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2017年生まれのコティ7歳、2021年生まれのリティ3歳

姉妹を育てるコティマムです。

40歳、

元テレビ局芸能記者の

アラフォー

ワーママライター鉛筆

◎BFC公式アンバサダー1期生

(23年3月卒業)

◎wicot公式アンバサダー活動中。

 

ワンオペ育児のあれこれや滝汗

大好きな洋楽、歌舞伎、アニメ、

おいしいもの(外食)など、

カオスな日常と

たまの贅沢を綴ります乙女のトキメキ

 

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父の旅立ちに
お気遣いや優しいお言葉をいただき、
本当にありがとうございます。
 
気持ちがおちつきましたら、
少しずつお返事させてください。
 

 

 

 

きっと、

お別れとしては最大限、

これ以上ないほどの

恵まれた状況だったと思います。

 

それでも、

ふとした時に突然涙が出て、

胸の奥がギューッと痛くなり、

息が吸えなくなります。

 

本当に、

とてつもない喪失感で、

この寂しさと悲しさには

しばらく

付き合っていかねばなりません。

 

 これから帰省しても、

どこを探しても

父がいないと思うと

本当に寂しいです。

 

魂はずっとあると思っているので、

これからも心で話しかけます。

 

 

ガーベラガーベラガーベラ

 

 

弟から連絡があって

すぐに帰省してから、

たった2日間の数十分だけですが、

手術前の父に会えて

話ができています。

 

短い時間だったけど、

報告したかったことや、

最近の様子を伝えることができました。

 

手術当日は、

弟と2人で手術室の前まで

送り出しました。

 

私はなんというか…

意識的に「またね」という言葉を

選んでいました。

 

そして、

本当はぎゅーっと

抱きつきたかったけど、

車いすで管もたくさん

つながっていましたし、

なんとなく、

「また、手術後に元気になったら

抱き着けるから」

と「意識的に」思うようにして、

父の肩をさすったり、

握手をしました。

 

3人で写真も撮りたかったけど、

「また、手術後に元気になったら

撮れるから」

と意識的に思うようにして、

写真は撮らずに、

声をかけて父に触れながら

手術室前まで見送りました。

 

車いすを押されながら

手術室に入っていく後ろ姿の父に、

2人で「またね!」と

声をかけると、

父は右手を2回、

バイバイと振りました。

 

この「バイバイ」の姿が

ずっと目に焼き付いています。

 

私はこの、

「またね!」という言葉を

「意識的」に使っていたのですが、

それは弟も同じだったようです。

 

弟も私も、

そして父自身も

何か感じるものが

あったのだと思います。

 

父自身も病室では

「2週間くらいで動けるように

なると思うんじゃけど」とか、

私が名古屋に住んでいた頃に

よく実家と名古屋を往復して

遊びに来てくれていたので、

「次は車で東京まで会いに行くかなぁ」と、

言ってくれてはいたのですが、

その言葉を聞いても、

なんだか

胸がザワザワするような感覚があり…。

 

意識的に

「またね」

「また今までみたいに

数日後には会える」

と思っていないと、

不安になる感覚がありました。

(それが霊感のない弟も同じでした)。

 

 

弟とも連日、

いろんな話をしてきたのですが、

弟自身も、

入院と手術が決まった途端に

私に電話しようと思ったり、

父がいつもの手術なら

自信満々で「大丈夫」と言っているのに

今回は同じように

「大丈夫」と言っていても、

本心からあまり

その自信を感じられなかったりと、

思うところがあったようです。

 

美味しいものが好きで

病院食を嫌がっていた父は

弟に「焼肉弁当が食べたい」とか
無茶を言ったり
していたのですが(父らしいです照れ)、
術前の断食に入る前には
弟が作った卵焼きをリクエストして、
それを冗談っぽく
「最期の晩餐じゃ」
と言って食べたそうです。
 
弟も
「父さん自身、心配かけんように
『大丈夫』って言いよったけど、
本当は悟っとったんかもしれん」
と言っていました。
 
 
私も、
きっと父はいろいろ悟って
覚悟をしていて、
最期に家族で集まれるように
しれくれたんだなと思っています。
 
クローバークローバークローバー
 
通夜と葬儀では、
弟がとても頑張ってくれました。
 
悲しみの中でも、
喪主としてしっかり動いてくれて、
家族が落ち込まないように
明るく朗らかでいてくれて。
 
それでも、弟自身の
悲しみが溢れてしまう場面もありました。
 姉として、
今後もできる限り弟夫婦を
支えていきたいです。
 
 
私は通夜が終わった夜に
少し仕事をしなければならず、
深夜に父の棺に話しかけながら
執筆をしていました。
 
若い頃から
バンド活動をしていた父だったので、
PCで父が好きだった曲をかけて
父に聴かせながら、
私もいろんな光景を
思い出していました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
仕事が終わったら
父の棺の隣で手紙を書きました。
(伝えたいことがありすぎて
大量になってしまいましたがアセアセ
 
父がずっと、
私が赤ちゃんの頃の写真を
部屋に飾っていてくれたので、
その写真も封筒に一緒に入れました。
 
 
 
 
私自身も父のそばにいたいのと、
父にはあっちでも
この写真を持っていてほしかったので。
(この赤ちゃん写真が
コティの赤ちゃん時代にそっくり)
 
 
朝起きて、
コティも手紙を書きました。
本当に、コティらしい
独特のワードセンスで、
じいじへの思いや寂しさ、
これからもつながっているという気持ちを
綴ってくれました。
 
「じいじとコティの写真も
一緒に入れたい」
というので、
赤ちゃんや幼児期時代のコティと
父が笑顔で写っている写真を
何枚か選んで、
封筒に一緒に入れました。
 
 
 
 
 
 
工作が得意なコティは、
折り紙で
金メダルやギターを作ってくれました。
 
 
 
 
 
いろんなことを頑張って来たじいじに
金メダルをあげたい、
バンドで
ギターを担当してきてたじいじが、
あっちでもギターを弾けるようにと、
作ってくれました。
 
父の棺には
手紙、写真とともに、
ギターのベルトとピックも入れました。
 
 
 
天国で金メダルをかけながら、
ギターを弾いていてほしいです。
 
 
 
 
今も
とてつもない寂しさでいっぱいですが、
今回、父からは改めて、
家族で協力すること、
仲良くすること、
支え合うことの大切さを
教えてもらいました。
 
ICUでの面会や通夜葬儀と
怒涛のような2週間の中、
弟夫婦と協力しながら、
みんなが助け合って、
少しでも楽しく
明るい時間が過ごせるよう
声をかけ合いました。
 
そのおかげで、
悲しみの中でもみんなで爆笑したり
笑顔で過ごせる時間も
たくさんあったのですピンク薔薇
 
私もここ数年は本当に
子育てや夫婦関係で悩んできたので、
自分自身にも「優しさ」が
なくなっていました。
 空気もギスギスして、
子どもたちにも優しくできなかった。
 
夫と思いやって仲良くすること、
父がしてくれたように
全力で娘たちを愛し、応援し
味方でいること。
 笑いで満ちた雰囲気を作ること。
 
この大切さを痛感しました。
 
父の身体がこの世からなくなって
本当に胸が苦しいですが、
離れていても
姉弟でこれからも仲良く支え合い、
私自身も自分の家族を
大切にしていこうと思いました花束
 
 
父さん、本当にありがとう。
みんなで仲良く、協力して
これからも支え合っていくね。
 

 

 

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