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この国のタブー

素人がタブーに挑戦します。
素人だけに、それみんな知ってるよ?ってこともあるかもしれませんが。
コメント、質問、大歓迎です。お手やわらかにお願いします。

 同じテーマを色々な観点から書いています。過去の投稿はこちらをご覧ください。
 →死とは忌むべきものか(1)
 →死とは忌むべきものか(2)
 →死とは忌むべきものか(3)



多くの日本人にとって、死はタブー視されがちです。しかし、前回も書いた通り、日本は少子高齢社会と自殺者の急増という問題を抱えています。生と死に視点を広げれば、尊厳死、臓器移植、iPS細胞の発展研究、新型出生前診断、QOL(クオリティーオブライフ)など、これら議論の必要性は高まる一方です。そうした話題を耳にする度、現代日本が改めて死生観の問題に直面していることを強く感じます。ということで今回のテーマは、死を忌むようになったルーツについて書きたいと思います。



さて、死を忌むべきものとしたルーツの研究には諸説あるようです。それでも概ね共通しているのは、「死=穢れ(けがれ)」という概念です。この概念は日本神話における黄泉の国のエピソードから始まりますので、少しご紹介します。記述は自己流ですが何卒ご勘弁ください。


【最初の死とタブー】
イザナギと結婚したイザナミは、様々な神々を生み落とします。しかし最後に火の神を生んだことで火傷をしてしまい、それが元でイザナミは死んでしまいます。これが日本正史における最初の「死」です。
妻を失ったイザナギは、黄泉の国へイザナミを連れ戻しに追いかけますが、既にイザナミは黄泉津大神(よもつおおかみ)となっており一緒に帰ることができません。イザナミはイザナギに、自らの姿を見ないように言いますが、イザナギはこの約束を破ってしまいます。黄泉津大神となったイザナギの体は腐ってウジが湧き、蛇の姿をした雷神がまとわりついていたのです。この時の「見るな」というルール(禁忌)が、生と死を別のものに分け、死をタブーとした最初の由来です。
ちなみに、古事記や日本書紀などの記紀神話が編纂された時代、死をタブーとしたのには当時の殯(もがり)という風習が元になっているとされます。これは現在の通夜の由来とも言われ、ご興味ある方はウィキペディアの記事をご参照ください。

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【黄泉比良坂(よもつひらさか)の生と死】
イザナミの姿を見たイザナギは、連れ戻すのを諦めて黄泉の国を逃げ出します。しかし、タブーを破られ怒ったイザナミが、悪霊と共に後ろから追いかけて来ます。何とか脱出したイザナギは、もう悪霊が追って来れないようにと道を大岩で塞ぎます。大岩を挟んだ二人は、「愛しき我が妻よ」、「愛しき我が夫よ」と呼び合ながらも決別するのです。これが有名な黄泉比良坂(よもつひらさか)の、美しくも悲しい物語です。このエピソードは、生と死を明確に区別しつつも、それが表裏一体であることを象徴的に示しています。

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【穢れと禊祓い(みそぎはらい)】
黄泉の国から帰ったイザナギは、自らの体の穢れ(けがれ)を祓うため、禊(みそぎ)をします。ここで言う「穢れ」とは汚れのことではなく、毛枯れ(作物が育たない・不毛な状態)、または気枯れ(気が枯れる・生命力が枯渇した状態)などが語源とされます。一方の禊の語源は、身を削ぐ・水で濯ぐ(すすぐ)などが由来と考えられています。つまり、穢れと禊とは、物理的な汚れを洗っているわけではなく、死の国へ行ったことで生命力が減退してしまった状態から回復するという、精神的な儀式のことです。
イザナギが海へ入って体を濯ぐと様々な神々が生まれ、最後に左目からアマテラスが、右目からツクヨミが、そして鼻からスサノオが生まれました。ちなみに、お清めやお祓いに塩が使われるのは、この禊が海水で行われたことに由来すると考えれています。



これら黄泉の国のエピソードは、死は穢れであると言いつつも、それが生と一体であることを強く意識させます。火の神を生んだために死んでしまう話や、黄泉から帰り(=よみがえり)禊をするとまた神が生まれ、その神が天照=太陽=生命の象徴であることなど。どれもが生と死は表裏一体で、ひとつのサイクルによって成立していると気づかされます。とても美しい物語だと感じます。

しかし、時代を経て現代に目を向ければ、いつの間にか死は生と切り離され、全く別のものと捉えられるようになりました。その経緯はわかりません。しかしとても違和感を感じます。
非常に問題なのは、死というテーマをアレルギーのように扱って、タブーにしてしまう事です。老衰で死ぬこと以外にも幸せな死はあるのに、人が死ねば誰彼構わず哀れみ、過度に同情することは正しいのでしょうか。尊厳死に反対する人は、寝たきり老人や末期癌患者の現実よりも憲法や哲学を優先します。死刑に反対する人は、メディアも言及を避けるような凶悪事件を論じずに、盲目的に反対します。介護疲れの親殺しは不幸だと言い、一方では育児疲れの子殺しを身勝手と言う。殺人犯を非難する人は自殺者を非難しませんが、ウェルテル効果は模倣犯の何倍もの被害者を生むのが現実です。政治的な解決ももちろんですが、こうしたことを一人一人が考え、街場で議論するべき時が来ているのではないでしょうか。


人が生まれた瞬間に、唯一決定していること。
それは「いつか死ぬ」という避けがたい事実だけです。

日本神話が編纂された平安時代は、都市化や人口増加とともに疫病が流行した時代でもあります。確かに遺体は疫病の温床にもなり得る訳ですが、当時の医学力では知る由もありませんので、疫病の原因は穢れや祟りと解釈されたのです。つまり、当時は疫学衛生上の問題から、死を忌むべきものとしたわけです。現代が直面する死の問題は、疫学ではなく社会学です。死を議論しなければ、生きる社会を創造することはできないと思うのですが。


今回も最後まで読んで下さりありがとうございました。またいずれこのテーマは書きたいと思いますので、その時またお付き合いいただければ幸いです。



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