金井少尉が作ったペンダント
筑波海軍航空隊記念館を訪れたら、是非見て頂きたいものがあります。
それは、2階に展示されている金井正夫少尉が作って、文通していた女学生に送ったペンダント。爆撃機の風防ガラスで金井少尉が作ったものです。

金井少尉は、群馬県出身で仙台高等工業専門学校(現在の東北大学)を卒業して海軍に入隊、第十三期飛行予備学生になります。
第十三期飛行予備学生・・・あの、戦況厳しくなってきて急遽学生から大量採用した第十三期ですね・・・。
「ペンを剣にかえて―海軍飛行予備学生の軌跡―」で書きましたけれど、海軍飛行予備学生は第十三期が異様に増えています。
四期(昭和12年) 14名
五期(昭和13年) 20名
六期(昭和14年) 30名
七期(昭和15年) 33名
八期(昭和16年) 44名
九期(昭和17年) 38名
十期(昭和17年) 100名
十一期(昭和17年) 102名
十二期(昭和17年) 70名
十三期(昭和18年) 5199名!
十四期(昭和18年) 3000名以上(正確な人数が確認できず)
そして飛行学生の課程を終わるとすぐ少尉に任官。「士官」になります。
この第十三期の飛行予備学生から、多くの特攻戦死が出ています。金井少尉もその一人です。
金井少尉は筑波海軍航空隊で飛行学生の課程を修了。少尉に任官。
昭和20年4月6日に、神風特別攻撃隊第一筑波隊の一員として、九州の鹿屋基地から沖縄のアメリカ艦隊に突入して戦死しています。
女学生と200通の文通
太平洋戦争中、国の方針で、前線の兵達を励ますために、銃後の女性達や子供達は慰問袋に激励の手紙を入れたり、学校が奨励して兵達に手紙を書かせていたそうです。
金井少尉の元にも見知らぬ女学生から手紙が届きます。そして金井少尉はその返事を書き、その女学生はまた手紙を書き・・・と二人の文通は200通にもなりました。
厳しい戦況と迫って来る自分の死に向き合う金井少尉にとって、彼女の手紙は心を温かくしてくれる存在だったのでしょう。そして女学生にとっても金井少尉の手紙に思慕の想いを募らせていったのでしょう。
しかし、金井少尉は特攻隊として飛び立たなければなりませんでした。
金井少尉からの最後の手紙の中に、このペンダントが入っていたそうです。
金井少尉が手作りした、零戦を象ったものと、金井少尉と彼女のイニシャルを重ね合わせたガラスのペンダント。
工業専門学校出身だからでしょうか。素晴らしい出来ですよね。
とっても丁寧に造られています。
彼女はこのペンダントを受け取って嬉しかったでしょうねえ。
でも、同時に、金井少尉からの最後の手紙にはお別れの言葉が書いてあったかもしれません。自分はこれから旅立ち、手紙をもう送れないことが書いてあったかもしれません。
当時は家族の手紙にさえ、いつ、どこに出撃するかは軍事機密として書けなかったそうです。
南の方へとか、九州の沖へとか、北の海へ、くらいは書けたかもしれませんが。
きっと、金井少尉は最後の手紙に、彼女の幸せを願う言葉を書いたのではないでしょうか。
これまでどうもありがとう。
御身大切に。
貴女の幸せを願っています。
そんな言葉を。
ペンダントを受け取った女学生は箱にしまって、ずっと大切に保存していたのですが、筑波海軍航空隊記念館がオープンするにあたり、このペンダントを展示品として提供されたそうです。
金井少尉、享年23歳。
若い。これから、という年齢です。
私が23歳の頃なんて、相当なパッパラパーでしたよ・・・。
一度でいいから、金井少尉とこの女学生を、会わせてあげたかったなあ。
二人も会いたいと思っていたでしょうが、戦況がそれを許しませんでした。
菊水一号作戦
金井少尉が参加した神風特別攻撃隊第一筑波隊は、昭和20年4月6日から始まった菊水一号作戦の一環として行われた特攻隊の一つです。
アメリカが沖縄に上陸し、中と東の飛行場を占拠したので、アメリカに陸上飛行基地を整備されたら身動き取れなくなると日本海軍は焦り、本土防衛のための時間を稼ぎたい陸軍も焦ります。そして、沖縄に上陸したアメリカ軍を徹底的に叩くのだと、菊水一号作戦が発動されます。
日本海軍は、南東方面(かってラバウル航空隊が勇名を馳せたソロモン方面)につぎ込んだ航空機と同規模の航空戦力をこの作戦に投入します。しかし、その航空戦力の大半は「特攻」でした。そして搭乗員達は既にベテランが少なくなっていて、多くの飛行予備学生出身の少尉なりたての若者達が投入されたのです。
防衛庁防衛研究所が公開している『戦史叢書』の菊水一号作戦を読んでみると、海軍から372機、陸軍から133機と500機を越える航空機が投入されており、そのうち215機が特攻隊でした。300機近い航空機が失われたとされています。
4月6日の10時15分から13時40分の間に戦闘機と彗星、他の爆撃機が特攻していますが、この中に筑波隊の名があります。金井少尉はこの戦闘に参加して戦死したのですね。
この時の戦果は、例の宇垣纒五航空艦隊司令長官の書いた『戦藻録』には「空母四隻撃破」と書いてありますが。もはや、見慣れた感のある戦果のインフレーション・・・。
しかし、空母四隻撃破とはいかなくとも、菊水一号作戦はアメリカ軍に大きなダメージを与えたことは事実のようです。五航空艦隊の先任参謀であった宮崎大佐の記録によれば、菊水一号作戦はそれなりの戦果が上がったということなのです。日本軍の嵐のような特攻隊の攻撃に、アメリカ軍は驚愕し、虚を突かれて、有形無形の効果は偉大であったと書かれています。巡洋艦や戦艦や掃海艇などを相当数大破させたり炎上させたりしました。
それに、アメリカ軍は日本軍の無謀とも思える幾重にも続く特攻に驚愕し、恐怖を感じ、たじろぎます。戦争恐怖症(今でいうPTSD)に襲われる兵も多く出たそうです。まだ沖縄におけるアメリカ軍基地は完成していなかったので、反撃もうまくできなかったということもありました。
しかし、アメリカ軍は、特攻作戦に恐怖しながらも、その対策をびしばし講じていきます。レーダーを完備する艦を設置してピケットラインを確保したり、対空砲を強化したり、直掩の戦闘機を増やしたり。何といっても、アメリカはいくらでも、戦艦も空母も戦闘機も搭乗員も投入できましたから。アメリカ軍の物量の前には、いくら特攻隊が頑張っても、日本軍は膝を屈するしかなかったのです。
菊水一号作戦。それなりの成果があがったとしても。
そのために、いったい何人の搭乗員達が命を落としたのか・・・。
金井少尉と女学生の淡い恋慕も、特攻の炎に燃やされてしまいました。
金井少尉は、戦闘機パイロットにならなかったら、どんなお仕事をしていたのでしょう。
工業専門学校出身だから技術者や機械工学の道を進んだのかなあ。
金井少尉の前に開けていたはずの未来も。
女学生と結ばれたかもしれない未来も。
戦争がすべて焼き払ってしまいました。
戦争はすべての人の未来も夢も愛も恋も破壊する。
そのことを決して忘れないこと、戦争を再び起こさないことこそ、金井少尉が散らした命に対して、現代の私達ができることではないかと思います。


