2000ヒット記念を祝しての祈り
自分の記事を改めて読み直してみた。
2ヶ月たらずの間によくもここまで書き散らしたものだという自分に呆れる気持ちが半分。
頭ではいくら分かった気持ちでいても実際に文字に起こしてみると随分異なる印象を受けるということ。特にトピック同士の関連性の部分で欠けているものに気付かされたのが半分というところだ。
気付いている方もおられるかもしれないけれど、さまざまなヒトの言葉を文脈を無視して引用して自分の思っていることを書くスタイルは、たびたび引用もさせていただいている尊敬するミシェル・ド・モンテーニュ氏『エセー』に倣っている(氏は「レーモンスボンの弁護」において本人の言わんとするところを意図的に脱線した宗教論を展開されている)。
机の中にひっそりと隠される単なる日記と違って、不特定多数の目にとまる可能性のある媒体で公開するという行為はどのような意味を有しているのか?もちろん、私はここにいるという存在証明の役割を果たすだろうし、私はこんなことを考えていますという自己顕示でもあるだろう。
ただ、決してそれだけではない。それは人間関係を伴うある種憂鬱なつながりではなくて、純粋に知的好奇心でもって結ばれたつながりを求めているということ。理想としているのはエラスムスが宗教改革が吹き荒れる前に儚く実現したと錯覚したつながりに近いかなと思う。
私の書き散らしている記事を何らかの偶然で目にしてくれたあなた、この偶然の邂逅から少しでも新たな刺激を感じてくれたら本当に幸せです。
- nobさん、顔から火を噴きました。
茶化した受け答えでもって真剣なコメントを流したくないので、赤面しつつも頑張って自分のこととして書きます。
おそらく最近のエントリー群だけを読まれている方々(しかもそれが大部分でしょうけれど)にとっては、自分ってきっとものすごいシニシストもしくは過激なネトウヨ?なんだろうなと思います。
ただ、私にとってはプロフィール欄やこのエントリー含む初期の青々しい、ロマンチストな部分も同じように、…いやそれ以上に重要なんです。これらの部分をこうしてブログに書いていくという作業の中で再確認した土台の上に今のようなスタイルがあるんです。逆に言うと、土台を守るために「武器庫」が必要なわけです(安原さんのところのインタビュー記事の中で答えているように別に批判のための批判がしたいわけではないです)。だからこそ、土台らしき部分を掘り崩して戯れているだけのようにしか見えない社会学者に嫌悪を覚えているわけです。
>自分が「何かを得た(行った)」という実感
これは恐らく、過去の自分と今の自分の「変化」を認識できるかということなのでしょうか?過去の自分をただ否定するだけでなく(否定することももちろん必要です)、深化するということ、そして何を「思考」したかということを「思考」する機会を強制的に自分にもたせること。それはもちろん日記帳でもできますけれど、他者によって「思考」することをつきつけられるほうがより飛躍する機会が増えると思います。
私はオウムの様に「情報」「情報」言っていますけれど、その根幹には「思考」があります。nobさんは読売新聞を読んでいてこれはという「情報」を教えてくださいますが、それは「これは」とひっかかるものがあると「思考」したからこそ、教えてくれるわけではないですか?そのひっかかりこそが成長なのかと思います。そして自分にはないひっかかりを共有したり、あるいは深化に繋がっていくと。
ひっかかる部分が似ていれば「深化」に繋がりやすいし、引っかかる部分がまったく違えば「ひっかかり」のとっかかりを与えていただけること(QQ2Dさんの真剣な環境問題に対する態度とか)いずれもとても幸せなことじゃないかと思います。それこそ、この広大なネットの海でそのような出会いが出来るということが・・・。 - commented by 遊鬱◆jnhN514s
- posted at 2007/07/10 00:29
- > 純粋に知的好奇心でもって結ばれたつながりを求めているということ。
これ、よくわかります。私がこのブログの過去エントリを読み返すのは少しでも自分を高めたいからであり、自分が「何かを得た(行った)」という実感が欲しいから(ここの部分はガンスリンガーガールの登場人物(名前を忘却…)に影響を受けたかも)。 - commented by nob
- posted at 2007/07/09 13:15