外観で分からない障害や病気は、このブログで主に書き綴っている聴覚障害だけとは限らない。

視覚障害(弱視)や発達障害、内部障害も、外観では判断がつかないといわれる。

障害者としての認定は受けてないが政府指定の難病を抱えている人達も、然りだ。

最近、外観で区別のつかない障害や症例の数を調べてみたが、枚挙に暇がないことが分かった。

健常者が気づいていない、世間に認知されていないだけで、実際は多く存在するのかもしれない。

 

そのような障害や病気を抱える人達を理解するには、理解しようとする側の想像力が大きく要求される。

自分が当たり前に信じている価値観を常に疑う努力が必要になるのではないか。

極論をいえば、今までに培った価値観を180度回転させたり、激しく揺さぶる位の経験も必要かもしれない。

「見た目が9割」「第一印象は3秒で決まる」という有名なフレーズが示すように、ほとんどの人は外観で他人を判断しようとする習性がある。

見た目で分からない障害や病気は理解できない、情報を教えてほしいという話をよく聞くが、これは、判断基準がいかに外観に大きく依存しているかの現れだ。

外観に判断を委ねることは、理解しようとする側の怠慢でもある。

ネットや書籍で調べたり、頭の中で考えを巡らせる努力を常に怠らなければ、外観で分からない障害や病気を抱える人達の困り事を自ずと想像できるようになる。

 

私自身、公務員として働いていた頃は、視覚障害者や精神障害者と関わりがあった。

最も多く関わりがあったのは視覚障害者で、全員、弱視があるだとか視野が非常に狭いだとか聞いていたが、第一印象では本当に分からない。「え?本当は見えているんじゃないの?」と思ってしまいそうになるほど。

視覚障害者とは口頭で話をすることが多かったが、口頭で通じない時は筆談をすることもあった。

筆談の時に文字を大きく書いて見せると、紙に目を近づけたり、ルーペで文字を読もうとするので、「あぁ、この人は本当に弱視なのかも」と相手の視力の状態を常に想像していた。

矯正視力がなかなか0.1にならない状態であれば、どれ位の大きさの文字が読めるのか・・・ということを考えつつ、本人に聞いたりしながらコミュニケーションを取っていた。

 

この経験は、斜視がある息子(小3)を育てる上でも役に立っている。

息子は乳児期から軽い斜視があるために視力の発達が緩やかなので、今も、勉強で使う教材選びには神経を使っている。

文字サイズが小さい参考書や問題集は拡大コピーすることもある。

保育園時代に視力発達を促す訓練を始め、昨年に矯正視力がなんとか1.0に達したことで、中高生以上を対象にした文庫本を読めるようになったが、目に負担をかけさせない目的で読書時間の制限をしている。

 

そうは言っても、外観で判断できない障害や病気について「想像するのが難しい」という声はあると思う。

従来の知識偏重教育が、見えない世界に想いを巡らせることをおざなりにしていた局面もあるため、ある程度は仕方がないことなのかもしれない。

 

だからこそ、見えない世界に想いを巡らせる必要性は声を大にして言いたい。

日常生活で何気なくしている、個々の動作について、

 

「もし手足がなくなったら...」

「もし筋肉を伸び縮みさせることができなくなったら...」

「もし視野が半分になったら...」

「もし子音が聴き取りにくくなったら...」

「もし脳の認知機能が弱くなったら...」

 

とにかく何でもいいので、自分が当たり前に持っている機能が失われたらどうなるかを想像してみてほしい。

そうすれば、外観で判断できない障害や病気を抱えた人達のことを想像できるだけでなく理解できるようになると思う。