以前、

幸せの絶対条件という記事を書きました。

 

 

 

 

その続きのような話になるかもしれません。

 

 

 

 

線維筋痛症を発症して、杖を使用していた時期がありました。

 

その時は、

若いのに杖をついている自分が恥ずかしかったです。

また、身体的に不自由や苦労を感じたりしました。

 

 

その体験を通して、

身体的に不自由がある方や、痛そうな方に

心が寄り添えるようになったのは、良い変化でした。

 

 

 

……が、

寄り添う時に、どこかで「かわいそう」と

自分では気づかないレベルで少しだけ思っていたんです。

 

それは、見下してるとかそういう事では絶対ないのですが

自分が今、苦しみの真っ最中で自分を「かわいそう」と感じていて

強く共感したから、無意識にそう思った感じです。

 

 

そう思う裏には

健康じゃない(病気などがある)=不幸

という定義が、自分の中にも、世の中にも

溢れているからなのだと思います。

 

 

 

 

 

でも、私はその数年後

病気を抱えたまま、一番幸せな時期を迎えましたキラキラ

つまり、

健康だった時期より、遥かに幸せなのです。

 

じゃあ、幸せの定義ってなんだろう?

ってことになります。

 

 

 

私が長い線維筋痛症人生を通して感じているのは

最低限の衣食住が確保された上で

 

愛に満足している人は幸せ

 

やりたいことがやれている人は幸せ

 

ということです。

 

(やりたいことがなくても、毎日を楽しめていれば幸せです)

 

 

 

これは、人の数だけ意見があるかもしれませんが

私は、そう思っています。

 

 

 

 

私は健康だったその昔、やりたいことをやれていませんでした。

友達は多かったんですが、絆みたいなものをあまり感じられず、

どこか虚しさと孤独を感じていました。

 

 

 

今は、周囲への人たちへの愛に満足していて

私は幸せです。

 

これは、健康状態に関係なくできることです。

 

 

 

以前も少し書きましたが、

やりたいことに関しては

健康状態のレベルにもよりますが

別に、高いところを目指さなくても

体と相談しながらやれれば、幸せだと思います。

 

何かの趣味に取り組むという能動的な趣味ではなくても

体調が悪い時とかは、好きな映画を見るとか受動的な楽しみでもいいと思います。

私は数年前、ひたすらドラゴンボールを観ていました。

 

 

 

私はたまたま、線維筋痛症人生で

「愛」「やりたいこと」の2つに満足したので

とても幸せでした。

 

 

 

 

つまり、線維筋痛症と不幸

(もしくは健康と幸せ)ってことは

必ずしも=(イコール)にはならないのではないか

というのが、私の持論です。

 

 

 

 

よく、病気の方のドキュメントを観たりすると

病気そのものは辛そうなんですが

温かい家族に囲まれて、幸せそうだったりしますよね。

 

時折、フォロワーさんや、いいねを下さる

同じ病気の方のブログを拝読しても、

ご家族と仲良しのお話が多いと感じます。

 

 

ここまで考えてみると

病気=不幸 という定義を手放せる

のではないかと思います。

 

 

 

 

 

この定義がうっすら残っていると

普段は良いのですが、気持ちが弱った時に

「自分が線維筋痛症だから、病気だから、不幸なんだ」

となってしまい

 

病気である限り、完治しない限りずっと不幸

ずっと幸せになれない気がしてしまうことがあり

それはとても辛い心情です。

 

 

 

でも、今から

病気は身体的に苦労はあるけど

それ以上でも以下でもない。と思えたなら

苦しい=不幸という連鎖を断ち切り

く、くるしい…無気力でストップできそうです。

 

 

 

 

そして、自分も、体に不自由があるように見える誰かも

大切な誰かに大切にされているんだろうな

と気づいたら

世の中って、沢山愛があるなぁ、とほっこりします花

 

たとえ線維筋痛症だとしても

身近な人の愛を受けて、幸せだって思えます。

 

 

 

 

私なんか、患者としては

家族のサポートを受けて、とても幸運だなぁって思ってます。

 

みなさんも、決して「不幸」「かわいそう」なんかではなく

気付いていないだけで、沢山の愛を受けていて

実は幸せで、幸運で、

もしかすると、強運の持ち主なのかもしれませんクローバーハート