9月13日(月曜日)  曇り  パリ

9時、起床。階下で朝食。10時半、横尾さんを起こし、一緒に外出。例の「ウィンピ」で、彼は朝昼を兼ねた食事、僕は喫茶。12時頃、若槻さんの住居へ行き、横尾さんと若槻さんは、市内の中心部へ。僕は坂下の通りで、小さな日常用品の買い物をした後、ペンションに戻った。

午後、荷物の整理。洗濯をして、体操。ゆっくりと入浴。夕刻まで仮眠。
夜7時、若槻さんの家へ。横尾さんも若槻さんも帰っていて、夕食中。僕も、炒飯をご馳走になる。
食後、横尾さんは、竹本さんのアパルトマンへ。僕と若槻さん夫妻は、坂下の通りでタクシーに乗車、パレ・ロワイヤルにあるコメディ・フランセーズへと向かった。

入場すると、劇場とは思えない、静かな瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気。1階のロビーも、手頃な落ち着いた実質的な空間で、派手派手しい美麗さが薄い。2階に上ると、狭からず広からずの喫茶空間があり、若干の椅子が配置され、飲料のみを提供。その向こうの窓際には、長い廊下が続いている。そこには、フランス歴代の名だたる劇作家たちの白大理石の胸像が、林立して並んでいる。胸像は各階の階段の踊り場にも置かれ、モリエールやコルネイユ、ユゴーやロスタンは勿論、著名な詩人たちも加わる。胸像は見るだけでも、飽きない。……
僕は、この夜はじめて、この光景に接したとき、何とも言えず感動した。このような劇場を訪れた日は、かつて一度として無かった。……

      秋の夜の月光さし込む長廊に い並ぶ胸像はやしのごとし

座席は2階の右側、上手寄りの最前列で、3人並んで座った。場内は5階席まであり、オペラ劇場のような華やかさはないが重厚で、演劇空間としては適正規模。この夜は、超満員。
驚いたのは、客席に若年層が目立ち、早くもセーター姿の少年、皮ジャンパーの青年も多く、テキストを読む者もあり、開幕を待機するムードが濃厚。ゆくりなくも僕は、いつか三島由紀夫先生が、父兄に伴われた少年たちがテキストを片手にして古典劇に親しむフランスの劇場と、未来の古典歌舞伎公演の在り方とについて言及された小文が、頻りに思い起こされた。……浮華な場内装飾に身をゆだね、昼夜の飲食を共にして、ひたすら役者中心の舞台を愛でる、現在の東京の享楽優先の長い長い劇場の時間は、ここには無いのである。

鐘が鳴り、夜8時半、開演。この夜の演目は、ラシーヌの最たる古典悲劇『ブリタニキュス』である。
僕は、戦後の文学座上演の『ブリタニキュス』は観ていないが、確か1963年の初夏、初来日したコメディ・フランセーズの『ブリタニキュス』公演を、上野の東京文化会館で実見している。そのときは新傾向の演出で、主人公ネロンの人物像も現代的だった、と記憶している。……
ところが、8年後の今回は、それよりも古風な舞台だった。装置はシンプルだが、主要な役の挙措・動作に、時代な味わいと格式が感じられ、台詞も朗々と、ラシーヌ戯曲のアレクサンドランを響かせた。……国立劇場コメディ・フランセーズの専属劇団の公演にも、いろいろな上演方法があるのが解ったが、このような古風な舞台や演技を、今日でも一般のフランスの人々は、より受け入れているのではないか。
11時、終演。場内を万雷の拍手が揺るがし、カーテンコール8回が繰り返されたのには、ちょっと驚いた。

場外へ出て、劇場の近くでタクシーを拾う。モンマルトルに帰るのかと思っていたら、若槻さんが「在住の彫刻家M氏の家で、竹本や横尾さんも待っていますので、ちょっと寄りましょう」と言う。
M氏の家は、同じ右岸のエトワール近くにあり、さほど遠くなかった。立派な家だった。在留邦人たちにも今、関心を持たれる横尾さんが、招かれていたのだ。僕たち3人が加わり、サンドイッチの夜食が供された。
テーブルには、数本の上等なワインが並び、笑顔のM氏と竹本さん、それに真剣な顔つきの横尾さんが、神秘的な宇宙論に興じている最中だった。横尾さんは、直感と洞察がずば抜けている人だから、マリファナの誘惑などについて語ると、誰もが思いも寄らない体験世界が展開する。……

深夜2時半頃、M 氏のお宅を辞去。タクシー2台に分乗、モンマルトルへ。僕は横尾さんと同乗、車内では、共通の知人である堂本正樹氏の噂が出た。以前に横尾さんが書いた『交遊抄』などで、可愛いまでに面白い悪戯っ子の堂本スケッチを読んでいたが、今夜漏らされた人物感は、かなり違っていた。……横尾さんは、飛躍する人だ! 天才的な彼は突然、ジャンプする。舞い上がって、彼岸へ渡ってしまう!

ようやく「パラディエ」の自室に落ち着く。何と3時半に就寝。


 9月14日(火曜日)  晴れ  パリ

9時半に目覚めるも、眠い。が、朝食が室外の廊下に置かれていたので、有り難く頂く。
食後、昼近くまで、ぐっすりと眠る。昼食を抜く。

午後、モンマルトルの坂下の大通りへ出て、理容店で散髪する。パリを去る日が近づいている。
散髪後、いつもの「ウィンピ」に寄って、1人で夕食を摂る。簡単にスパゲッティー・ボロネーズ。

7時頃、竹本さんから先触れのお電話があり、暫くして「パラディエ」に来られる。郷里の甲府に住む、伯母の中村美代子からの手紙を届けて下さる。「少し歩きませんか」と言われ、夕暮れの界隈を2人で散歩。……
道々で、氏は呟かれた。「日本に居るときは、世界との共通項や普遍性について考えましたが、ここに来て
住んで長くなると、どうも逆になるようです」と。「それは……?」と僕。「それはですね。まず、母国語というものを、強く意識するようになる。そして、国というものを、民族というものを考えるようになる」「日本語というものを、より正確に話そう。母国の言葉を正しく伝えたくなります」……
日没後の9時半頃、氏を坂下まで見送り、ペンションに帰った。

自室で、伯母からの懇篤な書簡を読み、近況を報告する返信を書く。続いて母にも、パリでの日々を伝える手紙を書いた。あれこれしているうちに、今夜も就寝が遅くなった。…… 


 ◎写真は   ボース平野の彼方に見えるシャルトルの大聖堂(亡母遺品の絵葉書)

       シャルトルからの帰りの車内での僕(若槻さんが撮ってくれた)

       同じく車内で 現地の若者と話す(これも若槻さんの撮影)