平塚の伝説の女性たち | 風遊花(ふうか)~古布とうさぎとお雛様~

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~作品展 ものつくりをする仲間達 ギャラリー ショップ~
  大好きなもの 日頃の様子を気ままにご紹介します。

要法寺で《平塚》の地名発祥のいわれを知った時 平塚には伝説が残る4人の女性がいることも知りました。

その中の一人が 平塚の地名に由来した平政子

 

 

 

2人目は 大磯でも 仇討ちで知られる曽我兄弟の兄 十郎の愛人だった虎女

虎さんの浮世絵は 数多く残され 去年 井上蒲鉾店で発売された浮世絵テープの中にも 使われています。

 

 

 

 

 

虎女の母は平塚宿の遊女 夜叉王 父は湘南平の麓にある山下長者(藤原実基卿)。

子供に恵まれなかった山下長者が信仰する虎池弁財天に願をかけると 夢枕に弁天様が立たれ 目が覚ました時に枕元に置かれていた小さな石を弁天様のお告げとして仏間に大切に安置し お経をあげると 安元元年(1175年)の正月 虎の日 虎の刻に玉のような女の子を授かり 虎と名付けます。

(別の資料では 父は 京から逃れて相模国海老名郷に住んでいた宮内判官・家永(藤原基成の乳母の子)という説もありました)

器量が良かった虎は 大磯の菊鶴という遊女の養女となり 17歳の時 20歳の曽我十郎と出会い 恋仲となりますが 曽我兄弟が討死後 虎は19歳で妙恵尼として 現在の大磯の延台寺で庵を結びました。
その後は ひたすら兄弟を弔いながら 晩年は生家の山下長者屋敷の隣に庵を作って籠り 53歳で亡くなったと言われています。

 

 

現在でも 我が家から歩いて10分ほどの所に 山下長者屋敷跡が残り

 

 

 

その隣には 虎御前が籠もったという庵跡も残っています。

 

 

 

 

 

 

また 実家から歩いて5分ほどの 旧東海道の松並木の中には 虎女が 十郎に会いに行く時に化粧をしたと伝えられている井戸も残っています。

 

 

  

 

 

2人目の伝説の女性は 怪談 番町皿屋敷に出てくる あまりにも有名なお菊さん

(お菊さんの画像は ネットからお借りしました)

 

 

 

お菊は平塚宿役人 眞壁源右衛門の娘で、江戸の旗本 青山主膳の屋敷へ行儀見習い奉公に出てましたが 元文5年(1740年) お菊は主人が大切にしていた南京絵皿10枚組のうち1枚を失くしてしまい 主人の怒りを買い 屋敷内の井戸に投げ込まれて殺されてしまいます。

この時 お菊は24歳。

その後 お菊の遺体は引き上げられ 罪人の例にならい長持ちに詰められ 江戸から平塚宿まで送り返され 埋葬されました。

ところが真相は お菊が皿を失くしたのではなく 奉公先で言い寄って来た家来を突っぱねたため この男に皿を隠され 無実の罪で責めを受け悲しい最期を迎えたのです。

その後、青山主膳の屋敷のお菊が投げ込まれた井戸には怨みを抱いたお菊の霊魂が留まり 幽霊となって夜な夜な井戸より現れたという噂をもとに かの有名な 怪談 番長更屋敷が作られました。

 

 

戦後の昭和27年の平塚市の区画整理事業で 真壁家の墓地は現在の真壁家所有の墓地に移転されましたが 移転の際 お菊の墓地は丁寧に手掘りされ 言い伝え通り栴檀(せんだん)の木の下3尺から座り姿のお菊の亡骸が現れたとのこと。

この詳細は 昭和56年8月25日版の読売新聞にも掲載されているそうです。

 

当初お菊さんんが埋葬されていた墓地跡は 平塚駅の北側西口近くの紅谷町公園内にあり 平塚市がお菊塚を建立しています。

 実は このお菊塚は かかりつけのクリニックのすぐそばなのですが 興味半分でお参りしてはいけない気がして いまだにお参りはしていません。

 

 

 

市内のお寺に移転後の眞壁家墓所には 《貞室菊香信女》と戒名が刻まれたお菊の墓石が現存し 墓標も立てられ 現在も供養されているそうです

 

 

4人目は 私も知らなかった伝説の女性 お初さん。

お初は、平塚宿の百姓 松田久兵衛の娘で 奉公先の主人 江戸屋敷の中臈岡本みつが同輩の沢野から侮辱を受け自害た後 直ちに沢野を刺殺し 仇を討った烈女とされ《女忠臣蔵》と言われた逸話があるそうです

そして この事件は 歌舞伎《加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)》のモデルになったとも言われています。

 

 

 

お初さんのお墓は 親子狛犬がいる春日神社の隣西仲町公園の北側に 廃寺となった寺院の墓地の片隅に残っています。

 

 

 

平安末期の時代から 伝説に残る平塚の女性たち 

数奇な運命をたどりながらも 強くたくましく そして悲しく 美しかったことを知りました。