なぜ現代社会において人は信仰を、宗教を、神を必要とするのだろうか?並列的に並べてはいるけれどすべてその必要としている水準は微妙に異なる(もちろん集合論として総てを兼ね備えることは充分にありうる)。信仰は一つ一つの行動を後押し、由るところを明らかにするし、宗教は社会的連帯にかかわり、神は有意味性の究極的担保にかかる。今回は連帯装置という観点から宗教を省察。
>『自由は近代人に独立性と合理性をもたらしたが、その一方で個人を孤独に陥れ、そしてそれゆえに個人は不安で無力な存在となった。こうした孤独は耐え難いものであり、そこで個人はこうした自由の重圧から脱し、新たな依存や服従へ逃げ込むか、あるいは人間の独自性および個性に基づく肯定的な自由を最大限に直進するかのいずれかの選択をせまられることになったのである。』
フロム「自由からの逃走」
【自由】とは自らを由とすると書く。これは近代に入り中間団体たるギルド、封建領主、教会もろもろの特権を剥ぎとり潰し、最後に国王の首を刎ねることで実現した。治者と被治者の同時性だけが支配の正統性の原理であるという民主主義の実現である。それまでの既存の団体はただその継続性をもって支配を続けるということができなくなった。近代合理主義の前に語るべき何かをもてなかった。自らを縛るものを総て解体していくという強烈な流れは現在最後の中間団体たる家族へとその侵攻の手を緩めていない。ただことここに及んでやりすぎたという思いが一定層の間に広まりつつある(それはフェミニズムへの反発であったり、父権家族への懐古だったり)。
ただなくしてしまった後でいくら悔やんでも時計の針は戻らない。そして失った後に惜しむ過去は理想や願望が交じりそのようなものはもともとどこにもなかったという結論が出ることも多い。現在、原理主義が問題となっているキリスト教やイスラム教の熱狂的な信者はそのことを承知しているから(少なくとも指導層)既存の自由主義の流れにヒステリックなまでの反発を示す。それは彼ら(彼女)にとって宗教が最後の連帯装置の砦であり、すべり坂理論(Aまでが許されるならばBもまた許されるはず、そしてCがいけない理由は何かとずるずると戦線が後退していくこと)の恐怖があるからだ。
人はひとりでは生きられないと、人の間と書いて人間なんだと教育的言説を吐く人間はよくいる。確かに前近代社会においてそれは正しかった。日々の糧を得るためには協働が必須で、共同体に同体することで個では抱えきれないリスクを最小化して生きるしかなかった。しかし、近代否資本主義社会においては物理的に充分にひとりで生きていくことが可能となっている。身近な例で言うならば専業主婦の減少、ひいては非婚一人で暮らしの増加はコンビニ、スーパーの24時間化と切っても切り離せない。
>『我々は肉屋や醸造業者やパン屋の好意に頼って食べ物を期待するのではなく、我らが自分自身の利益を計るという行動に頼るのだ。我々が頼みとするのは彼らの人間愛ではなく自己愛である。』
アダム・スミス「国富論」
物理的にはと留保をつけたように人は、「パンのみにて生くるにあらず」ということも知っている。個を選択すると必然的に自己を見つめざるをえない、それが虚無(私は必ず死ぬ)の恐怖を覚えさせる。そこから逃げ出すために、誰かとつながっていたいという欲望が生じる、それはてっとりばやくいえば自己承認を他者に強請るということ。そして家族、会社までもが揺らいでいる現在においてやはり頼りになるのは…と消去法で考えると最後に残るのが宗教です。
信仰はもともとは内心の問題として外部は必要としない。なぜなら全能の存在たる神との関係を問題とするわけだから、外面を取り繕っても総てお見通しであるはずだからだ(この点仏教で言うとさらに関係ない、輪廻を外れること=無になることを最終目標とするわけだから)。だからその宗教の原初において「偶像崇拝」が禁じられることが多いのはそれが堕落と考えられるからだ。しかし、時を経て宗教が大衆化する過程においてなし崩しになることもまた多い。それは皆、崇高な信念もあるけれど等しく目に見える誰かとつながって安心したいという欲望もあるからだ。
>『祈りは歌のように神聖で救いとなる。祈りは信頼であり確認である。本当に祈るものは願いはしない。ただ自分の境遇と苦しみを語るだけである。小さな子どもが歌うように悩みと感謝を口ずさむのである。』
ヘルマン・ヘッセ
それが皆で唱和する聖歌であり、聖体拝領に代表されるミサであり、一定時刻に武道館みたいな建物のある方向への礼拝であり、そして祭りの正体だ。祭りが五穀豊穣の祈願や感謝かはともかくとして、皆で祝うことに意味がある。祭りは今もあるけれどイベントだって同じようなもので、同じ趣味を持つものが同じ場に集まり同じ時間を過ごすことで連帯意識を軽やかに育てている。もしも連帯意識を育むことだけが目的であるならば、より自由を最大限に追求できるものを選択したほうが素敵だと思いません?
>『地獄において治むるは天国において仕うるにはるかにまさる』
ミルトン「失楽園」
>『私が行きたいのは地獄であり天国ではない。地獄へ行けば歴代の教皇、国王、皇太子と一緒になれるだろうが、天国には乞食と修道士と使徒しかいないのだから。』
ニコロ・マキャヴェリ