人は、2、3歳の頃に、全体から切り離されて存在している「自分がいる」と思い込みはじめる。
私は体の中にいて、体を動かしているのは私。
この思い込みも、この時期から強化されていく。
一度も確かめられることなく、当然のように信じられてきたことだが、「個人の私がいる」というのは思い込みであり、ストーリーに過ぎない。
存在しているのは、個人の私ではなく、全体。
生きているのは、肉体ではなく、生。
苦しみや悲しみは、「全体から切り離されて存在している私がいる」という思い込みから綴られていくストーリーの中のもの。
そのストーリーがどれだけ真実のように思えても、それは創作されたストーリーに過ぎない。
ストーリーの中の私は、完全性を見失い、不完全さを感じている。
生の気持ちよさを見失い、別の何かでその不快さを埋めようともがく。
再び、全体に戻ろうと、全体を探す。
でも、そんな個人の私など、どこにも存在していない。
あるのは、生。
ストーリーは、生が見ている夢。
その夢から覚めれば、ストーリーは落ち、生のフレッシュさがたちまち全てを埋め尽くす。
お知らせ
見失われたように思える生のフレッシュさを、再び感じてみたい方は、非二元のプライベートセッションをお受けください。