その「一瞬」から始まるもの | 国際支援団体•認定NPO法人 Future Code

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国際医療支援団体であり、医療の届かない場所に医療を届ける活動を基本として教育、貧困、公衆衛生など様々な途上国の問題に対し、日本人として何ができるのかを考え、行動を続けています。支援事業は農業/食糧支援、ソーシャルビジネスによる雇用創出等、多岐にわたります。

物事が始まる時には、大概なんとなく、ではなく、いろいろな明確な理由があって、始まるものだ。

一人で考え、思い立ち、何かを始めるときもあるし、みんなで相談して決めて始めるときもある。
自分で何かを決めなくても、社会や文化や、そういう大きな流れの中で、大体すでに決まっていることもある。

その中で、あの「一瞬」がなければ今がなかった、というくらいの「一瞬」を感じるときがあった。
もちろんそれはその時はわからないのだが、考え直してみればあの「一瞬」がそうだった、という事だ。

ここまでつらつらと抽象的な話をしてきたが、つまりこれが何の話かと言えば、それはこの途上国医療支援団体Future Codeの創設の瞬間の話だ。

一番初めにハイチに行ったとき、私はあくまで個人としての活動でハイチに向かい、団体というものではなかった。
個人としてのレベルでの支援を考えており、少し何かに協力できれば、というくらいの思いであった。

多くの医療施設を見て回る中で、コレラ患者や結核患者はあふれていた。ハイチ震災の後であったため、その当時はほとんどの建物が崩れ、テントなどでの診療であった。




ベッドの数も十分でなかったため、座った状態で点滴を受けているコレラ患者も多かった。


そんな中でであったのが、現在はFuture Codeの顧問を務めていただいている、医師であり、シスターである須藤昭子先生だ。
もうご存知の方は多いとは思うが、シスターは50歳の時にハイチにわたり、引退される2013年まで、実に37年間もの間、ハイチで医療活動や支援活動を続けてこられた。
しかし、特に結核診療を目的にハイチに移住されたそうだが、残念ながら数々の問題の中、結核感染についてはほとんど対策らしいことはできなかったのだそうだ。



シスターとのその後の活動は、Future Codeのドキュメンタリーで現地での映像とともに詳しく語られているので、ご興味あれば是非、下記リンクか、ホームページかFacebookページで動画をご覧いただきたい。
https://youtu.be/_0lBHOXT-ks

実はこのドキュメンタリーでも語っていないことがある。
私自身の活動として、個人での活動から、団体を作ろうと思い始めた「一瞬」があった。

つまり、当時は日本での外科医として働きながらも個人として支援活動をしていた私が、完全に国際医療支援の世界で生きるきっかけとなった瞬間だ。

それは2011年に結核診療所のテントの中で、シスターとともに一人の患者の前にたったときのことであった。
多くの患者は決して衛生的とは言えないテントの中で治療を受けており、私もシスターとともに患者の状態を診て回っていた。



特にその中の一人の患者、彼はかなり衰弱しており、その時すでに意識はなかった。
十分な医療設備もなく、点滴などの薬も不足しており、自分で薬も飲めない彼には、もはや何も治療は行われてもいなかった。
そしてほとんど動かない彼には、他の患者とは桁が違う数の、無数のハエがたかっていた。

ひどいものだった。

こういう場所では、こんな光景は珍しいわけではない。
おそらく日常の一部でもあったのだろう。

しかし私にはその時に、ゆっくりした口調でシスターが語った言葉が忘れられなかった。


「ハエはね、よく知っているんです。この人がもうすぐ死ぬことを。」


この時の「一瞬」が常に頭から離れず、何かもっと自分としてもチームとしてもできることをやりたい、という想いに駆られ、結局私はハイチという場所で現地の結核診療を強化し、育てるための医療支援活動に身を投じていくことになった。

結核検診を実現させるためにはもはや個人のレベルの支援活動では無理であることは明白であり、そのために仲のいい友人たちや途上国経験のある医療関係者に声をかけ、ハイチでの結核検診を実現させるためのチームを作った。

それが今のFuture Codeの始まりだった。


その後、ハイチ人医師のトレーニングや、医療器材の現地への導入など2年間の準備を経て、2013年、シスターが引退される直前に、初めての結核検診が実現することとなったわけだが、あの一瞬がなければおそらくこのようにはなっていなかっただろう。






そしてその後、シスターが引退され、たまたま日本のテレビ番組に出演された時、ハイチの結核検診を語った映像をたまたま見た。


シスターは当時のテントでの結核診療を語っていて、そして私と出会ったあの時のことを話していた。そこで、シスターが私が話した言葉の中で、「はっとした言葉があり、それが忘れられなかった」というのだ。

それは私がその衰弱しきった患者を前に
「ここが日本ならば、少なくともこの苦しさをなくす簡単な治療だけでも、してあげることができるのに」

そう私がつぶやいた、その言葉がシスターにとっては忘れられず、結核検診の実現に向けて、もう一度挑戦したい、という思いに駆られた、というのだ。
シスターは長くハイチに関わってきたが、最初にハイチに渡った時の理由が結核診療の実現であり、それに対しては何もできていなかった、という後悔の念が込み上げてきた、というのだ。

もちろん私は、その患者を前に二人で立っていた「一瞬」はシスターの言葉とともに、今でも鮮明に覚えているが、実は私がつぶやいた事などは覚えていなかった。
しかしその大きな「一瞬」は、私だけのものではなく、シスターにとっても大きな「一瞬」であったのだ、という事をこのように後に知った。


おそらく、同じ「一瞬」を共有した本気の2人がいたからこそ、結核診療は実現できたことであったのだろうし、あの「一瞬」がなければFuture Codeも生まれておらず、私もまたこのような生き方もしてはいなかったのだろう。

私も含めて、毎日は自然の、または社会の、大きな流れの中で、長い時間の中で、ある程度は流されながら生きているようにも感じる。
しかしそんな中で、強烈に流れを変える「一瞬」がある。

それを捕らえるかどうかもまた、それまでの生き方なのだろうとも思うし、ましてそんな「一瞬」をだれかと共有することがあるなんてことも、面白いものだ。

私はこの「一瞬」があったことを、大切にして生きていきたい、そう思っている。