間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -9ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。


 史上最大級のジェノサイドとして有名なのが、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによって行われたユダヤ人の虐殺です。
 ホロコーストとも呼ばれるこの組織的殺戮の目的はユダヤ人の根絶だとされており、その犠牲者の総数は1100万人以上とも言われています。
 
 このような憂き目に遭ったユダヤ人たちの中には、民族の最大の危機にも助けてくれなかったような神は信じるに値しないという理由で、信仰を捨てようとした人もいたようです。
 自身もユダヤ教徒である哲学者のエマニュエル・レヴィナスは、ユダヤ人社会の崩壊を食い止めるべくその著書『困難な自由』の中でこう述べています。

唯一神に至る道には神なき宿駅がある。
真の一神論は無神論の正当なる要請に応える義務がある。
成人の神はまさに幼児たちの空の空虚を経由して顕現するのである。

その顔を隠す神とは、神学者の抽象でも、詩人たちの幻像でもないと私たちはそう考えている。
それは義人がおのれの外部に一人の支援者も見出だし得ない時、いかなる制度も彼を保護してくれない時、幼児的宗教感情を通じて神が現前するという慰めが禁じられている時、一人の人間がその良心において、すなわち受難を通じてしか勝利し得ないその時間のことである。

 レヴィナスを師と仰ぐ内田樹は、この難解な文章の意図を以下のように解説しています。
http://blog.tatsuru.com/2007/06/12_1055.php

あなたがたは善行を行えば報償を与え、悪行を行えば懲罰を下す、そのような単純な神を信じていたのか。
だとしたら、あなたがたは「幼児の神」を天空に戴いていたことになる。

だが、「成人の神」はそのようなものではない。
「成人の神」とは、人間が人間に対して行ったすべての不正は、いかなる天上的な介入も抜きで、人間の手で正さなければならないと考えるような人間の成熟をこそ求める神だからである。

もし、神がその威徳にふさわしいものであるとすれば、神は人間に霊的成熟を求めるはずである。
神の不在に耐え、人間が人間に対して犯した罪の償いを神に委ねることをしない成熟した人間を求めるはずである。

レヴィナスはそのような論理によって、現に奇跡的な介入がなく、義人が受難したという当の事実に基づいて「成人の神」が存在することを証明しようとしたのである。

 このように、神に対して「正当な裁きが下されなかった」とクレームを付けるような在り方は、幼児並の未熟な信仰に過ぎないというのが内田樹流のレヴィナス解釈です。
 創造主たる神は人間の為した不正くらい自力で解決できるように人間を造られているはずなので、それを信じて「神なしでの解決」を目指すのが成熟した真の信仰の姿である。
 レヴィナスの言葉をこう読み取ることで、内田樹は「世の問題のあれこれにクレームを言っているだけの人間はいくつになっても半人前の幼児でしかない」とする独自の成熟論を展開しています。

「素敵な『大人の条件』」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/23/224100
「正しい子どもと複雑な大人」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/08/17/143400

 レヴィナスや内田樹が指摘するこうした「幼稚なクレーマー思考」は果たしてどこから来るのか。
 私はこの問題の原因が「レフェリーへの依存心」にあると考えています。

「なぜ人を殺してはいけないのか」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/07/061900
「世の中は間違っていますか」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/09/065600
「全人類プロレス」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
「作り話の楽しみ方」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/19/174500

 レフェリーへの依存心を抱える幼稚なクレーマーたちの望みは、公正(だと自分が納得できるよう)なジャッジが下されること。 
 ですが、人間たちの世界ではジャッジを下すのも結局のところ欲深い人間でしかありません。

 例えば、私は日本という国に住んでいる日本人ですが、現在のような「国民国家」という仕組み自体は数百年前に人の手によって発明されたものでしかありません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/10/12/000234
 私自身が「日本人」として生きていられるのは、「日本政府」と名乗る行政組織が「日本列島」と名付けた地域を実効支配しているこの時代に、「日本人」としてタグ付けされた両親の下で生まれたからこそ。

 人間は皆、良くも悪くも、それまでに積み重ねられてきた「人の営み」という偶発物に囲まれて生まれます。
 ですから、現代に生まれた私がこの日本で生きるからには、過去の権力闘争の末にできあがった日本社会の仕組みに従うしかありません。
 もし社会の現状が不満ならば、日本人の一員として仕組みを変えるための権力闘争の輪に加わるか、日本人の一員であることを止めるしか、一人前の成人としての選択肢はないのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/25/084508

 そして、国際社会についても同じことが言えます。
 国際機関と呼ばれる組織は地球上にいくつもありますが、これらは別に諸国家の上に立つ指導的な存在ではなくあくまでも国家同士による自発的な集まり。
 
 その代表的な存在が国連(United Nations)です。
 United Nationsを素直に直訳すると「連合国」となります。
 これは第二次世界大戦中に戦っていた片側の陣営を表す言葉であり、「世界政府」のような全世界の統一機関という意味ではありません。

 ですが、日本では「国際連合」という派閥色をまるで感じさせない中立そうな言葉に翻訳されてしまっています。
 そのため、日本国内では「国々の上には世界を統べる国連がある」といった素朴な誤解が誘発されます。

 当の国連では、アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国という第二次世界大戦の主要な戦勝国に常任理事国としての特権が与えられていますが、このことについて「世界の統一機関として公平でない」といったニュアンスのクレームを付ける日本人もいるようです。
 そんな的外れなクレームが生まれるのは「国々の上に立つ国連」という根本的な勘違いがあるから。

 そもそもどんな国際機関も、それを作る国々の都合によって左右される利益調整のための支配システムでしかありません。
 その現実から目を背け、「国際社会には国々を取り仕切る公平なレフェリーがいるべきであり公平でない支配はどれも不当だ」という類いのクレームを付けたがる「レフェリー頼み」の根性こそが芯から甘ったれているのです。

 内田樹の言う幼児とは、必ず裏切られる「完璧なレフェリーへの期待」を大事に抱えたまま、いつまでもクレームを吐き続けるだけの存在です。
 私たちがただ待っていても「完璧なレフェリー」などは決して現れてくれません。
 あなたの望む「あるべき公正さ」なんて、あなた自身の手で周囲を巻き込み、試行錯誤を繰り返しながら少しずつ造り上げていくしかないものですから。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/10/05/163718



※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300



 戦争やテロや殺人事件など「人殺しが起きた」というニュースは、私たちの生きる現代社会では「許されざる悲劇」として毎日のように伝えられています。
 また、熊や猪など大型獣の駆除、魚介類の漁、食用に育成した家畜の屠殺、犬や猫の殺処分、殺虫剤による虫の駆除などの殺害行為もこの文明社会のシステムの中に当たり前に組み込まれており、時折その是非が議論の対象となります。 
 さらに、野生の世界では動物同士の殺し合いが常に行われていますが、このことは「自然の摂理」として当然のことのように受け止められています。
 
 私たち人間は、これらのバリエーション豊かな「殺し」の中でも、「人間による仲間への殺し」だけを「悪」と定めて断罪する傾向を持っています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/07/061900
 そして、この「殺してはいけない仲間かどうか」の基準は、それぞれが持つ価値観によって左右されるローカルなものでしかありません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/02/08/001305
 
「どんな理由があっても人殺しなどの人権侵害は許されない」
「襲いかかってくる(かもしれない)敵を殺しても正当防衛だから構わない」
「凶悪犯罪者はもはや私たちと協調できる仲間ではないから死刑にすべきだ」
「奴隷は家畜と一緒だから一人前の人間と同等に扱う必要はない」
「有色人種は邪悪で劣った種族だから白人と等価値ではない」
「イルカなど知能の高い特別な動物は我々の仲間だから彼らの権利を守らなければならない」
「犬や猫など私たちの愛しいパートナーを殺してはいけない」
「たとえ食用の家畜といえども劣悪な環境で虐待するのは可哀想だ」
「食べるために動物の命を奪うのはやめて完全菜食にすべきだ」
 
 このように、「許される殺し」と「許されない殺し」との線引きは、私たちの脳内にどんなストーリーが描かれているかによっていくらでも変わっていくものです。
 その証拠に、虫は生物学上の分類では動物の仲間と認められているにも関わらず、「害虫駆除は倫理的に決して許されない」という主張を聞くことはほとんどありません。
 それは「人に害をなす虫ならば殺しても構わない」という主張にいくらかの普遍性があるからではなく、虫のことを親密な仲間だとみなすような物語が人間たちの脳内には滅多に描かれてこなかったからです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/02/22/202235
 
 この世はもともと、お互いが自由に影響し合う世界。
 殺し合い、奪い合い、脅し合い、騙し合い、妥協し合い、協力し合う。
 許されるとか許されないといった「人間都合のお話」とは無関係に、生存を賭けてそれぞれが好き勝手に影響し合っているのが動物たちの実態です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/31/200500
 
 そんな動物たちの中で、他者を殺す能力に最も長けているのが人間です。
 私たち人間は、その圧倒的な殺傷力を活用して自分たちが生活していくための独占的な居住地を地球上に拡大し、そこから他の動物たちを追い出していきました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/26/235800
 
 さらに西欧諸国は、近代合理主義思想に逆らう人間たちを虐殺、恫喝、懐柔などの手段で制圧することで、お互いが比較的安全に行き来し合える「近代的な国際社会」を築き上げていきました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/02/01/080937
 私たちが享受している「見かけ上の平和な世の中」は、このような無数の殺戮によって支えられているものです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/23/144020
 
 『銃・病原菌・鉄』など数々のベストセラーで知られるジャレド・ダイアモンドは、私たち現代人の持つ人間中心主義や西欧中心主義を、その独自の視点から徹底的に批判してきました。
 彼の主張は「人間は同族殺しに手を染める唯一の凶悪な動物だ」とか「自然と調和できていたはずの人間を文明の発達が狂わせてしまった」といった、巷にありふれる平凡な論調とは一味違います。
 彼は人間にも西欧文明にも、特別な高貴さや普遍性などを認めていないのと同時に、ありがちな批判者のように特別な邪悪さや不自然さがあるとも認めていません。
 
 ヒトは、動物たちのグラデーションの中の単なる一つ。
 西欧文明は、文明のバリエーションの中の単なる一つ。
 たまたま地球上の征服者になれたから勘違いしているかもしれないが、私たちが本質的に「特別」なわけではない。
 
 彼の立場はこのように言い替えることができるでしょう。
 1991年に刊行された彼のデビュー作『ヒトはどこまでチンパンジーか?』には、チンパンジーの生態研究によって発見された、チンパンジーの集団同士による戦争の実例がいくつも紹介されています。
 そして、善くも悪くもヒトを特別視したがるナルシスティックな一般論にこう挑戦します。
 
しばしば主張されるように、人間は同じ種のメンバーを殺すという意味でユニークな動物であるというのは、事実でしょうか?
実際には、近年の研究から、多くの動物(すべての動物では決してありませんが)でも同種内の殺し合いが記録されるようになってきました。
 
コモンチンパンジーはすでに、計画的な殺害、隣接集団の皆殺し、領土征服のための戦争、若い適齢期の雌の略奪を実行していました。
もしチンプが、槍やその他の戦争のための道具を手にしたならば、彼らの殺しは、疑いもなく、私たちのような効率的なものに近づき始めることでしょう。
 
チンパンジーの行動からは、人間の証しである集団生活がなぜ生じたかについての主な理由が示唆されます。
すなわち、ほかの人間集団からの防御のためではないかという考えです。
 
 動物はもともと互いに殺し合う生き物であり、その中でヒトは高い殺傷技術を獲得する縁にたまたま恵まれていたというだけ。
 ヒトの動物としてのほとんどの性質はチンパンジーと大差なく、大袈裟に騒ぎ立てるほどヒトは「特別」な存在ではないというのが、彼の一貫した態度です。
 
 こうして彼は、「人間は同族殺しを行う唯一の凶悪な動物だ」という、感傷的かつ自虐的な人間観に対して、アリやオオカミやチンパンジーといった同族殺しを行う他の動物の具体例を突きつけます。
 そして、返す刀で「自然と調和できていたはずの人間を文明の発達が狂わせてしまった」という古臭い文明批判にも斬り込みます。
 
 彼はまず、石器などを用いていた時代の人類ですらマンモスやオオジカやジャイアントバッファローやオオカンガルーなど数多くの大型獣を絶滅させてきたという考古学的な仮説とその根拠をいくつも提示し、「今のように文明が過剰に発達しなければ他の動物を絶滅に追いやらずに済んでいたはず」とする単純で希望的な見方を否定します。
 さらに、ニューギニアの内陸部で外界から閉ざされ、20世紀まで石器を使って生きてきた高地人たちの人殺しに対する態度を以下のように描写することで、「文明と無縁な未開人ならば現代人よりも汚れていなかったはず」という淡い幻想も打ち砕きます。
 
全地球はいまや政治的な国家に分割され、その国民は国の内外を多かれ少なかれ自由に旅行する権利を享受していることを思い出して下さい。
それとは反対に、過去1万年を除く人類の歴史では、各村や部族が政治的な単位を構成し、隣の集団との間で戦争、停戦、同盟、交易を永遠に繰り返しながら暮らしていました。
したがって、ニューギニアの高地人は出生地から20キロメートル以内で一生を過ごしていたのです。
 
彼らは、境界を接する部族の土地に、戦争中の侵略時にはこっそりと、停戦中には許可を得て入っていったかもしれません。
しかし、直接隣接する土地のさらに向こうまで旅行する社会的枠組みはありませんでした。
関係のない見知らぬ人間を許容するなどという発想は、見知らぬ人間があえてやって来るという発想と同じくらい考えられないことでした。
 
今日でも、このような不可侵的なメンタリティの伝統は、世界の各地に存続しています。
ニューギニアでバードウォッチングに行くときにはいつでも、私はわざわざ最寄りの村の土地や川で鳥をみることの了解をとることにしています。
 
西ニューギニアのエロピ族の中で生活し、隣のファユ族の領地を通って近くの山に登ろうとした時には、もし私がそうしようとするなら、ファユ族の連中が私を殺すだろうとこともなげに説明しました。
ニューギニアの考え方では、そんなことは完全に当たり前で自明のことのようでした。
 
もちろんファユ族の人たちはどんな侵略者でも殺しますとも。
なぜって、彼らが愚かにもよそ者が領地に入ることを許すとは決して思えないじゃないですか?
よそ者は、大きな獲物を狩猟し、女を犯し、疫病をもたらし、これからの戦争に備えて地形を偵察するでしょうからね。
 
1930年にマイケル・レイヒーによって「発見」され、50年後にインタビューを受けた高地人たちは、初対面の瞬間に彼らがどこにいて、何をしていたかをまだ完全に憶えていました。
アメリカ社会にとっての真珠湾とその結果生じた戦争の結果も、ニューギニアの高地人が最初に出会ったパトロール隊の衝撃に比べれば小さなものでした。
この日を境に、彼らの世界は永久に変わったのです。
 
彼らの持ち込んだ鉄の斧とマッチが、石の斧と火おこし用の錐より優れていることはすぐにはっきりしました。
パトロール隊に続いた宣教師と政府の役人は、カニバリズムや一夫多妻、同性愛、戦争といった彼らに根付いていた文化的慣習を抑圧しました。
 
 つまり、チンパンジーやヒトにとっては、他の動物も同族のよそ者も自分たちの命をおびやかす(かもしれない)脅威には変わりありません。
 彼ら(私たち)にとって、危険性のある(かもしれない)よそ者に戦争を仕掛けることは、別に倫理的に問題のあることではなく、他の動物を捕食するのと同程度の「自然の摂理」に過ぎなかったのです。
 
 ニューギニアの高地人たちは、圧倒的な武力を持つ西欧人と出逢うことで制圧され、キリスト教的な倫理観の実践を強いられることになります。
 それで彼らの慣習が完全に消えるわけではありませんが、少なくとも西欧人の支配が及ぶ範囲ではそれまでの行動を改める必要がありました。
 銃を備えた西欧人たちに殺されないために表向きの従順を示すことは、自分たちの命を守るための「自然の摂理」に従う行動だったはずです。
 
 そしてこのニューギニアの高地人たちの「表向きの従順」は、文明社会を生きる私たち現代人にも共通した態度です。
 私たち人類はこれまで互いに大量虐殺を繰り返しながら、こうした「自然の摂理」に従って現在のような「近代的な国際社会」にたどり着いてきました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/09/28/080958
 
 「どんな理由があっても人殺しなどの人権侵害は許されない」といった主張が優勢でいられるのも、その倫理観を押し付けられるだけの軍隊や警察といった殺傷能力の後ろ楯があってこそ。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/24/195700
 どれだけきれいごとを並べ立てたところで、人殺しを抑えこめるのは「人を殺せる力」でしかないのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/05/060200
 
 それでは最後に、『ヒトはどこまでチンパンジーか?』にまとめられている人類史における大量虐殺の代表例をみなさんに紹介して終わりたいと思います。
 私たち現代人が共有している(つもりの)御大層な価値観は決して普遍的なものではなく、過去になされてきた無数の大量虐殺によって飼い慣らされたものに過ぎないということを忘れないために。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/27/013900
 
【一万人以下の大量虐殺】
1497~1829年のニューファンドランド島にて、フランス人とミクマク族によってベツオクインディアンが虐殺される。
1800~1876年のタスマニアにて、オーストラリア人によってタスマニア人が虐殺される。
1835年のチャタム諸島にて、マオリ人によってモリオリ人が虐殺される。
1964年のザンジバルにて、黒人によってアラブ人が虐殺される。
1966年のナイジェリアにて、北ナイジェリア人によってイボ族が虐殺される。
1970年代のパラグアイにて、パラグアイ人によってアケ・インディアンが虐殺される。
1978~1979年の中央アフリカにて、ボカサ皇帝によって反体制者が虐殺される。
1985年のスリランカにて、シンハリ人によってタミール人が虐殺される。
1985年のスリランカにて、タミール人によってシンハリ人が虐殺される。
 
【一万人以上の大量虐殺】
1572年のフランスにて、カソリック教徒によってプロテスタントが虐殺される。
1652~1795年の南アフリカにて、ボーア人によってブッシュマンとホッテントットが虐殺される。
1745~1770年のアリュート諸島にて、ロシア人によってアリュート人が虐殺される。
1788~1928年のオーストラリアにて、オーストラリア人によってアボリジニが虐殺される。
1870年代のアルゼンチンにて、アルゼンチン人によってアロカニアンインディアンが虐殺される。
1904年の南西アフリカにて、ドイツ人によってヘレロ族が虐殺される。
1917~1920年のウクライナにて、ウクライナ人によってユダヤ人が虐殺される。
1940年のカティンにて、ロシア人によってポーランド兵士が虐殺される。
1947年のインドにて、イスラム教徒によってヒンズー教徒が虐殺される。
1947年のパキスタンにて、ヒンズー教徒によってイスラム教徒が虐殺される。
1957~1968年のブラジルにて、ブラジル人によってインディアンが虐殺される。
1962~1963年のルワンダにて、フツ族によってツチ族が虐殺される。
1975~1976年のインドネシアにて、インドネシア人によってチモール人が虐殺される。
1975~1990年のレバノンにて、キリスト教徒によってイスラム教徒が虐殺される。
1975~1990年のレバノンにて、イスラム教徒によってキリスト教徒が虐殺される。
1976~1983年のアルゼンチンにて、アルゼンチン兵士によってアルゼンチン市民が虐殺される。
1977~1979年の赤道ギニアにて、独裁者によって反体制者が虐殺される。
 
【十万人以上の大量虐殺】
1941~1945年のユーゴスラビアにて、クロアチア人によってセルビア人が虐殺される。
1943~1946年のロシアにて、ロシア人によって少数民族が虐殺される。
1955~1972年のスーダンにて、北スーダン人によって南スーダン人が虐殺される。
1965~1967年のインドネシアにて、インドネシア人によって共産主義者と中国人が虐殺される。
1971~1979年のウガンダにて、イディ・アミンによってウガンダ人が虐殺される。
1972~1973年のブルンディにて、ツチ族によってフツ族が虐殺される。
 
【百万人以上の大量虐殺】
1492~1600年の西インド諸島にて、スペイン系白人によって西インド諸島のカリブ海インディアンが虐殺される。
1498~1824年の中南米にて、スペイン系白人によってインディアンが虐殺される。
1620~1890年のアメリカ合衆国にて、アメリカ人によってインディアンが虐殺される。
1915年のアルメニアにて、トルコ人によってアルメニア人が虐殺される。
1971年のバングラデシュにて、パキスタン軍によってベンガル人が虐殺される。
1975~1979年のカンボジアにて、クメール・ルージュによってカンボジア人が虐殺される。
 
【一千万人以上の大量虐殺】
1939~1945年のヨーロッパにて、ナチによってユダヤ人・ジプシー・ポーランド人・ロシア人が虐殺される。
1943~1946年のロシアにて、ロシア人によってロシアの反体制者が虐殺される。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

ジャズという音楽はない。
ジャズな人がいるだけ。

ジャズをやっていてもジャズじゃない人がいる。
音楽をやらなくてもジャズな人はいる。

 これは、2014年の秋から放送が始まった「ヨルタモリ」という番組で、ジャズ喫茶の経営者を演じるタモリが何度となく繰り返している主張です。
 11月16日の回のゲストだった松たかこに「ジャズを歌ってみたら」と勧め、彼女に「ジャズを勉強したい」と返されたタモリは、「勉強」という響きに引っ掛かったのか以下のような説教をします。

ジャズという音楽はない。
ジャズな人がいるだけ。
ジャズという音楽があるようであるわけではない。

ジャズをやっていてもジャズじゃない人がいる。
音楽大学でピアノをやっていて凄いテクニックをジャズを好きでやっていてもジャズな人ではない人がいる。

(松たかこは)真面目で完璧に仕上げる方だと歌を聞いて思うが、それはそれでいいと思うがいっぺん自由にそこんとこ少し音が外れたってやってみようという気持ちが出たときに凄いジャズな人になると思う。

歌うということは「歌うということ」をやめること。
歌は語りの延長線上にあるもの。
「シングライクトーキング」という言葉があるように語るように歌え。

ここでこう、ここで盛り上げる、ここで帰着させて余韻を残す、など一旦やるがそれをやった後にそれをやめたら凄い歌になる。
それをこれから目標にしてもらいたい。

 もともとは世界中に様々な形で存在していたはずの音楽。
 タモリの言葉は、西欧諸国の世界侵略とともに五線譜やおたまじゃくしによってお行儀よく規格化されてしまった、近代以降の権威的な音楽の世界へのアンチテーゼとも言えるでしょう。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/02/01/080937

 私はジャズそのものにはあまり詳しくありませんが、タモリの言葉はお囃子など日本の芸能にも通じるところがあるなと共感できました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/02/10/063900
 ですから私も、タモリに習ってお囃子に関する格言を作ってみました。

お囃子という音楽はない。
囃し合える場所があるだけ。

お囃子をやっていても囃し合わない人たちがいる。
音楽をやらなくても囃し合っている場所はある。

 たとえば音楽の専門化がジャズやお囃子の演奏を再現するために、パートごとに音色を分析して楽譜に起こし、各パートの奏者が個々のパフォーマンスを正確に再現して全員同時に鳴らしたとしましょう。
 でも、そういった規格化されただけの一斉演奏はジャズともお囃子とも呼べない代物でしょう。
 お行儀よく手なずけられた音楽の考え方のみでは、ジャズじゃないジャズや、囃し合わないお囃子みたいな微妙な模造品を生むだけです。

 囃子とは、語りや唄や踊りや祭りや山車の進行といった人の営みを盛り上げるための言わば「合いの手」であり、音楽として単体で見せびらかすためのものではありません。
 囃せているかどうかは、そのお囃子によって「語り手が語りやすくなっているか」「唄いやすくなっているか」「踊りやすくなっているか」「祭りの場が高揚しているか」「山車の曳き手が曳きやすくなっているか」などによって決まるもの。
 その目的意識を持たずに、規格化された音楽の基準で再現しただけのお囃子など、料理に喩えるならば「美味いか不味いか」という問題以前に食べることすらできないただの食品サンプルのようなものです。

 長野にある歌舞劇団田楽座は、全国各地のお祭り芸能の担い手に師事し、ただ単に曲の音階や踊りの振り付けだけでなく、そういった担い手たちの心意気までも舞台の上で表現しようと取り組んでいます。
 また、和の色合い豊かなお囃子の曲を創作し、演奏を通じてそういった日本古来の心意気を追体験できるようにと、地元の芸能を持たないような全国のファンや太鼓チームの共有財産として提供しています。
http://www.valley.ne.jp/~dengaku/

 こうして創られたほとんどの田楽座の曲には、全国各地のお祭りにある踊りや山車のような「囃されるべき分かりやすい対象」は設定されていません。
 その代わりとしてなのか、田楽座は「人の輪そのものを囃し立てる」「笛や太鼓など演奏する者同士が互いに囃し合う」というコミュニケーションのあり方を提唱し、「人と人とを繋ぐツールとしてのお囃子」という考え方を普及しています。

これが和の心だ。
これが日本の伝統文化の新しい姿だ。

 いわゆる和太鼓の世界では、こんなフレーズを頻繁に耳にします。
 ですが、実際に舞台の上で繰り広げられているのは、テクニックや迫力を誇示するだけの見せびらかしパフォーマンスであることがほとんど。

 そんな規格化された「和の心」や「日本の伝統文化」が、日本に受け継がれてきた伝統の系譜と呼べるものなのか。
 地元のお祭り芸能の担い手の心意気を大切にする田楽座の活動は、そんな軽薄な「和の舞台パフォーマンス」の世界へのアンチテーゼとしても読み取ることができます。

 私は大学院生のころに田楽座と出会って和太鼓や篠笛や民舞などにハマり、田楽座が伝える「祭りが繋ぐ人の輪」や「囃し合いの精神」に感化されて、2004年の春に地元福岡で田楽座ファンの太鼓チームを中心とする交流グループを立ち上げました。
http://dengakuza-fukuokanokai.jimdo.com/
 そこから「にぎわい祭り」という年に一度の太鼓チームの交流イベントが生まれ、交流の輪がじわじわと広がってきて今年で8回目を迎えることができています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/10/05/163718

 これからも規格化された単なる「和の舞台パフォーマンス」の披露に陥らないよう、初心を忘れずに互いの交流を楽しんでいけたらと思います。
 そのためには、田楽座が教えてくれた「囃し合いの精神」をしっかりと伝えていきたいですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

地球上の誰かがふと思った
人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにすむだろうか……

地球上の誰かがふと思った
人間の数が100分の1になったらたれ流される毒も100分の1になるのだろうか……

誰かがふと思った
『生物の未来を守らねば……』

 これは、岩明均の名作漫画『寄生獣』の冒頭で投げかけられるメッセージです。
 作品のテーマを一言でまとめてみるならば、「生物同士の共生をどのように考えるか」ということになるでしょう。

 この物語に登場するのは、人体に潜り込み脳味噌を食べて頭部と同化する寄生生物。
 そうして人の体を乗っ取った寄生生物は、頭部を無数の刃に変形させ、人を切り刻んで「捕食」します。

 単なるスプラッタものとの違いは、寄生生物は人間の言葉を理解できる程度の知能を持っており、自らの生命を守るためにそれぞれが身に付けた知恵を徐々に活かしていくこと。
 最初のうちは本能に任せて手近な人間を食べ漁る寄生生物ですが、騒がれたり駆除されたりするうちに人間の社会を学習し、自分達の「食事」をより安全に行うために人の姿で街中に紛れ込むようになります。

 主人公の新一は、この寄生生物に潜り込まれながらも脳の替わりに右腕を乗っ取られてしまった高校生です。
 人食いの本能に目覚めなかった右腕の寄生生物はミギーと名付けられ、新一との奇妙な共同生活の中でヒトの生態を学習し、テレビや書物やなどからも人間社会に関する知識を熱心に勉強していきます。

 他の寄生生物に人食いの習性があることを知った新一は、ミギーと共生していることで知り得た寄生生物に関する知識を、自分だけが知っていていいんだろうかと葛藤します。
 人類全体のために自らの知っていることを公表せねばという義務感にかられる新一に対し、ミギーは「そんなことをすれば自分は実験台にされるし新一もまともな社会生活が送れなくなる」と反論します。

 このミギーの冷静な見解を新一は頭では理解できますが、それでも感情の問題として「今この瞬間に人間が寄生生物に食われているかもしれない」という状況を見過ごすことができません。
 どうにかして人間たちを寄生生物から守るべきだと考える新一は、ミギーと口論になってしまいます。

シンイチの理屈はよくわからん
わたしの『仲間』はただ食ってるだけだろう……
生物なら当然の行為じゃないか
シンイチにとっては同種が食われるのがそんなにイヤなことなのか?

当たりめえだろ!
人の命ってのは尊いんだよ!

わからん……
尊いのは自分の命だけだ……
わたしはわたしの命以外を大事に考えたことはない

 この「人間性に欠ける発言」に対して新一がムキになって侮辱すると、危険の芽を感じとったミギーは「自分の身を守るためなら口がきけない程度に新一を傷付けることもできる」と脅します。
 恐れおののいた新一は「悪魔!」という非難の言葉をぶつけますが、その後ミギーにこう反論されてしまいます。

シンイチ……
『悪魔』というのを本で調べたが……
いちばんそれに近い生物はやはり人間だと思うぞ……

人間はあらゆる種類の生き物を殺し食っているがわたしの『仲間』たちが食うのはほんの1~2種類だ……
質素なものさ

 このようなやりとりを通して、私たち現代人の人間中心主義的な偏見が相対化されていくのがこの作品の魅力です。
 高い知能を誇る「田宮良子」という寄生生物とのやりとりも見所。
 彼女は高校の数学教師として働いてみたり、人間としての妊娠や出産や子育てを経験したり、大学の講義を受けたりしながら、人間と自分たち寄生生物の生態とを比較研究しており、新一とも以下のような対話を何度か重ねていきます。

寄生生物も成長しているのよ
ただやみくもに人間を食い殺しつづけることが安全な道ではないことにもう気づいているわ
これからはある意味で人間たちとの共存を考えなきゃいけないところにきていると思うのよ

ふ……ふざけるな!
共存なんて……
人食いの化け物どもと!

例えば人間と家畜は共存してるとは言えない?
もちろん対等ではないわ
ブタから見れば人間は一方的な人(ブタ)食いの化け物になるわけだしね

人間たち自身がもっと雄大な言い方をしてるじゃない
「地球の生物全体が共存していかねばならない」

 そしてこの雄大な思想を持っている人間の一人として、広川という男が描かれます。
 彼は「地球の生物全体が共存していくためには人間の数を減らさなければならない」と信じており、市長戦に立候補して自治体を合法的に掌握し、寄生生物たちが人間を穏便に連れ込むための「食堂」を行政の力で密かに整備します。

 これに対し、警察や自衛隊は寄生生物たちの一大拠点となった市役所を完全に包囲し、寄生生物たちの一斉掃討作戦を実行に移します。
 一般人の巻き添えも厭わずに寄生生物たちを銃殺し続ける部隊に向けて、広川市長がぶった演説は以下のようなものです。

こと「殺し」に関しては地球上で人間の右に出るものはない

もうしばらくしたら我々という存在の重要さに気づき保護さえするようになるはずだ
きみらは自らの「天敵」をもっと大事にしなければならんのだよ

地球上の誰かがふと思ったのだ
生物の未来を守らねばと……

環境保護も動物愛護もすべては人間を目安とした歪なものばかりだ
なぜそれを認めようとせん!

人間1種の繁栄よりも生物全体を考える!!
そうしてこそ万物の霊長だ!!

人間に寄生し生物全体のバランスを保つ役割を担う我々から比べれば人間どもこそ地球を蝕む寄生虫!!
いや……寄生獣か!

 この大規模な寄生生物掃討作戦への協力者として新一は目を付けられ、最強の寄生生物「後藤」に命を狙われてしまいます。
 ミギーとの必死の共闘でなんとか「後藤」を撃退した新一は、瀕死の状態から蘇生しかけている「後藤」にトドメをさすかどうかの決断をミギーから委ねられます。
 己の責任でジャッジを下すことに躊躇する新一と、それを見守るミギーとのやりとりがこの物語のクライマックスと言えるでしょう。

好きにしろ
いやならやめればいい
今のうちに遠くへ逃げるという手もある

でも……
それじゃまた人が何人も殺されることになる!
それなら何も考えることは……

(弱っている「後藤」の姿を見て)
こいつらも……
必死に生きてるんだな……

そりゃそうさ

寄生生物はだいたい何のために生まれてきたんだ
増えすぎた人間を殺すため?
地球を汚した人間を減らすためか?

生き物全体から見たら人間が毒で……
寄生生物は薬ってわけかよ

誰が決める?
人間と……それ以外の生命の目方を誰が決めてくれるんだ?

殺したくない……
正直言って……
必死に生きぬこうとしている生き物を殺したくはない……

そうだ…… 殺したくないんだよ!
殺したくないって思う心が……人間に残された最後の宝じゃないのか

こいつは人間とは別の生き物なんだよ
人間の都合ばかり押しつけたくない

おれは今……人間としてとんでもない重罪を犯そうとしているのかもしれない
……でも

人間に害があるからってその生物には生きる権利がないっていうのか
人間にとって不都合だとしてもそれは地球全体にしてみればむしろ……

 このように考えた新一は、人間の利益のみを優先する傲慢さへの反省から、人間の勝手な都合でトドメをさすことを一旦は思いとどまります。
 人食いの化け物を見逃すことが人間として許されるのかと迷いながらも地球の生物全体のバランスを尊重しようとする新一ですが、そんな借り物の主張に振り回される様をミギーは冷静に見ています。

シンイチ……きみは地球を美しいと思うかい?

わたしは恥ずかしげもなく「地球のために」と言う人間がきらいだ……
なぜなら地球ははじめから泣きも笑いもしないからな

なにしろ地球で最初の生命体は煮えた硫化水素の中で生まれたんだそうだ

 ミギーがここで指摘したのは、地球全体の立場とやらを勝手に代弁しようとする人間特有の思い上がり。
 そもそも新一という個人には、人類の立場も、ましてや地球上の生物全体の立場など、代表する資格なんてない。
 ミギーの言葉からそう気付かされたのか、新一は自分の身の丈に応じて力を奮う覚悟を決めます。

おれはちっぽけな……1匹の人間だ
せいぜい小さな家族を守る程度の……

……ごめんよ
きみは悪くなんかない……
でも……ごめんよ……

 こうして新一は自らの手で「後藤」にトドメをさします。
 これは別に生物全体のバランスよりも人類にとっての平和を優先したとか、そんな大層な話ではありません。
 ただ単に、自分の命を脅かしかねない敵を確実に仕留めることで、新一自身の生存率を高めたというだけのことです。

自分が生きるために他の命を犠牲にする
動物はそうやって生きているのだ

 ミギーは新一に向かって、常日頃からこう言って聞かせていました。
 人間社会の教育によって刷り込まれた建前論に散々振り回され続けた新一ですが、あまりにも多くの命のやりとりに巻き込まれていく中で、食物連鎖の中を生きるただのプレイヤーとしての立場にようやく立ち返ることができたわけです。
 後に新一は、自らの価値観の変化をこう総括します。

他の生き物を守るのは人間自身がさびしいからだ
環境を守るのは人間自身が滅びたくないから
人間の心には人間個人の満足があるだけなんだ

でもそれでいいしそれがすべてだと思う
人間の物差しを使って人間自身を蔑んでみたって意味がない

 この世はもともと、お互いが自由に影響し合う世界です。
 殺し合い、奪い合い、脅し合い、騙し合い、妥協し合い、協力し合う。
 このように、生存を賭けてそれぞれが好き勝手に影響し合っているのが生物たちの実態です。

 「世界全体のバランスから見た善し悪し」なんてものは、世界の管理者としての資格が自分にはあると思い込める者の身の程知らずな誇大妄想でしかありません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/23/144020
 「善良なる管理者の思想」として掲げられてきたエコやロハスやサステナブルといった生き方も、やっている本人たちはまあ気分がいいのでしょう。

 1988年から連載された『寄生獣』という作品は、 世間で口うるさく強調されるこうした共生の思想が、人間たちの自己満足のあり方の一部に過ぎないと徹底的に相対化し続けました。
 過大な正義を追いかける広川のような理想主義者の生き方も、新一のような一個人としての等身大の生き方も、「自己満足を求める生き方」という意味では何ら変わりはない。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/25/084508
 こう描くことで、世間で叫ばれる歯切れの良い正しさに媚びなくても別に後ろめたさを感じる必要はないんだと、読者を勇気づけてくれていたのだと思います。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/18/002319


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 2015年2月9日放送の「5時に夢中!」というテレビ番組の中で、読売新聞の以下の記事が紹介されました。

外務省は7日、イスラム過激派組織イスラム国の勢力圏があるシリア北部に渡航しようとした新潟県在住の50歳代の新潟県在住の男性に対し、旅券(パスポート)の返納を命じ、受け取ったと発表した。
旅券法は、生命、身体、財産を保護するため、旅券返納を命じることができると定めているが、すべての国への渡航を制限することになるため、この理由での適用はなく、初の事例となった。

外務省は、イスラム国による日本人人質事件を踏まえ、今後もイスラム国の支配する地域への渡航については旅券の返納命令を出し、入国を阻止する方針だ。
返納命令に従わない場合、その旅券は失効する。

男性はカメラマンで、トルコ経由でシリア北部に入ることを計画していた。
外務省と警察庁が再三、渡航の取りやめを求めたが、応じなかったという。

憲法は「海外渡航の自由」を保障しており、渡航を制限することは原則できないが、同地域に関しては、「生命が危機にさらされる可能性が高く、例外に当たる」(外務省幹部)と判断した。

男性は読売新聞の取材に対し、「イスラム国支配下から逃れてきたクルド人難民らを取材する計画だった。法的措置が取れるか検討したい」と話した。

 この記事に対して、株式評論家の若林史江は「渡航の自由」や「知る権利」を外務省がたやすく制限してよいのかという論調で、以下のように発言しました。

旅券返納を命じることができる一方で、私たちは渡航の自由というのも憲法で定められているので、じゃあどっちを取るのかということですよね。
だからじゃあ後藤さん(日本人人質事件で殺害されたとされるフリージャーナリスト)を行かせた国が悪かったのか良かったのかって賛否もあると思うんですけど。
ただ、何でもいいって今のシリアに対してやってしまうと確かに大きな国益を損なうことにまでなってしまうってとこがあるので。

国が、全てをダメなんではなくて。
やっぱり私たちって知る権利があるじゃないですか、その僻地だったり紛争地の。
そういう人たちを取材して私たちは知るということをしなければいけない、その戦地をね。
目を塞ぐことはできないわけですよ。

だから、この取材に行ってくれる人っていうのはやっぱり国益として大事にしなきゃいけないし。
その境を外務省が出す出さないっていうのは。
ちゃんとその人たちの人格だったり仕事だったりとか、もちろん知識だったりとかを調べて、まあ、あの可否をすればいいのかなっていう感じはしますけどね。

 それに対してエッセイストのマツコ・デラックスは、外務省の今回の決断は仕方ないのではと擁護する見解を述べました。

難しいよね、それは。
じゃあその線引きを、どこでするかっていう話になっちゃうじゃん。
たとえばだから、後藤さんなんかは、NHKですらさ、素材を使うような人だったわけじゃない。
それぐらい…。

でもそれも難しいよね。
それぐらいちゃんとしてるジャーナリストかそうじゃないかっていう線引きだって、外務省が決めるったって難しいから。
こういうときは…いいんじゃない?

 対する若林史江は「じゃあ、海外の人が挙げたYouTubeの画像を見てればいいってこと?」と、マツコ・デラックスの擁護に疑問を呈します。
 「日本独自のジャーナリズムを放棄するつもりか」というこのつっこみに対し、マツコも何とか対案を述べようとしますが歯切れよく答えることはできません。

じゃあ共同通信だったり、そういうところに所属してる人に任せましょうとかね。
あ、でも、フリーだから行けるところもあるんだろうしね。

 若林史江はさらに「フリーだからこそ自分の意思でそこに、危険地帯まで行って…」とフリージャーナリストの存在意義を語りますが、ここで司会のふかわりょうが思わず口を挟みました。

「もう助けませんよ」というのは駄目なんでしょうか?

 これに対し「行ってもいいけどってこと?」とマツコ・デラックスが確認すると、ふかわりょうは「はい」と応えました。
 このふかわりょうの発言は「単なる民間人が勝手な使命感を偉そうに主張しているだけではないか」「分かっていて自分から危険地帯に飛び込む人を国がわざわざ助けてやらないといけないのか」といった自己責任論を反映しています。

 それまで意見を交わしていた二人のコメンテーターは、この率直な指摘にしばらく黙ってしまいました。
 最終的にはマツコ・デラックスが「それは私たちには決められない」と静かに発言することで、このコーナーは締め括られています。

 もしこの「行くのは止めないが助けもしない」という提案を認めてしまっていたら、小難しいべき論者たちからの「国家が国民を見捨てることを許すのか」といった厳しい非難は避けられなかったでしょう。
 ですから、素朴な庶民感覚を代弁するふかわりょうの言い分に仮に共感できたとしても、テレビ番組という公の場で不用意に賛同するわけにはいかなかったのです。

 そもそもパスポートとは、出入国を管理するために国家が渡航者に保管を義務づける書類であり、一個人には所有権なんかありません。
 パスポートによる移動の管理と近代国家との関係を研究したジョン・トーピーは、その著書『パスポートの発明(監視・シティズンシップ・国家)』の中でこうまとめています。

現代の国際パスポートは、何よりもまず、近代国民国家による合法的な移動手段の排他的な独占の主張のあらわれである。
しかし、国家による管理装置であることが今日のパスポートの主要な機能だとしても、パスポートの機能はそれだけに限定されるわけではない。

というのも、パスポートは、人間や領土に官僚的な支配を拡大するのみならず、他国の領域にいるパスポートの所有者に対して発行国が援助や救援をおこなうという保証を与えるからだ。
すなわちパスポートの所有そのものが、発行国の大使館ないし領事館が提供するサーヴィスを利用する正当な権利の証明になる。
いうまでもないが、極端な場合には軍事力の利用もこれに含まれる。

 つまり、国際社会を支配する「人間の移動をパスポートで管理する」という西欧型ルールの中では、他国にいるパスポートの所有者に対して発行国が援助や救援を保証することが織り込まれています。
 ですから、ふかわりょうの「パスポートは持たせるけど助けない」という提案は現行の国際ルールから逸脱するものであり、日本が国際社会の一員としての地位を守りたいなら絶対に駄目なのです。
 この件に関して、外務省には「生命を守るために行かせない」か「いざというときは助けることを前提に行かす」かの選択肢しかなかったわけです。

 逆に言うと、国際社会を支配しているパスポートという仕組みの恩恵を受けるためには、出入国を国家に管理されることに同意する必要があるということでもあります。
 日本国が保証している渡航の自由とは公共の福祉に反しない範囲のものでしかありませんから、日本人がこの国際社会を合法的に移動したいのなら、自らの行動が公共の福祉に反しないことを日本国に納得させるしかありません。

 そうした努力もなしに「そもそも外務省ごときがジャーナリストの行動を制限するのがおかしい」と言うのなら、その文句は外務省や日本国ではなく「自国への出入国を管理する権限を国家の主権として認める」という国際社会のルールに対して向けるべきです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/23/144020
 人々の移動を制限する国際社会のルールよりもジャーナリストとしての使命感や正義感の方が大事と言うのなら、パスポートという仕組みの恩恵なしに行動するしかないでしょう。
 それほどの度胸があればの話ですが。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

 勝てば官軍、負ければ賊軍。
 このことわざは、たとえ道理にそむいても戦いに勝った者が正義となり負けた者は不正となるという意味であり、戦いの勝敗によって物事の正邪善悪が決まってしまうことを表しています。  

 今日私たち日本人は、近現代史の官軍であるキリスト教勢力が築き上げてきた世界秩序に従って生きています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/02/01/080937
 そのため、そうした官軍側の価値観と合わない考え方を無意識のうちに「正しくないもの」として捉える癖がついています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/23/144020

 その一つに、官軍側に属さないイスラム世界への偏見が挙げられます。
 2015年2月5日現在、インターネット検索サイトGoogleで「イスラム」という言葉を検索してみると、関連キーワードとして以下のような語群が表示されます。

イスラム原理主義  イスラム革命
イスラム金融    イスラム 食事
イスラム暦     イスラム 女性差別
イスラム帝国    イスラム語 翻訳
イスラム過激派   イスラム国

 ここからは「厳しい戒律がある」「一夫多妻など女性差別が根強い」「テロの温床となっている」といったイスラム世界へのステレオタイプな先入観が読み取れます。
 このような硬直した偏見を再検討するための参考文献として、今回は思想家内田樹とイスラーム学者中田孝による対談を元にした共著『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』を紹介したいと思います。

 中田孝は子どものころからキリスト教が好きで、小学校のころはカトリック教会、中学のころはプロテスタントの教会に通い、東京大学入学後は「駒場聖書研究会」に参加して心理学や歴史学や社会学の観点から聖書を研究していたそうです。
 ですが、三年生の頃に入ったイスラム学科でイスラムの文明や歴史や思想を学んだことで、クリスチャンになろうかムスリムになろうか迷った末に、キリスト教の方が厳しそうだと判断してイスラム教への入信を選んだと言います。

 一般的に「戒律が厳しい」と思われがちなイスラム教ですが、彼自身は「ぜんぜん厳しくない」「あくまでも慣れの問題」と言い、日本社会の暗黙のルールの方がはるかに厳しいと指摘します。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/09/21/211415
 彼はイスラム世界でのごくごく平凡なムスリムの感覚を以下のように描写しています。

はた目には戒律を守っているように見えるかも知れませんが、必ずしも宗教意識ではないです。
別に窮屈だとは当人たちは感じていません。
イスラームの世界にいれば当たり前のことなので。

そんなことより、決まりを守るという点では日本の方がずっと厳しいです。
服装はみんなキチンとしているし、電車は時間通りに来るし。
実は今日も私、この(対談の)約束に二分ほど遅れかけてあせったのですが、それって外国人から見たら「なぜ!」ですよ。
たった二分をなぜそんなに守るのかと。

日本社会の儀礼の方がはるかに煩些です。
マナーに外れた者へのまなざしも厳しいですね。
他国の人が見たら日本人ほど戒律をよく守る民族はいない。

食べ物にしても、イスラームでは当たり前の習慣になってますので、中にいればまったく不自由は感じません。
豚肉だってイスラーム圏ではそもそも存在しませんもの。
なければ食べたいとは思わない。
食べないものを売ってないのは当たり前ですね。

一日五回の礼拝もそうですよ。
どこにでもモスクや礼拝の場所があり、周りの人も礼拝しているわけですから、当たり前だと思えばどうってことない。
その間休めますし、仕事するより礼拝してる方が楽です。

礼拝に行くと言うと、絶対に止められない。
どんな労働をしていても中断してよい。
礼拝の権利を妨げるのはたいへんな罪ですから。

 また、彼は「アッラーは基本、慈悲の神」「懐深く許してくれる性格」だと述べます。
 これもまた「非寛容な宗教文化だ」という世間一般の思い込みとは異なっているので、内田樹がその真意を訊ねたところ彼はこう答えています。

有名な「目には目を、歯には歯を」という言葉がありますね。
あれ、単純な復讐法だと思っている人が多いのですが、厳密にはそうではなくて、イスラームの場合はあくまでも許すのがいちばんいいのです。

これは『クルアーン』にはっきり書かれてまして、人の罪を許すと自分の罪の償いになるので、許すのがいちばんいい。
けれどもそれができない場合は、同じことをやり返してもいい。
しかし自分がされた以上の過剰な復讐は決して行ってはならない。
そういう意味なのです。

ちなみに言いますと、ユダヤ教では、目を潰されたら目を潰さないといけません。
これは義務です。
厳しいのです。

キリスト教の場合は「汝の敵を許せ」で、許さないといけません。
これも別の意味で厳しい。

しかし、イスラームは許すのがいちばんいい。
でも、同じことをやり返してもいい。
二段構えになっているのです。
 
 確かに、危害を加えられた際に「復讐しなければならない」と決められているユダヤ教も「許さなければならない」と決められているキリスト教も、本人に選択の余地がないという意味ではどちらも厳しい戒律と言えます。
 それに対してイスラム教は「やられた以上の復讐さえしなければ最終的には本人次第でよい」という点で、戒律通りにできない人を「復讐しなければならないのに」「許さなければならないのに」といった罪悪感で追い詰めていく他の二つの一神教よりもはるかに柔軟で寛容的だと言えるでしょう。

 さらにイスラム世界では、富める者が貧しい者に財産を与える「喜捨」の文化や、水や食料など生きていくのに必要不可欠なものを共有する相互扶助の文化が当たり前の身体感覚として根付いていると言います。
 これは、あらゆるものに「誰の物であるか」とタグ付けして個々の所有権を守ることばかりに熱心な個人主義社会の感覚とは大違い。
 実際にイスラム圏で暮らしてみての感触を、中田孝は以下のように述べています。

特徴的なこととして、「施し」の文化ということがあります。
イスラームでは困っている人に分け与えることをとてもよしとします。

たしかに、ぼったくりはあるのです。
百円のものを五百円で売りつけるとか。
そういうところは日本人にたいへん評判が悪いのですが、彼ら的にはぜんぜん問題なくて、商売として強欲なのはOKなのです。

しかし、人間として共有すべきものは共有すべきだというシェアの思想は厳然としてあって、例えばタクシーに乗ったら運転手さんがお水を飲んでいて、目が合った。
その時お客さんに「どうぞ」と勧めないのはとんでもないことなのです。
これをやらないのはドケチであり、末代までの恥なのです。

ご存じと思いますが、宗教的に断食する「ラマダン」というものがありますね。
あれも施しの文化と言えます。
約一ヶ月間、日の出から日没まで飲食禁止で、日が暮れると解禁になるのですが、この時期は市中のモスクやレストランで食事がタダで振る舞われます。

教会と違ってモスクはメンバーシップがありませんので、誰でも入れて、お金がなくても食べられます。
日が落ちると人がいっせいに集まってきます。
「ドゥユーフッラフマーン」と言いまして、「アッラーの客」という意味です。

イスラームの世界では施しの考え方が発達していますので、普段からパンくらいは恵んでもらえます。
その上、一年のうち一ヶ月はたらふく食べられる。

こっちの方がよほどすぐれたシステムだと、私、最近思うようになりました。
だって見ていたら、日本の貧しい人、おいしいものを腹いっぱいになんかまったく食べられませんもの。

 そんなわけで、ムスリムの共同体さえしっかりしていれば、イスラム世界には近代国家の枠組みなんてそもそも必要なかったというのが中田孝の所見です。
 実際、イスラムの教えが浸透している町では、富裕な商人たちがそれぞれ財産を出しあって弱者救済や公共事業などを自主的に行うワクフという仕組みでまかなえています。

 彼はイスラム世界の伝統的なムスリムの感覚を「究極のところ、この世は神がお決めになった法によって成り立っているのであり、人間の支配などはどうでもいいと考えている」と説明します。
 その上で、アラブの国々で独裁的な政権がいくつも起こり、国々が全く連携できていない原因を以下のように分析しています。

アラブ世界で独裁制が起こりがちな根本原因が一つあると私は考えています。
(アラブ世界は)もともとは部族主義で、族長という大きな存在がありました。
これに西欧的な国民国家の概念が結びついて最悪になったケースが多いような気がします。

(族長主義とは)族長のところに部族のすべての資源を集中して、族長がみんなに資源を再分配するかたちです。
ですから、ドカンと大きく集めてパッパと分配する気前のよい族長ほどよい族長だという話になります。

遊牧民の場合、共有財産が大きいのでそういうことになります。
しかしですね、だからといって即座にリーダーの独壇場になるわけでもないのです。

彼らは一人では生きられません。
集団でないと生きていけない。
群れから離れる自由がありません。

ですからそこにある種の民主主義が発生するんです。
離れられないので反対の人も多数派に従う。

いやでも共存を模索するところがあって、その意味で遊牧社会はすごく民主主義なのです。
自由でないがゆえに民主主義が発生する。

近代の民主主義とはちょっと違います。
こっちは個人が気ままに生き、自分の思う通りのことをやれる民主主義です。

また、遊牧民の民主主義は判断を誤ったら死にますので絶対間違ってはいけない民主主義ですが、近代の民主主義は少しくらい間違っても構わなくて、それをデフォルトとしてあらかじめ組み込んでいるような民主主義です。

遊牧民の社会では判断を誤ると死んでしまうので、いろいろな場面で軍隊組織的な厳しさが加わります。
即断即決でその場その場を切り抜けていかなければならないので、スピードも加わります。
みんなに信頼される強いリーダーが求められます。

一方、定住の農耕民はもっとのんびりしたネゴシエーションの文化になりますね。
だらだらと時間をかけてみんなで話し合って。

(族長主義のように)トップにいるのが個人であれば、いかにワンマンであっても大した力は持ちえないのです。
でも国家は違います。
法人であり、機関です。
ぜんぜんレベルが違います。

それに族長みたいな性格を持たせたらたいへんなことになりますね。
すべてをいいように牛耳る強大な権力になって、危ない独裁体制が出現してしまう。

彼ら、それがわかっていないのです。
トップが個人か法人かにはとてつもない落差があることがわかってないのです。
そんなこともありまして、私、イスラームにとって法人概念が最大の敵、最大の偶像だと思っているのですよ。

 このような理由で、中田孝は「過去の植民地支配によって西欧から押し付けられた国民国家の枠組みを廃し、イスラム圏にイスラム信仰共同体を復活させるべきだ」とするカリフ制再興論を唱えています。
 これは近現代の官軍側であるキリスト教勢力が築きあげてきた世界秩序に真っ向から逆らう行為だと言えます。

 インドネシアで開かれた「カリフ会議」という十万人規模の集会で「カリフ制再興を世界中に発信しよう」とアラビア語で訴えて熱狂を生んだ彼のスピーチ映像はYouTubeで全世界に配信されており、アメリカの国防情報局は彼を要注意人物に指定しているそうです。
 また、2014年にはイスラム国に戦闘員として参加を希望する当時26歳の日本人学生を仲介をしたとして、警視庁公安部から事情聴取と家宅捜索も受けたとも報じられています。

 官軍側の価値観からすれば中田孝の発信は現在の国際社会の世界秩序を乱すものであり、テロリストたちを増長させる危険な政治思想です。
 ですが、憂き目を見てきたイスラム世界からすれば「宗教と政治は分離すべきだ」という西側諸国からのもっともらしいバッシングは、道理に反して捏造された正しさと映るようで、彼は以下のような反論をしています。

かえって欧米の方が混同していて、政教分離と言いながら宗教的な価値観を背負って相手の陣営に攻め込んでいるところがありますよ。
民主主義も人権も、彼らは宗教と思っていませんが、立派な宗教であり、特にアメリカにはその狂信者、宣教師がたくさんいます。
で、戦争して人を殺しても、これは宗教ではなく政治の部分によってやっているのだとか言い抜けする。

 このように、この世界は力が支配する弱肉強食の説得合戦の場。
 私たちはさまざまな力を用いて互いに説得の応酬を繰り返しており、人類は場を仕切る権限をめぐって激しい思想戦を繰り広げてきました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400

 民主主義や人権思想を背景とした統治を是とする西側勢力と、イスラム法による統治を是とするイスラム世界との対立。
 どちらの価値観にシンパシーを寄せるかは、それまで刷り込まれてきた情報の種類や現実の力関係に左右されます。

 ですから問題は「客観的に正しいのはどちらか」という次元にはありません。
 対立の根本的な原因は、どちらもが「客観的に正しいのはこちらだ」と主観的に信じていることにあるのです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

昔むかし、あるところに、七人家族が暮らしていました。
「戦後日本」と、表札が出ていました。

家族は両親と、五人のきょうだい。
「日本国憲法」「民主主義」「市場経済」「科学技術」「文化芸術」という名の、いい子たちでした。

でもある日、五人とも、養子だったことがわかります。
「キリスト教」という、よその家から貰われて来たのです。

そうか、どうりで。
ときどき、自分でもおかしいなと思うことがあったんだ。
そこできょうだいは相談して、「キリスト教」家を訪問することにしました。

本当の親に会って、自分たちがどうやって生まれたか、育てられたか、教えてもらおう。
忘れてしまった自分たちのルーツがわかったら、もっとしっかりできるような気がする……。

 これは、橋爪大三郎と大澤真幸という二人の社会学者による共著「ふしぎなキリスト教」のあとがきで紹介された喩え話です。
 日本はもともと一神教とはかけ離れた文化的伝統の中にあったため、多くの日本人が近代社会のさまざまなアイデアや制度や物の考え方をキリスト教由来のものとは知らずに使用しています。

 こうした日本人の一神教全般への無知を埋めるためのガイドブックとして、この『ふしぎなキリスト教』は大変重宝する一冊です。
 「日本人の思う八百万の神様と一神教のGodとでは何が違うか」という初歩的なところから、キリスト教が近代社会にもたらした影響まで、抜群にわかりやすくまとめてありますので、今回はその一部分を紹介してみたいと思います。

 冒頭の抜粋で紹介した通り、憲法、民主主義、市場経済、科学技術、文化芸術といった近代社会の屋台骨となる概念はどれもキリスト教の土壌から派生したもの。
 これらは決して、宗教と無縁の中立な価値なんかではありません。
 そして、社会の基盤をこうしたキリスト教由来の価値に頼っておきながら、自らの立場の中立性の無さをほとんど自覚していないのが大多数の日本人の現状です。
 
 その無自覚さがイスラム世界に対する素朴な偏見にも現れています。
 大澤真幸は、イスラム世界での「深刻な人権侵害」を非難するときの西側諸国の口ぶりを、中立で真っ当な見方によるものだと素朴に信じてしまう日本人の迂闊さにこう疑問を呈しました。

たとえば、主権とか、人権とか、近代的な民主主義などは一般に、宗教から独立の、あるいは宗教色を脱した概念だと見なされている。
実際、イスラム世界のどこかの国が、イスラム教に忠実な制度や政策をとると、西洋をはじめとする諸国は「そんな神権政治のようなものはダメだ。人権や自由や民主主義といった世俗の価値を優先させるべきだ」と批判する。

つまり、宗教を斥けるために利用しているわけですね。
しかし、こうした宗教色を脱した概念自体がキリスト教という宗教の産物なのではないでしょうか。

 この問題提起に対して橋爪大三郎は同意し、その問題の根っこが「ユダヤ法やイスラム法のような宗教法をキリスト教は持っていない」という点にあると述べます。
 日本人には縁の薄いこの「宗教法」という概念を、彼らは以下のように解説しています。

ユダヤ教にとっては、律法つまり法律が重要ですよね。
でも日本人にとっては法律と宗教は別のものなので、律法とは何か、何のためにうるさい律法があるのかピンとこないのではないかと思います。

ユダヤ教の律法は、ユダヤ民族の生活ルールをひとつ残らず列挙して、それをヤハウェの命令(神との契約)だとする。
衣食住、生活歴、刑法民法商法家族法……、日常生活の一切合切が、法律なのです。

もしも日本がどこかの国に占領されて、みながニューヨークみたいなところに拉致されたとする。
百年経っても子孫が、日本人のままでいるにはどうしたらいいか。

それには、日本人の風俗習慣を、なるべくたくさん列挙する。
そして、法律にしてしまえばいいんです。

正月にはお雑煮を食べなさい。
お餅はこう切って、鶏肉と里イモとほうれん草を入れること。
夏には浴衣を着て、花火大会を見物に行くこと。

……みたいなことが、ぎっしり書いてある本をつくる。
そしてそれを、天照大神との契約にする。

これを守って暮らせば、百年経っても、いや千年経っても、日本人のままでいられるのではないか。
こういう考えで、律法はできているんですね。

モーセの律法をまとめたモーセ五書(旧約聖書の最初の五つの書物)の、たとえば『申命記』をみると、食物規制が載っている。
食べてよいもの、食べてはいけないもののリストです。
清いものは食べてよい、穢れたものは食べてはいけないと、神が決めた。

国家はあてにならない。
あてになるのはGod(ヤハウェ)だけだ。
Godとの契約を守っていれば、国家が消滅しても、また再建できる。
こういう考え方だから、政治情勢がどうあろうと、信仰が持続するんです。

イスラム教も、生活のルールを定める宗教法を持っている点では、ユダヤ教とそっくりです。

宗教法(ユダヤ法でもイスラム法でも)の伝統では、法をつくる主体(立法者)は神なんです。
Godが法をつくる。
人間も法をつくることができますけど、神の法をつくることはできないし、人間のつくる法は、神の法より下位の法。

 というわけで、こうした宗教法に従うイスラム世界の人々にとって、人の手によって作られる国家の法律が神の法に準じるのは当たり前。
 「人権や自由や民主主義といった世俗の価値を宗教法よりも優先すべし」といった西側諸国の介入は、彼らにとって信仰への冒涜とも受け取れるものです。

 それに対してキリスト教は、ユダヤ教内にあった硬直した律法至上主義に対する批判から生まれたものです。
 キリスト教から「宗教法に従う」という制度が斥けられた理由を、橋爪大三郎は以下のように噛み砕いて説明しています。 

キリスト教からすると、まずノアの洪水(神の直接行動による処罰)があって、それから、契約(モーセの律法)によって人間に規範を与えた。
でも、ルール通りにできない罪をどうするかという問題になり、それが無視できないまでになったとき、イエス・キリストが現れた。

イエスが十字架で死んだりしないで、直接、最後の審判が行われたら、たぶん、ほとんどの人間は、救われない。
神は、それをしたくなかったんです。

そこで、別な計画(シナリオ)を用意した。
それによると、最初にイエスが、ただの人間(人の子)として現れて、人間の罪を背負ってみじめに死んでしまう。
そして、復活する。
そのあと、天に昇った。

天に昇ったのは、やがて再臨するため。
そのときは、本格的な神の介入になる。

イエス・キリストは人間に殺されたので、人間に復讐する資格がある。
人間は、どんな罰を受けても文句は言えない。

でも逆に、イエス・キリストには、人間を赦す資格がある。
イエス・キリストは人間として死んだので、罰はもう済んだと言える。

どちらになるかは、イエス・キリストの裁量です。
イエス・キリストが再臨する「主の日」に、最後の審判を行なう。
こういう、ワンクッションを置いた。
これが、キリスト教の考える、神の計画です。

これは、契約の更改を意味します。
モーセの律法は、効力停止になった。
神の介入によって。
イエス・キリストがこの世に生まれたのは、神の介入なのです。

これまでの、律法に従うというゲームは、ルールが変わって、今度は、神の新しい計画によって与えられたチャンスを信じる、というゲームになった。

神は、なるべく多くの人間を救おうとしている。
このままだと全員救われないので、ルールを変えてまで、人間を救おうとしている。
そういうメッセージを人間に伝えた。

ところが、このメッセージを受け取っても、それが救いのメッセージだと思う人と、思わない人がいる。
思う人は、信仰を持っていて、思わない人は、信仰を持っていないわけだな。

 こうして「律法に従う」というがんじがらめのルールから解放され、「神の愛を信じる」という新しいゲームに乗り換えたキリスト教徒たちの社会では、宗教法に縛られずに世俗の法律を自由に作れるようになります。
 他の一神教にはないキリスト教のこの自由さを、橋爪大三郎は以下のように説明します。

キリスト教徒がなぜ自由に法律をつくれるかというと、キリスト教会がそもそも法律をつくらないから。
初期教会は、ローマ帝国のただの任意団体で、力がなくてつくれなかった。

法律は、ローマ帝国の法律を守りましょう。
ローマ帝国はキリスト教と関係ない、異教徒の団体ですから、その法律は世俗法です。

で、ローマ帝国がなくなった。
じゃあ、ゲルマン慣習法があるから、ゲルマン慣習法を守りましょう。
イギリスのコモン・ローを守りましょう。

そういう法律が時代遅れになった。
じゃあ、自分たちで新しい法律をつくりましょう。
代表が議会に集まって、立法しましょう。
ということで、議会制民主主義が始まった。

社会が近代化できるかどうかの大きなカギは、自由に新しい法律をつくれるか、です。
キリスト教はこれができた。

たとえば、銀行をつくって、利子をとって、企業に当座預金の口座を設定して、小切手を切らせて、手形を割り引いて、みたいなことをやろうと思うと、相当に複雑な法的操作が必要になります。

ユダヤ人が考えることは、まず、これはユダヤ法に書いてあるか。
イスラム教徒が考えることは、まず、これはコルアーンに書いてあるか、スンナに書いてあるか、イスラム法的に正しいか。

キリスト教徒はそんなことは考えない。
キリスト教徒が考えるのは、まず、何をやりたいかという目的。
そして、禁止されていないかどうか。
禁止されていないことは「できる」と考える。

これに加えて、キリスト教を近代合理精神の担い手に押し上げたものはなにか。
宗教改革は、キリスト教の原則に立つなら、伝統社会の慣習も教会の慣習も、聖書に根拠をもたないならすべて無意味であるという結論を導いた。
ローマ教会は慣習の塊だったから、宗教改革のこの批判は決定的な意味をもった。

 そしてこの比較的自由度の高い信仰から、従来型の慣習にとらわれず理性的に考えようとする近代科学や人権思想などが確立していきました。
 橋爪大三郎の解説はこうです。

キリスト教徒ははじめ、理性のことなんかあまり考えていなかったけれど、イスラム教経由でアリストテレスをはじめギリシア哲学を受け入れてから、あらためて真剣に考えるようになった。

キリスト教徒は、理性を、宗教的な意味で再解釈したんです。
その結論は非常に重要。

キリスト教の考え方では、神は世界を創造した。
人間も創造した。

神にはその設計図があり、意図があるんです。
人間が神を理解しようと思うと、神の設計図や神の意図を理解しなければなりません。

でも、どうやって?
その可能性を与えるのが理性なんです。

『神学大全』の、ユダヤ法について書いてある「旧法」の部分をみると、法には「神の法があり、自然法があり、国王の法がある」と書いてある。
キリスト教神学の教えるところによれば、法は、神の法/自然法/国王の法(人間のつくった法、制定法のこと)と、階層構造になっている。

神の法とは、神が宇宙をつくった設計図のことです。
これは、神の言葉で神の書物に書いてあり、人間は目にできないし、理解することもできない。

ただし、一部分であれば、人間も知ることができる。
その一部分を、自然法といいます。
自然法は、神の法のうち、人間の理性によって発見できる部分です。

立法者は神で、人間はそれを発見するだけ。
理性は、人間の精神能力のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです。

人間は罪深く、限界があり、神よりずっと劣っているけれど、理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない。
数学の証明や論理の運びは、人間がやっても、神と同じステップを踏む。
ゆえに、自然法を発見することができる。
こう位置づけるのが、キリスト教神学です。

アリストテレスはたしかに理性を使って、自然はこうなっていると書いたけれども、それは神の設計図どおりである証拠がない。
それを、自分の理性を使って確かめてみましょう。
そうしたら、コペルニクスになり、ケプラーになり、デカルトになり、ニュートンになるでしょう。

自然現象がうまく解明できたら、今度は、社会現象についても理性を適応してみよう、となる。
そうしたら、スピノザになり、ホッブズになり、ルソーになり、ロックになり、ヒュームになり、カントになるでしょう。
ヘーゲル、マルクスにもなったりした。

これら(哲学、自然科学、社会科学)は、信仰が理性を正しいものと是認したことでスタートし、キリスト教的文脈と離れても、ときにはキリスト教に反対してまでも、理性的にふるまう理性主義を生み出した。
たとえばフランスでは、大革命のときに、カトリック教会と絶縁し、教会領を没収し、フランス共和国を樹立し、理性神を拝んだりした。

自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか。
それはすでにのべたように、まず、人間の理性に対する信頼が育まれたから。
そして、もうひとつ大事なことは、世界を神が創造したと固く信じたから。
この二つが、自然科学の車の両輪となります。

日本の神道みたいに考えれば、山には山のカミ、川には川のカミ、植物には植物の、動物には動物のカミがいるでしょう。
山に穴を掘ったり、自然の実験・観察をしようとしたりすると、カミと衝突してしまうわけです。
カミに、それはやめてくれ、と言われてしまう。

で、一神教では、神は世界を創造したあと、出ていってしまった。
世界のなかには、もうどんな神もいなくて、人間がいちばん偉い。

世界は神がつくったのだけれども、そのあとはただのモノです。
ただのモノである世界の中心で、人間が理性をもっている。

この認識から自然科学が始まる。
こんな認識が成立するのは、めったにないことなんです。

人権も、神が自然法を通じて、人びとに与えた権利という意味がある。
神が与えた権利を、国家が奪うことはできないから、そのことをはっきり、憲法に人権条項をつくって書き込んでおくのです。

自然法はいつ制定されたかと言えば、天地がつくられたのと同時のはず。
そこで、ネイチャー(神がつくったそのまま)の法と呼ばれる。

キリスト教徒がなぜわざわざ、自然法などというものを考えなければならないかとい言うと、宗教法を持っていないから。
世俗法にまかせておいたのでは、キリスト教徒の権利が守れないかもしれないから、です。

 つまり、イスラム世界を非難するときの「人権を無視した慣習をいつまでも続けるな」という西側諸国の口ぶりは、歴史的な背景から考えると極めてキリスト教的、プロテスタント的な物言いです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11883543883.html
 理不尽と思える慣習を解体しようとする近代化の流れは決して宗教色を脱したものではなく、キリスト教勢力の形を変えた拡大戦略とも言えるわけです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11955556510.html

 しかし、近代化をリードするキリスト教勢力が「時代遅れの悪習」としかみなしていないイスラム世界の慣習は、イスラム教徒にとっては厳格な「神の法」に従うためのもの。
 アッラーに「神の法」を直接与えられたと信じるイスラム教徒の目には、「自然法」などと言い張って西側諸国が世界中に飲み込ませようとしている人権思想こそ「格下の世俗法」だと映るでしょう。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html

 多くの日本人はこうした一神教同士の価値観の対立を理解しないまま、理性主義や人権思想や民主主義といったキリスト教勢力の価値観を当然のものとして植え付けられているため、贔屓目なしの公平中立な視点などは最初から持てていません。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11884786421.html
 西側諸国とイスラム世界との対立を理解しようと思うのなら、知らず知らずのうちに刷り込まれてきたキリスト教的な色眼鏡を、試しに一度外してみる必要があるでしょうね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 日本では、政治の話題というとその大半がネガティブなものになりがちです。
 日々のニュースにおいても、ポジティブな情報よりはネガティブな情報の方がはるかに豊富なように思います。
 そこで今回は、人生をのびのびと楽しむための建設的な政治との付き合い方を考えてみたいと思います。
 
 まず、政治の不満を解消する一番シンプルな方法は、自分自身が世界を直接動かす力を持つということです。
 世の中を動かすほどの発言力を持った政治家になる、財界人になる、科学者になる、宗教家になる、思想家になる、などなど、過去に世界を動かしてきた偉人たちの実例があるのですから、可能性はゼロではないはずです。

 次に、政治運動に積極的に参加するという手段もあります。
 応援している政治家や政党の影響力を拡大するために、ただ単に自分が一票を投票するだけでなく、共感してくれる支持者を増やすための権力闘争的な活動に生涯を捧げる人もいるでしょう。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11967241170.html
 現在の政治の仕組み自体が気にくわないなら、根本的な選挙制度から見直しを迫るための活動を応援するという人もいるでしょう。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11969358077.html

 そして、単に会話のネタとして消費するという活用法もあります。
 これはこれで、人生を楽しむための前向きな対処法の一つと言えるでしょう。
 「世の中間違ってる」といった愚痴を共有することで、会話が弾んで仲間ができて酒が美味くなってストレスが発散できるなら万々歳じゃないですか。  

 さらには、政治の話題とは一定の距離を置いて、ただただ自分の身の回りを充実させるための活動に専念するという手もあります。
 政治に勝手な期待をかけておいて、自分の思い通りにならないからと常に腹を立てているよりは、最初から政治に余計な期待をせずに、自分自身のストレスケアや身近な対人関係の良好化に努める方が、努力が直接結果に結び付きやすいため精神衛生上好ましいという人もいるでしょう。

 世の中を直接動かす人になる、政治運動に積極的に参加する、政治を会話のネタにする、政治に期待をかけず自分の人生に専念するなど、人生を豊かにするための政治との付き合い方は人それぞれ。
 どのタイプの人も、自分のやりたいことの中で優先順位をつけて、その中で自分が選んだ道を歩んでいるわけです。

 今回はおおまかに4つのタイプに分けてみましたが、自分はどのタイプにも当てはまらないと思う人もいるでしょう。
 世の中を直接動かすなんてそもそも無理に決まってるし、政治運動に積極的に参加したいとも思えないし、政治の問題を会話のネタとして割り切るなんて不謹慎なこともできないし、だからといって無関心なわけでもなく政治のことは真剣に考えて憂いている。
 そのように考えている人の行動を客観的に比較してみれば、心情的に割り切れていないというだけで実際にやっていることは3番目の「政治を会話のネタとして消費している人」とほとんど一緒です。

 政治を変えるための具体的な行動を起こそうとしない人は、政治を変えることよりも他に自分の中で優先することがあるからやっていないだけ。
 「間違った現実に異を唱え続けることが世の中を変えることに繋がる」と信じているような自称「真面目な人」も、そういった信念を採用することで思い込みによる自己満足を得ているだけ。
 政治的な運動に携わって多大な労力を費やしても実際の政治にはほとんど影響できないという状況を考えたら、現状に文句をつけているだけで「自分は他の人よりも意識が高い」という満足が得られるこの方法のほうが手軽で簡単で便利なんでしょう。

 要は、誰だって好き勝手な方法で自分なりの満足を得ているわけだから、政治の話題を会話のネタと割り切っている人も、政治に何も期待せずに自分の身の回りのことだけに集中する人も、「自分の満足のために好き勝手する」という点では真面目に政治に文句を言ってる人と行動の原理は変わりません。
 そこに大した優劣などは存在しないのです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11978148754.html

 もしそういった自称「真面目な人」から「あなたは政治に対して不真面目だ」「そんないい加減な人がのさばっているから世の中よくならないんだ」などと責められても、「自分は間違ってるんだろうか」と真剣に悩んだりする必要はありません。  
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11791749081.html
 「この人はこのように言うことで自分なりの満足を守ろうとしてるんだな」ととらえて済ませればそれで十分です。

 政治にまつわるこうした真面目ぶった圧力は、日本社会のあちこちに蔓延していて私たちをモヤモヤさせる障害となっています。
 あなたの人生をより豊かにするためにも、自称「真面目な人」の圧力による不愉快な感情という被害を最小限に食い止めていきましょう。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

揺るぎない信念を持とう。
その信念が、あなたの思考を力に変えるのだ。
信念が願望や目標と結びついたとき、あなたの望みは実現する。

 これは、全世界で7000万部を売り上げたというナポレオン・ヒルの著書「思考は現実化する」の有名な一節です。
 この文章に出てくる「信念」は、個人の願望を実現する素敵な魔法のようなものとして描かれています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11844490476.html

確固たる信念なんていらない。
個々の信念が確かなものである必要はない。
自分の信念が確固たるものだと思い込める人によって、正しさのマウンティングがしばしば引き起こされる。

 そしてこれは、このブログで前々回から書いてきた私の言葉です。
 ここで私が使っている信念という言葉は、ナポレオン・ヒルや他の自己啓発ビジネスが使う便利な道具としての信念とは少々意味合いがズレています。
 このズレは、焦点をあてているのが個人のあり方なのか、他人を含めた世の中のあり方なのかという違いから生まれます。

 自己啓発ビジネスなどが関与したいのは個人のあり方を支えるための信念。
 「世の中はこうだ」「だから人はこう生きるべきだ」と固く信じて疑わずにいられれば、「だから私はこう生きる」という自分の選択が「ゆえに私はこれで良い」と保証されたかのような安心感が得られるのか、こうした自己啓発ビジネスには一定のニーズがあります。

 「ゆえに私はこれで良い」というカウンセリング効果や、「だから私はこう生きる」という個人的な行動の促進のために信念が使われること自体、私は別に反対ではありません。
 そうだと思い込むことでその人が生きやすくなると言うのなら、本人にとっては万々歳でしょう。

 しかし、「世の中はこうだ」「だから人はこう生きるべきだ」といった世の中のあり方についての信念が、他人のあり方にまで口を挟もうとする場面があれば話は別です。
 自己肯定感や個人の行動を促進するための手段でしかない信念が、他人のあり方を裁く武器として使われるのなら、私は「正しくない」とマウンティングされる側の味方になろうと思います。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11972929124.html

 たとえば、「自然由来でない食品は体に有害だ」「だから人は自然な食品だけを食べるべきだ」と確信する人が「だから私は自然食だけを食べる」と実践したおかげで「ゆえに私はこれで良い」と自己肯定できて生きやすくなっているのなら、それはそれで素晴らしいことだと思います。
 ですがその信念を確固たる正しいものだと思い込んだがゆえに「あなたが食べているそれは有害だからもう食べない方がいい」と他人を裁きにかかる人がいれば、私はそう脅迫されて「食べない方がいいのだろうか」とモヤモヤしている人の方をフォローしたいです。

 そもそも動物はみな、個々の性質と不確かな現状認識に基づいて、さまざまな行動を次々と決定していく生き物。
 ヒトも動物の一種ですから、他の動物と同様に個々の性分や大雑把な勘や身に付いた習慣を根拠に行動しています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11975600193.html

 文明人は自分たちのことを実態よりも理性的な存在だと思いたがる節がありますが、実際は勘や好みや習慣によって無意識的に下してしまった決定を「合理的に正しく判断した」などと後付けのこじつけで賢そうに装っているだけ。
 「私は確固たる信念を持っている」と自称する人も、そんなものは持たずになんとなく生きているという人も、結局は動物的にしか生きていないのであり、質的に大した差などありません。

 ですから、揺るぎない信念を持っていると自称する人を相手にしても、別に気後れする必要なんてないのです。
 相手は「こちらには揺るぎない信念と正当性がある」という思い込みにすがって動物的なマウンティングを仕掛けてきているだけであって、本当にあなたより正しいわけではありませんから。

 私たちが生きている人間界は「信念を持って生きる姿こそが美しい」といった刷り込みが横行している圧力社会です。
 その刷り込みが行き届いた弱肉強食の猿山では、分かりやすい正しさを上手にショーアップできた人こそが、自作自演のハッタリによって相手をマウンティングすることができます。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11931315596.html

 この同調圧力によって、分かりやすい信念を持たない人は「自分はなんとなく生きていて良いのだろうか」といった罪悪感を感じさせられています。
 逆に言えば、こうした信念至上主義の刷り込みにさえ屈しなければ、ストレスフルな茶番とも付き合わずに済むはずです。

 一見偉そうに見える信念の人も、勘や好みや習慣でなんとなく生きている同じ動物でしかありません。
 暑苦しい人々の押し付けがましいハッタリや雑音は放っておいて、堂々となんとなく生きちゃいましょう。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 前回「確固たる信念なんていらない」という記事を書かせてもらいましたが、これによって「そもそも信念なんていらない」と訴えているかのような誤解も招いたようです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11972929124.html
 そうではなく、私が書きたかったのは「個々の信念が確かなものである必要はない」ということであり、「自分の信念が確固たるものだと思い込める人によって正しさのマウンティングがしばしば引き起こされる」ということでした。

 たとえば、「霊を信じるか?」という質問をされた場合、自分はどういう態度をとるかという問題があります。
 私は子どものころから「霊なんているわけがない!」「いいや、霊はいる!」といういがみ合いをする人たちのことをなんとなく「馬鹿みたいだな」と思っていましたが、それがどういう考えに基づくものかは説明できないので、自分のこの問いに対する態度を上手く打ち出せないでいました。

 しかし、大学生のころから私は「霊が存在することも信じないし、存在しないことも信じない」と、自信を持って答えられるようになりました。
 なぜなら私は、霊が存在することも証明できないし、霊が存在しないことも証明できないからです。

 数学を専攻していた私にとって「信じる」「信じ込む」というのは証明ができていない予想を勝手に正しい定理だと思い込むようなものでした。
 証明ができていない予想については「まだわからない」と答えるのが数学の節度ですから、霊がどうのという以前に「信じる」「信じ込む」という行為そのものが私にとってはマナー違反だったのです。
 こうして私は、証明できないような現実世界のほとんど全ての事柄に対して、「信じない」「自分には分からない」と胸を張って言えるようになりました。

 科学の理論ももちろん例外ではありません。
 この頃から「万有引力の法則を信じない」なんてことも抵抗なく主張できるようになりました。
 万有引力の法則だって「もしそうなら観測結果と辻褄が合う」という程度の仮説であり、「なぜこの現実世界においてそんな法則が成り立つのか」という理路がすっきり説明されたわけではありませんから。
 「なぜ成り立つか」と聞かれても「実際に観測してみたらそれっぽくなっているから」としか答えられないでしょう。

 ただこの主張については「霊の話なんかと一緒にするな」という科学の側からの反論が予想できましたし、私も霊の話と科学の話が同じだとは思っていませんでした。
 ここで数学的な意味での「証明」と現実世界の可能性との関係について考えてみましょう。

 もし「***であること」が証明された場合、実際に***である可能性は100パーセントになります。
 もし「***でないこと」が証明された場合、実際に***である可能性は0パーセントになります。
 「***であること」も「***でないこと」も証明されていない場合、実際に***である可能性は0パーセントより大きく100パーセントより小さいとしか言えません。

 ちなみに最後の場合、実際に***である可能性は0パーセントと100パーセントの間で幅があり、「それっぽさ」の度合いがどれも同じというわけではありません。
 霊の話にしても万有引力の法則にしても、証明ができない以上は「それっぽさ」の次元での話であり「正しい」「正しくない」と結論を下せるような問題ではありません。
 しかし、両者の持つ「それっぽさ」の度合いは全然違うだろうと思っていました。

 私の中でのまともな科学とは、100パーセントの理論なんて無茶な大風呂敷を広げずに、考えうる範囲でよりそれっぽい仮説を探していこう、そして地道な検証によって仮説の持つそれっぽさを高めていこうという節度をもったシステムのことでした。
 その意味で「霊はいない!」と決めてかかる既存科学の盲信者はまともな科学者には見えませんでしたし、「霊はいる!」と言い切る人が提出する証拠も十分なものには見えませんでした。

 私がこの両者に共通して感じたのは「そのように断言してよいものか」という節度の無さだったというわけです。
 では、数学的な証明という手段が通じない現実世界を語る際に、科学が取り入れている節度とはどんなものなのかを見てみましょう。

 たとえば「すべてのカラスは黒い」という仮説を立てたとします。
 この仮説を証明するためには何羽かのカラスが黒いことを言うだけでは足りません。
 全てのカラスを観察してどれもこれも黒いことを確認しなければなりませんし、たとえ全てのカラスを確認できたとしても「本当に全てのカラスを観測したのか?まだ発見できていないカラスがいるんじゃないのか?」という問いに対して納得のいく説明が必要になります。

 逆にこの仮説が間違っていることを証明するのは簡単です。
 「全てのカラスは黒い」の否定は「黒くないカラスが存在する」ですから、黒くないカラスを一羽連れてくることができれば仮説が間違っていることを証明できます。

 そして仮説が正しいことも間違っていることも証明できない場合には、その仮説が「どの程度それっぽいか」という説得力の違いが出てきますが、ここから先の議論にはもう数学的な「真か偽か」といった語り口は意味を持ちません。
 この説得力というのは聞き手が受け取る印象の話ですから、そんな個人個人の感情の絡んでくる問題をすっきり説明しようとするのは難しいでしょう。
 世の中には「霊はいる!」という言い分に説得力を感じる人もいれば、「霊はいない!」という言い分に説得力を感じる人もいるわけですから。

 ここで私好みの意見を言わせてもらえば、仮説の説得力はどれほどの反証をくぐってきたかという実績に裏付けられます。
 「カラスは黒いに決まってるんだから黒いカラスをいっぱい見つけてきてやろう」という人が100羽の黒いカラスを連れてきても、そのように節度の欠けている人の言うことは信用に値しません。

 なぜなら、そんな人は仮に黒くないカラスを見つけたとしても、自分が出したい結論に不利になる結果は無視するかもしれないからです。
 霊がどうのという議論の場にはこういった方々が数多くいらっしゃるように見えたので、私は「まず結論ありき」のその姿勢にうんざりしていたのでした。

 しかし、「黒くないカラスもいるかもしれないからカラスの色を一羽ずつ確かめていこう」という節度をもって100羽のカラスを観察した人の言うことなら、「なるほどそれっぽいね」という説得力を感じられます。
 そしてこの「それっぽさ」は、検証したカラスの数が多ければ多いほど高まっていきます。
 一億羽の検証データをもってこられたら、それが真理であることの証明にはなっていなくても、「だいたいそうだろうね」という気分にはなってきます。

 つまり私にとってのまともな科学とは、たとえ「それが真理だ」と証明できなくても、実際のデータによって「だいたいそうだろう」ということが言えれば「まあそれで良し」とする節度をもったシステムのことなのです。
 この節度を保っているかという意味において、「科学は真理を述べており絶対に正しいはずだ」という固い信仰を持つ人はまともな科学者とは呼べません。

 不確かな要素を含む現実世界を語ることに関して、節度を持って取り組んできた歴史が科学にはある。
 自分もそんな科学を見習って、現実世界においては「だいたいそうだろう」と思える「それっぽさ」を追求していこう。
 確信のようなものが得られることはまずないだろうけど、別にそれでもかまわないじゃないか。

 当時の私は苦心の末にこんな結論を出しました。
 しかし今度は哲学のほうから文句をつけられるかもしれません。

そんなことを言っても自分が今立っている大地が明日なくなるかもしれないとは疑ってないだろう?
それは大地が明日も存在し続けると信じてるってことじゃないか。

 でも私はもうこんな言いがかりにはびくともしません。
 この言い分は、「確信していなければ疑っているということであり、疑っていなければ確信しているということだ」という二者択一的な考えを前提としています。

 しかし私は「疑いの余地は残してあるけど積極的に疑ったりはしない」という中途半端な立ち位置もありだと考えました。
 私は「大地が明日も必ずある」とは信じていません。
 ですが、「大地が明日も本当にあるだろうか」といちいち疑ったりもしませんし、「明日も大地はあるだろう」ということを無言の前提として先々の予定を組んでいます。

 私が言いたいのは、「現実世界における行動は、どれもこれも確信を根拠としたものじゃないといけないのか」ということです。
 そういうのは節度を知らない子どもの言い分だと思います。
 「だいたいそうだろう」というあやふやな根拠が行動の基準でもかまわないじゃないですか。

 科学は「それが真理である」という根拠を提出することはできませんが、「だいたいそうだろう」という仮説を積み重ねることでたくさんの成果を出しています。
 今では結核だって治療できるし月にロケットだって飛ばせます。

 これらの成果に「その理論を真理として確信しているか」という信仰的な要素は大して関係ありません。
 「これは絶対に正しい」と思ってたって、「だいたいこんなもんじゃないかなあ」と思ってたって、同じことさえやっていれば同じ結果が出せるでしょう。
 別に根拠があやふやだって、人は行動できるし前にも進めるのです。

 そしてこの両者の間では「実は仮説が間違っていた」というときの対応力が違います。
 「これは絶対に正しい」と思い込んでる人は、そうではない現実と出会ったときに「こんなことが起こるなんてありえない!」という裏切りのショックで、目の前で起きている現実を許容するのに苦労するでしょう。
 もとの仮説への未練から、「それが真理だ」と思い込むことができた過去に想いを馳せて「絶対に正しかったはずなのに・・・」と感傷に浸ることに時間をとられ、そのためにこれからの自分の行動に必要となってくる「目の前の現実に適応する」という建設的な作業に遅れが生じてしまいます。

 しかし、「だいたいこんなもんじゃないかなあ」とアバウトに捕らえている人は違います。
 「これは絶対に正しい」と思い込んでるわけではないので、そうではない現実と出会っても「なんだ違ったのか」と、はずれてしまった予想をあっさり撤回するだけです。
 もともと証明できていることなんて何ひとつなかったんだから、そこで無駄にショックを受けてる暇があったら目の前の現実を新たな考えの材料としてさっさと受け入れて、「だいたいそうだろう」と思えるような次の仮説の可能性を検討し始めればよいのです。

 思い通りになるはずのない現実をただの思い込みで決め付けておいて、それが裏切られたからといって認めないなんて私には身勝手で傲慢な行為にしか思えません。
 「現実はこうあるべきだ」なんて勝手な期待はかけずに、たまたま予想したとおりの結果と出会えれば幸運だったと喜ぶ、というのが現実に対しての節度ある付き合い方だと私は思います。
 このような考えにも裏付けられて先ほどの結論に至ったのです。

現実世界においては「だいたいそうだろう」と思える「それっぽさ」を追求していこう。
確信のようなものが得られることはまずないだろうけど、別にそれでもかまわないじゃないか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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