありました。シアターのシートはちょっとした

仕掛けがあって、ディズニーみたいに気分が盛り上がりますニヤリキラキラ

内容も面白く、ナレーションが講談師の神田伯山さんで

これまた贅沢ニヤリ音譜

 

 

 

 

 

博物館のような展示コーナーは撮影禁止でした。これがものすごい

大充実の内容で、リピートしたい程ですキラキラ 双方の軍の家臣達の

実物として伝わる甲冑、馬の鞍、旗、厨子に入った陣仏等々ポーンビックリマーク

作り込まれたレプリカの甲冑なども見応えがありましたニヤリ音譜

 

 

 

 

 

その他にも、合戦の絵巻、城の絵図。武将同士の書状が

たくさん展示されていて興奮しましたニヤニヤ音譜

 

他にも、お寺の掟め書きが意外と感慨深いです。戦乱の兆しが

出た時、市井の人々へのお触れがお寺に張り出されて皆に

結束を確認したりした様子がうかがわれるのでした。

 

 

 

 

 

360℃の展望スペースですキラキラ 各方角に、誰が陣営を張っていたかを

示すプレートがありました。ロマンですニヤニヤ音譜

 

 

 

 

 

 

 

 

関ケ原の戦いにおいて、やはり着目してしまうのは小早川秀明ですね。

 

石田三成率いる西軍は負け知らずの鶴翼の陣。その片翼を担った

小早川秀明の軍勢1,500余。西軍で3番目に多い軍勢でした。

それに裏切られたのであれば、いくら負けなしの陣形であっても

総崩れですよね滝汗あせる

 

とはいえ、小早川秀明の生い立ちはなかなか辛いですショボーンあせる

 

もともと、小早川秀明は豊臣秀吉の正室ねねの甥。どんなに

側室が居ようとも、とにかく跡継ぎに恵まれなかった豊臣家の

養子になり、”豊臣秀俊”と名乗って大層大事にされたのです。

 

豊臣秀次に次ぐ豊臣秀吉の後継者候補第2位と目されて、

若くしてグイグイ出世。因みに、豊臣秀次は豊臣秀吉の

甥(秀吉の姉の子)で同じく養子。

 

それが一転、豊臣秀吉の実子 秀頼が産まれると状況は暗転。

”豊臣秀俊”だったのに、外に養子に出されて”小早川秀明”に。

 

後継者第1位の豊臣秀次に突然、謀反の疑いが持ち上がり

秀次切腹事件に。一族もろとも死に追いやられます。

その謀反を責めたのは石田三成。どう考えても

次は我が身の小早川秀明ガーン なのに、石田三成率いる

西軍に入れとは、なかなかに・・・チーンあせる

 

一方、豊臣秀吉の晩年。過酷な朝鮮出兵に携わったにも関わらず

小早川秀明は33万石から13万石に転封させられましたが、

秀吉の死後、それを復活させてくれたのが徳川家康でした。

けっこうな恩があります。

 

石田三成は西軍加担の見返りに、関白の座を用意したとされています。

一方、家康は見返りとして55万石を用意していました。

 

どちらが現実味があるかと言われれば、家康の55万石でしょうか。

それより何より、関ヶ原の戦い当時の年齢は19歳。そもそも荷が重い・・・ガーン

 

小早川秀明が亡くなったのは弱冠22歳。原因は大谷吉継の呪いではなく滝汗あせる

若い頃からのアルコール依存と考えられているそうです。・・・確かに

呑まずにやってられない人生ですガーンあせる

 

 

 

因みに、石田三成が全面に出ている西軍ですが、本来総大将は毛利輝元。

小早川家とは親戚筋ですけど滝汗あせる

 

毛利元就の3人の息子は毛利隆元、吉川元春、小早川隆景。”3本の矢”で有名なキラキラ

毛利輝元は、隆元の子供。

 

毛利輝元は関ヶ原の戦い前日、所領安堵を条件にして既に東軍側にガーン

小早川秀明が一心に批難されがちですが、毛利家もろともが西軍→東軍てへぺろ

 

でも、その所領安堵の約束は戦後、破棄されたのです。

 

実は関ケ原の前、輝元は伊予や阿波に攻め込むなどし、領土の拡張を

勝手に行っていて、その悪事は家康にお見通しガーン

 

毛利家は120万石から36万9000石という大幅な減封処分を。

でも、御家お取り潰しは免れます。毛利輝元や上杉景勝は

権中納言で清華家という、処刑の前例が250年以上ない

家格にあるのでした。そういうのも免れ要素。

 

その後、長州藩として家名は存続。それでも、減封を受けた屈辱滝汗あせる 

毛利家ではこの屈辱を代々伝えて決して忘れず、その執念が

250年の時を経て、徳川幕府倒幕の中心となったと思うと、

ひぃぃぃぃっガーンあせる

 

更に、現在の日本政府の象徴の紋章は「五七桐」。豊臣家の家紋です。

250年の時を経て、徳川幕府倒幕を成した豊臣家臣達が明治政府を

発足した暁に掲げたとしたら・・・ガーンあせる なんて、説もあるそうです。

 

前田利家を祀る尾山神社への執念長崎の大浦天主堂の逸話

何百年も、受け継がれる信念というものがあるんだなぁびっくりビックリマーク

 

 

 

 

 

そして、もうひとり。関ヶ原の戦いといえば、大谷”刑部”吉継です。

どうも、私は”判官びいき”のようでして。源義経、木曽義仲、

武田勝頼の生きざまにぐっと来ますキラキラ

 

 

石田三成と大谷吉継の出身は同じ近江国。秀吉は石田三成、大谷吉継を

「計数の才」に長けた奉行として重用しており、一緒に行動する機会も

多く、豊臣秀吉の元、切磋琢磨してふたりでのし上がっていったのです。

 

ふたりの熱い友情の、有名な逸話がありますね。

大谷吉継は顔が膿んでただれる病気をしていました。そんな時、

大坂城での茶会がありました。招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ

飲んで次の者へ回していきました。大谷吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、

後の順番だった石田三成はその膿ごと茶を飲み干し、「おいしいので全部飲んで

しまったから、もう一杯茶を注いでほしい」と大谷吉継も、後の順番の人達も

まとめて救うという気を利かせたといわれています。

 

その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされています。

 

 

とはいえ、大谷吉継は徳川家康とも懇意で、関ヶ原の戦いの直前の家康による

上杉景勝討伐に3,000の兵を率いて参戦の意向でした。実際に兵を率いて

途中、石田三成の居城である佐和山城へ立ち寄ったのです。

 

その上、大谷吉継は石田三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男 石田重家を

自らの軍中に従軍させようとしましたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を

持ちかけられます。これに対して吉継は何度も「無謀だ!三成に勝機なし!」と説得しますが、

三成の意志が硬いとみると、敗戦を承知で息子達と共に三成の下に西軍に参戦しました。

 

大谷吉継のように、当初は東軍だったけれども、石田三成との友情を取って

西軍についた例は本当に稀だったそうです。

 

 

 

敗戦を承知とはいえ、西軍首脳の1人となった大谷吉継は東軍の前田利長を

牽制するため越前国、加賀国の諸大名の調略を行いました。その結果、

丹波長重や山口宗栄、上田重安らを味方として取り込むことに成功します。

 

更に、吉継は偽情報を流して利長を動揺させました。関ヶ原戦いで

前田利長が小松城を攻撃した際には、「大谷水軍が金沢を攻撃する」と

噂を流させ撤退に追い込んでいるのです。頭脳において決死の攻略を

次々成功させます。

 

そして、関ヶ原の戦いで布陣において。西軍として隣同士の

大谷吉継と小早川秀明の陣。なぜか味方である小早川秀秋の陣との

間の松尾山に向けて土塁を造っていたことが分かっています。

 

つまり、大谷吉継は初めから小早川秀秋の寝返りを警戒していたか、

そもそも小早川秀秋が西軍に加わったとは考えていなかった可能性があります。

事実、大谷吉継は、小早川隊からの攻撃を二度にわたり凌ぎました。

松尾山に布陣していた小早川秀明勢15,000が東軍に寝返り

大谷隊を攻撃してきましたが、初めから小早川隊の謀叛に備えていた

直属の兵600で迎撃し、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と

力を合わせて、多勢の小早川隊を一時は2、3回と追い返したといいます。

 

しかし、その秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の

4隊4200人が東軍に寝返り突如反転。これにより大谷隊は前から東軍、

側面から脇坂らの反転軍、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け

まさかの四面楚歌。

 

脇坂は徳川と内通し、いざとなれば東軍につくことに気づいて

いましたが、その脇坂だけでなく、赤座、小川、朽木らも一緒になって

東軍へと寝返り、大谷隊を攻めるとは。小早川の寝返りは予期できても、

その近くにいた4つの隊については、さすがの吉継も考えていなかった

でしょう。

 

防御の限界を超えて壊滅、大谷吉継は自害したのでした。享年36~42歳

だったといわれています。
 

西軍の武将の多くが戦場を離脱したり、寝返ったにも関わらず、

大谷吉継が自害をしたのは、秀吉の正妻ねねの甥である秀秋に

討たれることで、ねねへの恩義に報いようとした結果ではないかと

いわれているそうです。

 

関ヶ原の戦いの頃には、大谷吉継は例の病で目も見えず、

それでも石田三成の為に御輿に乗って現場に出ていました。

 

大谷吉継には見えなかった、この関ヶ原の山々。彼は

最後の時、どんな風を感じどんな温度を感じていたのでしょうか。


この布陣のプレートを見つつ、この風景を眺めると歴史ロマンが

だだ漏れですニヤリ音譜

 

 

 

 

 

館内には、こんなリーフレットもありましたキラキラ

この記念館を起点に、数々の周辺史跡巡りをしたり

おみやげやグルメも楽しめそうニヤリ音譜 ここと周辺が

一丸となって一帯を盛り上げているのが素敵です音譜