■……誰かがずっと、謝っている気がした。
どうも、MAMORUです。
映画「ひぐらしのなく頃に」感想と銘打ってはいますが、
言いたいことの大部分はふゆのんが2つ前の記事 で書いてくれてるので、
僕はその他の微妙に細かいところを、物語の流れに沿って考察してみたいと思います。
ちなみに、ここを書いている時点で、まだふゆのん以外の感想は見ていません。
書き終わったら巡回してくる予定です。実に楽しみです。
注意:「ひぐらしのなく頃に」全般のネタバレが含まれています。
色を使いたいので反転はさせていません、ご了承下さい。
【~はじめに~】
■あなたは「ひぐらしのなく頃に」が大好きでしょうか?
この映画は僕たちの「ひぐらし愛」を様々な角度から執拗に試してきます。
友情?努力?勝利?
そんなフレーズは今すぐ脳内から消去しましょう。求めるだけ無駄です。
ここに存在するのは「認める」か「認めないか」の2つの選択肢のみ。つまり
「あなたはこの映画を『ひぐらしのなく頃に』と認めますか?」
という質問が、ファンに向けて投げかけられているのです。
この本質を見失うと、たちどころに怒りが沸いてくるので注意が必要です。
■相手は想像を絶する脚本・演出により、僕たちの精神を削っていきます。
はじめに劇場入り口の席の人がぱたり。
続いてその隣の人がぱたり。その隣がぱたり。隣が。隣が。
まるでドミノ倒しのように意識を失っていきます。
残されたのは、過去の様々な障害(事件への影響云々)を乗り越えてきた猛者たちのみ。
彼らのするべき事はただ一つ。目の前で起きたこの惨劇を繰り返さないよう、伝えること。
時間にして、わずか106分。
これは、熱烈なファンすら2時間足らずで屈服させる、物語。
①メインキャラの役割を想像してみる。
■冒頭、圭一の初登校時に黒板消しトラップに引っかかるのは、何故か一緒にいた知恵先生。
「誰がやったの?沙都子ちゃん?」と質問するだけ質問して、後はスルー。
メインメンバーが名前を呼ばれるたびに返事をするのが自己紹介がわりに。
(ひょっとしたら魅音だけ呼ばれていなかったかもしれませんが、些細なことですね)
梨花ちゃんの一人称は、まさかの「あたし」。
これには多くの梨花ファンが愕然としたかもしれませんが、ここで仮説を。
ひょっとしたら映画の梨花ちゃんは、全て黒梨花なのかもしれません。
「オヤシロさまの生まれ変わり」とか「神通力がある程度の能力」などの設定が出ないのは、
そもそも愛くるしいキャラを捨てた黒梨花だからなのです。
「にぱ~☆」なんて、滅多なことでは言いません。ええ。
もちろんレナも「お持ち帰りぃ♪」なんて浮かれた事はいいません。
魅音に至っては部活そのものが無いので、ただの胸が大きいクラスメートです。「おじさん」もナシ。
代表的な愛称・セリフを大胆にもカットすることで、ごく普通のクラスメートとして意識付けする。
これこそが監督の目指した「すぐそこにある恐怖感」を増大させる鍵になるのでしょう。多分。
★竜宮レナ
→大石が圭一に「竜宮礼奈(れいな)」と言うも、圭一これを華麗にスルー。
登校の待ち合わせもしないので、圭一とのラブラブ感は非常に薄い。
※実際に映画見るまで、この人を魅音だと思っていました。やけにゴツイので。
★園崎魅音
→圭一との釣りデートで、女の子らしさをアピール。以上。
★北条沙都子
→AKB48の人らしい。沙都子かどうかはともかく、普通に可愛いです。
圭一への腹パンチは、恐らくアドリブでしょう。この映画の希少な萌えシーンです。
特徴的な口調はありません。ただそこにロリがあるのみ。
★古手梨花
→片手で軽々と持てる鍬で踊り、綿を投げて\(^o^)/のポーズで倒れます。
「オワタ」と「お綿」をかけているとしたら……いや、考えすぎですね。
②致命的と思われるカットシーンから、無理矢理に仮説を立ててみる。
1.綿流しでの富竹への罰ゲームシーンが無い
→そのため「富竹さんと同じ目にあってもらう」が無いが、
ここでは「顔(身体)に落書きされる」=罰ゲームという設定。
2人がかりで圭一の汗を拭いたのは、マジックで文字が書きやすくするためと考えられる。
2.祭具殿に簡単に進入する富竹
→そもそも祭具殿には最初からカギがかかっていなかった。
「梨花が開けやすくするために小さなカギに変えた」という設定が不要である以上、
掟を破って祭具殿を侵すのは礼儀を知らない外部の者だけである。
園崎家の力をもってすれば、この時代に防犯カメラを設置することも可能なため、
この祭具殿は村人による一種の「トラップ」として機能しているのである。
圭一が祭具殿に入ろうとした時、沙都子と梨花が立ちふさがって止めた理由がコレ。
カギが無いのがバレて中に入られては困るからである。
3.村人が「鬼隠し」とあまり発言していない…ような気がする。
→原作での「オニカクシにあったのかもしれない…」などのセリフは一切無い。
そのため、「失踪=鬼隠し」という印象が非常に薄く、単なる行方不明程度で終わっている。
これには恐らく監督からの「これは断じて『鬼隠し編』ではない、新しい話なんです」という、
オリジナリティを重視するメッセージが込められているのだろう。
4.「豚骨ショウガ味」も無し。圭一が両親不在を隠蔽しようとしない。
→レナが自分で家の買い物をしていることと、圭一母と仲が良いことの伏線になりますが、
映画ではそこまで深く掘り下げる必要は無いので、ある意味で妥当なカットでしょう。
ただ、原作では村人からの危険を感じて自宅のガレージを閉めたりする圭一ですが、
映画の前原邸はログハウスなので、単にガレージがなくてカットになったのかもw
5.圭一がレナに鉈を持って追いかけられるシーンが無い
→真似されるとヤバイというのなら玄関でチェーンに鉈振り下ろすのもカットだと思うので、
単に時間が無くて、悟史のバット入手と素振りと「圭一くんみたいに」が一緒になりました。
「あははははは」言いながら迫ってくるレナは、ひぐらしを代表するシーンだと思うのですが。
6.「監督といったら……工事現場の監督とか」も、もちろん無い
→入江にスポットが当たる必要がないので、監督絡みで伏線をつくる必要もないのです。
中盤以降は「如何にして観客を怖がらせるか」に力を入れているので、
いまさら工事現場の殺害事件も腕が1本無いも関係なし。そんなことより汗拭いたげる!
7.圭一の残した手紙が、鳩時計からはみ出ててすぐ見つかる
→「それじゃ意味ないじゃん!」と思われても仕方ないが、ここもゆっくり考えよう。
まずこの手紙は、圭一が失踪後に仇をとってもらえるよう、大石(警察)に宛てた手紙です。
それを見つけてもらうため、原作では両親に「俺が死んだら時計を棺に入れてくれ」と伝えますが、
映画ではそのシーンはありません。というか圭一と両親の絡みはほぼ無いです。
原作では、撲殺後の前原邸に白いワゴン車が来て圭一が逃げ出しますが、
映画はそのシーンが丸々カットされているので、こちらで想像するしかありません。
繰り返しますが、手紙は大石に宛てたものです。
通常、犯行後の部屋に最初に進入する可能性が高いのは両親で、
次に死体発見の連絡を受けた警察です。
ということは、本来この手紙は両親・警察のどちらかに見つけてもらいたいものであり、
わざわざ時計の裏に隠す必要はなく、机の上にでも置いておけばいいはずです。
にもかかわらず、原作通りに時計の裏に隠した(見えてるけど)ということは、
自室を出る際に「この部屋に犯人(村人とか)が入る可能性がある」or「入ってきて逃げた」という
原作通りの結構な危機的状況があったと推測されます。
仮に、いままさに玄関のドアを破られそうになっているとします。
この時、圭一は手紙について両親を当てにしていませんでした(だって時計のこと言ってないし)。
それでも手紙を渡したい!そう思った圭一は、咄嗟に隠し場所を思いつきます。
鳩時計。
これは時刻によってポッポーと鳩が飛び出す仕掛けになっています。
はじめて部屋に入る人……例えば警察なんかがこれを聞けば、鳩時計に注目するでしょう。
しかし、鳴らない鳩時計はただの時計。時刻によっては、あまり注目されないはずです。
それを利用した圭一は、少しでも大石に手紙が渡る確率をあげるために、
わざわざ見えやすいように鳩時計の裏に手紙を隠したのです。
ただ、映画では大石が入江に見つかりそうになりながらも手紙を回収しますが、
この手紙がまたやっかいです。原作のように破りとられているのかがよくわかりません。
何故かといえば、この手紙を圭一が書いているシーンも読み上げているシーンも無いから。
原作ではなくなっていた「注射器はこれです」の部分が残っている以上、
大石が手紙の第一発見者で問題ないかもしれません。
※原作の鬼隠し編での手紙も、誰が破りとったのかはハッキリしていないので、
その辺りのあやふやな部分をスッキリ無くしたという考えもできます。
ここだけで随分長くなりましたが、「これは見えすぎw」と思った自分を納得させるために
1日ゆっくり考えた結果がこれだよ!\(^o^)/
8.「針がなかった?」→意味不明。も当然無し。
→大石から「狙われているという証拠はないか?」と聞かれていないので、探してすらいません。
そのため、映画だけ観た人には「本当に針が入っていた」と思うしかありません。本気で。
しかしこれは、単なるホラー映画とすれば「おっかないぃぃ」と恐怖を与えられるので、
「本当に入っているかどうか」は、どうでもよくなっています。
9.綿流しの屋台シーンで竜ちゃんらしき人物が
→俺もL5かな、と思いました。
■まだまだ書き足りませんが、1日では無理そうなのでやめます。
きっとまたふゆのんが補間してくれるでしょう。
映画館で1度流して観ただけなので、結構記憶が曖昧な部分もあります。
間違ってる箇所もあるかもしれませんが、ご了承下さい。
最後に、正直な感想です。これも長い。
僕は、原作と映画で違う部分があっても当然だと思うし、
むしろそれが映画化の楽しみ方の1つだと思っています。
ただ、今回の映画に関しては、製作者サイドの「ひぐらし」に対する熱意が感じられません。
冒頭で「ひぐらし愛」なんて大仰なことを書きましたが、そこまでは言いません。
それでもせめて、「ひぐらしの魅力を伝えたい!」という気持ちを、もう少しだけ感じたかった。
残念ながら今作の印象は、「中途半端なC級ホラー映画」に近いものがあります。
…それでは、現実の事件とひぐらしを無理矢理結び付けようとする人たちと同じです。
原作者が掲げるひぐらし本来のテーマ「仲間を信じる」ということが、伝わってきません。
原作では、各話ごとにさまざまな困難を乗り越え、仲間同士の絆が深まっていきます。
その描写が練りこまれているからこそ、裏切られた時の喪失感、絶望感が活きるのです。
しかし映画では(もちろん時間の都合もあるでしょうが)、その絆がさっぱり深まらない。
部活がないので、レナとは宝探し、魅音とは魚釣りくらいしか遊んでいません。そりゃ無理だ。
映画は人並み以下しか観ないですし、監督も脚本もしたことのないくせに偉そうですが、
どう考えても同じ条件からもっともっといい映画が作れたんじゃないかな、と思います。
決定的に足りないのは、圭一の独白。これが少なすぎる。
ゲームにしろ漫画にしろアニメにしろ、圭一の独白があるからこそ臨場感が増すのに、
映画では肝心の圭一の考えがわかりずらい。(例)いきなり「仲間じゃない」とか言い出す。
そんなわけで、ここまで色々と考えさせられる映画は稀少かもしれません。
そういった意味では、敵は増えたにしても今回の映画化は大成功ではないでしょうか。
エンドロール後に「続編製作中」と言われてしまっては、どうすることもできません。
……本当に?
あなた、信じてた?
ひぐらしの映画が凄い良い出来になるって最後まで信じてた?
1人でも信じなければ、奇跡は起こりません。
最初に言ったはずです。
この映画は僕たちの「ひぐらし愛」を様々な角度から執拗に試してきます と。
みんなが信じれば、続編はきっと素晴らしい出来になる。
それだけが、私の望みです。