10月4日(月曜日)  晴れ 時々曇り  ニューヨークーフィラデルフィアーワシントンD.C.


遅く9時40分、起床。1時間後、ホテル「ピカデリー」を出る。タイムズ・スクエアのバス・ターミナルへ行き、構内のカフェで遅い朝食を摂る。昨夜の消耗のせいか、オムレツが美味しい。


午後1時、グレイハウンドのバスが発車。約2時間で、フィラデルフィアのバス・ターミナルに着く。電話ボックスから、シュナイダー氏に連絡したが不在。構内で昼食し、クラムチャウダーをオーダー。

午後4時、乗り換えたバスが出る。ワシントンD.C.まで約3時間。地図上での記載は近距離だが、バスに乗ってみると、考えていたより運行に時間が掛かる。アメリカという大陸の広さ。車窓には、森林が続く。やがてシュナイダー氏が在住する、メリーランド州のボルチモア市を通過。薄暗くなっていたが、港湾の街らしい。


夜7時、ワシントンD.C.のバス・ターミナルへ着いた。ここは「ワシントン・コロンビア特別行政区」すなわち合衆国首府だが、人口は60万程度の中都市。交通の中心はユニオン駅で、鉄道・地下鉄・バスのすべての起点。バスの発着は建物の3階からで、下車すると日本人の若い男女1組に出逢い、その階のレストランで一緒に夕食。茹でたホーレンソウを添えたソーセージ。食後は挨拶して、すぐに別れた。


駅から遠くない、当地のYMCA まで徒歩する。途中、ホワイトハウスの夜景が彼方に観えた。

アメリカ各地の安価な宿泊施設としては、ユースホステルかYMCA があり、学生や若い世代の旅行者たちは、なかなかホテルには手が出ない。僕は旅費を節約すべく、旅立つ前に日本でYMCA の会員になり、年会費を払い、会員証を貰って持って来た。……ワシントンのYMCA をひとめ見て、まず建物の規模からして、日本でのそれとはかなり違うことを痛感。フロントの周囲が広く、喫茶室やレストラン、集会所や図書室やプールまで備えた、言わば1つの社会施設なのだ。現地の利用者は若者が多いが、中高年の姿もある。……受け付けの担当者に、虎の子の会員証を提示すると、幸い一室が空いていた。

だが、その部屋は、広くガランとして殺風景。置かれているのは、簡素なベッド1台のみ。トイレやシャワーは室外にあり、どちらも共用。しかも何と、トイレ数台はカーテンのみで仕切られ、数列のシャワーにも全く仕切り無し。清潔さは維持されているが、こんなところが"同性愛者の巣"と言われるゆえんかもしれない。……


9時頃、2階の自室からフロントへ下りて、受話器を借り、シュナイダー氏から告げられた彼の第2の家庭、交際中の女性の友だちの住所へ、電話を入れる。初め女性が出て、すぐシュナイダー氏の元気な声に代わり、明日お会いする時刻と場所が決まった。安心して、ホッとした。


シャワーを浴びた後、11時に就寝。


10月5日(火曜日)  小雨のち曇り、時々晴れる  ワシントンD.C.ーボルチモア


昨日のバス移動で疲れたのか、9時半に起床。体操して、今朝もシャワーを浴びる。階下のレストランに出向くと、すでに10時過ぎで、朝食はストップ。そこで宿泊代を支払い、YMCA を出て、バス・ターミナルへ。構内のセルフサービスのレストランに入り、朝食兼昼食。サラダとローストチキン、ヨーグルトとミックスベリーを載せたワッフル。アメリカの食べ物には、ヨーロッパのような根深い特性を感じないが、久しぶりのワッフルが、おいしかった。……


食後の数時間を徒歩で、簡略な市内見物に当てる。先ず、ホワイトハウスの前を通って、ワシントン記念塔が建つ広場へ出る。高さ約170メートルの石造建築の高塔は、数十年の歳月をかけて19世紀末に完成。その天を突く巨大さは、ローマにも、パリにも、ロンドンにも無く、アメリカそれ自体の巨大さを象徴する。頂きを見上げていると、首が痛くなった。……記念塔の周辺には、広々とした緑地帯のモールと、リスが遊ぶポトマック公園が設けられ、その西方にはリンカーン記念館がある。ギリシア神殿のような円柱に支えられた建物の奥に、白い大理石で築かれた、高さ約6メートルのリンカーンの座像が、彼方の記念塔の方向を見詰めている。この日は人影が無く、辺りは静寂。外国からの旅行者でも、この像を見上げて、或る崇高な想いに包まれない人は居ないだろう。僕も以前、詩人カール・サンドバーグの『リンカーン伝』の邦訳に目を通した日があったことを、フッと思い出した。……

ここから西へ抜けると、ポトマック河に架けられた、アーリントン記念橋のたもとへ出る。ポトマック河は、水量が豊かだ。川中には、幾つかの島が点在する。そこから南東へ移動するとバイダル湾があり、岸辺には桜並木が、湾の向こうにジェファソン記念館が見える。一帯は静寂な環境だが、道路のひび割れが目立つ。時計を見ると2時。コロンビア島の橋の近くでタクシーを拾い、バス・ターミナルへ帰った。


ロッカーに預けた手荷物を取り出し、午後2時50分、ボルチモア行きのバスが出る。同3時50分、メリーランド州ボルチモア市に着く。ここも人口50万台の中都市だが、建国時代からの歴史を有し、エドガー・アラン・ポーの墓、ベーブ・ルースの生家なとが残り、チェサビーク湾が美しい港として知られる。グレイハウンドのバス・ターミナルへ着いたが、シュナイダー氏と会う約束の時刻まで間があき、付近にある郵便局に行き、切手を買って絵葉書を出す。ターミナルへ戻って、待ち合い室で1時間ほど待つ。


夕刻5時半頃、シュナイダー氏が姿を見せた。背広にネクタイ、やや足を引きずり、歳を取ったが、至って元気。ほぼ20年ぶりの再会になる。「Oh !Tetsuro」と言われ、握手。彼が運転してきたマイカーに乗り、郊外バーモントのモーテルへ。「市内のホテルを用意したかったが、あいにく部屋が無く、モーテルが取れた」よし。車中での話では、氏は今年60歳、82歳になる母親と、40歳近い息子1人がいて、今夜紹介する付き合っている女性もあると言う。甲府での進駐軍時代にも、彼は活発な社交家として人気があった。「まだ、働いている。これからも働ける!」と拳をかざしたのには、笑ってしまった。

モーテルは、丘の上にあった。設備が整った立派な部屋で、やはりこれはYMCA やユースホステルとは違う。氏がフロントで、料金を前払いして下さった。7時少し前、手荷物を置き、モーテルをマイカーで出発。どこへ行くかと思ったら、暫くするとロンドンの郊外に似た静かな一角にある家で、氏と同年輩の女性が住んでいた。昨夜も電話を入れた、氏の現在の第2の家庭、交際中の彼女の家だった。聴けば5年前に夫を亡くし、独り暮らしとか。彼女が助手席に同乗、僕が後部へ移動して、丘の上のモーテルへ帰った。


モーテルの2階部分が、明るく広いレストランになっていて、ディナーが予約されていた。氏は、僕に席を勧めてから、彼女のために椅子を引き、着席をヘルプした。日本の社会では見慣れない、それは紳士の"レディファースト"だった。ワインがオーダーされ、港湾都市のせいか、珍しく魚介類の料理が出された。

ワインを口にすると、気分が良くなったのか、シュナイダー氏から片言の日本語が飛び出した。彼が甲府駐留時代と僕の家の人々について、鮮やかに記憶しているのには驚いた。嬉しかったし、何とも楽しかった。

氏曰く「Tetsuro のグランドファーザーは、熱いオサケが好き。グランドマザーは朝、オキョウを読む」「(叔父の)吾朗サンはインテリ。宗久サンは絵を描く」「Tetsuro は、ママさんママさんワーンと泣いた」

そして氏は「チョツト待ってくださいね」「テキリージ、静かに」と言った。テキリージとは、氏の甲府時代の口癖であり、人々が呼んだ愛称でもあった。氏は、やおら胸元から、小さな1枚の写真を取り出した。そこには、僕の母の若き日の姿があった。「ミサオ(操)さん、たくさんたくさん、キレイです」と氏は言った。


3人での夕食が終わり、僕は階下の駐車場まで、上機嫌の両人を送って行った。薄く雲がかかっていたが、月夜だった。シュナイダー氏は「Tetsuro…… アナポリスの海軍士官学校や港湾巡り、たくさん見せたいところがあったんだが……」と呟くように言った。僕は「キャプテン、貴方に再会できてハッピーでした」と告げた。氏は笑って「l  was  happy  too」と返し、「明日の朝、ここへ見送りに来る」と言ってくれた。「これから、彼女の娘と孫が住む家にも寄って行くんだ」と、両人で幸福そうに笑い、マイカーは去った。


モーテルの自室に戻ると、夜の10時半だった。郷里の母に手紙を書いた。12時、ベッドに就いた。


◎写真は   ワシントン市内にあるYMCA と周辺 (1971年10月に撮る) 

       バーモントのモーテルの駐車場でのシュナイダー氏 (同上)