私の妹、このブログで言うところのfuyunoB。仕事で台湾を訪れたので、基隆要塞(きいるんようさい)を見て来たと報告がありました。
基隆要塞とは、台湾北部の基隆港防備のために、日本陸軍が築いた要塞です。太平洋戦争中は日本が台湾を統治していましたので。
基隆港は、艦船修理、軍需品の補給、兵隊の基地として重要軍事拠点でしたので、その防衛のために要塞が築かれました。
太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)9月に要塞部隊の動員が行われて、基隆要塞重砲兵連隊が編成されました。
1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦では、襲撃してくるアメリカ軍の艦載機に向かって基隆要塞の対空部隊が応戦しました。しかし・・・かなりの被害を被っております。
台湾沖航空戦は日本の大敗でしたので・・・。
アメリカ軍が台湾、沖縄へ向かって進軍してくるということで、1945年(昭和20年)に入ると要塞重砲兵連隊を強化し、基隆要塞の防備に当たっていました。
↑1946年に蔣介石が訪問したことを記念して建立された碑。


内部には司令官室、副官室、参謀部室、講堂、会議室などがあったそうで、現在は展示施設になっています。


丘の上には大砲や掩壕と思われるものや・・・
兵舎跡と思われる施設の名残や・・・
海に向けて設置された大砲が残っていたり・・・
兵舎跡や砲座の跡が残っています。
もう80年もの年月が経つというのに、草に覆われているとはいえ、わりとしっかり当時の施設が残っていてびっくりしました。
やっぱり、日本陸軍の煉瓦構築術はすごいなあ。
こうして見ると、台湾って南国なのだなあ~って思います。
まるでジャングルのような木々が茂っています。
丘の上から基隆港を臨む。海が青い!
この基隆は台湾の二二八事件の現場となりました。

二二八事件とは、終戦後、1947年2月28日に、台湾住民による反政府の政治暴動が起きて、中国国民党のの蔣介石政権が武力鎮圧で多数の市民を逮捕して殺したしまったという痛ましい事件。
太平洋戦争が日本の敗戦に終わって。日本による台湾の統治が終了すると、台湾は中華民国の支配下に入ったのですが。ずっと台湾に住んでいて日本の統治を経験した本省人と、戦後中国大陸から台湾に移住した外省人との間で、激しい対立があったそうなのです。本省人は日本統治下で日本人として戦争を戦ってきた一方、外省人は中華民国国民として日本に対して戦争をしてきたという、立場の大きな違いがあったのでした。
う~む。戦争が終わった後も、戦争の爪痕が色濃く残ってしまったのですねえ。
今でも台湾の人達は日本に友好的と聞くけれど。
杉浦茂峰少尉を飛虎将軍として祀ってくれていることもあるし。
台湾と日本の友好がずっと続くように願っています。
ところで。
台湾にもオシャレなマンホールがあったということで。
マンホーラーの私としては、ご当地マンホールのコレクションが増えました♪

















