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この国のタブー

素人がタブーに挑戦します。
素人だけに、それみんな知ってるよ?ってこともあるかもしれませんが。
コメント、質問、大歓迎です。お手やわらかにお願いします。

 同じテーマを色々な観点から書いています。過去の投稿はこちらをご覧ください。
 →死とは忌むべきものか(1)
 →死とは忌むべきものか(2)
 →死とは忌むべきものか(3)
 →死とは忌むべきものか(4)




千葉のとある場所に、数年来行きつけの居酒屋が1件あります。店のおやじさんは、結婚後ここへ魚屋を構えて40年余り。早くに奥さんを亡くしてからも、魚屋で一人娘を育ててきました。現在は店を改装し、毎朝築地で仕入れた魚を、昼は仕出し鮮魚店、夜は居酒屋として、70歳を超えた今も包丁一本です。明るい一人娘と二人三脚で切り盛りするお店の雰囲気は、まさに「義理・人情・浪花節」。温かいんです。
初めてお邪魔した日、私に「まるチャン」と名付けたのが、ここの娘さんです。私にとってはもう、親戚の家に遊びに行くような感覚です。


そんなおやじさんが昨年夏、心不全で倒れました。幸い一命は取りとめましたが、言語障害や記憶障害が少し残りました。手先が上手く動かず、しばらく包丁を持てない日々が続きました。
しかし人間はスゴイですね。娘さんと一緒にリハビリを重ねた結果、数か月後には包丁がほぼ扱えるようになりました。何より幸いだったのは、味覚に影響が無かったことです。店はしばらく閉めていたのですが、今では常連さんに限って時々は開けられるようにもなりました。先週、私も久々に魚料理を堪能してきたのですが、本来は店を開ける日では無かったそうなので、私一人で貸切です。超贅沢で大変光栄ですが、ちょっと申し訳ないです。。。


さて、本題はここからです。酒と肴を堪能しながらおやじさんと会話し、人生の真実を教わったという話が今回のテーマです。




【生きていく辛さ】

「まるチャン、俺はポックリ逝きたかったよ。医療が発達してさ、死ねないんだよね。」

いやいやいや!娘さん一人ぼっちにしちゃ可哀そうでしょw

「でもさ、昔は心不全も脳卒中も癌も無いし、病気になったら死んだんだよ。昔の人は殿様と坊さん以外は40とか50歳で皆死んだでしょ?」

いや、平均寿命はそうだけど、それは乳児死亡率が高かったからですよ。長生きな人も沢山いた。まぁでも、池波正太郎の世界観を読めば、50過ぎてまで生に執着する人は少ないよね。

「そうなんだよ!何のために生きているのかって思うよ。なかなか死ねないっていうのは辛いことだねぇ。体力は衰えるし、思うようなことができなくなるっていうのは、生きてても仕方無えって思わない?」

この歳でさすがにそこまでは悟れないよ!でも、おやじさんの言っていることはわかるところもありますよ。人間はいつか死ぬからこそ、毎日を懸命に生きている。言葉通り「一生懸命」って言うか。でもそれをやり遂げたって思ったら、いつ死んでも良いって思っちゃうよね。

「そうでしょ?年寄りが若い人から年金を貰って生きてるなんて申し訳ないね、俺は。だからおれ、いつ死んでも良いんだよ。リハビリもして包丁も持てるようになったし。」

だからさ、それは独り者だったら自由だけど、娘がいるでしょ娘がw

「うん、まぁそうなんだけどなぁ・・・。」



生きていくことは、たぶん辛い事だと思います。普段はそれに気づかないけど、悲しいことが続いたり、苦労に苛まれたり、ふと肩の荷を下ろしたり、ちょっとした切っ掛けがその事実を気付かせます。感性が敏感になると、気付くのかも知れません。
まぁ少なくともこのおやじさんとは、その事実を受け入れていないと会話が成立しません。それは倒れる前からです。そういう方なんです。だから温かいんです。



【誰のために生はあるのか】

会話の続きに戻ります。

「俺がぶっ倒れた後ね、ある時悲しくなっちゃったんだよ。それで女房の墓へ行ってさ、俺も墓に入りたいって思ったんだよね。」

そうだよなぁ・・・、奥さんを亡くして娘さんを男手ひとつで育て上げて、魚屋を止めて居酒屋を始めて、それで倒れて。考えてみればおやじさん、ずっと苦労してきたんだねぇ。

「でもさ、最近は墓なんかいいや!とも思うんだよね。また包丁持ってさ、そのままぶっ倒れてポックリ死にたいんだよ。板場で。でも死ねないんだよね~。ほら、漁師は畳の上では死にたくないんだよ。海で死にたい。だってそこが戦場であり、人生だったんだから。」

へ~!そんな話初めて聞いた。そうなの!?

「そう!漁師はみんな海で死にたいって思うんだよ。たくさん魚捕って殺してきたんだし、だったら自分もそこで一緒に死ぬのが一番良いと思うもんだよ。」

でも、家族はそうは思わないでしょ。家で死んで欲しいに決まってる。

「だからさ!勝手に死なせてくれって言いたいよホントに!!!w」



おやじさんの菩提寺はまさに店の隣。そこに亡くされた奥さんがいます。ある時の夕方におやじさんが行方不明になる事件があり、警察と近所の人たちが総出で捜索した結果、おやじさんは奥さんの墓の前で発見されました。発見したのは旧来の友人だったのですが、墓の前で泣くおやじさんの姿を目にした当時の事を、後にこう振り返ります。
「俺は最初、声をかけられなかったよ。一緒に死にたかったんじゃねぇかな。」

おやじさんの家は日蓮宗で、割と信心深い方だと思います。寺の行事にもよく参加しますし、ご住職もよく飲みに来ては、ご近所のお客さんと一緒に店の雰囲気に溶け込んでしました。(書いていいのかこれ?w)
それだけに、奥さんが亡くなっても今まで頑張ってこれたのかも知れません。娘のために生きようと決めた、その決意が支えたのかも知れません。



【誰のために死はあるのか】

さらに続きです。

「俺はもうね、骨を海に撒こうと山に埋めようとどうでも良い。墓に魂が生きてるわけじゃねえし、仏壇だってそうでしょ?あんなの意味ないよ!」

まぁまぁおやじさんw

「あんなものはね、俺は望んじゃないよー!まるチャンわかる!?」

それは俺も同感ですよ。でもほら、残された家族が拝みたいものだってあるわけなじゃい。あれはさ、葬式も法事も墓も仏壇も、残された家族のためのものであって、死んだ本人のためのものじゃないよ。あと坊さんが食ってくためw

「そう!位牌に名前をチョロっと書いて5万10万だなんてさ!丸儲けだよホントに!w」

あははは!お客さんじゃない!www

「いやいや!そんなこたぁ良いんだよ!俺は拝まれなくったって祟ったりしないよ!」

そんなのわかんないじゃん!娘だって、年に一度や二度は化けて出てきて欲しいって言うかもよ?

「じゃあ~、お盆の時だけだなw」



娘さんに最近、彼氏が出来ました。本人は結婚までは考えていないようですが。
おやじさんは、恐らく二人に迷惑を掛けたくないんでしょうね。でも、父と娘の二人っきりだからお互いに甘ったれです。「墓なんか要らねえからさっさと嫁に行っちまえ!」って言いたいけど言えない。
娘は娘で、本当ならおやじさんの好きにさせてやりたい。肩の荷を下ろしてやりたい。でも、自分を育てることだけを支えに生きてきた人だから、今はその支えを失ってしまわないように気遣う。だから「今までお世話になりました」とも絶対に言わない。

頑固。そして甘ったれ。でもその言葉の裏にはいつも、互いを労わる愛情と、深い深い義理・人情・浪花節があります。
小津安二郎?山田洋二?
いえいえ、ハリウッドをも超える感動ノンフィクション超大作です。タイトルはそのまんま、「人生」。ひねりなど要りません。



【自然な死と不自然な生】

おやじさんの「生」と、おやじさんが願う「死」とは何でしょうか。私には、半分は娘のため、もう半分は自分のための「生」であり「死」であるように感じます。人間は恐らく、誰かのために生きて、誰かのために死を迎えることができます。もちろん、自分のためにというのも可能です。しかしその「死」はどちらも、とても「自然な死」のように思います。

しかしおやじさんが言うように、現代社会では望み通りには死ねません。いや、それは逆に言えば、昔は望み通りに生きることさえ許されませんでした。しかし、生と死を思い通りにして良いものかどうかは、まず大変な議論が必要です。それは、生物学的にそれを選択できる唯一の生物「ヒト」として、宗教や倫理をも超えた作業になります。だから今のところ、尊厳死や自殺といった「不自然な死」は議論さえ放置され、社会では認められていません。

少なくとも私が思うのは、現代社会は「自然な死」と「不自然な生」が共存している社会です。死をタブー視して放置する一方で、中絶は認めているし、新出生前診断はもう歩き始めてしまいました。「生」は選択されています。両方をバラバラに考えてきた結果、生と死がとてもアンバランスに見えます。皆さんはどう考えますか。




さて、今回も最後まで読んで下さりありがとうございました。おやじさんと会話をしていると、いつも色々なことに気付きます。人生は本当に、諸行無常。色即是空。おやじさんには、できればもうしばらく元気に生きて欲しいです。そして最後は、ぶっ倒れて死ねたら良いですね。たぶん骨は墓に入れて皆で拝み倒しますがw



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