この国のタブー -47ページ目

この国のタブー

素人がタブーに挑戦します。
素人だけに、それみんな知ってるよ?ってこともあるかもしれませんが。
コメント、質問、大歓迎です。お手やわらかにお願いします。

 続編ですので、前回の投稿はこちらをご覧ください。
 →体罰のおかしな論争(1)



この問題、掘れば掘るほどに根が深い。教育にゴールは無いのだとすれば、当然と言えば当然ですけれど。でも、どこかで体罰がどうあるべきかを判断するために、せめてヒントくらいは欲しいです。

そこで今回はまず、体罰反対派と容認派、それぞれの具体的主張から見ていきたいと思います。ただし、どちらも全然納得できない主張が含まれていて、タイトル通りおかしさ満載です。



【体罰反対派の誤解】

子供に対する暴力を無くすための活動をしている、「NPO法人子どもすこやかサポートネット」という団体の発行資料には、体罰には6つの問題があると指摘しています。

 ①体罰はしばしばそれをしている大人の感情のはけ口であることが多い。
 ②体罰は子どもに恐怖感を与えることで子どもの言動をコントロールする方法である。
 ③体罰は即効性があるので、それを使っていると、他のしつけの方法がわからなくなってしまう。
 ④体罰はしばしばエスカレートする。
 ⑤体罰はそれを見ているほかの子どもに深い心理的ダメージを与えている。
 ⑥体罰はときには取り返しのつかない事故を引き起こす。
 参考:NPO法人子どもすこやかサポートネット「すべての子どものすこやかな成長のために」(PDF)

見る限り、確かにどれも異論の余地がありません。
ただし、ひとつ誤解は含まれていますね。実際には体罰容認派も、反対派と同じく行き過ぎる暴力や虐待行為には断固反対しています。教育意図も愛情もない単なる罰を与えることにも、私自身、一切賛同しません。何よりも、体罰を積極的に行えなどと誰も言っていません。だから「賛成」ではなく「容認」なのです。

実は、多くの体罰反対派は、体罰と暴力、体罰と虐待などを関連付けて論じる傾向にあります。しかし、これらを区別できない人に体罰を行う資格があるとは到底思えませんし、それは反対派も容認派も共通認識なはずです。
これは詰まる所、双方における「体罰」という言葉の定義に差があるため、いつも冷静な議論に至らないのでしょう。だから私はもう、「行き過ぎた体罰」という言葉をメディアは使わない方が良いと思っています。体罰は体罰であり、行き過ぎた体罰は「暴力」と表現しなければ混乱します。



【体罰容認派の精神論傾倒】

他方、体罰を容認する側も主張は非常に粗暴で傲慢です。例えば、「体罰の会」という団体のトップページには「子供は体罰を受ける権利がある!」という見出しが載っていたり、イジメや不登校、自殺の解消に体罰が必要であるかのような極論が綴られています。もしそれを述べたいのであれば、まず論拠を示す必要があるでしょう。
 参考:「体罰の会」

さらに、かつて社会を賑わした「戸塚ヨットスクール」ですが、このサイトには酒鬼薔薇事件の加害少年が、顔つきや脳に問題が有るという論まで展開しています。これでは誰ひとり体罰に賛同できる訳がありません。
 参考:戸塚ヨットスクール「酒鬼薔薇事件が意味するもの(2)」

ところでこのヨットスクール、かなり昔の話でご存じない方も多いと思いますので、少し解説します。ここは、非行や犯罪、家庭内暴力、不登校や引きこもりによって、学校や家庭での更生が困難な少年を受け入れ、体罰も厭わず教育する団体です。
しかし1983年頃、生徒への暴行死事件が発生し、社会を震撼させました。そしてその後も、事故が時々発生しています。マスメディアは、この事件を契機に体罰反対の姿勢を強めていきましたが、他方では活動に賛同する著名人も多く、賛否は今も分かれます。
 参考:Wikipedia記事「戸塚ヨットスクール事件」

ただし私自身は、この団体の存在自体を否定するつもりはありません。社会が見捨てた少年らの受け入れ先はそう多くありません。彼らが高い確率で将来の犯罪者予備軍であること、またその多くを更生させてきた実績は、否定し難いと思っているからです。もちろん、あくまで個人的な考えですし、異論は少なくないと思いますが。



【脳が委縮 VS 協調性を発達】

あ、話が少し横道に逸れました。

上記のように、実はいくら調べてみても、体罰の反対派と容認派の説明にはどうも瑕疵があるように思えます。こうなると私自身、いよいよ何を信じて良いのかよくわからなくなってきました。と言うことでもう少し、科学的な論点に話題を向けましょう。


前回記事で、体罰を否定する研究は無かったと書きましたが、やっと見つけました。
熊本大学とハーバード大学の共同研究によれば、長期的に体罰を受けた子供の脳は、委縮する傾向性が確認されたそうです。「体罰でストレス下に置かれた脳が、前頭葉の発達を止めたと考えられる」と書かれていますね。これは、言葉の暴力によっても同じ傾向と確認されています。
 参考:朝日新聞社(2008年10月24日)『長期体罰の子、脳が萎縮 熊本大准教授が共同研究』(※リンク切れのためコピーサイトへリンク)

一方、武蔵野学院大学の澤口俊之教授は、以下の記事で次のように述べています。
「幼児期の体罰が痛み神経回路を介して社会的協調性や共感性などを発達させ得ることは充分に想定できることです。もちろん、いきすぎた体罰は児童虐待となり、脳を萎縮させることがあるほど酷い所業です。
 ところが、体の痛みなくして心の痛みの回路は発達せず、心の痛みなくして協調性や同情・共感の回路も発達しません。幼児期には「社会的関係における体の痛み」をそれなりに体験したほうがいいのです。」
 参考:ガジェット通信(2012.07.28)「「幼児期の体罰が社会的協調性を発達させ得る」と脳科学者」

前の研究を肯定しつつもですね。と言うことは、やっぱり程度の問題なのでしょうか。子供の側が「体罰」と受け取るか、それとも「虐待」と受け取るのかによっても違いがあるのかも知れませんが、程度の線引きはよくわかりません。



【体罰を止めて話し合うのは無意味!?】

ちなみに、仮に体罰を一切止めるとすれば、それ以外の方法論で懲罰を与えるか、あるいはじっくり話をするという方法(カウンセリングもコーチングも含め)に頼らざるを得なくなります。
その効果を調べてみたら、さらに神経生理学と発達心理学の観点から迫った、こんなレポートも見つけました。少し長いですが引用します。

(以下、国際大学グローバルコミュニケーションセンター「教育と体罰(青柳武彦(主幹研究員))より引用」

子どもの大脳の神経生理学的な発育程度に応じた、最適の教育手段を通じてこれを行う必要があるが、愛情に裏付けられた「良い体罰」は、極めて有効な教育手段たり得るのである。ただし、体罰を与えるタイミング、程度、事後ケア等について十分に配慮しなければならない。
(中略)
脳の各部分のニューロンの有髄化の程度、すなわち成熟度を測定してみると、「原始脳」の脳幹と小脳が一番早く有髄化することが判る。それから「古い脳」の大脳辺縁系に及び「新しい脳」の大脳新皮質に及んでゆく。大脳新皮質の中でも前頭連合野、頭頂連合野、及び側頭連合野は一番成熟が遅い。だいたい、高校を卒業するか大学新入生の頃でないとこの部分は最も成熟した域には達しない。
(中略)
人間の高度な判断力、理解力、倫理観に訴える説得は、まだこれらの連合野におけるニューロンの有髄化、つまり成熟化が完成していない高校・中学・小学校の生徒に行っても、無駄とまではいわないが、効果は期待するほど大きくはないといって良い。小中学生と「徹底的に話し合うべきである」などという戦術は、相手の子供たちの能力がまだそこまで発達していないのだから、あまり効果がないと知るべきである。高校の終わり頃、及び大学生くらいの年代になれば「徹底的に話し合う」のは極めて有効である。
(引用ここまで)

学術論文ぽいので言い回しが難しいですが、要するに体罰の有効性には論拠があるが、言葉で説得する方法には有効性があまり期待できないということです。にわかに信じ難いですが、仮にこれが真実ならば、現在の教育は子供に善悪を教えられないということになってしまいます・・・。



さて、ここまで私なりに調べてみましたが、やっぱりどうしても体罰を無くすだけの納得できる論拠は見つけられませんでした。ひょっとして存在しないのでしょうか?ならばどうして、体罰はずっと禁止されてきたのでしょうか?非常に疑問を感じます。

そこで次回は、Amazonで見つけたそれっぽい本をご紹介しながら、体罰の歴史的系譜を探ってみようと思っています。ご興味があればまたお付き合い下されば幸いです。
今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。



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体罰のおかしな論争(3)
に続く