10月2日(土曜日) 曇り 時々雨 ニューヨーク
9時、起床。すぐ外出し、ホテル近くのカフェで、トーストと珈琲の朝食。
自室へ戻り、昨日お会いしたランド・キャスティール氏に電話をかける。「お誘い頂いた、アンソニー・パーキンス主催のパーティーの日には、すでにニューヨークを去っているので、残念ですが……」と。氏は「では近くまた、山田氏と3人で会いたい」と言われた。……
土曜日で、街は人通りが少ない。今日は、映画を観よう。東京でも評判の「ニューヨークのポルノ映画」を観ることに決める。場所は、ニューヨーク好きの横尾さんから、パリで教えた貰っていた。……それはタイムズ・スクエアの近くの、やや閑散とした通りの小さな映画館だった。入場料は4ドル。朝から7割の入り、老人の男女も来ている。男女編のポルノだが、100パーセント完全撮影で、これは白昼、現在の日本や欧州では観られない。……言葉とて無かった。東京で高橋睦郎氏と話したとき、「あれは男女編のほうが面白いよ」とニューヨークでの体験談を聴いたが、僕には今、沈黙しか無かった。「ニューヨークは、凄い!」のだ。
正午頃、タクシーで裏千家出張所へ行く。山田氏と宮原さん、それにカリフォルニアの茶道教師の青年と一緒に、付近のレストランで昼食。茹でたジャガイモに、炒り卵を添えた一皿を食べた。「ポルノを観てきました」と言ったら、山田さんが笑って「もう一つのヤツも観たら」と、事務所に帰ると新聞を調べ、その場所を教えてくれた。……そこで午後、空模様が時雨て来たが、タクシーに乗った。
イースト・ビレッジは、階層も人種も雑多な移民地帯で、麻薬の取り引きもされる危険なエリアもあるらしい。その映画館は、イースト・リバーに近い、人の気配が少ない、侘しい空閑地にポツンとあった。3時半頃だったが、見物人は僅かだった。料金は5ドル。同性の男男編のポルノ5本を上映。画面は言葉を発せず、行進曲やスティーブン・フオースターの曲のみが流れる。それが、何となく物悲しい。……地下トイレには、見張り人が1人立っていたが、階段を上がって帰ろうしたとき、降りてきた男に捕まりそうになった。
帰路は、再びタクシーに乗る。イースト・ビレッジからワシントン広場へ、そしてグリニッチ・ビレッジからミッドタウン・ウエストへ。小雨に濡れた夕暮れのニューヨーク市街を、車窓から遠望する。エンパイア・ステート・ビルの頂きは、雲が懸かっていて見えない。ホテル「ピカデリー」付近で下車し、セルフサービスのカフェに入って、ひとりで夕食。サラダ付きのカレー。7時頃、ホテルの自室へ戻る。しばらく仮眠。……
夜9時、また外出。タイムズ・スクエアの映画館で、夜間上映の『’’42年の夏』を観る。料金2ドル50セント。ヒット中の青春回想記だが、アメリカ映画らしいウブな作品で、同じ青春記物でも、かつてのフランス映画『青い麦』のようなヒネリが効いていなのが、何か物足りない。が、ニューイングランドの風景が美しい。11時、ホテルに帰る。と、先日電話して不在だった、若尾真一郎君の親戚N家より電話があり、滞在中に訪問する約束をした。12時、ベッドに就く。……
今日は、映画ばかりの1日だった。アメリカという所は、先進地域なのか未開地域なのか、その二つがごったに混在している。人々の反応が直截的で、とても分かりやすいが、芸術の真の深い表現には、まだ目覚めていない風土も感じる。でなければ、あんなストレートなポルノは生まれない!……幾つかのシーンが浮かんで来るうちに、郷里での少年期のあの日の出来事が、ふと思い出された。郷里の実家は温泉旅館なので、温水プールや野天風呂があった。朝鮮戦争の頃、帰還する米軍兵士たちが来館、休暇を楽しんで行く。親類の子供たちと野天風呂で遊んでいたら、逞しい全裸の若い兵士が1人、ざんぶと飛び込んで来た。彼はまず、頭まで身を湯に潜らせると突如、勢いよく立ち上がり、野天風呂の中心部へと突進した。そこには岩組の、熱い湯の吹き出し口がある。彼は片手で急所をしごき、勃起したそれを吹き出し口に差し込み、反復運動を始めた。夏の真っ昼間の事だった。僕たち日本の子供が、それを見詰めた。……今日、ニューヨークで観たポルノ映画2本は、この20年以上も前の、若い兵士の赤裸々な性衝動と、まったく一致する「アメリカ的世界」だった。
10月3日(日曜日) 晴れ 時々曇り ニューヨーク
9時、起床。シャワーを浴びてから、山田氏に電話。今日の予定を確認する。外出して、近くのカフェで朝食後、タイムズ・スクエアにあるバス・ターミナルまで行き、明日のワシントンまでの、グレイハウンドのバスの発車時刻を確認し、チケットを買う。バス路線は、全米に隈無く張り巡らされいるので、料金は安い。
11時半、タクシーで山田氏のアパートへ。お昼代わりのインスタント・ラーメンをご馳走になる。明日から2泊、当地を離れるので、スーツケースを預かって貰う。
日曜日で、氏に誘われて、セントラル・パークまで散歩する。日比谷公園の約20倍の面積を持つ、広大なオアシス。樹木が色づき、芝生に寝転び、犬を散歩させ、サイクリングし、ジョギングする、市民たちの長閑な風景。草原にヒッピーが集い、フォークソングも聴こえる。動物園や競技場や劇場まで、諸設備が充実。それらの活用・推進も、現在のニューヨーク市長リンゼーの政策の1つだと、山田さんが話してくれる。
公園の建設は、19世紀の半ば。ニューヨークの急速な高層・過密化への対応策、自然維持の推進策だった。この公園にも、ストロベリー・フィールズという地名が残るが、17世紀には苺が実り、野も森も真っ赤に染まったマンハッタン島が、その頃には悪臭の漂う街衢、人類発展の穢土と化していた。……
3時過ぎ、セントラル・パークを出て、5番街の周辺の名店群を眺めつつ歩き、E.57St.のティファニー宝飾店の前を通過して、国連ビル近くの山田氏のアパートに帰った。暫くすると、裏千家の事務所の宮原女史、続いてカリフォルニアの茶道教師の青年が来訪。4人揃ったところで出発、まず付近のマーケットで、山田氏が花束を2つ買い、ジョンストン氏のマンションへ。待っていた夫人に花束1つを贈り、夫人を加えた総勢5人で地下鉄の駅へ。行く先は、ブルックリンの住宅地にあるジェニス嬢の家。彼女は、飛び抜けた茶道愛好者、来年は京都の裏千家で研修するよしだが、彼女の今夜の誕生日の夕食会に、我々は招かれたのである。……
地下鉄の車中、宮原さんに「ブルックリンは、どんなところ?」と訊くと、「そうね、東京で言えば江東区かしら」と答えた。5時半頃、ジェニス嬢の住居に着いた。辺りは郊外の整った静かな住宅街で、僕は先月訪れたダブリンのそれと似通っている……と感じた。玄関口の壁に、1枚の浮世絵が架けられていたが、その他は至って平凡な市民の家で、ジェニス嬢とその母と兄の3人暮らし。母と娘の笑顔で迎えられ、山田さんが花束を贈り、5人で用意された席に座ると、ジェニス嬢が「今夜は家が狭くなったわ」と微笑。が、2階にいる彼女の兄は、最後まで姿を見せなかった。悩み多き青年で、孤独を好み、禅に凝っているとか。……
晩餐は、母親が手作りの大盤振る舞いだった。彼女はユダヤ人で、山田さんが「子供たちに沢山食べさせる、それがジューリッシュ・マザーなんだ」と解説。家庭料理が幾皿も出され、デザートのアップルとパイナップルの二種のパイが豪華。……当夜の参加者たちは、茶道によって繋がっているので、最近のアメリカ社会が物質から精神へと動き、日本の茶や禅に関心が持たれる傾向を、僕に語った。茶道教師の青年が、カリフォルニアではヒッピーがインドに憧れ、海岸には裸体主義者が集まり、車よりも自転車が好まれる、と言った。山田さんは「素朴なものへの郷愁が、アメリカに芽生えた。映画『’42の夏』や『ラブ・ストーリー』は、それだよ」と呟く。アメリカに来たばかりの僕は、すべての話が面白かった。……
ロング・アイランド島のブルックリンから、また地下鉄に乗って、マンハッタン島のミッドタウン・イーストまで帰ったのは、夜遅い11時頃だった。皆で、ジョンストン夫人をマンションまで送った後、近くの宮原女史のアパートへ立ち寄った。休日の秋の夜、まだ話たりなかったのだ。宮原さんが男性3人に、夜食の素麺を食べさせて下さった。宮原さんも山田さんも、日本を離れて何年にもなる。カリフォルニアの茶道教師の青年も日本へ行ったことがあり、話が弾んだ。……と僕は、明日からワシントン方面への小旅行の際、ボルチモア在住のシュナイダー氏に再会する連絡が、まだ取れていないことを思い出し、又もや宮原さんに電話拝借を乞うた。彼女は、快く受話器を渡してくれた。
シュナイダー氏とは、敗戦直後の甲府の軍政部に配属された米軍将校で、親切で気さくな人柄が「キャプテン・シュナイダー」と呼ばれ、山梨県民に親しまれた。生家の温泉旅館にも同僚たちと遊びに来て、ビリヤードに興じたり、プールでは幼い僕を背中に乗せて泳いだりした。朝鮮戦争の頃に帰米、その後も県民の幾人かと連絡があり、県警幹部のF氏は、昭和30年代末にアメリカ旅行をした折り「キャプテンに会って来た」と言われ、その連絡先を母や僕に教えて下さった。僕も、いつかアメリカに行ったら「キャプテンに会いたい」と思い、先頃イタリアの旅先から彼の住所へ、再会を希望する手紙を出していた。ニューヨークに来てホテルの自室から電話も入れたが、いつも不在だった。……
ダイヤルを廻すと、深夜だが、やっとシュナイダー氏が出た。僕が「You are captain?」と問うと、「No ,major!」と磊落(らいらく)な声が返ってきた。氏はその後、陸軍少佐に昇進していたのだ。名前を告げると、「Oh ! T e t su ro」と言い、「ボルチモア湾の周遊券がある。ホテルを用意する。待っている」と、その声が大きくなった。懐かしさが、込み上げて来た。朝鮮戦争頃、確か小学校2年のとき会って以来だった。受話器を置くと、山田さんも宮原さんも「連絡ができて良かった」と喜んでくれた。カリフォルニアの茶道教師の青年も「Very wonderful!」と呟いた。……
宮原さんのアパートを出たのは、午前3時過ぎ。タクシーでホテル「ピカデリー」に帰ったのは、明け方の4時近くだった。フロントの若者が「Good morning 」と、笑った。
◎写真は ニューヨークの裏千家出張所長の山田 尚氏(いちばん右側。左隣は中村勘九郎さん、後の18代目勘三郎。1982年6月、渡米歌舞伎公演の折り)
