先週まで満開だった京都御苑の桜も、ここ数日の雨で、葉桜に変わりつつある。
花が散っても、一本一本の桜の木は、自らの活動を停止するわけではない。
それゆえ、また来年も春が来れば、桜の木は花を咲かせる。
とはいえ、桜は、この世に生を受けた成長期の段階から花を咲かせるわけではない。
自らが生きる環境の中で、桜は自らの活動を行うことにより成長し、やがて成熟した桜となることで花を咲かせるようになる。
成熟した桜の木は、自らの命が続く限り、春が来るたびに花を咲かせ続ける。
これが、桜と呼ばれる生き物のあり方であり、桜にとっての一生とは、自らの命を働かせ続け、桜であり続けることに他ならない。
そして、春になると桜が咲く環境で生きてきた私たちは、桜が自らの命を働かせて成長を遂げ、春になると花を咲かせるようになる桜の生のあり方に、命の輝きを感じとり、「花見」と呼ばれる活動を古くから周期的に行い続けてきた。
私たち人間が、花見を行い続けてきた理由は、命ある生き物として同じ地球上に存在する桜が自らの命を働かせ、成熟期を迎えた時に花を咲かせるその姿に、命の輝きを知覚し、魅せられてきたからに他ならない。
春が来るたびに、目の前で咲き誇る桜の生き方に魅了されながら、同時に私たちは、桜からこう問い返される。
「あなたの生き方はどうなんだ?」
「桜と同じ、命ある生き物として、あなたの命は生き生きと働き、輝いているだろうか?」
桜は、この地球上に生を受けたなら、自らの命を働かせ続け、桜としてあり続ける。
桜の生には、自己を見失う可能性はなく、桜としてあり続け、成熟期を迎えれば花を咲かせる。
桜の生には、これ以外の選択肢はあり得ない。
その一方、人間の生には、桜とは異なり多様なあり方が(選択肢)が存在する。
成長期の段階で、各々の命が、自らの活動により異なる能力を身につけ、やがて各々の命が成熟期を迎えた時、私たち人間は、各々の命を完成させ、自己本来の生を送れるようになる。
完成された命を働かせ続けること。
すなわち自己としてあり続けることが、生きることそのものとなる。
しかし、人間には、桜と違い、思考の自由という能力を持っているがゆえに、現実とは異なる自己のあり方を思い描き、その思考に従って日々行動し、自ら手で自己本来のあり方を喪失してしまうような自己破壊的な生き方もできる。
そして、私たちの思考は、この現代社会の中で生きるうちに、デカルト由来の概念的世界に無制限に染まり過ぎ、命ある生き物としてのあり方を見失っている。
そのため、自己としてあり続けることと、生きることが別ものであるかのような出口のない思考の迷路の中に閉じ込められ、自己として有り続ける(生き続ける)喜びを享受できないまま、桜の命のあり方にただ見惚れるだけの人生を、わが人生だと思い込んでしまっている。
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