(前編から続く)
栃木県護国神社には、白鹿丸沈没の慰霊碑の他にも、日本陸軍関係の慰霊碑がいろいろとありました。
アンガウル島の戦い、ニューギニア戦線、インパール作戦。太平洋戦争の中でも特に悲惨、苛烈な戦いが行われた激戦地。それらの地に、栃木県出身の多くの兵達が送り込まれたのでした。
アンガウル島の戦い
↑宇都宮第14師団・照集団 野砲兵第20連隊之碑
アンガウル島で戦った部隊です。横にお馬さんの碑もあります。
アンガウル島はパラオの島の一つで、ペリリュー島の隣に位置します。
アンガウルとペリリューの戦いは激戦として戦史に刻まれています。アンガウルもペリリューも、日本軍はアメリカ軍と勇猛に戦いましたが、ほぼ玉砕です。
あの、ゴールデンカムイの「不死身の杉本」のモデルになったと言われている、不死身の分隊長舩坂弘さんが戦っていたのがアンガウル島です。アンガウル島の防衛は、宇都宮歩兵第59連隊が当たっていました。舩坂さんも栃木県出身です。アンガウル島で戦った野砲兵第二十連隊は宇都宮が駐屯地でした。
1944年(昭和19年)9月17日から、アメリカ機動部隊がアンガウル島を猛攻撃。上陸前に爆撃機で爆弾落とし、戦艦の艦砲射撃でぼこぼこにしてから上陸するというのがアメリカ軍のセオリー。もう大丈夫だろうと上陸したアメリカ軍を、硬いサンゴ礁を頑張って掘って陣地を築いていた日本兵に反撃され、激戦となります。しかし、アメリカ軍の兵力は日本軍の約20倍。10月19日に玉砕してしまったと推察されます。約1カ月間も、20倍の兵力のアメリカ軍に対して戦ったわけですから、いかにアンガウルの日本軍が頑張ったかわかります・・・。アメリカ軍の被害も相当ひどかった・・・。
アンガウル島守備隊よく戦いけりということで、陸軍首脳部はその功績を讃え、アンガウル守備隊に昭和天皇の御嘉賞の言葉がだされたということです。が。御嘉賞を出されても、散っていった命が甦ることはない・・・。傷つき、死んでいった人々の苦しみが消えるわけではない・・・。
アンガウル島では約1200人の日本兵が戦死したと言われています。
不死身の分隊長といわれた舩坂さんも、重傷を負いながらゲリラ攻撃を続け、歩けなくなっても這ってアメリカ軍陣地に攻撃をしかけ、銃撃され死んでしまいそうなところをアメリカ軍に治療され奇跡的に助かり、捕虜になりますがそれでもなお脱走して攻撃しようとします。結局再びアメリカ軍に捕まり捕虜になって収容所に入れられ終戦を迎えますが。彼の勇猛ぶりにはアメリカ軍兵も舌を巻いたようです。
市ヶ谷の市ヶ谷記念館に、舩坂さんの献上した短剣が展示されていましたねえ。
戦後、舩坂さんは渋谷駅前に「大盛堂書店」を開業しました。今でも、渋谷のスクランブル交差点の前にこの本屋さんはありますね。
隣のペリリユー島も日本軍は激しく戦いましたが、アンガウル島の前に玉砕しています・・・。ペリリュー島での日本兵の戦死者は約12,200人と言われています。
アンガウル島もペリリュー島も、まだ遺骨がたくさん残っているということで。栃木県の有志の人々の遺骨採集が今も続けられています。
そういえば、ペリリュー島の戦いについては、武田一義氏の漫画を映画化したアニメ『ペリリュー 楽園のゲルニカ』が、2025年12月に公開されるそうですが。見るのが怖いです、私は・・・。
東部ニューギニアの戦い
↑栃木県東部ニューギニア会慰霊碑
昭和44年の遺骨収集の際に遺骨とともに持ち帰られたニューギニアの霊石が碑の上に置かれています。
碑文によれば。
東部ニューギニア北岸一帯を、日本陸軍第十八軍(猛部隊)の隷下に属する第二十(朝部隊)第四十一(河部隊)第五十一(基部隊)、そして第四航空軍(洋)船舶団(暁)、海軍の第二十七特別根拠地隊を主とした部隊でほぼ孤立しながら戦っていたのですが。食料彈薬の補給もなく、病気も蔓延・・・。飢餓に苦しんだ戦線です。12万人もの犠牲を出したとされ、その大半が宇都宮師団管区であったと・・・。
奇跡的に生還できた戦友達が栃木県東部ニューギニア会を結成して、昭和44年(1969年)にやっと遺骨収集と慰霊のために東ニューギニアを訪れることができたそうです。
インパールの戦い
↑第三十三師団第二百十四聯隊戦没者慰霊塔
この連隊はインパールで戦いました。昭和19年からインパール作戦に投入され、18万人もの犠牲者を出し、その大半が都宮師団管区内に属していたそうです。栃木県出身の戦士者が5685名。なんということだ・・・。
殉国の英霊願わくばとこしえに安らかに眠り給え
茲に吾等はその御遺功をたたえ聯隊の武勲を永久に顕彰するものなり。
と碑に刻まれていました。
↑第三十三師團 山砲兵第三十三聯隊之碑
山砲とは、平地でない場所で使う大砲で、分解しては混んだり、荷車で運んだり、お馬さんに乗せて運んだりしました。
↑四一式山砲
(写真はWikiからお借りしています)
この連隊も、インパール作戦、イラワジ会戦などで果敢に戦ったのですが・・・。1896名が戦死・・・。
インパール作戦はとにかく、指揮官がよくない・・・。
↑英霊顕彰碑 山砲第三十三聯隊第四中隊
もう一つ、山砲第三十三聯隊の碑が建っていました。こちらは平成8年(1996年)、復員50周年記念として建立されたものです。
お馬さんと一緒だったので、お馬さんのお墓もあります。お馬さんへの感謝と哀惜の思いを込めて。
↑忠霊塔
元宇都宮陸軍墓地(現在の東妙寺墓地)に眠っていた遺骨などをこちらに改装したそうです。
史上最悪の作戦、インパール
インパールといえば、牟田口廉也中将。
日本陸軍の悪い所がすべて出た作戦。
多くの日本兵が亡くなり、白骨街道ができた戦闘。
指揮官の無能が、敵の攻撃よりも、兵を損耗させることを証明したような日本軍の恥ともいえる作戦。
日本海軍にも無能な指揮官はいたと思うけど、牟田口中将ほど精神論に偏った無能な指揮官はいなかったと思う・・・。
インパール作戦は、1944年(昭和19年)3月から7月にかけて、イギリス領インドだったインパールの街を攻略するために行わた作戦。
インパール作戦の発想自体は非論理的なものではなかったでしょう。インパールを攻略することで、ビルマ防衛(太平洋戦争中は日本の支配下にあった)のために敵連合国軍(この方面では主にイギリス軍が相手)の拠点を攻略し、中国軍に武器を提供している連合軍の援蔣ルートを遮断して、インドの対英独立運動を誘発させてイギリス支配を弱体化させようという、理にかなった目的はありました。
しかし。兵站が伸びきってしまうこと、地理的に行軍が困難(途中ジャングルだし、大きな川がたくさんあった)であることなどを理由に大本営としては作戦遂行は非現実的としていました。
でも、河辺正三中将がビルマ方面軍司令官になり、第15軍司令官に牟田口中将が就任したことで、インパール作戦は「実行可能な作戦」として実行されてしまいます。その頃は他の戦線でも日本軍不利になっており、インパール作戦で勝利をあげたいという大本営の思惑も働いてしまいました。
兵站の見通しがつかないからあまりにも無謀すぎると反対した人達(第15軍参謀長・小畑信良少将など)は次々解任されてしまいます。
牟田口中将は「物資や食料は敵に求める」「ジンギスカン作戦で牛や羊に荷物を運ばせついでに食用にする」というとんでもないことを言い出すのです。
日本軍の参加兵力は90,000人+インド国民軍6,000人。
連合国軍はインド駐留イギリス軍を中心に約15万人。物資も武器も航空戦力もバンバンに揃った兵力です。
いや、誰か、止められんかったんか・・・⁉
(止めた人はみな解任されていますが・・・)
1944年3月8日、物資の補給もめどがつかないまま、インパール作戦開始。しかし、この一帯には川がたくさんあり、川を渡るたびに物資の多くが失われ、日本兵達はジャングルで飢えと病気にさいなまされることに・・・。そのうち雨季に入り、事態は最悪。おまけにイギリス軍は空爆をばんばんしてきます。
で。この時、牟田口中将はどこにどうしていたかというと・・・前線から400キロも後方にいて、精神論で耐えろ、日本は神の国と前線部隊に檄を飛ばしていたのです・・・。
やっと、7月3日にインパール作戦中止になったのですが、戦死者は7万人を超えると言われています。
栃木護国神社に慰霊碑が建てられている人達は、こういう悲惨なインパール作戦で命を落としてしまったのです。
インパールってあまりにも悲惨すぎて、映画にもできないのではなかろうか・・・。ドキュメンタリーは数多く製作されているけれど。
そして・・・責任者の牟田口中将はその後どうなったかというと。
さすがに第15軍司令官を罷免されて参謀本部附(ようするに役ナシ)となって、12月には予備役(ようは引退)となり、その後陸軍予科士官学校長となって終戦。
あれだけの無謀な作戦を強行して、あれだけ多くの日本兵の戦病死者を出しておきながら、自分は生き延びたのか・・・と思ってしまいますが。
牟田口さんも日本陸軍という巨大な組織の歯車の一つだったともいえるかもしれんし、牟田口さん個人ではなく戦争が生んだ罪といえるかもしれない。
戦後はB級戦犯としてシンガポールの牢獄に入れられたりしましたが、結局、戦争犯罪人として訴追されることはなく日本に帰国して隠居生活を送り、1966年(昭和41年)、77歳で亡くなります。インパール作戦については自分の責任であるとして、非を認め、戦後責任を追及する戦死者の遺族や軍の同僚らに対してはひたすら謝罪するという日々を送っていました。(イギリス側からインパール作戦は意義がある作戦であったみたいな手紙が牟田口さんに届くまでは)
牟田口さんの戦後の日々は、インパールに塗りつぶされていました。
そういう意味では、牟田口さんも戦争の犠牲者といえるのかもしれません。
指揮官が無能、無謀だと、これだけの兵の犠牲者が出る。
組織の頂点に立つ人こそ、批判や助言に耳を傾け、受け入れる器量がなくてはならない。
正確な状況、情報分析が、組織を活かすためには欠かせない。そこに「神がかり」は絶対に入りこんではならない。
兵站の確保なしには、戦争には勝てない。ロジスティクスは重要。(令和の米騒動を見よ・・・)
こういうことって、現代の企業や政治でも言えることではないだろうか。
インパール作戦から数々の教訓を学んで、現代に活かすことで、戦死した多くの兵達へのせめてもの供養になるよう祈らずにいられません。