エーゲ海に面したイズミルの街の沖合を震源とするM7.0の大地震が10月30日に発生した。
トルコへは10年前に観光旅行で訪れている。
トルコという国は、とても親日的な国…
こちらが日本人だと知ると、トルコの人たちはさらにフレンドリーな接し方で応じてくれる。
その理由に、トルコの学校の教科書にも載っている、突発的なある事件に対する当時の日本人の親身溢れる対応…がある。
トルコ人ならだれでもそのエピソードを学んで知っている。
その事件とは…
和歌山県串本沖にて台風によるオスマントルコの軍艦「エルトゥールル号」の座礁沈没事故と、その後の地元民による懸命の救護活動…
今から130年前の1890年9月、串本町樫野地区の「こよちの浜」沖で海難事故が発生した。
台風に遭遇して岩礁に座礁し、その後沈没した船は、オスマン帝国のアブドルアミト2世の命を受けた司令官オスマン・パシャ親善使節団長が指揮する「エルトゥールル号」であった。
艦が日本親善訪問で東京に立ち寄り、天皇との謁見を終えての帰路での出来事であった。
船との運命を覚悟したのか正装に着替えた司令官は、側近の退艦進言を遮り、艦との運命を共にした。
一部の乗員が近くの海岸に辿り着き、崖の上の灯台に救助を求めた。
言葉が通じない地元住民だったが尋常ではない様子から異変に気付き、懸命の捜索救助活動を開始した。
村人たちは遭難者たちを岩だらけの海岸から続く急こう配の崖の上へと担ぎ上げ、人家へと運び入れた。
冷え切って衰弱した彼らを、救命・看護のためならば…と女性であっても添い寝で身体を温めたり、貧しい生活の中から食べ物や着替えを提供した。
救助された乗員は69名であったが、587名という犠牲者を出す大惨事となった。
司令官は、懸命の捜索にもかかわらず制服の片袖だけが発見されただけで行方不明だったとか…
その後…
村人たちは、犠牲者を弔うために慰霊碑を建立し、慰霊祭を続けている。
串本町の小学校では、この大事件を伝承するために唱歌として歌い継ぐ。
帰国した生存者たちから状況を知ったトルコの人たちはとても感動し、この事件を語り継いできたが、近年、広く語り継ごうと小学校の教科書にも収載されたと聞く。
トルコ人ならこの事件の顛末を広く承知している所以であるようだ。
イラン・イラク戦争勃発で国外脱出手段を失ったイラン滞在中の邦人たちに、当時の恩返しにでもなればとトルコがテヘランに救援機を差し向け、無事にイランから脱出できた。
2010年6月の串本町での慰霊祭では、司令官の娘の孫が招かれて歓迎を受けたり、同年9月にはトルコ南部のメルシンで行われた乗組員の犠牲者慰霊式典に県知事、町長、県民等が多数参加したりの交流が続いている。
だから、トルコはとても親日的な国…
そんなトルコを10年前に観光で訪れたことがある。
東部地域は治安上の問題で訪れなかったが、トルコの中部~西部をぐるりと観光した。
その際、北部ではベルガマの、南部ではエフェソスの古代遺跡群があるイズミル県も訪れた。
長い歴史を秘めたこれらの遺跡の理解は簡単ではなく、ある程度の予習で準備していたつもりだったけれど、もっと十分な予習が必要…と実感させられたっけ…
足りなかった点を含めて帰国後に復習しました。
10月30日に発生したM7.0の大地震の震源地はイズミルの街の沖合にあるサモス島付近だったらしい。
多くの建物が崩れ落ち、大勢の人々が犠牲となっているようで…
イズミル県の南部に位置するセルチュクでは津波被害も発生したという。
震源地に近いセルチュク近郊には、紀元前2000年頃からオスマントルコ時代頃までの壮大なエフェソス遺跡群がある。
イズミル県の北部ベルガマにもペルガモン王国の壮大な遺跡群アクロポリスがある。
いずれの遺跡群もその壮大さに圧倒されそうだったが、遺跡群は石組だけの不安定な構造…、今回の大地震で、これらの遺跡群は大丈夫だったのだろうか…
<エフェソス遺跡>
ヴァリウスの浴場 アルカディアーネ通り
ポリオの泉(商店) 左:ケルスス図書館
右:マゼウス門とミトリダテス門
<アクロポリス遺跡群>
遺跡頂部からの麓の眺望 トラヤヌス神殿基壇
水路 麓の遺跡群(クズル・アウル)
野外劇場