茨城県稲敷郡阿見町にある、予科練平和記念館。
二度目の訪問です。
今回は特別展「ペンを剣にかえて ―海軍予備学生の軌跡―」を見るために訪問しました。
予科練平和記念館がある場所は、かって霞が浦航空隊があった敷地で、練習部隊だったので、私が敬愛する笹井中尉も宮野大尉も菅野大尉も檜貝大佐も、とにかく、海軍で搭乗員になった人達はほとんどすべてが霞が浦航空隊で一人前の搭乗員になるまで訓練しています。海軍航空隊の本を読んでいると、必ず出てくる霞が浦航空隊。
海軍兵学校卒業した飛行学生達が練習した所であり、予科練に入った少年達が鍛錬した所であり、そして、大学生から海軍に入った海軍予備学生が飛行訓練をした場所でもあります。
実際に予科練があった場所は、現在自衛隊の敷地になっていて武器学校のあたりなのですが。
場所は土浦駅から、阿見町行きのバスで15分前後で着きますし、歩いても30分くらいです。
土浦の街は、太平洋戦争の頃は、搭乗員になるための練習生たちとその教官達で賑わっていました。日曜日の外出日には、霞ケ浦航空隊から土浦駅までの道が、飛行学生や予科練生や予備学生達で埋まったそうです。
予科練平和記念館はいろいろ見応えあるのですが、館内は撮影禁止。
外に展示されている零戦は撮影OKなのですが。日曜日と祝日には零戦は外に出してくれるそうです。


海軍予備学生とは?
海軍予備学生というのは、大学生や専門学校などの高等教育を受けた学生の志願者を募って、1年間の教育期間を経て少尉に任官させ、平時はまさに「予備」として通常の生活をして、有事の際に召集されるという制度・・・でした、太平洋戦争の戦況が悪化するまでは。
特に戦闘機や爆撃機を操縦する搭乗員を養成することに海軍は力を入れていましたので、予備学生ははじめ「飛行科」から始まりました。
昭和14年(1939年)からは、霞ケ浦航空隊で訓練が始まり、その後、土浦海軍航空隊と呼ばれました。訓練の厳しさから「地獄の土浦空」と言われたそうです。
昭和18年(1939年)10月からは、大学生も20歳以上で文系ならば徴兵すると政府は決定し、陸軍や海軍に召集されていきます。
彼等のうち搭乗員のコースに進んだ人達が海軍飛行予備学生になります。この世代が、海軍飛行予備学生十四期です。
通常300時間の操縦経験を積んでから実戦部隊に赴任するのですが、十四期生は100時間程度で実戦部隊に赴き、その多くが特攻作戦に投入されていきます。
海軍飛行予備学生の制度は、昭和9年から始まったそうですが、あくまでも自らの意志で志願するものであり、初期は人数も少なく、教育期間が終わった後はお声がかかるまで通常の生活をしていたのです。が。昭和12年に入隊した第四期海軍飛行予備学生から、「予備」とはいっても予備ではなく、教育終わったらすぐ少尉(正確には予備少尉)になって軍人としての配属されました。太平洋戦争はまだ始まっていなかったけれど、支那事変(実際のところ日中戦争)が長期化&激化していたので、搭乗員の需要が高まっていたわけです。「志願制」だったのは、十三期まで。
海軍飛行予備学生の採用人数の推移を見ると、いかに、十三期、十四期が異常だったかわかります。
四期(昭和12年) 14名
五期(昭和13年) 20名
六期(昭和14年) 30名
七期(昭和15年) 33名
八期(昭和16年) 44名 ←この年の12月に太平洋戦争勃発。
九期(昭和17年) 38名
十期(昭和17年) 100名
十一期(昭和17年) 102名
十二期(昭和17年) 70名
十三期(昭和18年) 5199名!
十四期(昭和18年) 3000名以上(正確な人数が確認できず)←ここから徴兵
志願で海軍飛行予備学生になると、入隊時から士官なみ待遇を受けられて、徴兵で応じる場合とは待遇が違ってくる、ということもあって、十三期生の人数は多かったのかもしれませんが。それにしても、いきなり5000名以上も飛行学生に採用って、海軍の焦りが見える気がします。
しかも、十三期と十四期の予備学生達は、実戦部隊に配属後すぐ特攻隊に組み込まれるってことも多く。実際に戦闘もしないまま、初めての攻撃で特攻というケースも多々ありました。
海軍特攻隊では、4~8名くらいで隊を組んで特攻するわけですが、その隊の指揮官、つまり特攻隊長は「士官」でなければならないというルールがあり。海軍兵学校卒業の尉官が特攻隊長することも、下士官から昇進した特務士官が隊長することもありましたが、予備学生で少尉や中尉に任官された人達が、特攻隊長するってこともとても多かったのです。
人数も多いけれど、戦死数も圧倒的に多い、特に特攻戦死が多い、十三期と十四期です。
予備学生の置かれた境遇
訓練を卒業した後は、「予備」が着くとはいえ、「少尉」であり、「士官」になります。士官待遇になって、下士官とは食べ物も飲み食いする店も違ってきます。士官は2名で一室の個室が与えられ、士官2名ごとに1名の従卒がついて、身の回りの世話を奥さんのように面倒見てくれたそうです。
しかし。海軍兵学校卒の士官と、大学出の予備士官では、それまでの歩みも、経験も違っています。海兵卒の士官は、予備士官をいじめたり、娑婆っ気が抜けないと言って殴ったり、いちゃもんつけたり、いろいろ軋轢があったようです。
一方、部下である下士官との間にも軋轢がありました。下士官搭乗員からすれば自分達のほうがベテランなのに、操縦が自分達より下手で一年前まで大学生だったほやほや少尉を指揮官として戦闘しないといけないわけです。下士官からすれば、冗談じゃないという場合も結構あったそうです。しかし、これは、海軍兵学校卒のほやほや士官と下士官との間にも存在した問題でした。
それに、予備士官、下士官、海軍兵学校卒士官の垣根を越えて、信頼と友愛が芽生えた隊もありますし、これはやっぱり、それぞれの人格や性格の問題でもあったのでしょうね。
宮野善治郎大尉のように、予備士官である森崎中尉に敬意を払ったり、下士官搭乗員達と固い絆を結んだ海兵卒の士官もいますし。菅野直大尉なんて、下士官搭乗員たちと飲めや歌えや踊れやでつるみまくっていたし(笑)。
真継不二夫の写真
予科練記念館に展示されている予科練生達の写真は、土門拳のものです。有名な写真家ですから、さすがと思われるアングルとド迫力です。
でも、今回の「ペンを剣に変えて」では、真継不二夫(まつぎ ふじお)が撮影した予備学生の写真中心に展示されています。
パンフレットに使われている敬礼の写真もそう。見事に敬礼の手がそろっていますが。その顔の表情はまちまちですよね。お国のために全力を尽くします!っていう晴れ晴れとした表情ばかりではなく、当惑や迷いや悲しみを写した表情もあります。
展示では、予備学生達の訓練の様子や、スポーツ(棒倒しやボート漕ぎ)、士官服を着た姿などの写真が掲示されています。
(撮影禁止なので、写真はアップできませぬ・・・)
来世も、次の世も、また次の次の世も、暢明の妻になってくれ
展示の中で、足がすくんでしまうというか、足が止まってしまう場所があって、それが、藤田暢明(ふじた のぶあき)少尉の遺書のコーナーです。
藤田少尉は海軍飛行予備学生十四期です。土浦海軍航空隊で訓練を受け、昭和19年9月から筑波海軍航空隊で実用機訓練、昭和20年5月には神風特別攻撃隊、第六筑波隊の一員として鹿児島の鹿屋基地から出撃、種子島の上空で敵機に撃墜されています。
この方は、両親や妹や婚約者に胸に迫る手紙を多く書いています。
絹のマフラーに細かい文字でびっしりと大量に書かれた遺書は、書くことで、自分の心を整理しようとしたのかなあと思いました。国を救わなければならない。愛する人達を守らなくてはならない。でも、本当は死にたくなかった、生きていたかったと思います。しかし、特攻しなければならない。自分の死を受け入れなければならない。そのことを自分の中で消化することに苦しんだのではないかと察します。まだ、たった、22歳でした。
特に、藤田少尉の睦重さんへの遺書が、胸に迫るものがあります。
「来世も、次の世も、また次の次の世も、暢明の妻になってくれ」
という一節には、思わずもらい泣き。
睦重さんへの深い愛が溢れています。
婚約者の睦重さんは、藤田少尉の出撃を見送った後、藤田少尉の遺影と結婚式をあげたそうです。
予科練平和記念館や霞が浦航空隊、土浦については、他にもいろいろあるので、別途写真などをアップしたいと思います。
海軍飛行予備学生のことを知るのにお勧めの本

土方敏夫著『海軍予備学生 零戦空戦記 ある十三期予備学生の太平洋戦争』(光人社NF文庫)
土方さんは志願して飛行予備学生になり、土浦→霞が浦航空隊東京分遺隊(今の羽田空港)→元山海軍航空隊→沖縄菊水作戦と、死線を乗り越え戦後まで生き抜かれました。そのおかげで、この貴重な記録が読めます。
予備学生の当時の暮らしぶり、訓練ぶり、葛藤、恋、戦闘ぶり、特攻について、生々しい事実が書いてあって、すごく勉強になりました。海軍の内部の不条理や、戦争の空しさ、同期の絆、戦場での友情や信頼についてもよくわかります。すごい名文家であられると思います。

