風林火山支援絵 | 魔法結社ふゆMA!

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お前とはまた出会えるような気がしてた…ようこそ。


内藤昌豊




それ手抜きってことかいっ? ちょっ。 どうも、ふゆのんです。
ツインテ部分は武田菱をイメージ。 服装なんかもう描けるわけないよ…。



風林火山支援というか、そうでもないような。
まぁ武田家はみんなキャラが立ってらっしゃるので、せめて四名臣くらいは覚えて損しないハズです。



さて、前回の高坂昌信がショタキャラというのは覚えていますでしょうか?
それさえ覚えてればほぼ完璧です。







今回は内藤昌豊です!
この人はツンデレ地味娘と覚えましょう!


現代でさえツンデレ地味娘など難しい取り合わせなのに、この時既に備えていたという先見性!
戦国随一とも言われる武田家臣団において 『四名臣』 と呼ばれる働きをしつつ、なお地味!!





さて、いかにツンデレで、いかに地味娘か、地味故にそんなに多くないエピソードの中から紐解いていきましょう。
萌えもあるよっ!



戦国期、戦功を挙げた武将に対する褒賞として、金子(お小遣い)や知行地(領内の土地)を与える他に感状と呼ばれる文書が発行されました。

この感状、現代で言えば 『資格』 や 『実績』 に当たるもので、更にとても名誉な物でした。
今の言葉で似ている感謝状などとは違い、効力を持つ物で、色々な意味で主君が変わる事が多かったこの時代では転職に有利になったり、とにかく大事なものでした。



しかし、この内藤昌豊、各地で武田の主要な戦に参加し、度々抜群の功績を挙げていたにも関わらず、信玄から感状を一枚も貰った事がありません。

信玄曰く、「修理亮(昌豊のこと)ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」

昌豊もそれでよしとして、結局信玄から生涯に一枚も貰わなかったそうです。



つまり、

「御館様~~っ!! 敵軍を散々に打ち破ってきたわよっ!」


「おお、昌豊ってホント強いな! いつも助かるよ」


「あったりまえじゃない! わたしくらいの者になれば、この程度とーぜんのぱーぺきよ!」


「そうだな…。 昌豊程の傑物を他の人と比べてもしょうがないか。
 じゃあ感状はナシだ! 俺からの信頼の証と思ってくれ! へへっ次も期待してるぜ、昌豊!」


「ふ、フン! そんなもんどうだっていいわよ!
 ま、まかせなさいよねっ!! わたしがあんたを天下人にしてあげるわっ!

 京中に武田の旗を立ててやるんだから!!」

(……バカっ! あんたの感情が…欲しくないわけないじゃない!
 本当は、他の誰よりもたくさん欲しいわよ…。 はぁ……。
 このニブチンはずっとこんな気持ちに気付かないんでしょうね…。
 …ならわたしも、あんたからの信頼の証だけは、ずっとずっと、みんなの感状の何倍も大事にしてやるわ!)



ということです。 きっと。 これにより仲間内の華々しい話から後世でハブられます。
続いてツンデレエピソード2。



武田vs北条の大戦、三増峠の戦い。
この戦、北条の本拠であるあの名高い小田原城を攻めた武田が敵わずに撤退、北条方の別働隊が退路に回りこんで迎え撃ったのですが、それを打ち破り武田の大勝利に終わった戦です。
撤退戦で、しかも山岳戦でありながら、北条に4千近い戦死者を出しています。

平地で決戦であったあの関ヶ原でも両軍合わせて3千~8千の死者だそうですから、いかに激しい戦だったかが窺えます。



この戦で信玄は昌豊に小荷駄隊の指揮を任せます。
小荷駄隊とはそのまま、軍需物資の輸送隊です。 キャンプ用品一式に資料、武具、その他。
これ無しでは遠征どころか、人間が一日持たなそうな気さえします。


しかしいくら重要とは言え、圧倒的に地味な仕事です。
昌豊も地味キャラに落ち着く危険を感じて、最初は嫌がったそうです。
すると信玄が小荷駄の大事さを説いて、それを昌豊も承諾、2万近いの敵の山中を見事に突破します。




「……ちょっと、どういうことなのよ!!」


「ん? どうかしたか?」


「三増峠に敵の大軍が待ち伏せしてるんでしょ!? なんでわたしが小荷駄奉行なのよっ!
 てっきり先陣を仰せつかるものと思っていたわ!
 ……いいえ、あんたが死ねと言うのなら、殿でもいい。
 時間を稼いで、そして…武士らしく敵陣に散ってやるわ! …だけど、こんな役は御免よ!!」


「…退却行軍中、小荷駄隊が敵につかまって軍全体が壊走した例は史上多くある。 小荷駄は…」


「そんなこと知ってるわ!! でも我慢ならない!
 あんたはわたしをその程度の器だと思っていたのね!? 戦って、死ぬ事も出来ない奴だと!」


「……小荷駄は…、軍の一番大切な部分だ。 昌豊に任せるか、俺がやりたいくらだった。
 昌豊がそこまで言うなら……おまえが本陣で指揮を取ってくれ。 小荷駄は俺がやる」


「なっ、ちょっ…え? ハァ!? な、何言ってんのよ!! ば、馬鹿ににしないで!」


「本気だ。 昌豊が自分の本懐を傷付けられたというなら止むを得ない。
 せめて、二番目に重要な本陣を委ねることにする。 これでどうだ?」


「ば、バカ言ってんじゃないわよ! そんなのダメに決まってるじゃない!!
 ……あ~、もうー!! わかったわよぅっ!! わたしが小荷駄率いるから! あんたは本陣にいるのよ!?
 敵のド真ん中、大荷物抱えて逃げ回って…逃げ切ってやるから! あんたは安心して敵を倒しなさい!」


「昌豊…、ありがとう。 大切な…」


「わかったってば。 大切な小荷駄を傷つけたりしないわよ」


「大切なのは…ま……いや、なんでもない」


「えっ!? ちょ、ちょっと待ちなさい! その言葉が一番大切なのよっ!
 もぅ! 言い切ってから行きなさいよぉ!!!」




……ツンデレ地味娘あわれ。 人心掌握に定評のある信玄はどの家臣にもこんな感じです。
主人公適正ってやつですね。



地味で普通な道をひた歩む武田のツン地味。
最後に一番地味なエピソードを。




同僚で、同じ四名臣の山県昌景(次回か次次回登場予定)の評による。

「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」


武田家には信繁という信玄の弟がいて、文武に秀でており家中の人望も厚く、また良く兄の信玄を補佐していました。(信繁もいつかやろうか)
その姿は 『真の副将』 と呼ばれていたのですが、かの第四次川中島決戦で37歳の生涯を閉じます。


その後、日に影に尽くすその働きぶりが認められ、次第に内藤昌豊が 『真の副将』 と呼ばれるようになりました。


真の副将……ここに内藤昌豊の永遠の地味が確定することとなります。










内藤昌豊。 姓は工藤→内藤(武田家の譜代名門らしい)。 名は昌秀とも。

昌豊の父が、信玄の父で主君の信虎に殺され、命からがら甲斐を脱出。
流浪の少年時代を過ごすが、信虎が信玄に追放されて信玄が新しく国主となると召喚され、謝罪の上抜擢される。

有名なのは先の三増峠の戦いの他に、西上野の要衝・箕輪城攻め。
この戦で抜群の功績を挙げた為、知行加増の上に箕輪城代に任命され、武田家の上野方面の指揮もとることになる。

最期はあの長篠の戦い。 54歳。


他の四名臣はゲーム中で大抵80台武将なのに、一人だけ70後半の能力にまとまっている。




内藤昌豊


三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍


三増峠の戦い