群馬で巡る木曽義仲とその仲間達の伝承♬ 一行寺 編 | ふじを日記

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木曽義仲とその仲間達。群馬県は藤岡市には巴御前にまつわる場所も

ありました。葵八幡の次に行ってみました。一行寺です。

 

 

どうやら一行寺の観音様は源頼朝と共に挙兵し、頼朝の次男 実朝が

暗殺された際に仏門に入った津戸三郎為守が藤岡に運んできたという

伝説があるようですキラキラ  観音様は最初に藤岡に着いた場所から

更に300年後の戦国時代にこの一行寺に移されたようです。

 

葵八幡の伝説に続き、図書館で見つけた関口正己氏の著作の

「ふじおか ふるさとの伝説」という本に一行寺の伝説も

載っていましたキラキラ すばらしい音譜

 

 

 

 

 

 

 

 

津戸三郎為守が藤岡に運んできた一行寺の観音様はなんと!

巴御前の守り本尊だという伝説ですキラキラ

 

 

 

 

今から700年も昔、信濃国木曽の郷戸駅のとあるお堂で長旅に疲れ眠っていた

津戸三郎為守は観音様の夢を見ました。観音様は「私を背負って東へ行きなさい。」と。

 

目を覚ますと正面の厨子に先程の夢の観音様が祀られていました。

夢の話を村の長に話すと「御仏の心のままに。」とお連れすることを

許してくれました。

 

村の長の話ではこの観音様は初め大和国(奈良県)の十市郡訳田の里に

安置されていたものを中原兼遠が木曽に移したといいます。

兼遠は女の子供が欲しくて観音様に願をかけたところ、女の子に恵まれました。

その子が後に巴御前です。巴御前は木曽義仲と多くの戦に出ましたが、

この観音様のお陰でいつも無事でした。しかし義仲は粟津で討死。

その後、巴御前は観音様に日夜拝んで92歳で天寿を全うしたと伝えられています。

 

津戸三郎為守はかつて頼朝の元で戦に明け暮れたくさんの人々の命を奪ったことに

苛まれ、50歳を過ぎた頃、家も土地も捨てて仏の救いを求めて諸国を巡業中でした。

 

為守は観音様を背負って東の国へ向かいます。いつしか上野の国に到達していました。

ある秋の夕暮れ、川原の辺りで急に背負っていた観音様がずっしりと重くなり、

どうしても立っていられなくなりました。為守はここが観音様が定めた土地と悟ります。

今の群馬県藤岡市の鮎川のほとりです。

 

観音様は村人に小さなお堂に安置されました。

 

 

 

 

 

為守はお堂を祀った土地で村人と共に一所懸命荒野を畑に開墾しました。

ある夏、日照りが続き鮎川も枯れ畑が枯れそうになりました。

為守は村人と共に観音様に一心に雨ごいをします。すると、南の御荷鉾山の

方面に黒雲が広がり稲光と共に大きな雷が鳴り響き、大雨が降りました。

 

雷の際、お堂がビリビリと動ぎ(ゆるぎ)ました。地名の「動堂(ゆるぎどう)」の

伝承です。

 

観音様によって日照りから救われた村をみて安心した為守は再び諸国巡行の旅に

戻り生涯に渡り御仏の教えを説いて回ったということです。

 

それからまた300年の時が過ぎ、戦国時代の末の頃。信濃の国佐久郡芦田郷から

芦田右衛門康真という殿様が上州藤岡に移って来ました。康真は藤岡に城を築き

故郷の芦田の名を取って付近に芦田町と名付け大通りを作り鮎川のほとりの

観音様を移して立派なお寺を建てました。その寺を一行寺といい、大通りの

名前を動堂通りとして多くの人々を住まわせました。

 

そして、観音様が元居た場所を「本動堂」と呼ぶようになりました。

 

 

 

 

というのが藤岡の伝説なのですが、実際に「本動堂」という地名は現在もあります。

「芦田町」というのは一行寺の住所ですら藤岡市藤岡で「芦田町」という住所では

ないのですが、なんと郵便局や町内公会堂の名前に「芦田町」と今でも付いていますキラキラ

ロマンですね~爆  笑音譜