大石内蔵助といえば一力茶屋、一力といえば祇園ですね。
役者の衣裳から推察して、大石内蔵助は
芸者さんをあげての大騒ぎではなく、遊女などを含めての大騒ぎのように思います。
花街については詳しくはありませんが、
廓・・・つまり遊郭というのは、お国から厳しく取り締まられていて、
遊女のいるような色街というのは、公的には限られていたように思う。
江戸でいえば、吉原
大阪は新町。
長崎は丸山。
京都には、島原というところが公的な遊郭である。つまり、祇園ではないのですね。
ネット上の知人が、「島原の太夫は遊女ではない」と言っていましたが、
やはり調べれば遊女は遊女。
吉原の太夫や花魁との違いはあっても、やはり苦界の女性に代わりはない。
だいたいの文献やネット上の情報でも、島原は廓の位置にある。
まあ、島原が花街であろうと、遊郭であろうとどちらでもよいことだが、
祇園に何故遊女がいるのであろうか?
どうも、一力茶屋のモデルになった店は伏見にあったらしい。それが今の祇園に転居したらしい。
伏見ね・・・
祇園という町は、もともと八坂神社の参道にならぶお茶屋さんが発展した町という話を聞いた事がある。お茶を運ぶお給仕さんがいて、いろいろサービスをしてくれたのだそうです。
そういうのが、変化して今は格式の高い花街になっています。
祇園という町が今のようになったのはけっこう新しくて、忠臣蔵の時代に今のような場所であったかは不明です。なので、お芝居に出てくる一力に遊女がいてもおかしくないのかもです。
ついつい、今に比較しちゃいますが、時代というのは、進化もあり後退もありますからね。
さて、そんなこんな調べていて、
江戸も京都も
最高位の太夫というのは、容姿だけでなく教養・芸事に秀でていなければならなかったようです。
江戸の太夫は大名等をお客としていたので、
例えば論語をスラスラ述べられるような知識を持っていなければならなかったようです。
子ども時代から売られて、そういった英才教育を受けるんですね。
京都の太夫は御所に参内するほど。そのために位も朝廷から頂いているというのだから吃驚です。
身分のきちっとしたお客様を相手にするという事は、本当に大変な事ですね。
ついつい、遊女というとさげすんでしまいがちですが、太夫と呼ばれる人たちは超エリートの存在だと思います。そのエリートががゆえにプライドが高く、伊達騒動に出てくる高尾太夫のような悲劇が起こっちゃうのでしょうね。
そうそう、江戸中期には吉原には太夫の存在がなくなっちゃうのですよ。
こういったエリートを大事に育ててきたのですが、お客さんの方が女性たちに負けちゃって、採算がとれなくなっちゃってきたのだそうです。
そうそう、だんだん大名は経済的に苦しくなって、こういうところで遊ぶお大尽は商人とかに変化。
時代の求める遊女像が変わったのでしょうね。
さて、
二つ巴の前半と後半をつなぐ合方は雰囲気があって素敵です。
大星が廓の人々に見送られ、駕籠に揺られて去っていく。どんどん、花街の賑やかさが籐のいていく感じで素晴らしいです。
いろいろ文献等を調べておりますが、
けっこう知ったかぶりですので・・・間違った見識の部分もあるかとは思いますが、
その変は許されてくださいませ。