心臓の手術を受けた父が退院し、
LINEのビデオ通話で
普通に話せるまでに回復しました
昨日久々に
父とビデオ通話で
会話したのですが、
父の言葉に
ホロりときちゃいました(´;ω;`)
体調や近況伺いのつもりが、
父とはついつい
長話になってしまい(笑)、
昔の話をいろいろ振り返ります
お恥ずかしながら父には
いろいろ心配をかけてきました
たぶん本当は、
大学卒業したら私に
地元に戻って安定した職に
ついてもらいたかったんだろうなと、
今でも思うことがあります
テレビやエンタメなんて
不安定な業界に行って、
今なんて
正社員でもなくフリーランス
親としては心配ですよね
今日もそういう話になったのですが、
父が意外なことを
覚えていてくれたのです
「父さんは今でも
覚えとる場面があるんよ。
コティマムが高校生の頃、
一緒にタワーレコードに
CDを買いに行った時。
その時お前は、
タワーレコードが出しとる
音楽雑誌を持ってきて、
『父さん、
うちはこういうことがしたいんよ!
この雑誌で、
CDのレビューを書いたり、
アーティストに取材したいんよ!
でも、
どうやったらなれるんかわからん』
って言ったんよ。
父さんも、そういう業界には
どうやって行ったらええんか
わからんかった。
的確なアドバイスもできんかった。
でも、
『こういうことがしたい』って
お前がハッキリ言った姿は
今も覚えとる。
それから数年経って、
お前はテレビ業界に入って、
たくさん歌手の取材をして、
とうとうその雑誌に転職した。
音楽雑誌のライターに本当になった。
父さんは、
『夢、かなえたじゃん!』って
思ったんよ」
父がその言葉を覚えていたこと、
びっくりしました
田舎の高校生が、
本気で
「Boyz II Men に
インタビューしたい」とか、
「CDのライナーノーツや
レビューを書きたい」とか
思っていたんです。
でも、
どうやったらなれるのか
わかりませんでした
今はしがないフリーランスの私ですが、
最初は新卒の正社員として
映像制作会社に入って
テレビ局の某有名番組の
芸能コーナーのADになりました
(局員じゃないので
給料は良くないですよ)
そこでたくさんの芸能人や歌手、
海外アーティストを取材する機会に
恵まれました
そこからダメ元で、
タワーレコードの
音楽雑誌の編集部に
職務経歴書を送ったのです
さらに、
自分なりに書いた
CDレビューや音楽評論も同封しました。
この時まだ23歳の若造です。
社会人経験も
テレビで2年しかなかった
奇跡的に面接に呼ばれ、
まさかの合格連絡をいただき、
行きたかった音楽雑誌の
編集部に行けました。
信じられませんでした
この雑誌は音楽マニアにとっては
神のような存在の、
すさまじい情報の詰まった雑誌です。
当時、テレビ時代の先輩方も
音楽マニアばっかりだったので、
「え?
おまえあの雑誌の編集部に行くの?
すげーじゃん!やったじゃん!!」と
皆が喜んで祝福してくださいました。
転職して初めて担当した号は、
元上司や先輩、友人、みんなが
読んでくださいました(´;ω;`)
ただ、
私はこの編集部で
うまくやることができませんでした
挫折です。
理想と現実は全然違うし、
人間関係もそれまでの
テレビの環境とは全く違う。
自分もそれなりに
音楽の知識や情報はありましたが、
上には上がいるし、
上を見たらきりがない。
天才、鬼才、奇才
がいる世界。
それに好きな音楽ばっかり
紹介できるわけじゃありません。
私はブラックミュージックは得意ですが、
ロックは全然知識がないし
邦楽もあまり知らない。
でも、
音楽雑誌に所属するということは、
全ジャンル網羅
しなきゃいけないのです。
1週間で100枚以上の
いろいろな新譜やアルバムを聴きこみ、
どれを紹介すべきか選定し、
それぞれのジャンルの
専門ライターさんに
どのCDについて書いてもらうか振り分ける。
さらに自分でも
書けるものは書く
仕事で延々と
音楽を聴き続けていると、
訳がわからなくなってきます。
この時は
人間関係もうまく構築できず、
私は会社に行くのが
怖くなってしまいました
朝起きて
編集部に行くことを想像すると
身体が震え、
呼吸がうまくできなくなり、
吐いてしまってました
編集部の最寄り駅にも
近寄れなくなり、
音楽も一切聴けなくなりました
完全なる挫折。
結局、
憧れて入った、
夢をかなえて入った編集部は
続けることができなかったのです。
適応障害と診断されて、
休職ののちに退職しました
ここでも
父にはすごく心配をかけました。
せっかく夢がかなったのに、
日に日に痩せていき、
情緒不安定になる娘。
すごく心配だったと思います。
本当は
「もう帰って来て、
こっちで就職したら?」
と言いたかったと思います
でも父は、
私がエンタメ業界で
再出発することを応援してくれました。
今回、
「あの編集部では、
ああいう結果になったけど、
夢をかなえて経験できたことは
無駄じゃない。
編集部以外の
テレビやレコード会社で
経験したことも、
絶対今のお前の力になっとる」
と言ってくれました。
私が東海地方時代に無職になり、
ワンオペ育児しながら
フリーランスとしても
なかなか稼げなかった時も、
父は常に
「バイオリズム」について
語ってくれました。
「絶対に
運の流れが変わる時が来る」と
言い続けてくれていました。
「お前は常に頭を使って、
『自分が何をすべきか』を考えとる。
それはすごくいいこと。
うまくいかずに停滞しとる時も、
その『考える』ことはやめるな。
次の一手を考えていれば、
バイオリズムの波が来た時にすぐ動ける。
自宅にいながら仕事ができる。
フリーランスで仕事ができる。
今はうまくいっとらんかもしれんけど、
絶対に化ける時が来るけぇ、
絶対に続けろ。あきらめるな」
そう言ってくれました。
あの頃よりは今は安定した
収入になっています。
大化けはできていないけど(笑)。
あの時、
あきらめなくてよかったと思います。
それは父の言葉があったからです
私にとって
音楽雑誌の編集部での挫折は
苦い苦い思い出なんですが、
その経験も、
きっと今の身になってるんですよね
父が私の高校生の頃の言葉を
覚えていてくれたのと、
挫折も含めて、
常に応援してくれていることに、
ホロリときてしまいました
もう40歳近いおばさんなのに、
いつまでも子どもですね
突き抜けて稼いで、
父に楽させてあげたいです
GWはようやく帰省できそうです
4年近く会えてなかったので、
コティもすっかり大きくなり、
リティも間もなく1歳になる
早く会わせてあげたいです
