→宗教はタブー・宗教観と国際化・神仏習合の寛容さ
→文明の衝突(上記の補足記事)
春先に、日本人の宗教観について長々と記事を書きました。
確固たる信仰をお持ちの方は別として、日本人の多くは自分自身を無宗教と規定しますよね。もちろんそういう方も中にはいますが、少なくとも私が出会った方の多くは、実際には無宗教ではありませんでした。私は常々、こうした方と出会う度に「あなたは無宗教ではない」と余計な反論をしてしまうので、しばしば論争を巻き起こします。
しかし持論を持つというのは面白いもので、あちらこちらの飲み屋でこうした持論を展開していると、その言い方やニュアンスも少しずつ変化してきます。それが、相手に上手に伝わるように言い回しを工夫した結果でもあれば、相手の反論に感化された結果であったりもします。
今回は前者の話です。
【ユダヤ人との偶然の出会い】
数年前、ある立ち飲み屋で一人、仲間を待ちながら焼き鳥をつまんでいた時の話です。
店が徐々に混雑し、隣のテーブルにいた外国人に肩をぶつけました。お詫びしようと向き直ると、相手に先を越されてしまいました。しかし、その仕草が何とも日本人以上に日本人的だったため、つい声を掛けると間も無く意気投合。彼もまた待ち合わせとのことで、仲間が来るまで一緒に飲もうということになったのですが、結局、双方の仲間が合流した後も一緒にドンチャン騒ぎとなりました。
「ウマが合う」とはこのことです。この偶然の出会い以来、彼は私の貴重な外国人の友人であり、また大切な飲み友達です。
彼は日本人の妻を持つアメリカ人で、ロシア系ユダヤ民族です。身長は高いくせに顔のサイズは私の半分くらい。大企業ばかりクライアントにする国際法律事務所を経営してるクセに、飲み代は割り勘。つまり、見た目も中身も全て嫌味なヤツです。しかし一方では、そんな大変な仕事をしながら地方大学院の修士生だったり、とても謙虚で日本文化をこよなく愛していたりと、憎めないヤツでもあります。
しかしそんな彼にはひとつ、日本で暮らす悩みがあります。それは、日本人がパーソナリティーを明かさないことです。彼にとってはそれが、人間関係を構築する上で大きな障害と感じるんだそうです。外国人の交友関係に乏しい私には、ちょっと初体験な話でした。
【来日以来の特別な日】
彼との出会いは偶然でしたが、仲良くなったのは偶然ではありません。不意に、私が彼に出身国と人種を訊ね、その代わりに私自身もパーソナリティーを自ら表明したからです。
「私は、神奈川生まれの生粋の百姓で、今の仕事は○○○○○。宗教は、仏教とか神道とか、いわゆる日本人的な多神教ですよ。」
こう述べると、彼は意外なことに「ワーオッ!」と歓喜の雄叫び?を上げていました。
日本に来て10年。妻も友人の多くも日本人なのに、自らの宗教を真っ先に語る日本人に始めて出会ったと言うのです。彼は、日本人は相手の出身国や人種はすぐ聞くくせに、自分のことは言わないものだと考えていたようです。そのため私は、彼に「日本人の多くは無宗教ぶってるけど多神教なんだよ」という持論を延々説明しなければなりませんでした。
しかし幸いにもこの行為が、彼と仲良くなる切っ掛けだったのです。
「日本人の宗教観がずっとわからなかったけど、それがまるチャンの説明でとてもよく理解できた。こんなにフランクな日本人に出会ったのは初めて。今夜は私にとって、来日以来の特別な日だ。」
そんな風に言われ驚きましたが、後に彼の民族を調べてみて納得できました。ロシア系ユダヤ人という民族は、とても悲惨な歴史を経験していたからです。
彼らは人種的にはロシア人ですが、その信仰故に迫害され虐殺され続けました。それはソ連崩壊以降にまで及び、西側へ運よく脱出した少数だけが生き残っているに過ぎません。彼曰く、これまでも生涯で出会った同族は、数年前に亡命を果たしたたったひとりだけ。旧ソ連に残る一族はきっと全員殺されていると言っていました。彼の宗教や人種に対する価値観(恐らく孤独感や被差別感)は、そうした歴史から生じているものだったんですね。
参考:ヘブライの館 2「ロシアとウクライナのユダヤ人の悲史」
【日本人の宗教観は希薄?】
彼は日本人が宗教に熱心ではないと感じる一方で、誰もが宗教と密接に生きているとも感じていたそうです。日本人自身もこれを、宗教観が希薄であるとか、それは宗教ではないと安易に表現しがちですが、私はこれは誤解だと思っています。
2000年頃に実施されたある世界統計によれば、神の存在を信じるかという質問に対して、信じる人と信じない人、わからないと答える人の日本人の割合は、それぞれ3割強で拮抗しています。死後の世界を信じるかという質問においても、この傾向性はほぼ変わりません。しかし米国に目を向けると、9割以上が神を信じる一方で、死後の世界は7割しか信じていません。
これはつまり、それぞれの宗教や信仰のスタイルによって、この手のアンケートが質問内容次第で結果を大きく左右してしまうという証明です。詳しくは以下のリンク先のグラフを見て頂くとわかり易いです。
参考:社会実情データ図録 9520
私は、日本では是非とも「罰は当たると思うか?」という質問で調査をして欲しいといつも思っています。昔も今も、寺社の境内で立小便する人はあまり居ませんし、お守りやお札を分別して捨てるという人は稀ですよね。日本人はそういう部分だけは異常に信心深いので、高い数値が期待できると予想しています。
要するに、日本人の信仰スタイルは、キリスト教やイスラム教などの一神教とは違います。罰は当たると思うのに、神は信じない。これこそが、日本人特有の宗教観と言うべきものです。
日本人の信仰心は希薄ではありません。自覚が薄いのです。その自覚が薄い宗教観こそが、良くも悪くも日本人の宗教観なのです。これは信仰方法の違いであって、信仰心の深さどうこうではありません。
【日本人は無宗教?】
海外へ行くと、日本人は無宗教なのかと質問されるという話をしばしば耳にしますよね。この問いに対する答えは、既に過去記事で述べていますので引用します。
(以下、過去記事「宗教観と国際化」より引用)
「日本は多神教のため、一神教の価値観をそのまま当てはめることはできません。天照大神や天皇陛下、お釈迦様や大仏だけでなく、菅原道真や平将門、太陽や富士山、七福神やトイレの神様、靖国神社の御霊をそれぞれ1%ずつ信仰しても良いのです。またそれらの宗教行為が、厳格な信心や作法に裏付けられているとも限りません。日本の宗教はとても寛容なのです。仏式に結婚した家でなくとも檀家を追い出されることはありませんし。」
(引用ここまで)
冒頭で、相手に上手に伝わるように言い回しを工夫したと述べましたが、その結果、さらに次の説明を追加することで、一層の共感を得るということもわかってきました。
「上記の信仰心は、足し算して100%にならなくても構いません。敬謙なキリスト教徒を100とした時に、日本人のそれは合計50でも20でも良い。それが日本人の宗教観だからです。イスラム教徒は生まれながらにして死ぬまでムスリムですが、日本は信仰が極めて自由です。信じる信じないの自由もあるし、一部分だけを信じることもまた自由なのです。」
特に欧米人に対しては、「だから戦争もしないんだよ」と胸を張って良いと思います。
【日本人は敬謙じゃない?】
日本人が敬謙じゃないなんてとんでもない。敬謙でなければ全国にこれだけある寺社が維持してこれた筈ありません。先のお守りで言えば、都内のタクシーの9割以上は何らかのお守りやお札を持っているんだそうです(残念ながら出典は失念しました)。この数字は、単なるゲン担ぎでは説明できません。
他方、正月、節分、雛祭り、端午の節句、夏祭り、十五夜、新嘗祭などの宗教に由来する数々の行事もそうです。これらに参加することを、「単なる行動規範であってかつての信仰の名残り」であるかのように言う人がいますが、これも日本人の宗教観の特徴です。日常の中に宗教行事をさり気なく入れてしまうほど、宗教への順応性が高いのです。
皆さんの身近にも、「いただきます」と唱えたり合掌する方がいると思いますが、この言葉は日本語以外に訳すことはできません。日本特有の宗教行為だからです。
参考:Wikipedia記事「いただきます」
日本人の宗教観は、欧米のそれと比較するから難しくなってしまいがちですが、私はそんなに難しい事とは思いません。日常的な暮らしの中にいつも宗教はあり、私達はそれを自覚していないに過ぎません。
最後に蛇足ですが、私はこういう話をする時、いつも象徴的に思い起こすのが富士登山です。私達が麓からいつも拝んでいる霊峰。アボリジニは聖地であるエアーズロックには決して上りませんが、日本人は富士山に登ります。そして山頂に着くと今度は、富士山ではなく日の出を拝む。神に上って別の神を拝む訳ですが、これは恐らく外国人には理解不能ですよね。
参考:Wikipedia記事「ウルル」
以上は私の持論に過ぎませんが、多少かじってきた宗教学と経験則に基づく自分なりの結論です。そして私はこの宗教観が結構好きです。これを読んで、日本人の素晴らしき宗教観を少しでも誇っていただけたら幸いです。
今回も最後まで読んで下さりありがとうございました。
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過去記事の補足と考察に続く