9月11日(土曜日)  雨 のち曇り  パリ

目覚めると、珍しく雨である。窓を開け、モンマルトルの丘の家々に降り注ぐ、朝の雨を眺めた。……と、ヴェルレーヌの「都に雨の降るごとく」が思い浮かんだ。この名詩は悲歌だが、鈴木信太郎の名訳は、一種快美な酩酊感で人を癒す。「わが心にも涙ふる。心の底ににじみいる この侘(わび)しさは何ならむ」と口ずさんでいると、何故か「日本に帰りたくないな……」と初めて思った。出国後、そう思うことは無かった。

一つは、パリという都会の居心地の良さなのだろう。"ヨーロッパの座布団"とは、よく言ったものだ。ここに住み着いてしまう日本人は多いが、衣食住ばかりでなく、或る精神的な自由が得難いからではないか。それはパリの歴史が育てたもので、残念ながら日本の東京には未だ、こうした国境を超えた自由は存在しない。

運ばれた朝食を、ベッドの傍らで食べる怠惰な習慣に親しめないので、先に階下に降りて、8時半に朝食。
10時半、横尾さんの部屋の扉をノックする。声があり、招じ入れられて入室。横尾さんは起床しており、「雨だね……」と言う。勧められて椅子に座り、しばらく雨音を聴きながら、彼と対面して話した。

横尾「中村さんと最初に会ったのは、確か数年前、ぼくの平河町の仕事場へ、高橋(睦郎)君が連れて来たときだよね。同じように髪を短く刈っているし、印象が似ていたので、彼と同系列の人かと思っていたの。でも、今度パリで遇うと、まったく違う人だった……」
僕「違うッて、どこが……」
横尾「だって……あなたは旅行中、何も買わないね。高橋君は海外から帰ってくると、鞄一杯に腕輪やらペンダントやら何やら、どっさり買い込んでくるんだ」
僕「買い物をする余裕が無いんですよ」
横尾「いったい1日、幾らでやっているの?」
僕「宿泊費や交通費、それに食費を除くと、残る余裕は1日15ドル、5千円位ですね……」
横尾「えッ、それでやっているの!……ウウン、でも中村さんは気持ちや、言葉を飾る人でないから、それでやれるかも知れないね。それと、あなたは構えない。外国人の中へ、スウッと入って行ける人だ。昨日のスーパーでの買い物でも、言葉が通じないのに、相手が好意的だったね……」

12時半、雨も止み、いっしょに外出。近くの若槻さん夫妻の住居へ行き、またまた昼食をご馳走になる。飛び切り美味しいカレーライス。忘れものに気が付き、僕だけペンションに戻ると、やがて竹本夫人が来られた。「今夜、長くパリ在住の或る画家の家で、在留邦人の夕食会があります。横尾さんや若槻さんたちも、行かれるそうです」とのお誘いを受ける。夫人に同行して、だらだら坂を降り、午後2時半頃、竹本氏のアパルトマンへ。竹本さんから、母の手紙を受け取る。留守宅への連絡や来信が、簡単に記されていた。……

3時頃、横尾さんと若槻さんたちが、遅れてやって来て合流。竹本夫人が紅茶を淹れて下さり、昼下がりの賑やかな雑談会が始まった。東京では考えられない、のんびりとした時間だった。……
竹本さんや横尾さんは、それまで体験した多くの旅について語り、僕は、初めてのギリシアやスペインの旅について話したから、奇しくもパリでの旅行報告会になってしまった。
横尾「中村さんは、自由で、素朴な旅人だ。ギリシアの心象風景を聴いていると、ヒッピーのようだね」
若槻「そうだ、いまの中村さんはヒッピーだ。フォスターの曲なんか歌うと、ピッタリ……」
横尾「ぼくは、ヒッピーに憧れがある。でも、ヒッピーではない。現在はグラフイックデザイナーだが、そろそろ卒業して、画家になりたいんだよ。あちらこちら旅行するのも、そのためかもしれない……」
中村「そうですか。僕も、歌舞伎ってものが嫌になっている……」
横尾「1冊でも本を出すと、そうなるかもしれないね。中村さんも、歌舞伎は卒業だな……」
中村「卒業できるでしょうか……」
竹本「いやいや、すべてそんな簡単なものじゃないですよ。あらゆる道が……」

夜7時、竹本さんの住居を出る。竹本夫妻と若槻夫妻、それに横尾さんと僕との6人が、地下鉄で左岸のサン・ジェルマン・デプレの在住画家の家に行く。車中の僕は、先刻の竹本さんの「そんな簡単なものじゃない」という言葉を反芻していた。……それはそうだろう。が、舞台に現れるものは有価値だとしても、それを生み出す、歌舞伎の裏面の現実世界の「闇」や「悪」は、極めて根深い。その不気味な、歪んだ業(ごう)には、耐えられる者と耐えられない者とがある。もしも耐えたとしても、それは決して、人を幸福にはしないだろう。……

その夜、在住画家の家には、バリ在留の邦人たちが20人ほど集まった。長いテーブルに対面して座り、焼き魚と酢の物、五目ご飯、それに日本酒が供された。画家の簡単な挨拶のあと、直ぐに無礼講の夕食会になり、盃の応酬が重なり、酒席は笑いの渦となって、大いに盛り上がった。竹本さんがシャンソンを、若槻君がフォスターを歌い、僕は下座唄「露は尾花」を口ずさみ、横尾さんの高倉健サンの流行歌に凄みがあった。軍歌を唸る参加者もあり、一座まことに和気藹々、ここから日本は遠いが、同胞とは良きものなり、と思った。……

深夜1時半、タクシー2台に分乗して、モンマルトルへ帰る。車内で竹本さんに「今夜、中村さんの唄を聴いたが、歌舞伎が染み付いていますね」と言われる。車窓の夜の街並みを見やりながら、「そうかなァ…」と、考えてしまった。


 9月12日(日曜日)  晴れ  パリーシャルトルーパリ

8時半、起床。階下で朝食。
10時半、横尾さんの部屋をノックする。暫くして、2人で揃って外出。崖下の通りの何時もの「ウィンピ」
へ行き、横尾さんは朝食兼昼食。僕はミルクを飲み、果実を少々。横尾さんが「昨夜は楽しかったね」と言う。「日本酒が出たから」と僕。「不思議だな……」と横尾さん。

そこから、若槻夫妻の住居へ立ち寄り、午後1時頃、4人で出発。パリ近郊のシャルトルにあるノートルダム大聖堂を見物すべく、まず地下鉄でモンパルナス駅まで行き、そこから列車で約1時間20分。車中、穀倉地帯ボース平野の一面の麦畑の向こうに、ゴシック建築の大聖堂の高い尖塔が見えた。……

4時少し前、シャルトル駅に着く。人口僅か4万ほどの町、駅の近くを小さなウール川が流れる。駅前の緩やかな坂道を進むと、シャトレ広場へ出る。と、直ぐ向こうに大聖堂の建物が待っている。中世以来、この小さな町の大聖堂に巡礼する人々が、今日まで絶えないという。大聖堂の正面には、3ヵ所の入り口がある。
僕たちは先ず、大聖堂内の翼楼から、2つある塔の1つに登った。頂きの眺望は絶佳、小麦色の平野の秋景色が素晴らしい。正面の入り口から入って左側に、世界的に名高いステンドグラスが見上げられる。晴れた日の午後遅く、それに射し込む淡い光によって輝く"シャルトル・ブルー"の、神々の姿を仰ぎ見るために、数多くの参詣者が集まる。……なるほど、これは僕たち異教徒にも見飽きることが無い。
ざッと見物を終えて、大聖堂の正面の石段に腰を下ろして休憩。横尾さん、若槻夫人、僕の3人の放心した状況を、若槻さんが面白がって、カメラの1枚に収めた。……

夕刻5時40分、シャルトル駅発の列車に乗る。車内は混んでいて、各自別々の席に座る。僕の近くには、日曜日のためか、パリへ帰る高校生たちが談笑中だった。英語で話し掛けてみると、面白そうに笑って応じ、話題が弾んだ。彼らの世代は、英語を使うことを躊躇(ためら)わない。「日本に関心がある」1人もいた。若槻さんが名カメラマンで、車内の光景を撮ってくれた。……

モンパルナスに戻り、そこでバスに乗り換え、7時半頃、モンマルトルへ帰着。そして、またまた若槻邸で夕食をご馳走になった。有り合わせのお惣菜と白飯、ことのほか美味しい味噌汁。若槻夫人に深謝!
食後、緑茶を味わいながら、いろいろと話し込んでしまった。……三島由紀夫先生の話が出たが、最も交流のあった横尾さんは、多くを語らなかった。まだ、あの事件から1年も経っていない。あの事件や死を「一般の人々や外国人の多くは、ほとんど理解していないようです」と、若槻さんが言った。それは確かにそうだが、三島由紀夫の文学と思想、精神と肉体、美と狂気、愛と性など幾つかの面を、自己の裡に深く共有する人々は、今後も確実に存在するだろうと、僕は力説した。……気が付くと、11時半を過ぎていた。

12時頃、横尾さんと、ペンション「パラディエ」に帰った。


    ◎写真は   シャルトルのノートルダム大聖堂、そのステンドグラスのバラ窓(亡母遺品の絵葉書)

       大聖堂の前で休憩する3人(若槻さんが撮った写真。左から、横尾さん、若槻夫人、そして僕)