間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -8ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

 あなたがもし『詐偽の手口』や『洗脳の手口』というタイトルのテレビ番組や本やブログ記事を見かけたら、どのような内容を期待しますか。
 あなた自身が他の誰かを騙したり洗脳したりするつもりで、そのための上手な方法を知るために見ますか。
 それとも、今後あなたが誰かに騙されたり洗脳されたりしないようにと、防御策を考える材料として見ますか。

 突然こんなことを書いた理由は、このブログの運営状況にあります。
 私は去年の12月に『間違ってもいいから思いっきり』の中で『嫌いな相手を追い詰める方法』という記事を書いたのですが、この記事が頻繁に検索されて見られているようなのです。

 その検索ワードは「人を追い詰める方法」。
 今Googleでこの言葉を調べると、私の記事が一番最初に出てきます。
 ちなみに2015年5月24日午前8時現在、「人を追い詰める方法」という言葉をGoogleで調べて最初に表示される10件のサイトは以下の通りです。
https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E4%BA%BA%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%84%E8%A9%B0%E3%82%81%E3%82

①嫌いな相手を追い詰める方法|間違ってもいいから思いっきり
②サイコパスのイジメの特徴 BlueBloomBlog/ウェブリブログ
③嫌いな人間を精神的に追い詰める方法を教えてください。 - Yahoo!知恵袋
④精神的に追い詰める方法
⑤邪悪な人から身を守る方法 - まつたけのブログ
⑥裏・復讐代行業者 裏サイト 精神的に追い詰める
⑦【本当にやった復讐】ジワリ・・ジワリとカスを追い詰める復讐方法に脱帽 ...
⑧人を陥れる方法や、仲間同士で喧嘩をさせる方法等を教えてください ...
⑨嫌いな奴を精神的に追い詰める方法を考えるスレ - V系こたぬき掲示板
⑩彼女が浮気してるので精神的に追い詰める方法を教えてください

 この検索結果を見てみると、人を追い詰めてやりたい人に対して本当に「人を追い詰める方法」を提案しているストレートなサイトは③④⑥⑦⑧⑨⑩の7件で、その他の①②⑤の3件のサイトは人を追い詰めようと仕掛けてくる輩に対する防御策を提案しています。
 検索ワードにわざわざ「人を追い詰める方法」と入力して検索する人が知りたいのは前者7件のような「加害者になるための方法」でしょうから、後者3件が提案する「被害者にならないための情報」は彼らの望まない検索結果のはずです。
 しかも、一番最初に出てくる私のサイトは一見すると加害者になるための方法に見えるでしょうから、タイトルの通りに「嫌いな相手を追い詰める方法」が手に入ると思って私のブログ記事を読んだ人は、その期待をまんまと裏切られていることでしょう。

 ちなみにこの私の記事の主旨は「善悪や正しさなんて言葉は好き嫌いの言い替えであり、嫌いな相手を追い詰めるための口実でしかないのだから、そんな人を追い込むための表面上の論理と真面目に付き合って消耗する必要はない」ということ。
 この私の主張をプレゼンテーションするのに、「ニュースな晩餐会」というテレビ番組で行われた「宿題代行サービスは善なのか?悪なのか?」という討論を具体例として取り上げたのがこの記事でした。
 つまり、私がタイトルにした「嫌いな相手を追い詰める方法」とは「正しさを振りかざすこと」であり、正しさを頻繁に振りかざしている人も結局は嫌いな相手を追い詰めたいだけなんだという皮肉こそが私の意図だったのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/12/14/000707

 「人を追い詰める方法」が知りたくて私のブログ記事にたどり着く人は、その中身を読んで「人を追い詰める方法はどこに書いてあるんだ、タイトルに偽りありじゃないか」と怒りを覚えるかもしれません。
 ですが私の狙いは、人を追い詰める口実を真に受けないための防御策を提案して「正論で攻撃してやりたい人」の攻撃力の源を削ぐことですから、読解能力のない「攻撃してやりたい人」の期待が外れてしまうのはまあ願ったり叶ったりです。
 そもそも「言葉のプロレスを真に受け過ぎると痛い目に会う」ということをとことん追求するのがこのブログの目的なので、自分勝手な解釈で「タイトル通りの内容じゃない」と怒るような単細胞はそもそも相手にしていないのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/18/002319

 私が読者として想定しているのは、文章の主旨を汲み取った上で、私の主張の妥当性を冷静に検証できるリテラシーのある人。
 ですから、今回の「嫌いな相手を追い詰める方法」のように、一部の単細胞な人が「タイトル通りじゃない」とクレームを付けそうなタイトルは他にもたくさん付けてあります。

 たとえば、「なぜ人を殺してはいけないのか」とか「なぜ勉強しなければならないのか」といった記事には、タイトル通りの疑問文への直接の解答ではなく、「この問いはどんな意図が絡み合って造られるのか」という背景への考察が書かれています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/07/061900
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/23/144020
 また、「本当の幸せ」という記事の中にも「本当の幸せとはこれだ」という分かりやすい答えは書いておらず、「本当の幸せがどこかにあるはず」と真に受けてさ迷うことこそが危険だと伝えています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/30/191700

 もし「タイトルと中身が違う、タイトルに騙された!」と思う人がいたとしたら、結局のところその記事はあなたを対象に書いたものではありません。
 分かりやすいメッセージしか受け取りたくないあなたを、読者として扱ってあげられなくてごめんなさいね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

 和太鼓という楽器には様々な特色がありますが、その中でも私が一番注目するのは頑丈さです。
 特に、くり貫いた欅の木になめした牛の皮を張った太鼓の耐久性は群を抜いており、これほど力いっぱい殴打しても壊れてしまわない楽器など滅多に存在しないでしょう。

 このように「楽器」というくくりで見れば異様なまでの頑丈さを誇る和太鼓ですが、もっと広い視野で見るならば、太鼓とは大きな振動を遠くまで届ける伝達装置です。
 集落への危機の接近を伝える、田植えなどの共同作業を賑やかして助ける、戦において自軍を鼓舞するなど、共同体の存続のために太鼓は重要な役割を果たしていました。
 その土地の五穀豊穣や大漁を願う祭礼の場でも、和太鼓は人の心身を揺さぶる大切なツールとして、人々の結束を強めるのに重宝されてきました。

 和太鼓は、その頑丈さ故に並外れた大きさの振動を生み出すことができ、その影響力故に日本における共同体形成の要として働いてきました。
 そんなわけで、各地に伝わる民俗芸能の中で頻繁に使われてきた和太鼓の音色は、日本の風土に生きる人々の心に特に染み渡りやすいものとなっています。

 そういった土着の芸能を持たない地域で生まれ育った現代人の私は、自分の人生を豊かに彩るための手段の一つとして、友人が所属していた和太鼓のチームに入りました。
 チームに所属していると、地域のイベントや結婚式など様々な演奏の機会がありますが、和太鼓そのものが人を惹き付けるために編み出された装置のようなものですから、よほどのヘマをしない限り観客からは好意的な反応をいただくことができます。

 私はこの法則のことを「太鼓≒ジャニタレ理論」と名付けています。
 これはつまり、和太鼓の演奏がウケている主な要因は和太鼓という楽器そのものの持つ力であり、それに比べれば演奏者の実力なんて副次的な要素でしかないということ。
 事務所やグループの力で実力以上の注目を最初から受けられる一部のアイドルのように、和太鼓演奏も「楽器自体の魅力」という下駄によってその評価が最初から底上げされているという意味です。

 売れていても謙虚なアイドルは、事務所という背景の有り難みや知名度の高いグループに所属できた幸運に素直に感謝することができます。
 それと同じように、ウケていても謙虚な太鼓打ちは、和太鼓そのものの魅力や和太鼓が好まれる日本の文化的背景、和太鼓というジャンルに出会えた幸運などに感謝して、自分自身の実力やオリジナリティーを過信することがありません。

 それとは逆に「客にウケているのは自分たちの実力だ」と解釈して、まるで客からの称賛の言葉に見合うだけ自分が偉くなったかのように錯覚してしまう太鼓打ちがいたとすれば、それはアーティスト気取りで音楽を語ってしまう身の程知らずのアイドル歌手のようなもの。
 アイドルにしろ太鼓打ちにしろ「下駄を履かせてもらえるおかげで輝いていられる」という事実を忘れてしまえば、その勘違いは非常に痛々しく映ってしまうのです。

 私の和太鼓の師匠である田楽座というプロの歌舞劇団は、日本に受け継がれてきた民俗芸能そのものの魅力に後押しされて、自分たちは舞台の上で輝かせてもらっていると十分に自覚しています。
 謙虚な彼らはプロだからといってこれ見よがしに大物感を演出することもありませんし、クリエイターとしての創造性を、自分たちのオリジナリティーの凄さを見せ付けるためではなく、日本の民俗芸能の魅力をより多くの人に伝えるための創意工夫に使用しています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/05/10/000016

 私自身、そんな田楽座に導かれて和太鼓を始められたことを、大変幸運に思っています。
 唄に踊りに笛に太鼓にと、日本各地に脈々と受け継がれてきた民俗芸能という共有財産の楽しみを、下駄を履かせてもらった和太鼓愛好家としてこれからも思いっきり享受していきたいですね。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/01/011427


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

 私の人生を決めたのは田楽座。
 長野を拠点に50年以上活動している田楽座は、日本各地に受け継がれる民俗芸能を地元の担い手から習い受け、日本人のルーツやふるさとへの深い愛着を舞台の上で表現している歌舞劇団です。
 私は10年以上前から田楽座を応援することを人生の主な目的としており、流しの数学教師として各地を転々としながら九州や関西を中心に応援活動を続けています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/01/011427
 
 私が田楽座と出会ったのは、大学院生のころに始めた和太鼓を通じてでした。
 当時は勉強だと思ってさまざまなプロの和太鼓を見てきましたが、エンターテイメントとして好きになれるようなステージはほとんどありませんでした。 
 ですが、和太鼓を始めて1年後に出会った田楽座の舞台からは、他の和太鼓のステージとは全く質の違う熱気が感じとれたのです。
 
 その出会いをきっかけに田楽座の追っかけになった私は「自分がなぜ田楽座に惹かれてしまうのか」を分析した末に、原因がクリエイターとしてのメンタリティの違いにあると発見します。
 地方の地味な世界にいた日本の和太鼓を近代的で華麗なステージショーの世界に「引き上げてやっている」と自負する人達と、奥深い日本の芸能の姿の一端をステージショーの世界にも「おすそ分け」しているつもりの人達との違いとでも言いましょうか。

 私が毛嫌いする和太鼓のステージの共通点は、彼らの用いる和のテイストが彼ら自身の凄さや威厳を脚色するための道具にしかなっていないということ。
 そうした和のテイストは、派手で特色のあるステージを演出するための、単なる「ビジネス和風」でしかないように見えました。

 ですが、田楽座が舞台を通して伝えようとしていたのは、そんな表層的な和のテイストではありませんでした。
 田楽座の舞台からは、「社会の近代化とともに忘れ去られつつある各地の民俗芸能がどれだけ魅力的なものか」を伝える使者でありたいという、謙虚な使命感が感じられます。
 私には「己の凄いところを見せ付けたがるだけの格好つけた太鼓打ち」よりも、田楽座のような「日本の文化の味わいや楽しさやを思いっきり感じてもらうためにその身を投じる演技者」の方が遥かに好ましく見えていたのです。
 
 その顕著な例が、埼玉県の秩父地方に伝わる秩父屋体囃子という曲です。
 ステージ和太鼓のプロによって広められたこの曲は、地元で実際になされているものとは似ても似つかないほどド派手にアレンジされた姿で全国の和太鼓チームに出回ってしまっています。
 
 しかし、現地の祭りで実際に秩父屋台囃子を見てまず思ったのは「演奏者の姿が見えない」ということ。
 お囃子は屋台という巨大な山車の内部で演奏されているため、他の祭りの参加者は純粋に「囃子の音」だけを楽しんでいました。
 
 そして、現地の合宿練習会に参加させてもらって感じたのもその「音へのこだわり」でした。
 20トンもの屋台を曳く数百人の曳き子を応援するのが囃子のそもそもの存在意義ですから、「のれる音」「山が曳ける音」にならないと囃子の意味がないのです。
 
 ですが、全国に広まってしまった「秩父屋台囃子」は、座って叩くというスタイルの珍しさだけを抽出し、音はうわべだけ真似たような薄っぺらいもの。
 そこに、大袈裟にバチを振り回すパフォーマンスや、何の意味があるかわからない腹筋パフォーマンスなど、現地ではまず有り得ない要素がゴテゴテと付け足されていました。
 
 ここには、「自分が主役になって人前で目立ちたいだけの太鼓打ち」と、「祭りを縁の下から支える職人としての囃子方」のメンタリティの違いが浮き彫りになっているような気がします。
 こうしたショービジネスの論理によって自分たちの大切な囃子を歪められてしまった地元の方の中には、全国の太鼓打ちに向けて「ちゃんとした秩父屋体囃子を伝えたい」と講習会を開いている方もいらっしゃいます。
 太鼓打ち達の自己顕示のために、自分達の大切な囃子を好き勝手にいじくり回されるなんて、そりゃあ我慢ならないでしょう。
 
 全国各地に古くから伝えられてきた唄や踊りや笛や太鼓などのお祭り芸能の文化は、人と人の繋がりを築いていく共同体の核とも呼べるものでした。
 そんな日本文化の「素材としての美味さ」を大切にする田楽座は、ステージパフォーマンスの世界に媚びて大切な素材を改変し過ぎることがありません。
 先程の秩父屋体囃子にしても、地元の方に師事して習い受けたものを、大切に尊重しながら舞台に上げています。
 
 日本のお祭り芸能には、余計なものをゴテゴテと付け足さなくても十分に感動を伝えられるだけの底力があると田楽座は信じています。
 ですから彼らの舞台には、他の太鼓のステージにはない日本のお祭り独特の熱気があります。
 だからこそ私は、全国に数多とあるどんな太鼓グループよりも田楽座のことが大好きなんです。
http://www.valley.ne.jp/~dengaku/
 

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 「LIFE!~人生に捧げるコント~」という番組の2015年4月16日の回に、ムロツヨシと石橋杏奈による『修羅場』という印象的なコントが放送されました。
 シーンは同棲中のカップルの家。
 部屋に放置されていた彼女のケータイを目撃し、浮気の事実を知ってしまった彼が彼女に詰め寄るところから話は展開されます。
 
 ショックを受けながらも彼女の三股以上の浮気を指摘する彼に、彼女は「人のケータイ見るとかサイテー、本当ありえないから」と、彼のモラルの低さの方を指摘し返します。
 ここまでの逆ギレならよくある話ですが、物語はここから常識の範疇を超え出します。
 
 彼女の典型的な論理のすり替えが耳に入らないほどにショックを受けている彼は、座り込んで下を向きながら「もう何も信じられない」「これまでの3年間の付き合いは何だったんだよ」と嘆き悲しみます。
 そんな彼の横に彼女はかがみこみ、彼の顔を覗き込みながらこう諭します。
 
時には嘘みたいな現実も受け入れないと、人って成長できないんじゃないかな。
 
 「嘘みたいな現実」を作った張本人にそう諭されてしまった彼は、「なんでお前にそんなことを言われなくちゃ…」といった感じで戸惑ってしまいます。
 とりあえず彼女の目の前で失意にくれることをやめた彼は、ハサミをつかんで逆上し、「お前を殺して俺も死ぬ!」と無理心中を予告します。
 
 彼の目線をまっすぐに受け止めながら突きつきられたハサミに近付いた彼女は、ハサミを持った彼の手を掴んだ瞬間に反対側の手で彼の頬を強烈にビンタします。
 そして、まるでそれが痛烈な正論であるかのようにこう言い放ちます。
 
復讐で一瞬の幸福を得るより、許すことで幸せになる方を選びなよ!
 
 茫然とする彼に対して彼女はこう続けます。
 
それに、そのハサミで刺したとしても死ぬのは私じゃない。
(相手の胸に拳を当てて)
あなたのここ、ここにある正義よ!
 
 このあまりの迫力に圧された彼は、ひとまず無理心中を撤回します。
 つまり彼女は、あくまでも彼のためを思っての発言のようなふりをして、巧妙に自分の身を守ったわけです。
 
 しかし何か釈然としない彼は、ハサミを自分に向けて「生きてても仕方ないから自分だけでも死んでやる」と凄んでみせます。
 再び困ったことを言い出した彼に、彼女は2発目の強烈なビンタを食らわして上から目線でこう言います。
 
簡単に死ぬより、生きて何かを残しなよ!
 
 浮気をされた被害者のはずなのに、加害者からさらに2発も殴られた彼は、ハサミを捨てて「彼女の職場や友人に、彼女のことを浮気ばかりする最低な女だと言い触らす」と騒ぎ始めます。
 またまた具合の悪くなった彼女は、さも「自分は正しいんだ」といった目付きで、3発目のビンタをお見舞いしてこう言います。
 
人の評判下げたって自分の価値は上がらない、上がらないんだよ!
 
 3度も張り倒されて手詰まりになったのか、彼はようやく別れることを認めます。
 そして、後腐れのないように、過去に貸してあげた30万円を返すようにと要求します。
 彼女はもちろん4発目のビンタを食らわして、以下のように取り繕います。
 
目ぇ覚ましてよ!
財布の中身が豊かになるたび、心が貧しくなるのがなんでわからないの!
 
 これには彼も「おかしいだろ?」「当然のことを言ってるだけだろ?」と声を上げて抵抗しますが、彼女は有無を言わさず彼を張り倒して畳み込みます。
 
お金なんかにこだわって、自分という財産を汚すなって言ってるの!
 
 こうして借金をチャラにすることまで承服させられてしまった彼は、彼女に対して「やったことに関してはとりあえず謝って」と最低限の要求をします。
 これまで決して自分の非を認めてこなかった彼女は、鬼のような形相で彼に詰め寄り、右・左・右とビンタを3発連続で食らわしてボロボロにします。
 そして、最後の最後まで「彼の身を案じた」風な正論で押しきります。
 
人に頭を下げさせるんじゃなくて、上を向かせられる人間になろうよ!
そうでしょ、ね。
 
 こうして、三股の浮気をしながら30万円の借金まで踏み倒し、さらには口頭で謝罪することさえ回避した彼女は、彼のもとから去っていきます。
 そんな彼女に対して彼は一言「いい女だなあ」と呟いてしまうのです。
 
 私はこのコントで表現された「有り得ないほど理不尽さ」にただただ爆笑していましたが、一通り見終えた後、じわじわと複雑な余韻が込み上げてきました。
 「有り得ないほど理不尽で暴力的な仕打ちに対して立場の弱い側が従順になついてしまう」というケース自体は、この世の中で頻繁に起こっているなと妙に納得できてしまったのです。
 
 どんな嘘みたいな屁理屈でも、それを押し通せるだけの力と鈍感さがあれば正論に仕立て上げられる。
 そんな加害者の傲慢さや被害者の人のよさを象徴するような事例が、その日はいくつも浮かんできました。
 「人生に捧げるコント」とは上手く名付けたものです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/04/19/005822
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/02/08/001305
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/23/144020
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/09/21/211415

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300





 『機動警察パトレイバー』とは、レイバーというロボット技術を応用した作業機械が、軍事や海底探査や大規模な建設工事の場面にまで広く普及した近未来を描いたSF作品。
 この物語に登場するのは、レイバーを悪用した犯罪やテロに対応するため、警察内に設置されたレイバー部隊。
 といっても「作業ロボットが頻繁に登場する」という設定以外は私たちとほとんど変わらない日常が舞台となっており、ロボットアクションというよりむしろ現代社会の複雑な利害関係の中で起こる人間模様の方がリアルに描かれています。
 
 2015年公開の『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』は、1993年のアニメ作品『機動警察パトレイバー 2 the Movie』の続編と言うべき作品。
 両作品の監督である押井守は22年前の前作において、東京で起こった疑似クーデター事件を描き、竹中直人が演じる荒川という自衛官に「日本の戦争観の幼稚さ」を語らせています。
 
俺たちが守るべき平和。
だがこの国のこの街の平和とは一体何だ。
 
かつての総力戦とその敗北。
米軍の占領政策。
ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。
そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争。
 
そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた、血まみれの経済的繁栄。
それが俺たちの平和の中身だ。
 
戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。
正当な対価を、よその国の戦争で支払い、そのことから目を反らし続ける不正義の平和。
 
平和という言葉が、嘘つきたちの正義になってから、俺たちは俺たちの平和を信じることができずにいる。
戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。
その成果だけはしっかり受け取っていながら、モニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。
いや、忘れたふりをし続ける。
 
 荒川が言う「嘘つきたちの正義になった平和」とは、例えば「戦争や人殺しは絶対悪であり決して許されない」というレッテル貼りであり「世界中の皆が武器を捨て戦争を止めれば平和が訪れる」といった非現実的な妄想のことでしょう。
 歴史を見れば「戦争と平和」は表裏一体の概念でしかなく、戦争や殺人から切り離された「無垢な平和」など過去に存在した試しがありません。
 
 今日私たちが野生動物から食い殺される脅威に怯えずに済むのは、「そこにいたはずの動物たち」を殺したり追い出したりして人間専用の居住地を切り開いてくれた先人がいてくれたから。
 今日私たちが日本国内で治安の保たれた暮らしを享受できているのは、過去の数々の戦によって国土が統一され、殺人や略奪を取り締まれるだけの実力を持つ行政組織ができたから。
 今日私たちが他国からの武力侵攻に合わずに済んでいるのは、武力にものを言わせて世界を席巻してきたアメリカの軍隊を国内に駐留させているから。
 
 どれだけ高潔な理想論をかざしたところで、誰かがどこかで武力を備えてくれなければ、私たちは自分の身の安全を守れていないはずです。
 ですが、現代の日本社会は敗戦のトラウマや戦後教育の影響から戦争行為や暴力行為が必要以上にタブー視されてしまっているため、実際に武力を用いて我々の安全を守ってくれている人々の存在はほとんど顧みられることがありません。
 ですから私たちは、私たちの安全を保障するために、いくつもの前線で武力がふるわれているという事実をいとも容易く忘れてしまいます。
 
 ですが、限りあるこの地球上で、生きる糧を得るための戦いが途絶えたことはありません。
 そして、生きるための糧を確保し、外敵から身を守るために、人類が編み出したが独自の戦略こそが「武器の使用」です。
 荒川が言うように、私たちがぬくぬくと暮らしているこの「平和」な日常の世界は、単なる「戦線の後方」に過ぎないのです。
 
 「どんな理由があっても人殺しは許されない」といった道義的な主張が優勢でいられるのも、それを押し付けられるだけの軍隊や警察といった殺傷能力の後ろ楯があってこそ。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/07/061900
 どれだけきれいごとを並べ立てたところで、人殺しを抑えこめるのは「人を殺せる力」でしかありません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/08/000134
 
 もし仮に「戦争や人殺しは絶対悪であり決して許されない」とか「世界中の皆が武器を捨て戦争を止めれば平和が訪れる」といったお題目を唱えながら、別の局面では「野生動物に食い殺されるのは嫌だ」とか「隣人や隣国に襲われるのは嫌だ」なんて自分の身の安全を優先しているのであれば、それはまさに「嘘つきの正義」でしょう。
 言うなれば、他人に「汚れ仕事」をさせておきながら「人は手を汚してはならない」と叫んで「汚れ仕事の従事者」を貶めるような、厚顔無恥な行為です。
 
 物語の終盤、疑似クーデターの首謀者である柘植は、埋め立て地から東京の街を眺めながら「あの街が蜃気楼の様に見える」と語ります。
 彼の犯行の動機は政権の転覆などではなく、いかにも「戦争とは無縁だ」という素振りで経済的繁栄を享受しているこの国の人々に、「この見せかけの平和は無数の武力行使による血まみれの獲得品であり、空虚な平和論を唱えるだけで維持できるものではない」と知らせることだったのでしょう。
 
 警察官という立場で街の治安を守る南雲は「例え幻であろうとあの街ではそれを現実として生きる人々がいる」と応答し、住民たちの「平穏な生活」を脅かした柘植を逮捕します。
 「俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとした」と答える柘植は、疑似クーデターを通じて「平和ボケした国民への啓発」という当初の目的をすでに達成していたために、甘んじて逮捕を受け入れます。
 
 この柘植と同じ目的の啓発行為を、映画という手段で行っているのが押井守と言えるでしょう。
 22年前に一度アニメで表現されたテーマが、今度は実写でどう描かれているのでしょうか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300





 グローバリズムとは、株式会社というフィクションを延命させ、国民国家というフィクションを終わらせるために、アメリカの新自由主義者たちが広めた不自然で作為的なイデオロギーである。
 これが平川克美の著書『グローバリズムという病』におけるグローバリズムの大まかな定義です。
 ここでは「グローバリズム」が単なる自然過程を指す用語ではなく作為的な立場であること強調するために、科学技術の進展によって世界が小さくなったことを表す「グローバリゼーション」とは明確に区別されています。

 株式会社とは、17世紀の大航海時代に始まった資金調達の仕組み。
 「株券を買って株主になっていただければ、集めた資金をもとに事業を行い利益を出してその株券の価値を上げていきますし、利益に応じて配当金もお渡しします」
 こう約束して資産家たちから巨額の資金を集めることで、東インド会社はインドや中国との大規模な貿易が可能になりました。

 また、30年間に渡るヨーロッパの宗教戦争の末にウエストファリア条約によって結ばれたのが、「固有の領土と国民を有すると認められた国家には内政干渉されない主権を認める」という紛争抑止のためのお約束です。
 こうして17世紀に発明された「国民国家」という名の方便は、西欧諸国の海外進出とともに世界中に押し付けられ、今もなお国際社会を支配する主要なルールとして君臨しています。

 この国民国家という暴力機関に保護されながら株式会社は発展し、株式会社による国民経済の活性化によって国民国家はより強固なシステムへと成長します。
 ですが、この国民国家と株式会社の幸せな共犯関係は永遠に続くものではありません。
 株式会社には「株主を喜ばせるために利益を拡大し続けなければならない」という宿命が課せられているので、国内需要の拡大だけで増収が見込めないほどに国家が成熟してしまえば、金儲けの範囲を国外や投機的なマネーゲームの創出などへ広げていくしかなくなってくるのです。

 その際、国外に進出する企業にとって障害となるのが、商売における国ごとのルールの違いです。
 そうした障害を打開するために多国籍企業が相手国に要求するのが、関税や規制の撤廃であり、統一された産業基準であり、同一の決済システムであり、同一の言語環境です。
 そこにあるのは「個人や企業の自由な経済活動を国なんかが邪魔するのは不当だ」とする新自由主義思想です。

 そもそも国ごとの関税や規制や多様性などは、国外の大企業による搾取の脅威から国民経済を守るための防波堤として機能しています。
 こうした国家特有の防衛機能を、新自由主義者は「競争は自由かつ平等であるべきだ」という一見美しい名目の下に切り崩そうとします。
 グローバリズムとは、「株価は上がっていくものだ」という株式会社のフィクションを守るために、国家の主権というフィクションをなし崩しにしたがるイデオロギーとも言えるのです。

 このようないびつなイデオロギーはどうして生まれたのか。
 平川克美は、この思想の起源がアメリカの建国史にあると指摘します。

 アメリカは、銃を所持する権利が憲法で保証されている国です。
 一般的にアメリカで銃の所持が正当化されている理由は、イギリスの支配から独立するために立ち上がった過去の経緯からだとか、たとえ悪政が行われてもそれを倒す力を民衆が持つためなどと説明されています。

 しかし彼は「アメリカの民主主義を守るために民衆の武装が必要不可欠と言うのなら『皆の義務』として扱われる方が自然なのに何故『一個人の権利』という言い方になっているのか」と疑問を投げかけます。
 そして、銃による武装を『一個人の権利』として認めているのは「先住民の居住地を暴力的に奪い取ってきた」というアメリカ大陸開拓の歴史を正当化するためだとする持論を、以下のように説明します。

人間の尊厳。
機会の平等。
フェアプレイ精神。

アメリカは何よりも、理念の国である。
前記の理念をつくり上げてきたアメリカ建国の歴史を見ていくと、アメリカという国家が持つ(持たざるを得なかった)、人間観、自然観、倫理観すべてに通底する独特の価値観に逢着することになる。

国民国家という共同体を揺るぎないものにするためには、人権、公共心、道徳心、倫理観といったものを国家の構成員たちが共有する必要があった。
アメリカはまず、自らの出自に纏わりつく加害性というものを、正当化する論理を打ち立てる必要があった。

しかし、先住民たちに対する殺戮と簒奪の歴史はどこまでいっても人権や公正さといったものと折り合うことはできない。
先住民にだって人権はあったわけだ。
かといって、自らの出自を反省し謝罪することは、アメリカ合衆国自体を否定することに繋がってしまう。

ここでアメリカはトリッキーな論理をつくり出すほかはなかった。
それはアメリカを開拓した人々にも、アメリカ先住民にも「平等かつ公正に」武器を持って闘う権利が与えられているという論理である。
つまり、戦闘は論理的にイーブンなもの同士で土地所有をめぐる紛争の解決法のひとつとして行われたのだという権利の平等性の物語をつくり出すことであった。
アメリカ合衆国は先住民を略取してでき上がった国家ではなく、自然の摂理たる生存競争に勝ち抜くことででき上がった国家であるという物語が完成する。

アメリカという国の国是は、まさにアメリカという国をつくるということであり、生存競争に勝ち抜くことである。
アメリカは建国以来、強く大きなアメリカをつくることを国家目標としてきた。
当初は大陸の東海岸の小さな入植地からはじまった理想の土地を世界の隅々まで広げていくというかたちをとり、現在でも局地紛争への介入というかたちで引き継がれてきている。

アメリカが銃規制できない理由のひとつは、それがアメリカ建国の理念を支える論理の中に銃による闘争が組み込まれているからである。
「自由」は、すべてに優先する絶対的な価値でなければならない。
アメリカは、まさにその「自由」を達成するために建国された国家なのだ。

 そして著者は、アメリカ開拓時代における先住民への仕打ちを「非人道的な侵略ではなくフェアプレイ精神に基づく自由競争だった」と正当化してしまえる図太い根性が、それぞれの国家の事情を無視して「競争は自由かつ平等であるべきだ」とゴリ押ししたがる新自由主義の精神にも現れていると述べます。
 こうして押し付けられたグローバリズムの宣伝文句を、真に受けて踊っているのが日本という国です。
 筆者は以下のように続けます。

日本におけるグローバリズムの流行は、世界の中でも独特の様相を呈している。
日本人はグローバルという言葉を前にすると、ほとんど反射的に自分たちが責め立てられたような気持ちになり、そわそわしてしまうようなところがある。
日本人は、元来、グローバルという言葉に弱いのである。

その理由は、明治期以降、東アジアの島国から脱皮して、西欧近代国家にキャッチアップすることが国是どあった時代、産官あげて西欧に範を求め、西欧に学んできた経験が、世界有数の経済大国になった今でも、西欧コンプレックスというかたちで一種のトラウマになって残っているからだろう。
ビジネスの世界において、この傾向はさらに顕著であり、会社における共通言語さえも母語である日本語ではなく、英語にすべきだというものまで現れてきたのである。
そして、グローバル時代に世界で戦える日本人、内向きにならずに、海外雄飛する若者の育成が急務であることが、時代のメッセージであるかのように喧伝されている。

日本人は絶えず世界を気にしている。
メディアは国際機関が発表する国民総生産の世界ランキングや、会社の売り上げランキングといったことから、児童の学力ランキング、平均身長ランキングに至るまで事細かに伝えている。
識者がこれらに評論を加えて、わたしたちはいつも世界の中でどのあたりに位置しているのかを気にしている。

それが、「アメリカでは、すでに……」とか「普通の国家は……」とか、「イギリスの大学制度は……」とか、「世界の標準は……」といった言葉になってあらわれる。
メディアのみならず、大学でも、ときに政府の政策においても、この傾向はあらわれる。

グローバルスタンダードなんていうものは本来存在していない。
日本の政府も、企業も、自分たちが何にビハインドしているかの明確な指標が欲しいのだ。
そして、それがなければつくり出す。
こうして、グローバルスタンダード信仰が生まれてきたのだろう。

 そもそも国民国家というフィクションにおいて、国家同士はクラスメートのような同格の存在であり、国際社会とは単にクラスメート同士の対等な相互関係のことです。
 ですが、自立した者同士の「何でもありの争い」が苦手な日本人は「守るべき共通の基準の下での正々堂々とした競争」というフィクションを求めて、他者が造ったルールの軍門に易々と下ってしまいます。
 グローバルスタンダードを信仰する人は、国家という生徒たちの上に立つ「先生としての国際社会」を求めており、グローバルスタンダードという「先生からの言いつけ」に率先して従いたがっているのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/15/115949

 ですが日本が従いたがっているグローバルスタンダードとは、そわそわしてアメリカの真似をするだけの日本の新自由主義者たちが宣伝している一種のはったりに過ぎません。
 つまりグローバルスタンダードを真に受けている日本人は、ジャイアンのような力の強いクラスメートの言い分を勝手に「先生の言いつけ」と思い込むことによって、「先生の決めたルールは守らなきゃ」と真面目ぶりながら実際は一生徒の従順な子分に成り下がっていることになります。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/04/05/000108
 こうした奴隷気質から「グローバル化する国際社会を生き延びるには実践的な英語教育が必要だ」などと叫ばれている論調に対して、筆者はこう反論します。

そこには必ず覇権的なバイアスがかかっているということを知るべきである。
英米人とのビジネスを、習い覚えた英語でやらなければならないという非対称的な関係にもっと注意を払うべきではないのかと思う。
それは、フェアでもなければ、合理的でも透明でもない。
ほんとうは、単に、やむ得ず、押し付けられたルールに従っているだけなのだ。

郷に入れば郷に従えだろうと言われるかもしれないが、郷に入らない選択も排除すべきではないのである。
少なくとも国民国家の教育理念の中で、グローバル人材の育成というかたちで、英語を優先させるべきではない。
それらは、専門学校でやればよい。
英語使いが必要なのは、その程度に限定的な場所だけである。

 筆者も指摘しているように、現在の日本社会における英会話のスキルとは、選択可能な数多くのオプションの一つに過ぎず、生存のための必要不可欠な要素ではありません。
 日本はまだまだ、英語なんか身に付けなくても貧困に苦しまずに生きていく選択肢はいくらでも残されているような比較的裕福な社会なのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/16/095404

 英語教育推進論者たちは「そのうち日本も英語が話せないとまともに生きていけない社会になるんだ」としきりに脅したがりますが、その未来予測は「グローバリズムの押し付け工作に逆らうつもりはない」という降服宣言と同じです。
 英語が話せないとまともに生きていけないような「不幸な社会」の到来に備えて先回りして準備をすることなんかよりも、そんな「不幸な社会」を実現しないために努力をすることの方がはるかに重要な課題ではないでしょうか。  

 グローバリズムとは、「不自然な押し付け」をあたかも「自然の摂理」であるかのように錯覚させるための洗脳戦略の一環とも言えます。
 この先日本が「英語が話せないとまともに生きていけない社会」になったとしたら、それはグローバリズムの「作為的な押し付け工作」に飲み込まれてしまったということですが、後世には「自然なグローバル化の過程だった」などと語られてしまうのでしょう。
 ちょうどアメリカ建国の歴史において、先住民の不遇が正当化されたのと同じように。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300



「もしこの世界が近いうちに滅亡してしまうとしたら、あなたはこれからも今と変わらぬ生活を続けていきますか?」
 2015年3月にビッグコミック・スペリオールで始まった新井英樹の『なぎさにて』という作品では、このような終末論的世界観がやけにリアルに描かれています。

 この物語に登場するのは、ジャックと豆の木に出てくるような天まで届く巨大な蔦。
 若者たちに「ニョロニョロ」と呼ばれているこの蔦は太長い筒状になっているのか、半透明な表皮の内側には莫大な量の液体が見えています。

 このニョロニョロが世界で初めて現れたのは2011年のこと。
 南アフリカ共和国のケープタウンに突然生えてきたニョロニョロは何かの拍子に破れてしまい、ケープタウンは謎の大量の液体を浴びて壊滅してしまいます。

 そんな大災害から4年が経った2015年現在、同様のニョロニョロは世界中に数キロ間隔でびっしりと生えており、ケープタウンのような災害がいつどこで起こってもおかしくない状態になっています。
 そのせいで「世界は滅亡寸前だ」という雰囲気自体は世界中に蔓延していますが、ケープタウンが壊滅してから同じような災害はおそらく一度も再発していないため、とりあえずは普段と変わりのない社会生活が続けられています。

 この作品の設定で私が秀逸だと感じたのは、いつ起こるかわからない災害の危機が目の前にありながらも実際の災害はしばらく起こっていないため、いつも通りの経済活動が相変わらず続いているという、気味が悪いほどのリアリティー。
 これは、2011年の東日本大震災による福島第一原発の事故にも関わらず、喉元を過ぎれば熱さを忘れ(たふりをし)てしまえる世の風潮とリンクしています。
 また、環境汚染や金融危機など、じわじわと起こっていく破滅には鈍感になれてしまう私たちの性を巧妙に描いているとも言えます。

 私たちの現実世界よりも明確に「世界を滅ぼす元凶」が見えてしまうこの世界では、気が滅入って体調を崩す人が多いために病院は大混雑、学校なども「終わこもり」と呼ばれる欠席者だらけです。
 学校には「いつか絶対ニョロニョロが全部、破水して、ケープみたく世界も終わってみんな死ぬし、なら好き勝手しなきゃ」と卒業後の進路を放棄する生徒もいれば、世界が破滅しなかった場合に備えてとりあえず学校に通って受験勉強を続ける生徒もいます。

 そんな時代を生きる杉浦なぎさは、世界の破滅目前という現状を前向きに受け止めて「やりたいことは今のうち」と元気よく大声ではしゃぎ回る一見破天荒な女の子。
 物語の始まりには、一目惚れしたであろう通りすがりのイケメンに赤面しながら大声で告白し、返事は聞かずに猛ダッシュでバタバタと帰宅して「私…変わった?」と自問します。

 そんななぎさのやかましい帰宅に、気分が優れなくて寝込んでいた祖母は「かなわんな空元気…」と寝室でボヤいています。
 それもそのはず、以前のなぎさは真面目で目立たない子だったようです。
 こうしたなぎさの豹変を、いじわるなクラスメートは「世界がパニクる空気に乗って別キャラ演じ始めた」「ニョロニョロデビュー」「やるなら今のうちデビュー」などとおちょくっています。

 そもそも「自分はやりたいことがやれていない」と思って「ここではないどこか」を求めている人は、周囲からのさまざまな誘導に振り回されやすいもの。
 なぎさのように突然ハイテンションになる人は他にも描かれており、現在のなぎさが「自分なりにやりたいことがやれている」と言える状態かどうかは甚だ疑問です。
 ニョロニョロの出現をまるで「自分らしく生きよと導く自己啓発のシンボル」であるかのようにもてはやす一部の流行りに、ふわふわと乗せられて迷走しているだけかもしれませんから。

 この物語はまだまだ始まったばかりですので、これからこの世界がどうなっていくかは未知数です。
 私が気になるのは、「この世界はもう長くない」と諦めた人々の集団心理がこの先どう動いていくか。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/09/28/080958

 個人的には、このニョロニョロがいつまでたっても破れずに、先の人生を「無いもの」として扱っていた人々が「終わってくれない世界」の中で苦しんでいく展開の方がより悲劇的だと思います。
 たとえニョロニョロによる大袈裟な災害が起こらなかったとしても、モラルの崩壊という人災によって世界が終わっていく…。
 そんな展開を想像しつつも、予想を上回る展開を期待しながら今後の連載を楽しみたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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 『キーチvs』は、前回紹介した新井英樹の漫画『キーチ!!』の10年後の世界を描いた続編。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/29/000754
 世の中の矛盾と戦うために小学5年生で立ち上がった染谷輝一という少年が、既得権益を相手にとことん戦ってしまったが故に「秩序に反逆するテロリスト」として米軍部隊に抹殺されるまでのお話です。

 輝一が世間の醜い有り様と戦っていた理由は、「世界はもっと正しくあるべきだ」という模範解答のような正義感からではなく、「見えるところにムカつかせることがあるとぶっ壊したくなる」という単純な生理的嫌悪感からでした。
 そして輝一のこの「誰もやらないなら俺がやる」という強引なまでのわがままさを、世間一般の民衆にも前向きに響くようにと計算ずくでカリスマ像をマネジメントし、小学生にして「キーチズカンパニー」という法人を立ち上げたのが同級生の甲斐慶一郎です。

 こうして始まった小学生二人の世直し運動も、日本の既得権益の分厚い壁をぶち破ることはできず、10年後には大悪人のレッテルを貼られて潰えてしまいます。
 ですが、醜い世間に立ち向かう二人の果敢な姿勢は、次の世代へと確かに受け継がれていきました。
 
 どこまでも人任せで自分から動かない民衆は結局のところ既得権益のなすがままなので、一人のカリスマに頼る世直しでは世の中は変えられない。
 そう学んだ次世代の子供たちは、カリスマに頼らない自分たちの手による世直しを決意します。

今の大人なんかモノ買ってゲーム、ケータイ、ネットいじるだけで俺ら子供とほぼ変わんねぇ。
だったら子供でもっ、少しガンバリゃ、世の中変わるんじゃねえのか!!

 こうして輝一と甲斐に共鳴して集まった子供たちは「大人を捨てよう」という運動を始めました。
 輝一らの助力でテレビ生放送の場を与えられた子供たちは、全国に向けて「人任せではない世直し」を訴えます。

この国の子供に言います。
いいですか、世の中は変えられるんですよお。

「この先この国の子供たちは、世の中がこのまま変わらなければ酷い目に遭う」
大人は口癖のようにそう言います。

でも動きません、言うだけなんです。
そこでボクらは同世代に向けて、この国のしくみを、簡単な図にしてみました。

もし今あなたの側に大人がいるなら、この図がおおまかに正解かどうか聞いて下さい。
強く反論はできないはずです。
大人はこんな世の中でもいいかって変えずにきたんですよお。

つまりどんな酷い目に遭おうが子供たちの未来は勝手にしろ、と、大人は世を変えるフリと見て見ぬフリだったんです。
それは本当に責任感のないなまけ者たちです。

だから子供の皆さん、大人を軽蔑して下さい。
育ててもらってることには感謝して軽蔑するんです。

そしたら「自分は違うぞ」って「世の中を変えるぞ」って決意しませんか。
ボクら子供の未来は「ボクら子供が変える」って、今、子供の皆さんが本気で決めれば絶対変わるんですよお!!

 この緊急生放送番組の場でPRをしたのは、世間の仕組みの歪みによって肉親や友人が犠牲になるのを間近で見てきた5人の小学生。
 彼らはカメラの前で自分が見てきた世の醜い現状を語り、時の政府が語っていた「金持ちがもっとお金を持てれば下にもおこぼれがくる」というトリクルダウンの理論は嘘で、「下々の親の不幸が余り余って子供に落ちる」という負のトリクルダウンこそが自分たちを襲っていると説明します。
 そして、現状にただクレームを付けているだけでは、この社会を作ったダメな大人と一緒だと訴えます。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/15/115949

だからって、俺らが、「被害者だ」って威張ってたら、ダメな大人になっちまうぞ。
だからっ子供たちよ、俺たちだけで集まらねえか。
今すぐ集まって世の中動かす準備しねえか!?

政治家、官僚目指す奴!!
学者になりたい奴、法律、勉強する奴、夢は本物のジャーナリスト、国民の側に立つ警察官、将来大もうけする予定で困ってる人にお金を出すのを惜しまない奴。

みんな集まって上に居座る大人に嫌だって言えりゃ、今よか絶対まともになる。
大人ども文句があるなら叱りに来い!!

 また別の子は、機能不全に陥っている日本の民主主義の現状を、大人たちに問い正します。

だから教えて欲しいんです。
私が大嫌いな多数決、民主主義のことを。
歴史の中で「今はこれが流行」ぐらいの規則でしかないくせに、みんなが正しさを決めてるつもりが気持ち悪いです。

大人の皆さんは何を基準に代表を選んでますか。
多数決なんかで選ばれた政治家は民意を楯に威張る。
政治家村に住むと党やグループが優先。
これも何を基準に判断してるのか…

官僚の命令が基準ですか?
企業のおもわくで判断しますか?
やっぱり基準はアメリカですか?
目的のためなら検察・警察・裁判所・メディア利用してインチキやるって本当ですか?

日本が本当にアメリカの言いなり、属国なら、「属国は嫌だ」って言える人だけが政治家だと思うけどそんな人、本当にいるんですか?
いつまで属国のままなんですか?

国民が世の中を知るため政治を考えるための新聞やテレビが正義のふりをして、官僚の天下り先、官僚の広報として世論を操作してるって本当ですか。

 輝一と甲斐は権力の象徴である各界の要人たちを追い詰め、この子供たちの問いかけに対する「本音の回答」を力ずくで引き出して全国に放送させます。
 まず、在日米軍司令官が語った本音がこちらです。

日本が米軍の属国だとは聞いていた。
勿論、日本における米国の影響力は絶大だ。
実際、米国からの物言いひとつで、日本が10年かけても変わらなかったことが1日で変わる。
通常、他国に隷属させられた国家には強い反発があるので、宗主国はそれを強権で抑えるものなのだが、驚いたことに日本人は「現状、属国」を認識しながら、自ら我先にと…隷属する真の奴隷だ。

 そして、この米軍司令官の「日本人は真の奴隷」発言を裏付けるかのような証言を、情けない前総理大臣が吐き出します。

グローバリズムの世界で、日本が生き残るにはっ、アメリカとの関係をより密に太く強くすることですっ!!
過去もそう未来もそうですぅ
自由も平和も安全も経済も全部、日米同盟が基軸なんですよぉぉ
日米同盟を良好に保つことで自由が生まれるんです。
平和と安全が保障され、経済も拡大成長するんです。
そのために日夜我々は額に汗するんですよぉ。
夢や理想じゃなく日本の政治家は「どうすればアメリカが喜ぶか」が重要なんですよぉぉ!!

 さらに輝一と甲斐は、経団連会長にこう詰め寄ります。

経団連に加盟の企業は大権力、金持ち同士でつるんで。
まともに税金も払わずに金、貯め込んで。
社会なんかクソ喰らえ。
税も人も安くしてもっと稼がせろ。
でなきゃ拠点を海外に移すぞ。
国際競争力を題目にわがままし放題のクソガキ。
カネ、カネ、カネで肥え太った豚の集まりが経団連か。

 問い詰められた経団連会長は、その質問に「そうだ」と肯定した上で、さらに開き直ってこう演説します。

「金儲けは善」
これが企業の論理かつ倫理だ。
企業が金を稼いで何が悪い?
誰だって税金なんぞ払いたかないだろ。
損したくない得をしたい。
なら、その要望を実現してくれる政治家を援助する。
恩も義理もカネが一番ならカネで返す。
カネを出した者が儲けを得るのは当然の権利だ。
我々が儲ければ国が富む、なにが不満だ。

 この尊大な態度に甲斐は「それで非道い目ぇ遭う奴死ぬ程おるやろ」と反論しますが、会長は知らん顔でこう答えます。

そんなことにまで、責任は持てんよ。
選挙で弱肉強食の新自由主義を選んだのは国民だよ。

 このようなグロテスクな世の中の仕組みを生放送の場で語ることに成功した5人の小学生は、大人たちに向かって「この汚ない現状を分かっていて放置してきたのが大人だ」と糾弾します。

大人の皆さんが知ってても放っていることですよね。
それが世の中のしくみでしょ。
それ、子供でも知ってますよ。

理想とか現実だとか何を言ったって「お金が一番」なんですよね。
今の大人がそれをどんな言葉で飾っても、恥知らずにしか見えません。

知ってますか。
子供が信用できる大人の言葉はもうたったひとつ、「お金が一番」ってことだけですよ。

そうじゃないなら、お手本の言葉と行動をボクらに伝えて下さい。
大人の皆さんっ!!
「お金が一番」以外に、なにかありますか?

ほかに言えますか?やれますか?
子供たちに心の底から伝えたいこと、伝えなきゃいけないことがありますか?

「大人」というのは、自分より前の世代の人から大切ななにかを受け取って、あとの世代に一番大切なことを手渡す人のことじゃないんですか?

だとしたら今、この国に「大人」はどれだけいますか?
みな「子供」に見えますよ。

 この全国へのPRをきっかけにして、輝一と甲斐の志を受け継いだ小学生たちは「まず私から頑張る」を合言葉に「大人を捨てよう」運動を広げていくことになります。
 私たち大人は、この子供たちに向かって何を語ることができるでしょうか。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/10/05/163718


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

 新井英樹は、その過激な作風で知られる漫画家。
 理不尽な無差別殺人犯、斡旋業者に大金を払ってフィリピン人と結婚するモテない男、失敗と挫折を何度も繰り返す未熟で暑苦しい新人サラリーマン、凡人の努力を屁とも思わない天才ボクサーなど、彼はこれまで滅多に描かれてこなかったような人物像をこれでもかと描写し続けてきました。

 そんな彼が、「カリスマ美容師」「カリスマ講師」など「カリスマ」という言葉が軽々しく使われている世間の軽薄な風潮に対して、「本物のカリスマとは何か」をテーマに描いたのが「キーチ!!」です。
 この作品には、社会のさまざまな矛盾に対して単にクレームを付けるだけでなく、現実を変えるために自ら率先して行動していく驚異の小学5年生の姿が描かれています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/15/115949

 エリート銀行マンの家庭に生まれた甲斐慶一郎は、幼いころから何かにつけて要領がよく、塾の全国模試でもトップをとるほどの秀才。
 彼は4歳のときに、親しく遊んでいた町工場の息子が借金苦による一家心中で亡くなったことをきっかけにPTSDへと陥ります。
 そんな彼を立ち直らせたのは、同い年で全国的な有名人となっていた染谷輝一でした。

 わずか3歳にして目の前で両親を通り魔に殺された輝一は、傷心で街中を徘徊しているところを、浮気中の火事が原因で我が子を亡くし夫に捨てられた自暴自棄のホームレス中年女性に連れ去られます。
 中年女性との逃亡生活の挙げ句に見捨てられて山中に迷いこんだ輝一は、虫や魚を捕まえて食べながら生き延びていましたが、魚が採れなくなって山から降りてきたところを発見され、ニュースやワイドショーなどに取り上げられます。

ひとりすごい。
ひとりだいじ。
みんなひとり。
大丈夫。
生きる楽しいひとりだから。

 「祖父母たち家族と再会できて嬉しいか」と猫なで声で聴いてくるリポーターたちに向けて、4歳の輝一はぶっきらぼうにこう返しました。
 これは逃亡生活の中で出会った恩人から受けた激励を、幼児の彼なりに解釈したもの。
 突然の両親の死によって悲しみのドン底にいた輝一を、ワイルドに立ち直らせた言葉だったのです。

 友人の死によって泣きくれていた4歳の甲斐は同い年の輝一のたくましく生きる姿に激しく揺さぶられ、輝一に関する情報ならなんでも収集する熱烈なファンになります。
 そうして小学5年生になった甲斐のもとに、数々の問題を起こして担当教師たちを潰してきた有名人の輝一が転校してきます。

 人を寄せ付けない問題児の輝一に積極的に近付いていった甲斐は、輝一の魅力に改めて惚れ直すことになります。
 甲斐が気に入ったのは、輝一がこの人間社会の作り話に全く飼い慣らされていないこと。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/05/060200

 それを象徴するのが、二人が特急電車に乗ったときのエピソードです。
 運行中の車内にいたのは、横柄な態度と大きな声で下衆な金儲けの話を電話で堂々と繰り広げている背広姿の大柄な中年男。
 輝一はその男に近付いて無言で携帯電話を奪い取り、有無を言わさず通路の向こうへと放り投げます。

ジブンただの「正義漢」か?

 輝一の突然の行動に、甲斐は思わず失望しかけます。
 自分の憧れた男が、安っぽい社会道徳に飼い慣らされた「正義漢」なんかでいて欲しくはなかったのです。
 ですがその一瞬の危惧は、輝一が中年男に向けて発した次の一言ですぐに帳消しになります。

お前は嫌いだ。

 この言葉を聞いた瞬間、甲斐は思わずガッツポーズをとります。
 輝一は単に世間で理想とされるような正義感に従って行動していたわけではなく、己の「好き嫌い」というきわめてシンプルで本能的な基準で行動していただけだったからです。
 こうして輝一という人間の規格外のスケールを再確認した甲斐は、幼いころから胸に秘めていた壮大な野望を輝一に打ち明けます。

ふたりで日本動かさへんか。

お前なにしたいの?
…金か?
お前「日本、動かす」って言ったろ?

金はつかむ!!
つかんだ金で「金こそ力」ゆう価値ぶっ壊すつもりや。
そこで質問や輝一くん!!
ジブンっ今に満足か!?
先の予定と希望あるんか!?

今も先も…なにしていいかわからない。
俺動くとみんな…壊れるから。

なら…どや?
「カリスマ」にならへんか?
マジやで。

お前は…頑丈そうだな。

 甲斐の野望とは、友人を死なせた「金こそ力」という世の中の在り方をぶっ壊すこと。
 周囲からの圧力など意に介さずに図太く逞しく育ってきた輝一は、気に入らない世の現状を変えたい甲斐にとってまさにカリスマ的存在だったのです。

 しかし輝一は、周囲の人間の気持ちを操りながら調子よく生きているように見える甲斐をなかなか信用しません。
 輝一は同じクラスにいる佐治みさとの「壊れかけた弱々しい姿」を目にするのが気に食わないと言い、みさとに対して行われている陰湿ないじめを甲斐の影響力で止めさせるようにと要求します。
 輝一に認められたい甲斐は、学校の内外でみさとにちょっかいを出し続けている女子グループに圧力をかけ、みさとへのいじめは一先ず収束したかのように見えます。

 ですが、ドッジボールの時間にみさとと同じチームになったリーダー格のゴサキは、二人ともが外野にいる時を狙ってみさとの無防備な顔面に至近距離から思いきりボールをぶつけます。
 過失を装ってみさとに謝るゴサキに甲斐は詰め寄りますが、故意ではないという申告を受けてその場にいた担任や周りのクラスメートたちは「わざとじゃないし本人も謝ってるんだし」と事態を丸く収めようとします。

 そんなクラス全体での共犯的な「見てみぬふりのことなかれ主義」に心底ムカついた輝一は、担任や甲斐やみさとも含めたクラスの全員に鉄拳を食らわせて大問題になります。
 出校停止などの処分から輝一を救いたい甲斐は、保護者会の席に乗り込んでいじめの実態を正直に語ろうと言葉巧みにクラスメートを誘います。

人間つるむとロクなこと考えんからな…
なかよし、協力、一体感に酔う多数カサに着た連中ぐらい、信用ならんもんないで!!
まんま「魔女狩り」する人種や。

ほんでこの教室の魔女が「みさと」や。
ボクも例外ちゃう。
ええ子でおる気はない。
「魔女」狩っとった人間や。

そこで相談なんやけどな、みんな、見て見ぬフリしてたなかよし同士!!
どやろ協力して、輝一くんを助けたってくれへんか?

 こうしてクラスメートの協力を得た甲斐は、いじめをやめさせようとした輝一を処分から救うことに成功します。
 この件で甲斐は、刷り込まれた価値観に飼い慣らされているクラスメートたちを心の中でこき下ろし、社会のお約束にまるで去勢されていない輝一に喝采を送ります。

ホイホイ踊らされよったあのアホども!!
初めに断り入れてもどこ吹く風や。
「協力」だ「勇気」 だ「正義感」だのがそんなに好きか?

ヘラヘラと!!
殴られても気づかへんか。
お前らの罪、「好き嫌い」だけで裁いたやないかあの…輝一はっ。

 こうした輝一や甲斐の働きによってクラス内でのみさとへのいじめはほぼ消滅しましたが、みさとの抱えている絶望はそんな生易しいものではありませんでした。
 父と二人暮らしのみさとは、父が連れてくる客を相手に少女売春を強制されていたのです。

 そんなみさとから助けを求められた輝一は、売春の現場で仲介役のみさとの父親を殴りつけて妨害し、この犯罪行為を警察に通報します。
 しかし、輝一の度重なる訴えに対して警察は「ちゃんと調査している」と返すだけで、みさとへの売春強要が止む気配は全くありません。
 単純に怒りをぶつけるだけの方法に限界を感じた輝一は、世間の仕組みに対抗するためにとうとう甲斐に協力を求めます。

俺は…俺の見えるとこに、ムカつかせること…そういうことがあるってのが…絶対に許せねぇ。
敵は…まとめてぶっ壊したくなる
俺は世間知らずで怒るしか能がない…違うか?

 輝一から協力を求められ、少女売春の現場を目の当たりにして気分が悪くなっていた甲斐は、怒れる輝一に共感してそのままでいいとフォローします。

ゆうべ…世間を一緒に見たやろ。
クソ現実やで!!
そんなもんに価値なんかない!!
「好き」と「嫌い」、「敵」と「味方」分けて理想話したらええんや!!

ほしたら…険しくとも道は見える。
せやっ!!
お前は道を示せ、術はボクが使う、…カッコええやろ。

 こうして、世間のクソみたいな現実に対する二人の戦いが始まります。
 みさとを通じて手に入れた顧客リストには、元文部科学大臣にして政権与党の幹事長である曽根しんを始めとして、日弁連No.3、電話会社支店長、県教育委員会教育次長、宗教指導者、電力会社幹部、医大の外科部長といった顔ぶれがあり、政治家も警察もグルであることが発覚。
 さらに顧客リストには、銀行支店長である甲斐の父親の名前もあり、甲斐は強いショックを受けながらも大好きだった父親を告発する覚悟を決めます。

 しかし、二人が敵に回した相手の力はすさまじく、取材していたテレビ局とのパイプは断ち切られ、輝一の家は何者かに火炎瓶を投げ込まれて燃やされてしまいます。
 放火によって祖母を失いかけた輝一は激昂し、人気政治家の曽根しんが自宅前で行う囲いこみ会見の場を襲撃して、少女売春を握り潰そうとする勢力に宣戦布告します。
 曽根しんを殴りつけSPに取り押さえられた輝一を引き取りにきた祖父に、権力者側は児童施設への強制収容をちらつかせて札束を積み上げるなど、あらゆる手段で口止めをしてきます。

 そんな権力側からの揉み消し工作に対向すべく、彼らは仲間のフリージャーナリストらに人質役を演じてもらい、入手してもらった銃を片手に国会議事堂前にワゴン車を止めて立て籠ります。
 この過激な計画の実行に身震いする甲斐は、少しも物怖じしない輝一に問いかけます。

ほんま…少しも気遅れ…せえへんのか?
敵は、この国でトップレベルの力持った者たちやで。

力…ってなんだよ?

4つや!!
金、…情報、法と暴力や。

…くだらねえ。

 これまで受けてきた数々の圧力にも屈せずこう言い捨ててしまえる輝一は、立て籠りをやめるように拡声器で説得してくる刑事も、同じようにバッサリと切り捨てます。

いいかあ!?
キミたちは今きまりを守らないよくないことをしているんだあ。

……法律か?

そうだ法律だ!!
キミたちがしていることは法律で禁じられている!!
みんなの約束ごとは守らなきゃダメだろ!?

俺がすることをジャマするなら、お前ら警察も法律も、敵だ!!
俺の目に入らないように消え失せろ。

 この痛快な輝一の姿に奮い立った甲斐は「銃を持った小学生による国会議事堂前の占拠」という特大ニュースのネタを武器にテレビ局との電話交渉を有利に進め、報道機関へのあらゆる政治的な圧力を突き崩します。
 こうして彼らは、少女売春とそれを揉み消そうとした権力者側の非道をとことんまで告発する映像を、全国ネットで生放送させることに成功します。

 目的を果たした彼らは素直に投降し、小学生の甲斐と輝一は児童相談所に送られ、彼らの立て籠りを支援したフリージャーナリストたちは容疑者として警察署で取り調べを受けます。
 自分と大人たちとの境遇の違いに憤った輝一は児童相談所を飛び出し、彼を英雄視して群がる民衆やマスコミたちをすり抜けながら警察署に向かい、仲間たちを釈放するよう警察に直接掛け合います。
 
 警察署の前で「国が定めた法律を破った者を釈放するわけにはいかない」と門前払いを受けた輝一は「わかったもういい」と吐き捨てて児童相談所に帰り、甲斐に「俺の思い通りに国や法律、動かす方法を教えろ!!」と要求します。
 ほんの少し動いただけで大きな人垣を作ってしまう輝一の求心力に注目した甲斐は、捕まった大人たちを早期解放するための現実的な方法論を語ります。

テレビ始めおそらく新聞も「ボクらに味方」の論調や…
ええか輝一、ここが重要や。
今の扱いは、いわば人気者アザラシと同じ素材や。

幸いなことに普段通り自分らの行為に無自覚なマスコミ連中は、目の前のエサに喰らいつくだけで本質が見えてへん。
こいつらな、国が定めた法律を破った側に味方してんねや。
「法さえ守れば」って世間に「法を破っても」やるべきことがあるって画を、タレ流してしもたんや。

4つの力を持ってる奴らを動かすには、こっちも対抗できる力を持たなあかん。
なら今、ボクらに持てる力ゆうたら…あの「人垣」や。
力持ってる奴らが無視できんようなより大きな「人垣」世論を作ることや。

……「よろん」?

世の中の声!!
支持する声や。
奴らマズいと思たらきっと損得勘定するわ!!
せやから輝一が今…すぐ、少しでも世の中動かす気ぃなら、独裁者なみに大衆を魅了することや。

 こうして甲斐はテレビ局に出演交渉を行い、輝一というカリスマ像を盛り立てることで、仲間たちの早期釈放を助長するような世論を築き上げようとします。
 最終話で描かれた甲斐のこのスピーチは、この現代社会を平然と生きている私たち大人にとって耳が痛い言葉だらけです。

4歳の輝一が吐いた言葉を覚えていますか?

ひとりすごい。
ひとりだいじ。
みんなひとり。
生きる楽しいひとりだから。

当時ももちろん今のこんな世やから余計に響く言葉や思いませんか?
ボクには民主主義とかゆう多数派が得する世の中に、喝入れた言葉に聞こえるんですよ。

例えばボクが見た輝一は、こんな行動をとりました。
学校でイジメがあれば助ける。
酷い親がいるから子供を助ける。
間違ったことは立場、状況を問わず間違いや言う。
卑怯な奴はこらしめる。

今の、中身をひも解けば…イジメの加害者も、児童虐待の発見や救助より、プライバシーを優先したい奴らも、「卑怯」の感覚もなく「合法の範囲内の自由を」と叫ぶ連中も、買春政治家を持ち上げたアホも、みんなひとりじゃなく多数派や!!

当たり前の正しいことしよて思たら損をする。
こらしめるにも合法を求める。
見てみぬフリは違法やないから多数派はいつも得ばっかりや!!

そんな損得勘定で、多数派が涼しげに知たり顔で選んでることを、「現実」て呼んでません?
ボクらに味方してくれた少数派の大人。
石塚さん、バカ村、カメの3人は今、違法の名のもとに警察に捕まり、刑務所行きの…予定?
嫌な「現実」や。

逆にボクらの敵となった奴らは、「バレなきゃOK」「バレたら法を盾に」「現実は金で買え」て、政治家、警察、テレビ局みんなっほくそ笑んでたわ。
それが小学生のボクらが見た大人の「現実」と「民主主義」の世の中でした!!

俺は俺が汚えと思うもんが嫌いでそんなもん消えて失くなりゃいい。
誰もやらねえから俺がやる。

これ…多数派やなく「ひとり」の言葉や。
「国益」が口癖の「現実」的で多数派の評論家は、独裁者を夢見てるて断罪してたけども……構へんよ。
なら、味方の釈放を求めて輝一が言うた言葉は、独裁者の理不尽ですか?

お前の理屈は正しくても醜い。
まともに考えろ。

…ボクには今の現実が理不尽で、輝一の言葉と行動こそ選ぶべき「まっとうな現実」に思えるんですよ。

ほしたら負けたらあかん。
「ひとり」の戦いや。
輝一は「現実」に挑み勝つ気です。

ボクが信じるように、輝一を信用に足る人間や思うた人、響いた人、ボクらの戦いに続いてください。

一歩っ
踏み出せば世の中変わると信じてる人!!
奇跡を信じる人!!

輝一の「ひとり」の戦いに参加してください!!

 この甲斐の問いかけはフィクションの枠に収まるものではなく、読者を直接揺さぶりかけるためのもの。
 私たちは多数派に流されることなく、甲斐や輝一のように自分の頭で考えて生きているでしょうか。

 私個人について言うならば、私が気に入らないと思うものは甲斐や輝一とは違いますから、私は私なりの「ひとり」の戦いをこのブログでしています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/18/002319
 新井英樹は、漫画という手段で「ひとり」の戦いをしています。
 皆さんは、どのような「ひとり」の戦いをしていきますか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

 三浦建太郎の描く漫画『ベルセルク』は、壮大なスケールで描かれるダークファンタジー。
 戦乱の世に平民の身分で生まれたグリフィスという才覚豊かな男は、その圧倒的な剣の腕とカリスマ性で「鷹の団」という最強の傭兵団を築き、大胆かつ緻密な知略で敵の裏をかいて数々の武功を上げていきます。
 
 グリフィスの幼い頃からの野望は、自分の国を手に入れること。
 騎士となり貴族となって宮仕えするようになってからは、宮中の政敵をも手玉に取り、王女の心も掴んでいきます。
 
 しかし、国を手にする一歩手前でグリフィスは王女をかどわかした罪で失脚。
 彼は1年以上にわたる拷問の末に皮を剥がされ手足の腱や舌までも切られて、一生動くことも話すこともできない体にされます。
 
 絶望の淵に追いやられた彼の前に現れるのが、ゴッドハンドという人外の魔物です。
 ゴッドハンドたちからの勧誘にあったグリフィスは、「鷹の団」の仲間たちを魔物たちへの生け贄にすることと引き替えに、ゴッドハンドたちの仲間入りを果たします。
 こうして神のごとき力を手にいれたグリフィスは再び人の姿へと授肉し、ついに自らの国を手に入れて現人神として君臨します。
 
 この物語の主人公は、グリフィスの親友であり「鷹の団」最強の剣士であったガッツです。
 彼は、野外で亡くなっていた母体からこぼれ落ちていた赤ん坊として傭兵に拾われ、生まれながらに剣しか知らずに育ってきた男。
 その特殊な出生から不吉な存在として忌み嫌われてきた彼は、唯一信頼していた育ての親にも殺されかけたことで、剣以外には何も信じられなくなります。
 
 そんな人間不信だったガッツが、初めて友情を交わし合えた男こそがグリフィスです。
 グリフィスと出会うことでガッツにはようやく「鷹の団」という自分の居場所ができ、仲間のキャスカとは心許せる恋人同士になります。
 
 ですが彼は「鷹の団」の仲間たちと一緒に、グリフィスから魔物たちへの生け贄として捧げられてしまいます。
 仲間たちがみな魑魅魍魎たちの餌食となっていく地獄絵図の中、キャスカは人外の存在となったグリフィスに犯され魔物の子を孕みます。
 そんな中、片目を潰され片腕を千切りながらも何とか生き延びたガッツは、気が触れたキャスカを連れ出し、グリフィスへの復讐を誓って旅に出るのです。
 
 この『ベルセルク』のグリフィス授肉をめぐるエピソードでは、さまざまな登場人物の「信仰の在り方」が対照的に描かれています。
 舞台は、国王が亡くなり、疫病が流行り、邪教徒狩りが盛んになり、国中が荒廃し、皆が神の奇跡を祈っているような暗黒時代。
 中世ヨーロッパの魔女狩りを思わせる世界観の中、聖地にある「断罪の塔」の中では教団による残虐な拷問が繰り返されていました。
 
 神の名の下に無実の人々を次々と異端審問にかけ、拷問し、処刑していく僧侶モズグス。
 揺らぐことのない信念を持つモズグスに憧れて邪教徒狩りに精を出す、貴族の娘にして聖職者のファルネーゼ。
 邪教徒狩りに精を出すファルネーゼの姿に嫌気がさしている部下のジェローム。
 邪教徒狩りやその密告合戦によって戦々恐々としている聖地で、娼婦仲間と肩を寄せ合い信頼関係を築きながら生きているルカ。
 
 そんな聖地で教団に捕まったキャスカは、異端審問にかけられ、魔女とみなされて処刑されることになります。
 また、時を同じくして、この地で虐殺されてきた人々の怨念が巨大なスライム状の化け物となって世に現れ、聖地にいる人々を次々と飲み込み始めます。
 
 パニックに陥り救いを求めて「断罪の塔」に集まった民衆に対し、モズグスは「この魔女を殺せば化け物はいなくなる」と演説し、キャスカを火炙りにしようとします。
 そんなキャスカを助けに来たガッツに対して、モズグスはこう言い放ちます。
 
あなたには聞こえぬのですか!?
この祈りの声が!!
 
この地に集いしすべての人間が
今心一つに救いを求めているのです
神の勝利の時を待ち焦がれているのです
 
あなたは邪悪なる魔女一人と引き替えに
この何千何万の信者の命が奪われても構わぬと言うのですか
 
 これまでゴッドハンドという超越者たちの定めた摂理に逆らい、足掻きながら何とか生き延びてきたガッツは、他人を生け贄にするだけで助かろうとする民衆たちの根性に怒りを覚えて反論します。
 
ふざけんじゃ…ねェ…
祈ってるだけだろうが
 
これだけ雁首揃えて自分のケツに火がついてる時に拝んでるだけだろこいつら
何千何万人が揃いも揃って女一人にすがり付いてんじゃねえ
 
 そして、「貴様のような不信心者には決して奇跡は訪れぬ!!」とバッシングするモズグスを意に介さずにこう返します。
 
御大層な奇跡を待つより…
先に体が動いちまう性分でね
 
神に会えたら言っとけ!!
放っとけってな!!!
 
 こうした争いの末にキャスカを救い出し、化け物たちが火に弱いことを発見したガッツは、近くで生き残っていたファルネーゼやジェロームらと協力し、松明をつかって化け物を牽制しながらこの場から脱出しようと持ちかけます。
 一方、化け物の出現が現実として受け入れられないファルネーゼは、神にもすがらず、自分の力でなんとしても生き延びようとするガッツのぶれない姿に驚愕します。
 
…なぜ?
そんなふうにやれるのだ………?
 
こんな絶望的な…誰もが何かにすがりつくしかできない中で
なぜこんなにも正確に当然のように生き抜くことを口にできるのだ…!?
 
 ファルネーゼの当惑をよそに、ガッツは生き抜くために必要なことだけに専念し、頭でっかちのファルネーゼにも「自ら行動する姿勢」を要求します。
 
活路は切り開く
死にたくなかったらてめェもちったァ手ェ動かせ
 
 そして、松明を抱えたまま思わず両手を組んで「神よ…」と祈ろうとするファルネーゼに、ガッツは極めて現実的な激を飛ばします。
 
祈るな!!
祈れば手が塞がる!!
てめェが握ってるそれは何だ!?
 
 こうしてガッツたちが必死のサバイバルをしている間、パニックに陥った民衆は化け物から逃れるために我先にと「断罪の塔」に詰めかけます。
 ですが、あまりに大量の民衆がかけつけたために、破損した塔が重みに耐えられなくなって倒壊してしまいます。
 やがて朝になって化け物たちが消え去り、何とか生き延びることができたジェロームは、聖地の周辺に意外と多くの生き残りがいたことに気付いてこう総括します。
 
皮肉なもんだぜ
神さまにすがってあの塔に逃げ込んだ連中が自分たちの重さで塔を倒しておっ死んで
逆に神にすがらず一目散に難民窟から逃げ出した不信心者達の方が生き残った
実際もう二度とお祈りする気にはなれねェわな
 
 化け物の襲来に対し、娼婦仲間を樽に詰め込むことで助け、自らは井戸に飛び込むことで難を逃れたルカは、このジェロームの信仰放棄の発言に対して別の建設的な捉え方を語ります。
 
そうでもないさ
生き延びようとすることと恐怖から逃れようとすることはべっこのことだよ
恐怖に我を忘れて周りに流されずに最後まで生き延びるために行動した者が順当に生き残ったんだ
 
神さまってのは何考えてんのかわかんないしどうにもならない運不運を人に押しつけるけど
それでも人が自分達で何とかできる領分は残しといてくれてるよ
 
 ファルネーゼや民衆たちがすがっていたのは、困ったときには奇跡を起こして救ってくれるお助けマンのような「幼児のための神」です。
 彼らがこの「幼児のための神」を信じていられたのは、それを煽動するモズグスの「確固たる信念を持つ姿」に依存することで安心していたかったから。
 ジェロームが皮肉ったのは、こうした幼稚な思考停止の姿でしかありませんでした。
 
 神への不遜などまるで意に介さずに己の力だけで道を切り開こうとするガッツの姿を間近で見ていたジェロームは、神への信仰そのものが馬鹿馬鹿しいものに見えたのでしょう。
 ですがルカは、そのような「困ったときの神頼み」だけが信仰の姿ではないと諭します。
 
 ルカにとって「奇跡が起きなければもう駄目だ」と容易く神頼みに走るような態度は、そもそもこの世に神の導きがあることを信じきれていないのと同じ。
 ルカが生き延びるための行動を最後の最後まで模索できたのは、どんな困難でも「神さまは人が自分達で何とかできる領分は残しといてくれてる」という、ユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナス並の成熟した信じ方をしていたから。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/15/115949
 
 神を信じずに行動することで助かったガッツと、神を信じて行動することで助かっていたルカ。
 両者に共通していたのは、自らの生き方を他人任せにしてしまわないという態度です。
 
 現代を生きる我々の身の周りにも、占い、宗教、哲学、科学、疑似科学、スピリチュアル、自己啓発などといった、さまざまなモズグスが「正しい生き方」を騙って幼稚な安心感を提供しています。 
 あなたもそんな周囲の荒波に流されて、思考停止の罠に陥ってはいませんか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300