漢文の部分否定の例文でおなじみの
『千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず』
「千里の馬(千里を走るほどの名馬)は常に存在しているけれども、伯楽(馬の鑑定の名人)が常にいるとは限らない」
その続きを少し現代語訳して書きますと、
『だから名馬がいたとしても、名馬ということがわからず、召使に恥をかかされて、馬小屋の中で頭を並べて死に、最後まで千里の馬として賞讃されないのである』
韓愈さんの上司(君主)に対する強烈な皮肉が籠っている言葉ですね(^_^;)。
学校でも会社でも優れた人材はたくさんいる事でしょう。
しかし、愚かな上司はそれを見抜けない。
その部下は才能を発揮する事なく人生を終えるかもしれません(ノ_・。)。
しかし、時代は変わりました。
嫌ならサヨナラして飛び出すことができます。
不自由な時代でも韓愈さんのように才能を示すことができる、況や今の時代をやです。
伯楽がいなくても、自分で自分をプロデュースできる時代になりましたね(^_^)v。
ドラマのオープニングやエンディングではなくて、挿入歌として使いたい感じです(^_^;)。
『知りたくなかった真実が明らかになって雨の中を彷徨う主人公のシーン』とか『ある事件が意外な展開になり深い悲しみの中、深夜の街中を車で走るシーン』などに・・・(^_^;)。
日本人は年齢を気にする人が多いと聞きます(^_^;)。
あるフランス人が日本を旅行しその先々で、『何歳ですか?』と年齢ばかり聞かれて、100年も年を取った気分だと語っていました。
まるで、年齢に応じた生き方があるかのような雰囲気を感じますが、果たしてどうなのでしょうか・・・(^_^;)。
渡部昇一さんは著作の中で、
『能の世界でも、世阿弥は厳しいことを言っています。
「四十にして聞こえるところがなければ駄目だ」
三十代で陽の目をみないで四十歳になった人は、これから何か一事をなそうとしても遅いと、世阿弥は言います。
だから、四十歳までにみんなに認められるように頑張らなければならない。
厳しいと言えば厳しい見方です。言い訳として「平均寿命が現代に比べて短い」と言うこともできますが、平均寿命が延びたところで、活躍できる時間がそれほど延びたわけではないのだから、世阿弥の「四十歳」という区切りを昔の尺度だと片づけるのはどうかと思いますね』(『人生を楽しむコツ』より)
と、書いておられます。
世阿弥さんが『風姿花伝』を書いたのが38歳の時で、渡部昇一さん自身も30代で学者としての仕事を成し遂げているので、お二人とも自分自身の事をふまえての言葉という事ですね(^_^;)。
武田鉄也さんも『30歳までに事を成し遂げないとダメだ』と本に書いていたのですが、武田さんが世に出たのが20代後半なので、やはり自分自身の事をふまえての言葉という事です(^_^;)。
マクドナルド兄弟が経営していた小さなハンバーガー店を世界的な規模のフランチャイズ店にしたのは、レイ・クロックさんですが、レイ・クロックさんがこのビジネスを始めたのは52歳の時だそうです。
もし彼が、30代や40代で『人生は終わった』とあきらめていたら街中でマクドナルドを見ることができなかったと思います。
司馬遼太郎さんや井上靖さんや南條範夫さんが作家として世に出て来たのが40代以降ですので、もし彼らが『世阿弥も40歳までと言っているし、やめておくか』などと思ったら、大河ドラマの原作も寂しい事になったいたでしょう。
『アルプスの少女ハイジ(Heidi)』を書いたヨハンナ・スピリさんが作家活動を始めたのは50歳過ぎです。
10代から世に出る人もあれば、90代から世に出る人もいる。
目標や志があるのなら、年齢に応じた生き方など気にしないで、とりあえず成功するまで頑張ってみるのが良いのかもしれませんね(^_^;)。