昨日に引き続きお稽古がありました。
そもそも、前日のお稽古が消化しきれずに次のお稽古というのはあまり好きではないのですが、ご多忙の師匠ですから仕方がありません。
それに、今は腱鞘炎を患っていて十分な勉強もできない感じなの・・・。かえって「しっかり勉強して来ているだろう」という期待を裏切る事になるので、ある意味ラッキー。
しかし、荻江節の『八島』も今日で終了してしまいました。もうちょい深く学びたかったのですが。。。これは腱か鞘炎を受傷してアンラッキー。
結局は個人で仕上げるしかない。手の状態が良く成ったら勉強しよう。
さて、『望月』も途中ですがパスという事に。撥を持つのに支障がなさそうで意外と響く。本当にどうすればよいのでしょうか。困ったものです。
という事で、太鼓は・・・
何故か『雛鶴三番叟』。太鼓地をやって、前半の翁のあと、『下り端』か『序の舞』。どちらを演奏するかは太鼓奏者の好みとか(本当に?!)
舞台装置をはじめとした演出が大きく影響はするようだ。『下り端』だと格式張って、『序の舞』だと柔らかくなる。
笛も後者だと竹笛で演奏する事もあるそうで、確かにそういう雰囲気になるかなぁ。
ただ、実際に聴いていて気が付けるかな・・・?!
たぶん、何気に「下り端を打つんだ」とか「序の舞?!」と思うぐらいなんだろうな。
奏者はけっこう地味に気を使っているけれど、立ち方や観客にサラッと聞き流されちゃう。でも、それが運命なのかもですね。
さて、雛鶴なんてすぐに終わってしまう。なぜか、また『月の巻』のカードを引いてしまった。
もう何度も復習の時代になって、それが仕事の人は珍しい曲ややっかいな曲の復習の意義が大きいのですが、私のような立場のものにとっては新鮮味がなくてつまらない。燃え尽き症候群。はじめにがむしゃらにやり過ぎた結果なのですね。
「また『月の巻』👇」
初めてこの曲に出会ったウキウキ感が全く失われ、沈むばかりである。
が、基本「楽譜がない世界」。附けはあるけれど、あれは単なる覚書なんですよね。つまり、「覚えている」という事が大切。「○○やります」と言われてすぐに対応できるのが大事なのです。
特に私はお名前を頂戴しているので、そのお名前に対する責任ですね。
能楽の手をいただいているような、所謂“トッタン”ものなんぞは、決まっている繰り返す必要は薄いのだそうです。
まあ、確かに不得意な下り端以外はできちゃう。大切なのは曲ごとに代わる太鼓地の制覇。けっこう勉強してなくても「できちゃう」系があるけれど、難曲があるのですよ。それを身に染みるように繰り返す。
「また○○」とガックリしている場合ではない。
確かに、もう何度もやっているけれどほとんど忘れている。
どうしても「またあの曲」とブルーになってしまうけれど、試練ですね。
頑張らないと。
さて、腱鞘炎。これは職業病。
最近の高齢者はとにかく体重が重い。骨格もしっかりしている人が多い。
実体重を見るとぜんぜん軽いのですが、まるで岩とか山とか、そんなものを動かしている感じ。
「理解できない」「わからない」というのが認知症。そのために介護抵抗があったりするから余計に重い。力のベクトルが反対に向いてしまう。
本当にやめて欲しい。
自分も含め、戦後時代の人間が高齢化していく。
明治生まれの方々とは全く違った人種の高齢者が増えるという事です。今までの病院のベッドも足が使えて窮屈。。。すでにいまでもある話です。
介護度の高い人を看護、介護する業界は、故障と友達にながら仕事をし続けるわけですね。
介護士の身分制度の見直しも大切ですが、故障者を出さない政策の方が大切だと思います。
安倍さん。子を持つ人とか、高齢者とか当事者に着目するんじゃなくて、そういう人たちを対象に仕事する人たちに着目して下さい。
やってくれる人がいるから・・・じゃないのですか?!