前回、前々回の続きです。

 

 

 

 

 

相手も悪くないパターンで

もう一歩進んだ見方があります。

 

 

自分が相手に対して、どのように思っていたか

を考えてみることです。

 

 

 

例えば、恋愛で考えてみると

幼ければ幼い程、純粋な気持ちで相手を好きになります。

 

幼稚園より前とかだと

ただ、好きラブ

それだけかもしれません。

 

小学校以上になると、まだ純粋ですが

足が速いからカッコイイランニング乙女のトキメキ

バスケ部だからカッコイイバスケ乙女のトキメキ

 

とか、徐々に肩書的な物にも目がいき、

 

結婚目前のお年頃になると

大手企業に勤めているからカッコイイATM札束乙女のトキメキ

 

と、ちゃんと本人を見てるんだかどうかも

わからないような打算的な選び方になっちゃってる人を

特に平成初期あたりのドラマの登場人物でよく見ます📺

(結婚は生活だから当然ですが、度が過ぎてることがありますよね)

 

 

確か、私が昔観たドラマでは

「夫は私のことを本当には愛していないんだわ」

と悩む女性がいましたが

その人も旦那さんの肩書で選んでいたので

お互い様だったという展開でした。

 

 

 

 

このように、客観的に見れば分かり易いのですが

自分のこととなると、相手にされた嫌な事が大きく見えて

自分はどうだったのかを忘れてしまいがちです。

 

恋愛でも友人関係でも、類は友を呼ぶというのは本当で

基本的には自分が出しているものと同じものが与えられます。

(そうとも言えないこともあるかもしれませんが)

 

 

 

私はちょっと前まで、

「スリッパで頭ひっぱたきたい」と思う程(前回参照)

頭にきて、許せない相手がいましたが(しかも複数)

振り返ってみると

その相手に対して、

純粋な思いではないものが混じっていて

自分の思いに相応の、それなりの関係性だったということが

表面化しただけのことだったな

と妙に納得しました。

 

 

ちなみに、純粋な思い以外のものが混じっていることが

「悪い」わけではありません。

それはそれで、その時期に学ぶ必要があったのだと思います。

もし、純粋な思いによる関係を育みたいなら

これからそれを選んでゆけば良いだけです。

 

 

 

 

また、嫌な出来事を通して発見がある場合もあります。

例えば、自分が調子に乗って痛い目を見て反省すべき点に気づけたり、

人を選ぶ基準がそもそも間違っていたと気づき、

次からは違う視点で人を見ようと思えたり、

嫌な出来事は、

自分の変更したほうが良い点を教えてくれることがあります。

 

 

自分の落ち度を認めることは、ちょっとキツイですが!

気付けたらスッキリしました照れ音符

 

こうやっていらないものを手放すと、

どんどん身軽になりますバレエキラキラ