西部ニューギニア戦没者慰霊碑
添乗員をしている妹、このブログでいうところのfuyunoB。仕事で徳島に行ったということで、徳島中央公園に西部ニューギニア戦没者慰霊碑があったと、写真が送られてきました。
↑お馬さんの慰霊碑もあります。
西部ニューギニアという地域は、正直私は地図がぼんやりで、ニューギニア戦線は海軍よりは陸軍の戦いのエリアだったというイメージでした。最近、ニューギニア戦線では陸軍の工兵部隊が大奮闘したことは、工兵のことを調べているうちに知りましたが。
ラバウル航空隊ファンの私としては、ニューギニアの東の方は多少分かるのだけど。西のほうはぼや~としていて、地図が頭の中に浮かばない。
ラバウルがあるのがニューブリテン島。
ニューブリテン島の隣にある大きな島がパプアニューギニア(当時はニューギニア島)。
そのニューギニアの東側にあるポートモレスビーやラエは、ラバウル航空隊の零戦隊や艦爆隊がしきりに攻撃に向かった場所なので、海軍航空隊ファンにはなじみのある地名。
しかし、ニューギニアの西側、西部ニューギニアは地名もよくわからず、ぼや~っとした感じだったのですが。
送られてきた写真を見て、慰霊碑の下部に、ニューギニア島の地図が石板で描かれていまして。その地図に「ビアク島」と「ソロン」の地名をみつけ、あ~、あのソロン基地とビアク島の戦いがあった場所が西部ニューギニアかと、今更ながら、地理を把握した次第です。
ソロンとビアクの地名には覚えがあったのです、大野景範著『彗星爆撃隊』(光人社NF文庫)を読んでいたので。
この本は、日本海軍の爆撃機「彗星」の操縦員、富樫春義二等飛行兵曹の激戦を描いたノンフィクション。富樫さんとペアを組んでいた偵察員の足立原健二二等飛行兵曹の二人の奮闘、苦戦が書かれている本です。
でも、実は、彗星の戦闘シーンは本の中では30%くらい。40%くらいは、ビアク島に不時着してからのニューギニア戦線での苦闘が描かれているのです。
彗星
富樫さんは、第503海軍航空隊に属し、第503空は艦上爆撃機「彗星」からなる爆撃機隊でした。
彗星といえば、九九式艦上爆撃機の後継機として太平洋戦争後半から投入され大活躍した爆撃機。
(写真はWikiからお借りしてます)
最新型では速度570キロと戦闘機なみのスピードが出せる急降下爆撃機でした。海軍の海軍航空技術廠で開発・・・ってことで、な~んか嫌な予感がしましたが・・・銀河と同様、航空廠のエリート技術者達が最新技術をてんこ盛りにした最新性能機ってことで。そりゃそうなんだけど、艦載機として初の水冷エンジンは整備が難しくいろいろ不具合を起こしました。しかし、エンジンが上手く動けば、高性能で優秀な爆撃機であったことは間違いない。夜戦もできたし。
アメリカ軍のコードネームはジュディJudy。製造は愛知航空機。
しかし、彗星も、戦争末期には特攻機として使われていき、何のための急降下爆撃機能なんだ・・・と疑問を持たざるを得ない。
とにかく、富樫さんが503空の一員として彗星に乗って南太平洋へ向かった頃は、彗星は純粋に急降下爆撃機として期待されていました。
彗星爆撃隊
富樫さん達第503空は、木更津で編成され、硫黄島へ。昭和19年(1944年)2月のことで、既に日本に不利な戦況になっていて、いつアメリカの機動部隊が日本本土を襲撃してきてもおかしくない状況になっていました。第503空の彗星爆撃隊は、日本本土に近づいてくるアメリカ機動部隊を索敵により発見し、発見次第急降下爆撃で攻撃せよという命令を受けていました。
しかし硫黄島からの索敵飛行ではアメリカ艦隊を発見できず、3月にはサイパン島へ進出。ここでアメリカ機動部隊から発進したと思われるアメリカ戦闘機と対戦。アメリカ機動部隊が迫ってきていると判断。4月にはトラック諸島に進出。
その後、一部をトラックに残してグアムへ。
そして、アメリカ艦隊がニューギニアのビアク島守備隊を攻撃しているという情報が入り、ペリリューを経由して、ニューギニアのソロン基地に進出。20機の零戦の掩護を受けて16機の彗星は、戦爆連合でビアク島へ出撃。
ところが、アメリカ軍と交戦中、富樫さんの彗星は被弾し、ビアク島沖に不時着。なんとかビアク島に辿りつき、日本軍の守備隊と合流できました。が。そこからがとんでもない凄惨な日々の始まりだったのです。
ビアクでの日々
富樫さんと足立原さんは、守備隊のこもっている洞窟で世話を受けますが。その間も、アメリカ爆撃機がビアク島をさかんに攻撃してきます。
加えて、富樫さんはアメーバ赤痢にかかりひどい目にあうのです。
西洞窟に日本陸軍海軍混合の本隊がいて、そこに通信機器があるので、富樫さんと偵察員の足立原さんはなんとか西洞窟へ向かおうとします。ちょうど西洞窟に向かう陸戦隊がいたので、その後をついて向かうのですが・・・。陸戦隊の兵達はほとんどがみんなアメーバ赤痢にかかっていて、下痢しながら戦闘。負傷しても手当する医療品もない。食べる物もろくにない。もう、悲惨に尽きます。
そしてやっと着いた西洞窟はビアク島守備隊の本部なのですけど・・・洞窟の中には汗と泥にまみれたぼろぼろの戦闘服の兵で溢れていました。トイレの臭気が蔓延。アメーバ赤痢にかかった兵も多く、病室とは名ばかりの岩だらけの一角で横になっています。水不足、医薬品不足、食糧不足、武器不足。
富樫さんもアメーバ赤痢で大変な苦痛を味わいますが、それでもまだ歩けるし、なんとか脱出してもう一度彗星に乗って敵を爆撃するんだという意志で耐え抜きます。そして何といってもペアの足立原さんが一緒にいたことが大きかったでしょうね。生死を共にと誓った二人でした。
しかし、ついに、ビアク守備隊も最後の時を迎えます。
陸戦隊と一緒に最後の突撃・・・と覚悟したその時。
ビアクにいた陸軍の沼田多稼蔵参謀長が大発(舟艇)でマノクワリ基地へ脱出するということになり、富樫さんたち搭乗員も一緒に脱出できることになります。6月16日、無事ビアクから脱出、ソロンに着きます。
富樫さんと足立原さんは、ソロンから94式水上偵察機でアンボンの水上基地に帰還します。
でも、彼らが乗る彗星も、仲間も、残っていませんでした。
第503空の彗星爆撃隊は、出撃を繰り返すうちに未帰還機、自爆が続き、一部は、神風特別攻撃隊として特攻戦死、部隊は消滅していたのです。
富樫さんはその後、共にビアク島の西洞窟で耐えしのいでいた兵達が、アメリカ軍の火炎放射器で攻撃され、全滅したと聞かされ、憤怒の涙を流します・・・。
富樫さんは何とかもう一度彗星にのり、アメリカ軍を爆撃したい、彗星爆撃隊として一矢報いたいと願うのですが、その機会はついに訪れませんでした。
富樫さんは搭乗員教育の任務についているうちに終戦を迎え、シンガポールで2年近く抑留されイギリス軍のもと労役に就くことになり、ここでも大変な苦労をされるのですが。
なんとか日本に帰国できます。
途中で離ればなれになってしまった足立原さんも無事日本に帰国できて、二人は再会できました。
富樫さんは、ビアク島での戦いを振り返って
「残酷、無残、悲惨、すべての言葉をあわせても、この現状を適確に表現したとはいえないだろう。」
と書いています。
残酷、無残、悲惨な状態は、ビアク島だけでなく、ニューギニア戦線のほぼすべての場所の状態を表す言葉でもあったのです。
「戦禍の悲惨さ空しさ」と慰霊碑に刻まれていますが、まさしくその通りです。
ビアク島の戦い
そもそも、なぜ、地図上ではちっちゃな南の果てのビアク島の守りに、日本軍はこれほどの犠牲を払ったのか。そして、アメリカ軍もなぜ、ビアク島をこんなに猛烈に攻めたのか。
(地図はWikiからお借りしています)
当時は、ビアク島が太平洋戦争の天王山だと見られていたのです。
戦艦大和や武蔵など連合艦隊がビアク島に進出、大航空隊が決戦を挑むとされていました。
ビアク島をアメリカ軍に取られれば、そこから日本が占領していた蘭印の石油基地が攻撃され石油を失ってしまう、しかもビアク島の飛行場からフィリピンを攻撃できるということで、日本軍としてはビアク島を死守!という方針でした。
大本営はビアク島を含む豪北方面(インドネシア東部)を絶対国防圏(ぜんぜん「絶対」じゃないのですけど・・・)の一角に指定し、西部ニューギニアへ陸軍第36師団が進出、ビアク島には歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊(葛目直幸大佐支隊長)が派遣されました。ビアク島には大きな鍾乳洞が複数あったので、そのうちの西洞窟に司令部を置きます。
こうして昭和19年(1944年)5月27日から8月20日という長い期間に渡って、ビアクを巡り日本軍とアメリカ軍の双方にとって凄惨な戦いが展開されていきます。
アメリカ軍は例のごとく、空から爆撃機でばんばん島に爆弾を落とし、戦艦から砲撃しまくってから、戦車を上陸させ、すぐに飛行場を占拠してやるという勢いだったのです。が。ビアクの鍾乳洞が頑丈だったものでアメリカ軍の爆撃はほとんど効果なく。日本軍の反撃に遭います。
ビアク島の守備隊が頑張っているのを見て、海軍の連合艦隊は「渾作戦」なるものを発令しました。
6月2日に輸送船団と戦艦群の「渾部隊」をダバオからビアクへ向けて出撃させました。これを知ったアメリカ軍も巡洋艦しかなかったけど日本艦隊に対峙するために第7艦隊が出撃。この第7艦隊、戦艦なしの、すごーく乏しい陣容だったのですが、日本軍は空母機動部隊が来た!と誤解して、渾部隊はビアクに行かず、ソロンへ退避せよと命じられます。なんやねん、この展開・・・。日本軍の哨戒や偵察って、この頃どうなっていたのか・・・。
でもなんとかメンタル建て直して、渾部隊はスピードが出る駆逐艦によるビアクへの陸兵輸送を試みるのです。
6月8日夜中の3時に、駆逐艦「春雨」を司令艦として6隻の駆逐艦が、ソロンからビアクへ向かいます。
向かいますが・・・。掩護の航空機がほとんどない状態で進みます。まあ、だから夜に出航しているわけなのですが。ビアクに着く頃には明るくなってるし・・・。
原進著「駆逐艦「春雨」赤道の海に果てるとも」(『証言・昭和の戦争 ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている』光人社)によると、零戦数機が短時間、上空を掩護していたってことですが。もうフラグ立ちまくりですよね・・・。そのうちアメリカのB25が爆撃にやってきて、旗艦春雨、攻撃を受けて沈没。輸送を果たせず・・・。
連合艦隊ではこうなったら、戦艦「大和」も「武蔵」も投入してビアク島へ向かう!と力んだけれど。6月11日にアメリカ機動部隊がマリアナ諸島へ来襲したという情報が伝わって、ビアク島どころではなくなり、連合艦隊はマリアナ沖海戦へ。
結局ビアクは見捨てられた形になります。
つまり。この渾作戦、何にも成果なし、損害のみで終わっているダメダメ作戦でした。
でも、ビアク島守備隊は頑張ります。
ソロンは無理でも、マノクワリからならビアクへ舟艇で到達できる距離だったので、船で兵員や糧食弾薬が細々と輸送されていました。
日本軍の頑張りに、アメリカ軍は攻めあぐね、ビアク島の飛行場も占拠できず、指揮官は更迭されます。
そして、アノ、アイケルバーガー中将がビアク島攻略部隊の指揮官に着任します。アイケルバーガー中将指揮のもと、日本軍のこもる東西の洞窟へガソリン缶と火を投げ込むわ、火炎放射器使うわで猛攻撃し、日本軍は追い詰められていきました。いや、ひどい攻め方するなあ・・・(泣)。
そして、その後は・・・・もう万策尽きて降参・・・ではなく・・・。日本軍の場合、玉砕になってしまいます・・・。一部の将兵はなんとか生き抜いているのですが。
「北のアッツ、南のビアク」といわれるほどの、激戦の果ての玉砕でした。
渾作戦はダメダメだったけれど。ビアク島守備隊の頑張りがすごかったので、アメリカ軍はビアク島の飛行場の占領が遅れ、マッカーサー司令官の思惑ははずれ、マリアナ沖海戦に間に合わせることはできなかったのですが。結局、ビアクの飛行場が使えなかったとしても、マリアナ沖海戦は日本の惨敗に終わっていますからね・・・。
ただ、太平洋戦争後期の戦闘で、日本軍がアメリカ軍の上陸から1か月以上も飛行場の使用開始を許さなかった事例はビアク島のみだそうです。アメリカ側の司令官も更迭されているし。アメリカ軍もビアク島の日本軍の抵抗を、ニューギニア作戦中最大だったとしているそうです。
陸軍の沼田参謀長がビアクを脱出する際に、海軍の千田貞敏少将(戦死後中将)が代わりに着任し、その後ビアク攻防戦で戦死していますが。千田少将は海軍航空隊の草分け的存在だったのにビアクで地上戦闘の指揮官を命じられ、おそらく生還は難しいとわかっていた地に送られるとは・・・。
沼田参謀長が脱出しなくては、富樫さんと足立原さんもビアクをおそらく脱出できなかったので、そういう意味では、沼田参謀長が脱出してくれてよかったのですが。
千田少将のお気持ちはどうだったのだろうか・・・。
富樫さんがビアクを発つ時、見送ってくれた千田少将は泰然としていらしたそうですが。
しかし~~このビアク島攻防戦、大本営や連合艦隊の無能さ、無策さ、展望の甘さが際立っていると思います。現地の将兵達は必死に凄惨な状況を耐えつつ戦っていたというのに。
慰霊碑があれば彼らが浮かばれるというわけではないかもしれませんが。それでもビアクのような遠い南の地で苦戦を強いられた彼らのことを忘れないという意味では、慰霊碑が建てられていてよかったなあと思います。
ビアク島をはじめ、ニューギニア戦線で命を落とした方々のご冥福をお祈り致します。合掌。







