司令官特攻
有馬正文(ありま まさふみ)海軍少将。戦死後、最終階級は中将。
この方、海軍航空隊好きにはよく知られた名前だと思います。なぜ有名か?それは、海軍が特攻作戦を始める前に、「司令官特攻」(「指揮官特攻」とも言われる)をしたとされているから。

(↑写真はWikiからお借りしています)

 

1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦の終わり、10月15日に、マニラのクラークフィールド飛行場から一式陸攻で出撃、アメリカ艦隊に向かって指揮官自ら特攻した、とされています。
有馬さんはその時49歳、海軍少将の地位にあり、第一航空艦隊の第26航空戦隊の司令官の立場にありました。

しかし、有馬さんはパイロットではありません。操縦はできません。偵察員でもありません。そのような航空隊員としての教育は受けていません。
有馬さんが搭乗したのは一式陸攻であり、他に7名の搭乗員がいました。有馬さん自身が飛行機を操縦してアメリカ艦隊に体当たりできるわけではありません。

 

↑海軍の陸上攻撃機、一式陸攻(写真はWikiからお借りしました)


そして、有馬さんが出撃した時はまだ「特攻」という言葉はありませんでした。
有馬さんは大変な部下思いだったということです。そんな有馬さんが、部下達を道連れにして、あえて敵艦に体当たりをせよと命令するでしょうか。私はずっとそのことが疑問でした。

最近、有馬さんが最後に搭乗した一式陸攻を操縦していたのが竹井改一大尉という、海軍機関学校50期出身のパイロットであったことを、碇義朗著『八機の機関科パイロット 海軍機関学校五十期の殉国』(光人社NF文庫)を読んで知りました。竹井大尉が操縦する一式陸攻に乗り込んだ有馬さん。どのような決意で「司令官特攻」と言われる行動に出たのでしょうか。

海軍エリート道を歩む
有馬さんは鹿児島出身。海軍兵学校第43期卒。その後、海軍水雷学校普通科学生、海軍砲術学校普通科学生、そして海軍大学校も卒業しています。かなりの海軍エリートです。
有馬さんは本来砲術畑で、当初は水上戦艦の艦長をやったりしていましたが。中国戦線で航空攻撃の威力を目の当たりにして、航空士官へ転属します。それからは佐世保海軍航空隊司令、木更津海軍航空隊司令、横浜海軍航空隊司令を歴任していきます。でも自分が航空機に乗るのではなく、あくまでも地上から指揮することが任務でした。あくまでも「司令」であって、全体の戦いを指導する立場でした。

有馬さんは1942年(昭和17年)、空母翔鶴の艦長になり、第2次ソロモン海戦と南太平洋海戦に参戦します。この南太平洋海戦で有馬さんの見敵必墜の精神が遺憾なく発揮されます。翔鶴はアメリカの爆撃機に爆弾を落とされて大破するのですが、それでも艦は動くのでこのまま敵艦隊に向けて前進すると言い張ります。しかし、これは南雲長官が無茶すぎると却下。有馬さんは悔しい思いをします。

有馬さんが最も「我が時来たり」とまなじりを決したと思われるのが、1944年(昭和19年)4月9日に、第26航空戦隊司令官に任じられた時ではないかと思います。
あ号作戦(フィリピン・マリアナ方面の要撃作戦の総称)を目前にしたタイミングでした。
フィリピン、ミンダナオ島ダバオに赴任。さあ、いくぞ!と思ったら、第26航空戦隊の上部組織である第一航空艦隊がテニアンで玉砕。おまけにダバオ誤報事件・・・。海軍乙事件と並ぶ日本海軍の大失策が起こります・・・。

ダバオ誤報事件
経緯を書いていきますと。
第26航空戦隊は、第一航空艦隊が有していた4つの航空艦隊の一つ。
第26航空戦隊は3つの航空隊を有していました。
第一航空艦隊の司令長官は、これまた海軍界隈では有名な角田覚治中将。
その時の第一航空艦隊の司令部はテニアンにありました。
有馬さんの第26航空戦隊は、はじめペリリューにいましたが、後にダバオに移ります。
連合艦隊は「あ号作戦」の決戦場をパラオ近海と想定していました。

ところが、ニューギニア戦線のビアク島がアメリカ機動部隊に攻められて、ビアク島の守備隊が大変な事態になります。大本営は渾作戦を発動してビアク島の日本軍を助けようとしますが、これは中途半端に終わります。
ビアク島の戦いについては「戦跡訪問:西部ニューギニア戦没者慰霊碑と彗星爆撃隊」で書いております。

 

 

渾作戦をやっているうちに、アメリカ機動部隊がサイパン、テニアンを攻めてきて、ビアク島どころではなくなり、テニアンの日本軍は玉砕。角田中将も戦死。

次に捷号作戦が発動。フィリピン、台湾、南西諸島のラインで防衛しないと、日本本土が危ないということで、向かってくるアメリカ機動部隊を迎え撃ち撃破しようという作戦です。
ビアク攻撃の渾作戦失敗とテニアン玉砕で壊滅的打撃を受けた第一航空艦隊を再建するために、寺岡謹平中将が新たな司令長官としてやってきます。そしてダバオが第一航空艦隊の拠点となります。有馬さんの第26航空戦隊もダバオにいます。
ここで、ダバオ誤報事件が勃発。
1944年(昭和19年)9月10日のことです。
ダバオの日本海軍に見張り所がアメリカの上陸用舟艇が来たと誤った報告をして、海軍が大混乱に陥ります。

この時寺岡中将から一時的に有馬さんは指揮権を与えられセブ島に進出し、201航空隊の零戦部隊をセブに集結させ「第一航空艦隊の指揮をセブにおいてとる」と電報を発信。さあ、見敵必墜!と、有馬さん、大張り切りです。
しかし・・・敵がこなかった・・・。
だって、白波をアメリカ艦隊が攻めてきたと見誤った「ダバオ誤報」ですから・・・。

アメリカ艦隊が攻めてきたというのは誤報だったとわかり、セブに集めた零戦をマクタン島などに分散させようとしていた矢先、9月12日にアメリカ軍の艦載機に襲われ、セブ島にあった零戦70機(200機という説もある)が地上で破壊されてしまいました。いわゆるセブ空襲。
有馬さんはその前に輸送機でマニラに戻っていたのですが、貴重な戦力である零戦を大量に失ってしまい、大ショックを受けたようです。報告を受けて、有馬さんはすぐにセブに引き返したのですが、破壊された零戦が累々とあるだけで・・・。もうどうにもなりませんでした。

セブ空襲の後、有馬さんは頬の肉が削げ落ち、眼光は鋭くなり、妖気漂うという感じだったそうです。
ダバオ誤報事件の直後に大量の零戦を失ってしまったことが、有馬さんが後に自ら一式陸攻に搭乗して出撃することに繋がっていると思うのです。有馬さんの心には「しかるべき死にどころを得る」という決意が固まっていったのではないかと。

一式陸攻の指揮官機に搭乗
このあと、第26航空戦隊の司令部はクラークフィールドに移ります。
戦況はどんどん悪化・・・。
1944年(昭和19年)10月には台湾沖航空戦が勃発。多くの航空機と搭乗員が失われます。(が、大本営発表では日本が大勝利でアメリカ艦隊をやっつけたとされていました。有馬さんはどこまで真実を知っていただろうか・・・フィリピンの前線にいたのなら、大本営の発表が本当とは思えなかっただろうと察しますが・・・)
有馬さんは「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である」などと言い始めます。
 

そして、1944年10月15日に、761航空隊の幹部を集め、
「これからは敵空母を沈めるためには、体当たり攻撃が必要です。そのためには若い士官や兵隊だけを死なせるわけにはいきません」
「そのためには、然るべき搭乗員が搭乗しなければならない。誰かいませんか」
と言います。みな、沈黙してしまいます。
すると、有馬さんはそれまでの温厚な口調を一転し、「誰もおらんのか!よし、それなら私が乗ろう」と怒鳴ると、参謀や副官が止めるのも聞かず自ら竹井大尉が操縦する一式陸攻の指揮官機に搭乗してしまったのです。

有馬さんは普段から誰に対しても丁寧な口調で、怒鳴ることなどほとんどありませんでした。この日、有馬さんは、先任参謀、整備参謀を他の基地に向かわせ、通信参謀を他の任務につけ、自分一人だけになるよう仕向けていました。自分の出撃を止めそうな人達をあらかじめ周りから遠ざけておいたのです。

私は有馬さんがこの日、「演技」をしていたように思えてなりません。
この日、自ら一式陸攻に乗り込んで出撃することを決めていて、それを可能にするためによく準備をして、出撃を止められないような状況を作ろうとしたのではないかと。
出撃するにあたり、有馬さんは、少将の階級章をもぎとり、双眼鏡に有馬と書いてあった文字を削って乗り込んでいますので、「生還を期せず」と決意していたことは間違いないでしょう。

この日、第一航空艦隊司令部の命令のもと出撃した761航空隊の一式陸攻3機のうち、竹井大尉が操縦する指揮官機に、有馬さんはプラスアルファで突然搭乗したのです。竹井大尉もびっくりしたのではないでしょうか。
 

その日の一式陸攻隊の出撃は昼間でした。一式ライターと言われていた防御装備の弱い陸上攻撃機が魚雷を抱えて、制空権を失った空を、真昼間にアメリカ艦隊に向かって出撃するわけです。

特攻するとかしないとかの前に、そもそも「通常攻撃」であっても、生還の確率が大変厳しい出撃だったわけです。ましてや雷撃隊の指揮官機は列の一番前を飛んで先頭で敵艦隊に突っ込みますから、指揮官機が撃墜される確率は高いのです。檜貝襄二大佐もそうでした。


有馬さんは雷撃隊の指揮官機に搭乗員達と共に死ぬ決意で、一緒に乗せてもらって敵艦隊に飛び込んだ・・・ということではないかと思うのです。「体当たりしろ!」と部下に命じたのではなく、「私も共に行く。それが指揮官としての務めだ。生死を共に」という主張だったのではないかと。

結局、この時出撃した一式陸攻3機はすべて帰ってきませんでした。
また、一式陸攻3機の攻撃の成果もよくわかっていません。(空母の飛行甲板に突っ込んだのだがそのまますべって海中に突っ込んだ説があり、特設空母を一隻撃沈したという説もあり)

本来、有馬さんの出撃はルール違反だった!?
実は、有馬さんは、761航空隊の一式陸攻に攻撃命令を出す立場にはありませんでした。
このころ海軍航空隊では「空地分離」というものが行われ、飛行機に乗る搭乗員達の飛行機隊と、地上勤務の部隊とを切り離してしまったのでした。飛行機隊はどの基地にもすぐ移動できるようにして、機動性をもたせたわけですが。飛行機隊は地上ではその基地の最高指揮官の指揮下に入るけれども、空の上では第1航空隊司令部の直属になるということ。
つまり、有馬さんは第26航空戦隊の司令官なのだけど、その任務は空地分離によって、地上勤務専門部隊になり、基地の整備、搭乗員に訓練、機材の収集という仕事になったのでした。
だから、有馬さんは飛行機隊が空に上がったら指揮をする権限はなかったのです。有馬さんが一式陸攻隊にアメリカ艦隊に体当たりで突っ込めと命令する指揮系統は存在していなかったのでした。

有馬さんが搭乗した一式陸攻が属した761航空隊の司令は前田孝成大佐。飛行長は庄司八郎少佐でした。
庄司少佐によれば「空地分離によって、26航空戦隊の司令部と、761航空隊の搭乗員にはあまり密接な繋がりはなかった」そう。
そして「有馬さんに対しては生え抜きの航空の司令官に感じるような親しみは感じられなかった」そうです。

また、小澤孝公著『搭乗員挽歌 散らぬ桜も散る桜』(光人社NF文庫)は、予科練出身の下士官陸攻搭乗員の小澤氏の目から見た有馬さんのことが書かれていますが。小澤氏も「司令官みずからが、攻撃隊の指揮官機に搭乗し、出撃すること自体が異例であった」と書いています。
「攻撃隊が発進する場合、各飛行隊長の大尉級、または中尉が指揮官機となる。航空隊をあげて全機出撃と言うような場合は、飛行長が搭乗して全軍の指揮をとることもあるが、通常の出撃の場合は、飛行長以上は、指揮所で司令とともに各飛行隊長に命令を出すだけで、搭乗しないのが通例である」

26航空戦隊の司令官である有馬さんが、一式陸攻隊の指揮官機に乗り込んで出撃することは異様な光景だったわけです。

有馬さんはいつも微笑みを絶やしたことがなく柔和な感じだったけれど、出撃する10月15日は様子が違っていていたそうです。
小澤氏は有馬さんの出撃について
「厳密にいえば、司令官みずからが、軍規をおかして出撃することになるのだが、司令官には軍規を破ってまで死を覚悟して出撃する理由があってのことであろう」
「司令官の体当たりを聞いたとき、(責任をとったな)と直感したひとりである。司令官は、特攻のさきがけなどということは、ゆめゆめ考えずに自爆したのではないだろうか」
「飛行機は戦ってというよりも、地上において損失したものが圧倒的に多く、フィリピンの制空権も敵機に占められようとし、26航空戦隊の終焉も間近に迫り、ひいては第一航空艦隊の終焉をも悟って、みずからの死をもって責任をとったのではないかと思う」
と書いています。

やはり、ダバオ誤報事件の後、多くの零戦を失い(それは必ずしも有馬さんの責任といえないと思いますが)、「しかるべき死にどころを探す」という思いだったのでしょうか。

また、「有馬さんは部下思いだったから、大尉以下の士官や下士官、兵だけが、どんどん死んでゆくのを黙って見ているのがたまらなかったんじゃないですか」(草野三男(予科練卒の上等飛行兵曹、第201航空隊))という考えもあります。

確かに当時のフィリピンの空では、大尉以上の戦死よりも、中尉以下、下士官兵の搭乗員の戦死の方が圧倒的に多かったのです。
『搭乗員挽歌 散らぬ桜も散る桜』の中で小澤氏は、
フィリピンの戦地の空において「激撃戦に際し、下士官搭乗員に対して、「上がれ」と、号令する士官はいても、みずから飛行機に飛び乗り、激撃戦に臨む士官搭乗員は意外に少なかった」と書いています。


まあ、小澤氏は士官搭乗員にはかなり批判的なので(特にフィリピンにいたI大尉についてはもう、ボッコボコです・・・)、下士官搭乗員の目から見た士官批判が色濃く入っているのかもしれませんが。
(でも、小澤氏も士官搭乗員の中にも勇敢な搭乗員はいたと書いてはいます。我らが菅野直大尉なんて、海軍兵学校卒の士官搭乗員だけど、バリバリ指揮官先頭でB24とかに衝突上等!の勢いで零戦で突っ込んでいますからね)

下士官兵にとても優しかった
有馬さんの人柄については
「なんでも自分でやらなければ気が済まないようなところがあり、司令官がする必要のないことまでもした」
「空襲の後、爆弾の破片を自ら拾ったりもした」
「有馬さんは冗談一つ言わない人でしたよ。車の中にいる時でも体を真っすぐに伸ばして姿勢を崩さないんです。(中略)夜寝る時、有馬さんは軍服を着たままごろ寝をしていました。浴衣を着てくつろぐことなどまったくありませんでした」
「有馬正文は余りにも立派すぎて、そばにいると、何となく肩が凝ってくるような感じだった」
などと、身近にいた人達の証言が残っており・・・カチンコチンの、石部金吉みたいな人だったという気がしますが。

一方で、有馬さんは、下士官以下の兵達に大変温かく接し、言葉遣いも常に丁寧で、階級に関係なく、意見を聞いたそうです。有馬さんについては、士官よりも下士官から尊敬と親しみがこもった評価が多いのです。
有馬さんは、下士官以下の兵達の働きぶりを常に見ていて、感謝していたということなのです。偉ぶることも全然なかったそうです。
日本海軍は士官と下士官以下の兵との区別が厳しい組織ですが。有馬さんは階級の差など気にせず、懸命に働いている者を正当に評価し、その労に報いる気持ちだったと思うのです。本当はとても心が優しい方だったのではないかと。

貫いたストイシズム
有馬さんは、死をもって自己を完結するという、軍人としてのストイシズムに異常なまでに執念を燃やしていたとされます。有馬さんの生涯を貫くものは厳しいストイシズムであると。
あるいは、有馬さんはどんな場合でも海軍軍人としての自分の職務に忠実に生きようと心がけていたとも。
 

有馬さんにとっては、あの日、一式陸攻に搭乗して自らアメリカ艦隊攻撃に出撃することこそ、海軍軍人としての務めであると思い定めていたのかもしれません。
決死の出撃をする搭乗員達と共に命をかけることが、生死を共にすることが、自分の務めであると。

菊村到氏は小説『提督有馬正文』の中で、興味深いことを書いています。
 

「有馬さんは勇ましく陣頭指揮をとって突っ込め、などと言ったのではなく、黙って機内の隅にひっそりと身を沈めて搭乗員たちと運命をともにしたのではないかと思うんです。死地におもむく人たちに向かって、にこにこしながら、俺も一緒に連れて行ってくれよ、君たちに迷惑はかけないから、とでも言いながら乗り込んだのではないかという気がするのです。(中略)有馬さんが飛行機に乗ったのは戦果をあげるためではなくて、自分自身の死に場所を得るためだったのではないだろうかというのが私の推理なんです」


「有馬正文だったからあの時点でああいう死に方をしたのだろうと思うんです」

 

海軍の神風特別攻撃隊が初出撃したのは、有馬さんが戦死した5日後、1944年(昭和19年)10月21日でした。


有馬さんについて知るためのお勧め本
菊村到著『提督有馬正文』新潮社
小説ではありますが、菊村氏は有馬さんの奥様や有馬さんの側近、上司、同僚、部下だった人達に丁寧に取材して、有馬正文とはどういう人だったのかいうことを掘り下げています。

 

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