9月21日(火曜日)  晴れ  ロンドン (続き) 


 夜7時、ホテル「セントリー」に到着。1階のフロントで、チェックインの手続きをする。

 と、そこで突然、日本人の男性の宿泊客2名と遇う。互いに自己紹介すると、お一人は東大の法科教授の辻清明氏で、もう一人が科学技術庁勤務のS氏だった。お二人とも公用でロンドンに渡航、これから市中へ夕食に出られるよしで、「まだなら、いっしょに如何ですか」と誘われる。応諾し、208号室の鍵とスーツケースをフロントに預け、3名で揃って外出。近くのバス停から乗車し、市中へと向かう。


 20分ほどで、繁華街ウエスト・エンドの中心部ピカデリー・サーカスで下車。「エロスの像」と噴水のある広場には、バスやタクシーや通行者がひしめき、騒然たる雰囲気。……

 数多いレストランの1軒に入り、3人掛けの丸テーブルに落ち着く。辻教授が「今夜は、one of them の無礼講でやりましょう」と仰有って下さったが、教授が選んだスモーク・サーモンを揃って注文。お二人は麦酒を、僕だけが檸檬ティー。教授に「貴方は、身体に気を付けていますね。ひとり旅だから」と言われた。……

教授のロンドン渡航は5回目だそうで、「若い頃に最初に来たときは、5回も来ることになるとは思わなかった」「イギリス人ほど、我慢強い国民は無い」「欧州に来ると、その気候や風土が、文明が発達するように出来ている。そのことを痛感します」と、年齢の離れた同席者たちに、親切に語って下さった。……社会的な地位のある、本国の日本人たちと話すのは、僕にとって久しぶりだった。旅するあいだに自由人の体質が身に付いてしまったものか、立派な人々と接するのは勉強になるが、しかし気骨が折れる時間でもあった。

再びバスに乗り、10時近くにホテルへ帰る。自室の208号室に落ち着いたが、窓の無い暗い部屋で、いささか憮然。荷物を整理し、シャワーを浴び、12時に就寝した。 


 9月22日(水曜日)  晴れ  ロンドン 


 8時に起きて、体操をする。8時半、朝食。このホテルは、地下の階に食堂がある。1階のフロントでは英語が話されているが、地下食堂のウェイトレスたちはスペイン語を話している。地下で働く者の多くがそうだ。
この国の社会の構成では、もはや労働力はスペインを初め、外国語圏の人々が担っているのかもしれない。 


 この1日を、ロンドンの中心部の見物に当てる。パリ同様、再び"お上りさん"になる。欧州の都市でも、現在の日本人旅行者が、そうした気分になるのは、僅かにパリとロンドンくらいだろう。何故なら、概してヨーロッパの都市は、殆んどが「旧い」からである。…… 


 9時半、外出。昨日のエディンバラより、ずっと暖かい。最寄りの地下鉄リージェンツ・パーク駅から、先ず大英博物館へと向かう。ロンドンの地下鉄は、深い谷底に降りて行くようだ。この深さは、東京の地下鉄には無い。何か得体の知れない不気味な深さで、怖くなる。しかし地下鉄マップは、市内の全域にわたって隈無く
張り巡らされ、駅と駅との間隔もバランス良く、じつに乗りやすく使いやすいことは、パリや東京に勝る。……
世界に冠たる大英博物館は、予想どおりの立派な建物だった。18世紀半ばミュージアムとしてスタート、19世紀半ば今日の建物になったというが、世界中から現在、年間500万人以上も訪れる見学者の大半は、内
部のおびただしい展示品よりも、この堂々たる建物の全景が、その脳裏に残るに違いない。僕も同様で、ざッと館内を一巡しただけで、カフェに入って、早めの昼食代わりのホットドッグを食べ、外へ出た。…… 


 大英博物館前の通りでタクシーを拾い、中心地域のトラファルガー広場で下車。これを境に、北部がロンドンの繁華街、南部が官庁街に分かれるようだ。広場の中心には、高さ約50m の円柱が建ち、その上部に「ネルソン提督の像」が四辺を見下ろす。ナポレオンのフランス軍を「トラファルガーの海戦」で撃破した英雄であり、この像はロンドンの顔の1つ。……この広場は、パリのコンコルド広場に匹敵する位置にあると思うが、コンコルド広場より狭い。どちらも現在、市民より外来の観光客で賑わう。パリとロンドンという、このニ都の広場を眺めていると、パリが大革命により、ロンドンが産業革命と海外侵略により、世界の近代を形成したスケールが実感されるだろう。…… 


 この広場から、南方へ伸びるホワイトホールという通りの左右には、首相官邸・国防省・外務省などが建ち並び、通りを抜けると国会議事堂とウェストミンスター寺院があり、官庁街と公的機関の地域を形成している。
いずれも実に立派な建物であり、堅牢な建築群に圧倒される。パリの官邸や議会の建物には、一滴の優雅さが感じられるが、ここは徹底して厳(おごそ)かに聳(そび)え立つ。フランスやスペインの風土には、或る「色気」が秘められていると思うが、そうした余分な「潤い」が当地には感じられない。確か、ジュリアス・シーザーの言葉として「ブリタニア、あれは商人の島だ!」を記憶しているが、古代から現実直視、実利優先の土壌が根をおろしていたのだろう。公共性の重視は、そこから生まれたのかもしれない。……長谷川如是閑の明治末期刊行の痛快な見聞記『倫敦』には、当地の道路の舗装の堅固さを称えて、「道路は減らず、靴の方が減る」と言い、日本は逆で「道路が脆く、靴が長持ちする」と言い、イギリス人の公共心を評価している。


 この地域の西方に、さらにバッキンガム宮殿が控えている。欧州各地の、王宮や諸宮殿の絢爛たるスケールに比べると、一見では規模も外観も地味だが、内部の格式の高さ、設備の完璧、組織の万全、財力の包蔵は、充分に想像し得る気配がある。その1つは、衛兵たちの厳しく美しい整然たる姿である。宮殿と外部の一般社会との距離も、欧州では最も近いところにあるだろう。……


 バッキンガム宮殿の北方には、広々とした豊かな緑地帯が控えている。セント・ジェームズ・パークとグリーン・パークである。その向こうの北西地域には、さらにハイド・パークとケンジントン・ガーデンズが連なっている。ハイド・パークだけでも、日比谷公園の面積の約10倍と言われるから、この緑地帯の広大さには驚くべきものがある。過去の王室や貴族の狩猟地などを、産業革命の都市化現象の際に公園として転用したのは、イギリス社会の公共性を重んじる庶民階層の力だったのだろう。……
日本は山岳国で、広々とした平地林が少ない。そのことと、明治初期の庶民たちの公共意識の稀薄さが、都市に公園を発達させなかった、と言っていい。地方都市でも、せいぜい城跡を公園化するくらいで、公園や広場や噴水というものが、いまだに日本人の生理に馴染んでいないのではないか。僕という旅行者が、緑したたるロンドンの公園を歩いても、何やら手持ち無沙汰の感があるのだ。…… 


 セント・ジェームズ・パークを抜けて、北へ歩むと、昨夜のピカデリー・サーカスに出た。そこから地下鉄に乗り、午後の5時頃、ホテル「セントリー」へ帰着。1時間ほど休息し、仮眠する。
7時、再び外出。ホテルの付近に、小さなギリシア料理のレストランを見つけ、入店。ムサカを食す。夜になると霧が出て、街灯が虹色に滲(にじ)んでいる。……
8時半頃、ホテルに戻ると、フロント近くの椅子に座って、辻教授が、日本から来たテレビ関係者と話しておられる。テレビ局の彼は、天皇ご夫妻訪英を報道すべくロンドンに来たよし。「このホテルのフロントの人たちも、ヒロヒトの名前を知っていますよ」と言う。辻教授が、フロントにいる現地の若者の1人を、僕に紹介してくださる。「演劇に関心があり、俳優志願ですから……」と仰有った。若者と握手。 


 11時、208号室に落ち着く。絵葉書を書き、下着の洗濯をして、ベッドに就く。 



 ◎写真は  ロンドンのピカデリー・サーカス (亡母遺品の絵葉書)


       ロンドンのセント・ジェームズ・パーク (同上)