時代の岐路となった名胡桃城址に行ってきました♪ | ふじを日記

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初めて食べる美味しいものが大好き。

 

新潟県南魚沼市の宿「里山十帖」の帰りに、前から行ってみたかった

群馬県はみなかみ町の名胡桃城址に行ってきましたキラキラ

 

 

 

 

 

名胡桃城は戦国時代に北関東を巡って対立する武田氏と北条氏が

せめぎ合う中で、沼田城攻略のために武田勝頼の命で真田昌幸が

天正7年(1579年)に築城しました。

 

 

 

城址には堀切、土塁が残っていて、発掘調査では石積み、

建物跡や門跡、橋げた跡も見つかったそうです。(保存のため

埋め戻されています)

 

 

 

 

 

戦国時代、実際に使われていたのは約10年の城ですが

北条氏の滅亡のキッカケとなった歴史上、重要な城です。

なにしろ東国最大勢力の滅亡のキッカケです滝汗あせる

 

小田原征伐は、小田原のみならず、北条氏が治める

上野国、武蔵野国にも及んだ戦いで、豊臣軍は

戦国史上空前の総勢22万を率いたといわれます。

 

 

二郭(にのくるわ)址にはたくさんの建物跡と南と北の虎口門跡が

ありました。

 

 

 

 

天正15年(1587年)には豊臣秀吉により、天下泰平のために大名同士での

私闘を禁じる惣無事令が発せられました。因縁のある大名同士は一応領土を均等に

分配されましたが、そこはそれ当然くすぶりもあるワケです滝汗あせる

 

天正17年(1589年)沼田領について真田昌幸が「祖先墳墓の地だ。」と

主張した名胡桃城を含め、全体の1/3は真田領に。それ以外の、沼田城を含む

2/3を北条領と定められました。そのため、同年7月には沼田城は真田昌幸から北条氏へ。

真田氏は手放した土地の代替地として信濃国箕輪を与えられました。

 

 

 

発掘調査により木造の橋が架けられていたことが分かった場所には

木橋が復元されていました。 この先は本郭ですキラキラ

 

 

 

 

しかし、その年の11月。たったの4か月後。沼田城の北条氏が名胡桃城側の

家臣を寝返らせ、偽の書状で名胡桃城城代を上田城に呼び寄せている間に占拠しましたポーンビックリマーク

名胡桃城城代は、道中の岩櫃城で謀略に気づき急いで城に戻るも間に合わずに

責任を感じて正覚寺で切腹チーンスター

 

 

笹郭(ささくるわ)からの景色ですキラキラ ”笹郭”は本郭城の端にならないように

守っている郭です。群馬の城に多い、城の一角が断崖絶壁。こちらもこの通りです。

戦国の世と変わらないであろう山や川の景色ニヤリ ロマンです音譜

 

 

 

 

真田昌幸はすぐ徳川家康を通して豊臣秀吉に訴え出ました。秀吉はすぐに対応プンプンビックリマーク

11月21日付けで真田昌幸に書状を送ります。「名胡桃城を奪った者を成敗するまで

北条氏を赦免しない。」

 

先の沼田城引き渡しの時のメンバーが派遣され、名胡桃城の引き渡し、

関係者の処罰を求めたが、北条家の当主 北条氏直はこれを拒否しますガーンあせる

 

これに激怒した豊臣秀吉は翌年3月に小田原征伐を決行ムキードンッ

北条氏が滅亡すると全沼田領は真田氏のものになり、

名胡桃城は廃城となりました。

 

 

 

古い祠には、5円玉を並べた”六文銭”がいくつもキラキラ 真田家の家紋ですねぇ。

訪れた人達が並べて行くんですねぇニヤリ音譜