間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -7ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

キリストでもシャカでもマルクスでも悪魔くんでもみな同じことだ
それぞれ方法はちがっているが根本にある考えはおなじなんだ
 
世界がひとつになり貧乏人や不幸のない世界をつくることは……
おそかれはやかれだれかが手をつけなければならない人類の宿題ではないのか………
 
悪魔くんはそれをやろうとしたのだ
きみはその人を売ってしまったのだ!
現実に金になるというだけで……
 
 これは水木しげるの漫画『悪魔くん千年王国』の中の一コマです。
 この作品は、国境で区切られて争いだらけのこの地球上に革命を起こし、貧富の差も戦争もない人類がみな平等の千年王国を建設しようと十二使徒とともに戦う異能の天才少年の物語。
 冒頭に紹介した台詞は、革命のリーダーである悪魔くんを現体制側に3000万円で引き渡した第三使徒に向けて、第一使徒が発したものです。 
 
 ここで挙げられている「貧乏人や不幸のない世界をつくること」というのは、本来は人文・社会科学にとっての宿題のはずだと主張しているのが、構造主義者の高田明典です。
 彼は1997年に著した『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』の中で、科学者たちが本来取り組むべき宿題を放置してどうでもいい仕事しかやれていないのは、そもそもの研究手法を選び損ねているからだと指摘しています。
 
 このボタンのかけ違えは、科学の中でももっとも信頼度が高いとされる自然科学の研究手法を、人文・社会科学の分野にもむやみに取り入れようとしたこと。
 科学的エビデンス(根拠)にこだわって実験を重ね数値的に統計をとって解明しようとする自然科学の手法を「切れ味の良い剃刀」に喩える彼は、人文・社会科学の壮大な課題を解決するのに必要な研究手法はそんなみみっちいものではなく、構造主義のように大胆かつパワフルな手法なんだと次のようにプレゼンしています。
 
物理科学に代表される自然科学は、その手法の確立という観点からするとほとんど完成の域に達していると考えられているようです(もちろん異論もあります)。
しかしながら自然科学的分野に比べて人文科学・社会科学的分野での「研究手法」に関しては、もちろんそれぞれの分野の内部での整合性や妥当性はつねに吟味の対象となっており相当の段階に達しているものもあるのでしょうが、まだまだ「確立」といえるレベルではないことは明らかです。

私たちは現代でも様々な問題に直面しています。
それらの問題を解決する上では、できるだけ有効な「道具」を用いる必要があります。

紙を切るには良い「鋏」が、材木を切るには良い「鋸」が、それぞれ別々に必要になるのと同じです。
どんなに切れる「鋸」であっても、それで紙を切ることはできません。

物理学や経済学には「数学」という強力な道具がありますが、その他の人文社会科学の分野では計量的な「数学」という道具に馴染まない問題が多々あります。
剃刀は確かに鋭利な刃物ですが、巨木を切るのには適していません。
巨木を切るには「斧」が必要なのですが、人文社会科学にはそのような斧が用意されていませんでした。

数学という「剃刀」を使って木を切り始めてみたものの、「やっぱり切れないや!」「いや、ちょっと切れたよ!」などという不毛な議論を繰り返してきた分野もたくさんあります。
また「そんなトコを剃刀で切ろうとしてもダメだよ!ほら、こっちこっち。ここが切れやすいから、ここを切ろう」などと言いつつ、枝の先っぽばかり切ることに熱心になってしまった人文系の分野もあります(数理心理学などがその代表例です)。

「数的処理が可能な問題」のみを扱うというのも確かに潔い姿勢でしょうが、それが「問題の解決」からは程遠いところにあるというのは明らかでしょう。
私たちは道具によって問題を選択するのではなく、解決しようとしている問題に適した道具を使いたいのです。
数的処理が可能である「実験」を考えるという事態は、まさしくその罠に陥っていることを表しています。

構造論的手法こそが、ここでいう「斧」にあたるものです。
斧では「薄い紙」を正確に切り取ることは難しいのですが、木を切り倒すことならできます。
ですから、「正確にこの紙を切り取れないような、そんな斧は無意味だよ……」という批判のほうが「無意味」なのです。

構造主義には、「斧」がもっているような「概念の曖昧さ」や少々悪くいうと「ズサンさ」があることを否定はしません。
しかし斧には斧でしかできないことがあるように、構造主義にも得意とする適応分野が存在します。
そのような分野を対象として、構造主義がいかなる問題を扱うのかについて考えていくことにしましょう。
 
20世紀末の現在、この世界には「問題」が溢れています。
「科学は進歩した、もしくは、進歩しつつある」「科学の進歩は日進月歩だ」などという言い方は、「科学」を「科学技術」と言い換えることによってのみ、ギリギリの妥当性を保ちます。
進歩した科学を具備している社会が現在の地球であるなら、この現状のていたらくぶりの原因は何でしょうか。
 
経済学は南北問題を解決できず、社会学は差別問題の現状を事実上放置したままです(もちろんそれらは明らかに「社会科学」の一分野です)。
政治学者が選挙予想学者もしくは政局解説者であり、心理学者が性格占師や不出来な相談相手としてしか社会的に認知されていない現状で、どの「科学」が進歩していると胸を張って言えるのでしょうか。
現実問題として、ほとんどすべての「科学者(と言えるかどうかは別としても、そう『呼ばれている』人たち)」は、ごく基本的な問題の解決に対してさえ全く無力な状態です。
 
彼ら無力な「科学者」たちは、うまいいいわけを思いつきました。
「科学の目的は問題の解決ではない」といういいわけです。
 
これは同情に値する事態です。
仕方がないのです。
問題を解決するための道具が与えられていない以上、解決できるはずもありません。
 
巨木を前にして素手で立っている科学者は、「こんな木、切れるわけないだろ!」と言い出したというわけです。
だから「木を切ることが私たちの目的ではない!」と言いたくなる気持ちはわかります。
だって、できないんですから。
 
しかし、彼らがそう宣言したとしても、切らなくてはならない木が消えてなくなるわけではありません。
20世紀末だというのに、地球の多くの地域には(驚くべきことに、まだ)飢えが存在しています。
差別も広範囲かつ多種に存在します。
貧富の格差、犯罪発生率の上昇、政治に対する不信、その帰結としての生活不安、若年層の低能化、家庭の崩壊……これら全部を「科学」が解決しなくてはならないというわけではないでしょうが、少なくとも「人文・社会科学」の喉もとにつきつけられている問題であることは当然です。

 貧富の格差を解消できない経済学。
 差別問題を解消できない社会学。
 政治への不信を解消できない政治学。
 心理的不安を解消できない心理学。

 このように高田明典が人文・社会科学の無力を自信満々にあげつらうことができるのは、構造主義には先駆者レヴィ=ストロースらによる巨大な実績があるから。
 その実績とは、西欧的な価値観に支配されきっていた20世紀前半の国際社会に、西欧産である近代合理主義への盲信を反省させて世の風潮を変えたことです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/24/195700

 レヴィ=ストロースによると「普遍的な真理を解明するためのもの」という伝統的な科学観は西欧独特のただの偏見。
 私たちが「真実の見極め」だと考えている諸々の事象はただ単に「造り上げられた制度」でしかなく、どの文化圏も自らが造り上げた制度の下で「真実の見極め」をしたつもりにさせられているだけであり、近年うるさく言われている「科学的なエビデンス」もそうして造り上げられた西欧的な制度の一部に過ぎません。
 そして、科学や思想というのは「私たちにとっての世界」を形造っていくためのツールの一部に過ぎないんだから、道具としての利便性や弊害をその都度確かめながら試行錯誤を繰り返していこうとする、真実への信仰を重視しない現実的な制度設計の考え方こそが構造主義の真骨頂です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/27/013900
 
 高田明典の問題意識は「真理の探究にかまけて『実在するかどうか』なんて問題に無駄にこだわっていては、いつまで経っても科学はこの世の問題を解決できない」ということ。
 その意味で「実在するかわからないものを語ったり、測定できないものについて論じたりするべきでない」といった世の科学者のこだわりは大きく的を外しているし、その無駄な力みのせいで人文・社会科学は大した成果をあげられていないのだと断じます。
 
 彼は、実在するかわからないものや測定できないものに名前をつけて論じることは、説明概念・構成概念として役に立つとその効能を評価しています。
 そして、構成概念でしかないはずの「心」や「無意識」を実在物として真に受けて扱ってしまう素人の姿勢や、逆に「実在するかどうか」「測定できるかどうか」にこだわり過ぎて構成概念としての有用性を評価できない頭でっかちな科学者の姿勢を、両方まとめて以下のようにばっさりと批判しています。
  
それぞれの分野にいる研究者は構成概念として様々なものを考え出します。
たとえば「欲望」とか「心」といったものも構成概念です。
それらの実在は問題にならないどころか、それらの「痕跡」さえも観察することはできません。
 
巷では「本当の私の心」とか「心って何?」とかいう問いが溢れているようですが、何のことやらさっぱりわけがわかりません。
「欲望」は、人間の行動の前段階にある過程として説明のためにおいた「説明概念」でしかなく、その実在を証明することなど不可能です。
 
「無意識」「意識」「知識」「記憶」などといった概念もすべて同じです。
「記憶」を直接観察することはできず、観察できるのはたとえば「一定時間をおいた後で、先ほど覚えさせた文字列を書かせた」ときの正解数です。
そして、この「正解数」という観察可能な対象を説明するために「記憶」という説明概念をおいたということにほかなりません。
 
「位置エネルギー」「加速度」などといった物理で用いられる概念も多くは説明概念です。
「位置エネルギー」を直接観測することが不可能であることは当然ですが、「そんなものは存在しない」と言い出す人も皆無です。
実在は、もとから問題ではないからです。
 
位置エネルギーを用いることによって、多くの力学的現象は単純な形式で記述されるようになりました。
それこそが、この「構成概念・説明概念」を導入したことの最大のメリットです。
 
話を心理学に持ってくるならば、これらの考え方はあまりにも軽視されていると思われます。
「心」や「無意識」が構成概念であることは当然なのですが、それらをあたかも「実在物」のように扱う人が(何と研究者の中にも)多いのは不幸といわざるを得ません。
ま、少々下品な言葉づかいになりますが「バッカじゃないの?」ということになります。
 
実際には、この種のバカは大学にも溢れているようです。
そんなことを考える機会がなく、のうのうと学部大学院を過ごしてしまった能天気な「ニセ心理学者」が増えているのが実情でしょう。
科学哲学・科学思想史・科学基礎論といった講義は学部でも配当されていますが、必修ではないところが多いようですし、たとえそれらの講義を取ったとしても当の担当教員が「無知」である場合があるので、仕方がないことかもしれません。
 
「位置エネルギー」という構成概念が有用であるのは、きわめて合理的かつ功利的な理由によるものであり「真理」などと呼べるものの登場する余地はありません。
同様に「欲望」という構成概念が有用であるのも、きわめて合理的な理由によるものです。
行動の前段階に「ある種の欲望」が存在するとして、行動の関係式を記述するために必要となるものです。
 
私は「心は存在しない」とは言いませんし「無意識は存在しない」とも言いません。
それは「位置エネルギーは存在しない」と言う物理学者がいないのと同じです。
しかしそれが「構成概念」であることをはっきりと知っています。
 
私は一般書においては「人間の心というものは~」という言い方をしますが、それは方便でしかありません。
しかしそれをプロやプロ予備軍が読んで「ふむふむそうか」などと思うのであれば、それは問題です。
 
 彼も散々繰り返しているように、私たち世界への解釈はほぼすべて、言葉から成る方便によって築かれています。
 そして、便利に活用するために造ったはずの方便をいろいろと真に受け、逆に振り回されてしまうのが私たち文明人の性と言えます。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/05/23/035700
 
 キリストもシャカもマルクスも宗教も科学も構造主義も、世界の解釈(構成概念・説明概念)を与えることによって人々の行く末を左右するという点では本質的に何も変わりません。
 こうした方便としての作用こそが言葉の本質だということを、私たち人類はそろそろ常識として登録してしまっても良いのではないでしょうか。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/31/200500


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
「本当にわかる心理学を書いてください。『本当に』がポイントです。世間の流行やトレンドは気にしなくていいですから」……そう依頼されたとき、私は嬉しかった。
心理学の真骨頂を伝えられるときがやっと来た、と思った。
 
「でしたら、みんなが大好きな『心理テスト』も『深層心理』も、頭から否定しますけど?」――。
戸惑う編集者の顔を覗き込みながら、私の心は浮き足立っていた。
ずっと書きたかったのだ。
そういう本当の本が。
 
 これは、心理学の専門家としてメディアで活躍している植木理恵の著書『本当にわかる心理学』の序文です。
 この序文からは、心理学の専門家としてメディアに登場しながらも、ミーハーな世間のニーズに応えるためにこれまで「心理学の真骨頂」をちゃんと伝えることができなかったという彼女のストレスが伺い知れます。
 「心理学とは何か」という最初の章では彼女のそんなこだわりが爆発していますので、本文の一部を抜粋して紹介してみましょう。
 
フロイトやユング、そしてアドラーらが「心」を研究していた19世紀、心理学は、哲学やキリスト教の影響を少なからず受けていた時代であった。
つまり、産声をあげたばかりの心理学は、まだ「現代科学」の体裁を整えておらず、当時の思想、文化、神話から独立していなかったのだ。
 
ちなみに、「抑圧された深層心理」は、他者の目には見えない(なぜなら「深層」なのだから)。
無意識も絶対に観測できない(なぜなら「無」意識なのだから)。
 
したがって、それらのものが本当にあるのかないのかも、科学的にはいまだに謎に包まれたままである。
そしてこれから先も、フロイトたちが提唱してきたさまざまな概念の「実存的な有無」を検証することは、理論上不可能だろう。
 
にもかかわらず、彼らの考え方は150年もの間、世界中の人々から熱心に支持され、研究者のみならず志井の人々の心をもとらえ続けている。
私の観察では、特に女性はこれに心酔する傾向にある。
 
「あなたは、無意識に潜むエゴに苦しめられている」……分析医がそう、厳かに告げれば、多くの女性は(はたから見ていて「エッ?」と思うくらい)、納得し涙する。
不思議である。
 
しかし、私はそういう不確かなことを、真実のように騙ることができないでいる。
心理学の真の意味が誤解されていくのには、もう耐えられないのだ。
 
「フロイディアン」や「ユンゲリアン」と呼ばれる熱狂的ファンからの反感を恐れずにあえて述べるが、もはや彼らの主張は、きわめて人気のある「古典神話」を系統立てて語り継いでいる行為に過ぎず、厳密な意味での心理学研究とは分けて考えるべきだと私は思っている。
 
 さて一方で、「科学」の様式にこだわる実験心理学の研究者に「心理学の父は?」と問えば、例外なく、ヴントの名を挙げるだろう。
彼は、フロイトと同じく19~20世紀初頭にかけての神経学者、生理学者であった。
彼は、実験的な心理学を確立させて体系化を行うとともに、心理学の中に測定や数学といった科学を持ち込み、哲学や宗教から「切り離す」ことに挑んだ、最初の人物であるといえよう。

私自身は、彼らが提唱してきた研究法、つまり「科学としての心理学」の研究に、ずいぶん前から傾倒してきた。
現代心理学は、その科学的アプローチが主流となっており、心理学の大きな潮流となっている。
 
それにしても実験心理学というこのアプローチは、あまりにもストイックで夢がないからか、フロイトらの学説ほどにポピュラーになったことが一度もない。
しかし、多くの生理学者や心理学者に対しては、長い年月を通して静かに根深く影響を及ぼし続けている。

特に、科学的エビデンス(根拠)が重んじられるようになったここ半世紀は、
・目に見えるものしか実在しない
・測定できないものについて、科学者は論じるべきでない
という考え方が心理学の世界でも主流となり、特に行動主義、認知主義と呼ばれる分野の心理学者の間では、いまや完全にそのルールが定着してきているといえる。
 
 彼女が区別したがっているのは、わずかな根拠から性格や過去などを乱暴に当てて生き方をやたらと指示したがる「占いとしての心理学」「人生訓としての心理学」と、厳密な手続きで集めたデータから慎重に仮説を積み重ねていく「科学としての心理学」との違い。
 これまで「科学としての心理学」に心血を注いできた彼女としては、大したエビデンスもない癖にズバズバと決めつけていくような占い風情とは一緒にして欲しくないのでしょう。
 
 彼女が推す実験心理学はいくつもの「○○心理学」という分野に細分化されていますが、彼女は「便宜的に切り分けられたジャンルよりもどんな研究手法で調べたかが大事」と研究のプロセスの方をはるかに重視しています。
 以下の文章にも、ジャンル分けよりも研究手法を重視する彼女の心情が、飾りなく正直に描かれています。
 
私個人に関していえば、「人の信念は、人の行動をどのように変えるのか」ということに関心を持ってきた。
それを調べるためには、質問用紙に的確に答えられる「高校生以上の男女」であることが必要であり、かつ結果が見えやすい「学習場面」をリサーチしていくことが、一番の近道なのである(実のところ、教育にも高校生にもさして興味はない)。
しかし私には、「教育心理学者」という一応のラベリングがされている。
不思議な気持ちがする。
 
 このような記述ばかりを抜き出すと冷たいイメージが先攻するかもしれませんが、私個人は彼女の普段からの発信に「世に溢れる悩みの数々を少しでも軽減するためにテレビの場を活用できれば」という熱い気概を感じます。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/10/26/222836
 また、自分が伝えたいことをただ訴えるだけではなく、テレビ局側の「面白ければ何でもいい」という下世話なニーズにも配慮するバランス感覚があるからこそ、彼女の発信はお茶の間に受け入れられています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/10/182400
 
 心理学者として表舞台に立つ彼女がこだわっているのは、科学を名乗るのに必要とされる最低限のエビデンス。
 人類の歴史において科学がその信頼を勝ち取ることができたのは、論文の通りにすれば誰がやっても同じような結果になるという再現性があったから。
 ですから彼女は、本書においてもテレビ出演の場でも、学者としての見解を述べる際は、科学的エビデンスが認められた学術論文を必ず引用しています。
 
 その意味では、フロイト、ユング、アドラーといった時代の宗教がかった心理学は、再現性とエビデンスによって築かれてきた「科学としての威光」を流用するべきではありません。
 そういった巷で人気の心理学を、「科学としての心理学」と厳密に切り分けることこそが本書の主目的と言えるでしょう。
 
 それは、科学者としての最低限のモラルを守りたいという信念の現れです。
 教育心理学者が教育にさして興味がないとしても、彼女にとっての心理学は科学であって人生訓ではないので、別にそれはモラルや人間性の欠落を意味するわけではないのです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 この世に存在するありとあらゆる格付けは、人々の都合によって勝手に決められたもの。
 言葉に左右されやすいという人間の性質を利用して、低いランクよりも高いランクを目指すようにと人類を調教していくことが、こうした格付けを導入する際の主な目的になります。
 
 そんな格付けの中でも、よく槍玉にあげられるのが、モンドセレクション、ミシュランガイド、世界遺産など。
 2013年にテレビ放送されていた法廷ドラマ「リーガルハイ2」でも、「世界財産」という架空の格付けをめぐる醜い争いが描かれていました。
 
 このとき登場した人口148人という山奥の小さな集落は、電気も極力使わず自然の中で昔ながらの生活を続けており、そばの「おざおざの森」には希少種とされる動植物が今も残されているという理由で数年前に世界財産に登録された村。
 しかし、世界財産に認定される前は別に昔ながらの生活など続けておらず、コンビニっぽい店やハンバーガーショップや渋谷の某ファッションビルのような店もあったといいます。
 
 どこにでもありそうな小さな集落が変化したきっかけは「おざおざの森」の特殊な生態系が新聞記事に取り上げられて世間の注目を浴びたこと。
 その途端に他所から役人がやってきてこの集落を世界財産にしようと動き始めたそうです。
 ですが、森自体の規模は小さく認定は難しかったため、「自然と共に昔ながらの生活を営みながら暮らす人々」という設定を作って、住民がグルになってその設定を演じ始めたら、めでたく世界財産に認定されたということです。
 「自然遺産としては認定されないから文化遺産で」という流れそのものは、山岳信仰が存在してくれたおかげで世界遺産の地位をやっと勝ち取れた富士山のようですね。
 
 この村には「集落が世界遺産として認定されるために昔ながらの生活を演じるべき」という同調圧力に逆らって、電気も商店もある便利な生活がしたいと望んでいる「反自然派」がスナックの営業などをしぶとく続けています。
 彼らの店が集落の景観を破壊していることが世界財産の審査会から問題視されており、次回の審査までに改善されなければ登録抹消になりかねないので、世界財産のお墨付きを失いたくない村の勢力は裁判所に訴えを起こし、両者の間で調停が行われることになります。
 
 堺雅人が演じる主人公の古美門弁護士は反自然派の代理人として呼ばれ、世界財産を獲得するための村人たち演技に対して「住居も生活もごく普通なのにまったく詐欺に等しい!」と糾弾します。
 これに対抗する弁護士たちは世界財産の理想や自然や景観を守ることの美徳を説き、古美門と以下のような討論を交わします。
 
彼らは「おざおざの森」の重要さに気付き、それを守るために自然と共に暮らす生き方を自ら選んだ。
素晴らしい選択じゃありませんか。
世界財産になったことで集落全体の収入も増え経済も活性化してるんです。
 
収入が増えたところで使うところがなければ無意味だ。
 
都会にあるものはなくても、都会にないものがあるんです。
その証拠に人々の幸福度は都会よりもはるかに高いですよ。
 
幸福度が高いのは不幸であることを自覚してないか「不幸である」と口に出せない統制国家のどちらかだ!
みんな本音は世界財産なんかより便利で ぜいたくな暮らしがしたいんだよ。
 
便利でぜいたくな暮らしより大切なもの があるんです。
尊厳です。
みんな誇りある生き方がしたいんです!
 
 この村にはもともと燃料廃棄物処理上の誘致計画と、高速道路を通す事業計画とがあり、それらをきっかけに都市開発を進めて生活の便をよくしていこうというビジョンがありましたが、自然や文化の保護を謡う世界財産認定によってそれらの計画は頓挫していました。
 古美門は、世界財産という「よそ者が勝手に作った格付け」に評価されるために住民たちに不便な生活を強要するなんて馬鹿馬鹿しい話だとし、さらに暴論を続けます。
 
私は必ずや、この地を世界財産から登録抹消させ、このくそ田舎に最新型燃料廃棄物処理場を建設させる。
高速道路も造る!
NHK以外も見られるようにする!
コンビニもファミレスもカフェもアウトレットも造る!
キャバクラもおっぱいパブも造ろうじゃないか!
 
バカげてる!
世界財産は世界の宝です。
お金もうけのために破壊してはならない!
 
 両陣営による住民への説得工作の応酬の末に、住民たちの気持ちは徐々に反自然派の方へと傾いていきます。
 反対陣営の代理人は「世界財産が抹消されたら世界中の恥さらしですよ!」と権威を笠にきた苦し紛れの恫喝を行いますが、古美門は「燃料廃棄物処理場だって国民のためになる立派な施設だ。100年後には世界財産かもしれない」と涼しい顔で受け流します。
 
 そして、世界財産推進派が反自然派への訴えを取り下げることで、この調停は最終的な決着を迎えます。
 推進派の代理人を務めた弁護士による最後の罵倒と、その弁護士を古美門が圧倒するシーンがこの物語のクライマックスと言えるでしょう。
  
バカげてる!
こんな決断は絶対に間違ってる!
みんなが不幸になる決断だ!
なぜ分からない!
 
分かってないのは君だよ。
崇高な理念など欲望の前では無力だ。
しょせん人間は欲望の生き物なのだよ。
それを否定する生き方などできはしないしその欲望こそが文明を進化させてきたんだ。
これからも進化し続け決して後戻りはしない!
燃料廃棄物処理場を造り高速道路を造りショッピングモールができ、森が減り、希少種がいなくなり、いずれどこにでもある普通の町になるだろう!
そして失った昔を思って嘆くだろう!
だが、みんなそうしたいんだよ!
素晴らしいじゃないか!
 
愚かだ!
 
それが人間だ。
 
 どんな崇高な理念も、その理念を代弁するという格付けも、所詮は人の手で造られた人心誘導の手段の一つに過ぎません。
 もしそれらのありがたい理念や格付けが自分たちの現実的なニーズに合わないのであれば、盲目的にありがたがって従う必要など全くないのです。
 
 このドラマでは、世界遺産という分かりやすい題材をパロディ化していましたが、世の中には同類の茶番がまだまだ数え切れないくらい溢れかえっています。
 例えば、国際標準化機構によって策定された各種のISO規格。
 S&Pやムーディーズやフィッチなど格付け機関による投資対象の格付け。
 さらには、ノーベル賞、科学信仰、お金信仰、善悪を始めとした倫理道徳などなど。
 
 企業としての品質向上の取り組みや環境保全への取り組みを認定するISOの国際規格は、その認定を得ることで企業に望ましい効果が実際にあるのなら取得できるよう努力したらいいと思いますが、取得のための事務手続きや監査対策にマンパワーをとられ過ぎて、箔付けのための取り組みがかえって邪魔になっているというのもよく聞く話です。
http://www.arktech.co.jp/iso/pu12.html
 こうした点にも「国際社会の基準はこうなんだ」と言われるとついつい従ってしまう日本のグローバルスタンダード信仰がよく現れています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/04/19/005822
 
 また、 金融商品や企業(株)・政府(国債)などの信用状態ををABCDなどで表していた格付け機関の信憑性は、AAAと認められていたサブプライム住宅ロー ン関連証券が破綻したことで随分と薄れてしまっています。
 これらの信用格付けはそもそも人々の金を金融商品に向かわせるために生まれたものであり、投資に対する警戒感を緩めるために実際よりも高い安全性を演出するような八百長が頻繁に行われていると主張する識者もいます。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/06/28/235308

 偉大な権威とされているノーベル賞なども、「西欧型の近代思想が理想とする価値の実現にどれだけ貢献したか」を評価して褒め称えることで、近代合理主義思想の刷り込みだけは「必要な教育」として正当化されるが、それに反する思想の刷り込みは時代遅れだと糾弾される国際的な同調圧力の一端を担っています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/23/144020
 
 科学に「普遍的な真理を解明するためのもの」というキリスト教的な偏見を上乗せする科学信仰は、科学的かどうかという基準で物事の信用度を格付けするという独特の価値観を生み出しています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/27/013900
 
 現代人ならば無視することができないお金も、人間たちがグルになって「この紙切れは交換に使用できる」という付加価値を付け足しているからこそ、人々を裕福だとか貧乏だとか格付けするための材料として機能できています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/07/05/235459

 「人としての基本的な道徳観」などと呼ばれる善悪の概念ですら、善か悪かと格付けすることで人をコントロールするための発明品です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/07/061900

 この世のすべての格付けは、人の勝手な都合によって雇われた利害関係含みのレフェリーに過ぎません。
 そして私たち一人一人は、この弱肉強食の説得合戦を生きるただのプレーヤーでしかありません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/15/115949
 
 人間をとりまくこの説得合戦の世界には、「権威あるこの世のレフェリーの代弁者」を装って己のプレイヤーとしての影響力を高めるという狡猾な説得の技術があります。
 私がこのブログを通じてお伝えしたいのは、そうした狡猾なプレイヤーによる「レフェリーの代弁者のふりをした説得」の圧力に、容易く丸め込まれてしまわないための考え方です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/18/002319
 
 「雇われレフェリー」の言い分を真に受けて「ねばならない」とか「してはいけない」とかいう机上の○×ゲームにばかり終始してしまう人たちは、リーガルハイで破れた弁護士のように「人間はもっと理性的な生き物だ」という架空の物語にすがりついているだけ。
 自分自身もそういった弱肉強食の説得合戦の世界の中にいて、現に力を行使しながら生きているという現実を、どうしても認めたくなくて足掻きながら空論を吐き続けている単なる夢想家です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/31/200500
 
 それがどんなに権威のある格付けだろうと作り話は作り話として受け止め、その作り話が通用している世界では便利に活用していき、作り話が通用しない世界ではばっさりと切り捨てる。
 そんな「作り話だらけの世の中」を生きていくための大人の叡智を、古美門は示していたのです。 
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/08/31/000737
 
 この「作り話だらけの世の中」を賢く生き抜くため、私たちもただ「雇われレフェリー」たちの言い分を真に受けて従うだけでなく、自らの都合に合わせて意図的に付き合っていきたいものですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 アメリカと日本の関係は、藤子不二雄Fの漫画『ドラえもん』における乱暴者ジャイアンとその舎弟スネ夫との関係のように喩えられることがあります。
 その現状が不満な日本人の中には、主権国家である日本は出来杉くんのような自立した優等生を目指すべきだという声が上がります。
 そして、どのような道筋で出来杉くんを目指すべきかという方法論の段階で右派と左派の意見は食い違うため、平行線の罵り合いが何十年も慢性的に繰り返されています。
 
 平和憲法の縛りによって軍事力を去勢されている現状を打破して「一人前の外交力を持った普通の国になりたい」とする右派の主張には、左派の側から「それは出来杉くんではなく乱暴者のジャイアンを目指す道だ」という批判が飛びます。
 「軍事力なんてなくても平和憲法の理想を堂々と訴えていけば日本は世界の模範になれる」とする左派の主張には、右派の側から「それは無力にやられるだけののび太を目指す道であり、平和憲法にはドラえもんの秘密道具のように都合よく助けてくれる力などない」といった批判が飛びます。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/06/21/084219
 
 こうした批判の応酬に対して「日本の現状はスネ夫なんかよりも遥かにひどいのに、そこを見ずに議論すること自体が無意味だ」と諭しているのが思想家の内田樹です。
 日本に平和憲法を押し付けながらも後に自衛隊の設立を後押ししたアメリカ側の思惑を「日本を無害かつ有益な属国の立場に留めておくこと」とする彼の言い分を翻訳すると、「スネ夫にはまだ個人としての自我がある分日本よりもマシだが、日本には国家の自我ともいうべき主権がいまだに存在していない」ということになるでしょう。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/08/03/024900
 
 そもそも出来杉くんになるのかジャイアンになるのかのび太になるのかという国としての選択は、日本国民が自らの意思で勝手にできることではない。
 この大前提から目を背けていては「自立した出来杉くん」になんて到底なれやしないといった類いの主張を、彼はそのブログや著作の中で繰り返してきました。
 その一例として、2015年6月22日のブログ記事の一部を抜粋してみましょう。
http://blog.tatsuru.com/2015/06/22_1436.php

まず私たちは、「日本は主権国家でなく、政策決定のフリーハンドを持っていない従属国だ」という現実をストレートに認識するところから始めなければなりません。
国家主権を回復するためには「今は主権がない」という事実を認めるところから始めるしかない。

病気を治すには、しっかりと病識を持つ必要があるのと同じです。
「日本は主権国家であり、すべての政策を自己決定している」という妄想からまず覚める必要がある。

戦後70年、日本の国家戦略は「対米従属を通じての対米自立」というものでした。
これは敗戦国、被占領国としては必至の選択でした。
ことの良否をあげつらっても始まらない。
それしか生きる道がなかったのです。

でも、対米従属はあくまで一時的な迂回であって、最終目標は対米自立であるということは統治にかかわる全員が了解していた。
「面従腹背」を演じていたのです。

けれども、70年にわたって「一時的迂回としての対米従属」を続けてるうちに、「対米従属技術に長けた人間たち」だけがエリート層を形成するようになってしまった。
彼らにとっては「対米自立」という長期的な国家目標はすでにどうでもよいものになっている。

それよりも、「対米従属」技術を洗練させることで、国内的なヒエラルキーの上位を占めて、権力や威信や資産を増大させることの方が優先的に配慮されるようになった。
「対米従属を通じて自己利益を増大させようとする」人たちが現代日本の統治システムを制御している。
 
 つまり、アメリカというジャイアンとのケンカにボッコボコに負けて国土を占領された日本が出来杉くんとして再び自立するためには、一時的に「従順なスネ夫」を演じて占領主アメリカの信頼を勝ち取る必要があったということ。
 けれども、その演技を長年続けているうちに「スネ夫役を上手く演じないと出世できない構造」が日本のエリート層の中に組み込まれ、世代交代を通じて「いずれは出来杉くんとして自立する」という当初の目標が忘れ去られてしまったというわけです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/04/05/000108
 
 内田樹は、スネ夫役を演じるという戦略が「日本の自立への道」に役立ったのは最初の27年間だけだと言います。
 彼はブログ記事の中で、日本が持っていたはずの目標が、現在のように忘れ去られていくまでの経緯を以下のように描写しています。
 
吉田茂以来、歴代の自民党政権は「短期的な対米従属」と「長期的な対米自立」という二つの政策目標を同時に追求していました。
そして、短期的対米従属という「一時の方便」はたしかに効果的だった。

敗戦後6年間、徹底的に対米従属をしたこと見返りに、1951年に日本はサンフランシスコ講和条約で国際法上の主権を回復しました。
その後さらに20年間アメリカの世界戦略を支持し続けた結果、1972年には沖縄の施政権が返還されました。

少なくともこの時期までは、対米従属には主権の(部分的)回復、国土の(部分的)返還という「見返り」がたしかに与えられた。
その限りでは「対米従属を通じての対米自立」という戦略は実効的だったのです。

ところが、それ以降の対米従属はまったく日本に実利をもたらしませんでした。
沖縄返還以後43年間、日本はアメリカの変わることなく衛星国、従属国でした。
けれども、それに対する見返りは何もありません。
ゼロです。

沖縄の基地はもちろん本土の横田、厚木などの米軍基地も返還される気配もない。
そもそも「在留外国軍に撤収してもらって、国土を回復する」というアイディアそのものがもう日本の指導層にはありません。

アメリカと実際に戦った世代が政治家だった時代は、やむなく戦勝国アメリカに従属しはするが、一日も早く主権を回復したいという切実な意志があった。
けれども、主権回復が遅れるにつれて「主権のない国」で暮らすことが苦にならなくなってしまった。
その世代の人たちが今の日本の指導層を形成しているということです。

田中角栄は1972年に、ニクソン・キッシンジャーの頭越しに日中共同声明を発表しました。
これが、日本政府がアメリカの許諾を得ないで独自に重要な外交政策を決定した最後の事例だと思います。

この田中の独断について、キッシンジャー国務長官は「絶対に許さない」と断言しました。
その結果はご存じの通りです。
アメリカはそのとき日本の政府が独自判断で外交政策を決定した場合にどういうペナルティを受けることになるかについて、はっきりとしたメッセージを送ったのです。
田中事件は、アメリカの逆鱗に触れると今の日本でも事実上の「公職追放」が行われるという教訓を日本の政治家や官僚に叩き込んだと思います。

それ以後では、小沢一郎と鳩山由紀夫が相次いで「準・公職追放」的な処遇を受けました。
二人とも「対米自立」を改めて国家目標に掲げようとしたことを咎められたのです。
このときには政治家や官僚だけでなく、検察もメディアも一体となって、アメリカの意向を「忖度」して、彼らを引きずり下ろす統一行動に加担しました。
 
 このように本来国としてあるべき自立心を骨抜きにされてしまっている日本ですが、アメリカが永久に「世界のジャイアン」として磐石の支配力を維持していてくれるならば、保身のためにスネ夫としてジャイアンのご機嫌を取り続けるのも悪くない選択かもしれません。
 しかし、アメリカがいつまでも「世界のジャイアン」をやり続けてくれるという保証はどこにもありません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/06/28/235308
 
 もし将来、アメリカが「世界のジャイアン」という役割を降りるならば、日本はこれからどう対策を打っていくべきなのか。
 内田樹は次のように論を進めていきます。
 
アメリカが覇権国のポジションから降りる時期がいずれ来るでしょう。
その可能性は直視すべきです。
 
直近の例としてイギリスがあります。
20世紀の半ばまで、イギリスは7つの海を支配する大帝国でしたが、1950年代から60年代にかけて、短期間に一気に縮小してゆきました。
植民地や委任統治領を次々と手放し、独立するに任せました。
 
その結果、大英帝国はなくなりましたが、その後もイギリスは国際社会における大国として生き延びることには成功しました。
いまだにイギリスは国連安保理の常任理事国であり、核保有国であり、政治的にも経済的にも文化的にも世界的影響力を維持しています。
60年代に「英国病」ということがよく言われましたが、世界帝国が一島国に縮減したことの影響を、経済活動が低迷し、社会に活気がなくなったという程度のことで済ませたイギリス人の手際に私たちはむしろ驚嘆すべきでしょう。
 
大英帝国の縮小はアングロ・サクソンにはおそらく成功例として記憶されています。
ですから、次にアメリカが「パックス・アメリカーナ」体制を放棄するときには、イギリスの前例に倣うだろうと私は思っています。
 
帝国がその覇権を自ら放棄することなんかありえないと思い込んでいる人がいますが、ローマ帝国以来すべての帝国はピークを迎えた後は、必ず衰退してゆきました。
そして、衰退するときの「手際の良さ」がそれから後のその国の運命を決定したのです。
ですから、「どうやって最小の被害、最小のコストで帝国のサイズを縮減するか?」をアメリカのエリートたちは今真剣に考えていると私は思います。
 
それと同時に、中国の台頭は避けられない趨勢です。
この流れは止めようがありません。
これから10年は、中国の政治的、経済的な影響力は右肩上がりで拡大し続けるでしょう。
つまり、東アジア諸国は「縮んで行くアメリカ」と「拡大する中国」という二人のプレイヤーを軸に、そのバランスの中でどう舵取りをするか、むずかしい外交を迫られることになります。
 
フィリピンはかつてクラーク、スービックという巨大な米軍基地を国内に置いていましたが、その後外国軍の国内駐留を認めないという憲法を制定して米軍を撤収させました。
けれども、その後中国が南シナ海に進出してくると、再び米軍に戻ってくるように要請しています。
 
韓国も国内の米軍基地の縮小や撤退を求めながら、米軍司令官の戦時統制権については返還を延期しています。
つまり、北朝鮮と戦争が始まったときは自動的にアメリカを戦闘に巻き込む仕組みを温存しているということです。
 
どちらも中国とアメリカの両方を横目で睨みながら、ときに天秤にかけて、利用できるものは利用するというしたたかな外交を展開しています。
これからの東アジア諸国に求められるのはそのようなクールでリアルな「合従連衡」型の外交技術でしょう。
 
残念ながら、今の日本の指導層には、そのような能力を備えた政治家も官僚もいないし、そのような実践知がなくてはならないと思っている人さえいない。
そもそも現実に何が起きているのか、日本という国のシステムがどのように構造化されていて、どう管理運営されているのかについてさえ主題的には意識していない。
 
それもこれも、「日本は主権国家ではない」という基本的な現実認識を日本人自身が忌避しているからです。
自分が何ものであるのかを知らない国民に適切な外交を展開することなどできるはずがありません。
私たちはまず「日本はまだ主権国家ではない。だから、主権を回復し、国土を回復するための気長な、多様な、忍耐づよい努力を続けるしかない」という基本的な認識を国民的に共有するところから始めるしかないでしょう。
 
 私も内田樹のこの「基本的な認識を国民的に共有するところから始めるしかない」という主張については大賛成です。
 たとえ現状がどんなに惨めで恥ずかしいものであろうと、そこから目を背けていてはいつまで経っても現状維持のままでしょうから。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 経済の素人である私たち一般人の多くは、ニュースで通貨危機だとか金融危機といったフレーズを聞いても、具体的にはピンときていない場合がほとんど。
 ニュースのトーンから何となく「大変なことが起こったんだな」というニュアンスだけは感じることができますが、自然災害や感染症やテロや戦争等のニュースのように「人の傷病死」が直接は目に見えないため、何が大変なのかが分かりにくいのです。
 今回は、こうした私たち素人の疑問に応えてくれる一冊の参考書を紹介させていただきます。
 
“通貨”をめぐる話題が世間を騒がせている。
「通貨危機」が突然のように何度も世界を襲い、なかでも2008年のリーマン・ショックは大恐慌の再来のように恐れられ、衝撃を与えている。
 
その後もドバイ・ショック、ギリシャ危機を起点とした金融危機が発生し、その対応策として超金融緩和政策が導入され、その結果グローバルマネーが急増し、バブルの発生と崩壊の不安を高めている。
このような不安定な国際状況の下、中国などの新興国と米国、欧州などの先進国との間に「通貨安競走」が進行しているといわれており、第2次世界大戦につながった戦前の経済状況と類似していることが懸念されている。
 
 これは、国際通貨制度や決済システムに精通する宿輪純一による、2010年12月刊行の著作『通貨経済学入門』の序文です。
 メガバンクに勤めながら経済政策の提言などに携わり、いくつもの大学で経済学を教えてきた著者の願いは、通貨の問題をさほど理解していない日本の現状を少しずつ変えていくこと。
 彼はあとがきで、執筆の目的を以下のように語っています。
  
本書は入門書として、できるだけかみくだいて説明しており、一般の方には分かりにくい“通貨”の理解が少しでも進めば、望外の喜びである。
皆が理解することが、その国の経済政策をより高度化させると考える。
 
 このように「日本の経済をよりよくするためには、通貨への理解を国民レベルで高める必要がある」という信念を持つ彼は、一般人でも参加できる「宿輪ゼミ」というボランティア公開講義を主催し、ホームページやFacebook、ツイッターなどを通じて積極的な発信をしています。
http://www.shukuwa.jp/
 
 私もFacebookを通じて彼の存在を知ってからこの著書を読みましたが、国際通貨制度をめぐる近現代の歴史から現在のトピックまでを、できるだけ易しい言葉で分かりやすく紐解いてくれていると感じました。
 今回は、本書を読んでみての素人解釈を、ざっくりと乱暴に総括してみたいと思います。
 
 まずお金とは、その物自体には大して価値の無いものです。
 ですが、「日本銀行券一万円」と印刷された紙切れをコンビニエンスストアに持っていけば、「100円」と値付けられたパン100個と交換することができます。
 それ自体食べることもできず、メモ紙としてもちょっとしか使えないようなインクまみれの紙っぺらが、大量の食料と交換できてしまうんです。
 
 もしこの紙っぺら(貨幣)が存在せず物々交換しか交換の手段がなければ、互いに交換物を持ち寄った上で、お互いが条件に納得し合うという面倒くさい手間をかけないことにはその交換が成立しません。
 人類同士の「交換」という行動は、貨幣の誕生という一大事によって手軽になり、そのおかげで驚くほど活発になっていったのです。
 
 そんな貨幣の中でも、国の法律に基づいて法的通用力がある貨幣のことを「通貨」と呼ぶそうです。
 単なる紙切れでしかない通貨が「交換の手段」として国内で通用していられるのは、政府に「この紙切れを交換手段として使用する」という約束を守らせられるだけの統治能力があるとみなされているから。
 
 もし政府にこの約束を守らせるだけの実力がないと判断されれば、その通貨にくっついていた交換手段としての信用はなくなってしまい、単なる「インクで汚れた紙切れ」としての価値しか認められなくなってしまいます。
 このようにして、その国の通貨の貨幣としての信用が揺らぐ事態のことを「通貨危機」と呼びます。
 そしてこうした通貨危機は、歴史の中で何度も繰り返されているのです。
 
 ではなぜ通貨危機は起こってしまうのか。
 その原因は「通貨を発行できる」という政府当局(もしくは中央銀行)の特権的地位にあります。
 
 完全な素人考えで言うと、十分な量の通貨が既に市場に出回ってしまっているならば、それ以上追加で通貨を発行する必要なんてそもそもないはずですが、実際には通貨は発行され続けています。
 そこにはもちろん「市場規模が拡大すると交換に必要な通貨が足りなくなって経済活動が鈍るから」という大義名分もあるのでしょう。
 ですが、それ以外に「政府当局(中央銀行)の国内で使える資金が通貨を刷った分だけ増える」という、まるで錬金術のような誘惑もあるのです。
 
 ただしこの錬金術にはインフレという副作用があります。
 額面上の通貨がいくら増えたところで、市場で交換される物やサービスの総価値が増えなければ、物やサービスに対する通貨の価値は下がります。
 この「商品に対する通貨の価値の低下=額面上の物価上昇」が急激に起きてしまえば、「交換手段として役に立つ」という通貨への信頼が大きく損なわれ、「価値があると思って貯蓄してきた手持ちの通貨では商品を手にいれられない」といったパニックを招いてしまうのです。
 
 こうした通貨危機は戦争(政府当局が大量のお金を必要とする事業)があるたびに何度も引き起こされ、その都度反省も繰り返されてきました。
 そんな反省の上に、金本位固定制という国際通貨制度が1880年から1913年までの間、イギリスの主導で比較的安定的に運営されたそうです。
 この制度は、各国の通貨と純金との交換比率を固定することで「通貨がただの紙切れになってしまうのでは」という信用への不安を和らげる働きがあったのです。
 
 ですが、この金本位固定制は第1次世界大戦中に破棄されてしまいます。
 その後、第2次世界大戦後に生まれて1945年から1971年まで運営されたのが、各国の通貨とドルの交換比率を定め、35ドルと純金1オンスの交換をアメリカが約束するというブレトンウッズ体制です。
 この当時のアメリカ以外の国の通貨の信用は、『「純金と交換できるドル」と交換できる』という二重構造で成り立っていたわけです。
 
 このブレトンウッズ体制も、ベトナム戦争時の大量発行でドルの信用が損なわれ、ドルを金に交換する動きが世界的に高まったことに危機感を覚えたアメリカが金とドルとの交換を一方的に停止したことで終了します。
 これによって、国際通貨制度から「金との交換」という信頼性の拠り所が失われ、身勝手なドルのみを中心軸とするリスキーな変動相場制へとなし崩し的に移行しました。
 
 普通の通貨であれば、発行主が巨額の借金を作っているにも関わらず、さらに膨脹を繰り返して信用を損ない続けるドルの、通貨としての寿命はそう長くないはずです。
 ですがドルは、世界の通貨制度の屋台骨を担っているという立場を人質にとって、ピンチを迎える度に各国からの協力を引き出して延命を図ることができるものだと、完全にタカをくくっているようにも見えます。
 
  このような経緯から通貨危機へのリスク感覚が麻痺したのか、現在世界には発行されすぎた莫大な量の通貨が「相場で儲けを獲るマネーゲーム」のために動いています。
 世界中の実体経済の動きを反映する貿易取引量は、通貨同士の売買の動きを表す為替取引量のたった1%に過ぎないと言います。
 無節操に自由化されて大量のグローバルマネーを素早く動かせるようになってしまった金融市場は、儲けのためにちょっとの刺激にも過敏に反応して乱高下するようになり、売買の標的となった国に通貨危機をもたらしやすくなっているのです。
 
 こんな不安定な国際通貨制度を脱却すべく、ユーロや人民元といったドル以外の国際通貨で取引をする枠組みもだんだんと広がっていると言います。
 これから先、ドルという「裸の王様」が本当に裸だったとさらけ出される事態がやってくるのかもしれません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/06/28/235308


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 私が考える情報リテラシーとは「話題の前提を疑う」習慣のこと。
 これまでも、そんな内容の記事をいくつか紹介してきました。

「真実を見極めた『つもり』に振り回される愚かさ」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/20/063900
「話の前提を操作するパワーゲームとの付き合い方」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/29/210900
「そもそも洗脳のために『正しさ』は造られている」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/04/064500
「言葉の用途は『物事の描写』なんかじゃない」  
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/05/060200
  
 そして今回紹介するのは、国際情勢解説者の田中宇の「話題の前提を疑う」姿勢について。
 報道の世界にいた彼は、報道にかかる政治的なバイアスを読み解くために世界中のニュースを多読しながら比較検討し、そうして見出だした独自の視点による解釈を「田中宇の国際ニュース解説」というウェブサイト上で発信し続けています。
https://tanakanews.com/

 彼の視点の一番の特色は、アメリカの指導者の多くが、アメリカの立場を危うくして自滅させるために、わざと失策を重ねているという見方。
 最近の彼の著作「金融世界大戦 第三次大戦はすでに始まっている」にもそんな彼の視点がまとめてあるので、引用して紹介してみましょう。

私が自分なりに国際政治を何年か分析してきて思うことは「近代の国際政治の根幹にあるものは、資本の論理と、帝国の論理(もしくは国家の論理)との対立・矛盾・暗闘ではないか」ということだ。
キャピタリズムとナショナリズムの相克と言ってもよい。

第一次大戦以来、人類の歴史の隠された中心は、イギリスの国家戦略の発展型である「米英中心主義」(帝国の論理)と、資本主義の政治理念である「多極主義」(資本の論理)との相克・暗闘であり、それが数々の戦争の背景にある。

帝国・国家の論理、ナショナリズムの側では、最も重要なことは、自分の国が発展することである。
他の国々との関係は自国を発展させるために利用・搾取するものであり、自国に脅威となる他国は何とかして潰そうとする(国家の中には大国に搾取される一方の小国も多い。「国家の論理」より「帝国の論理」と呼ぶ方がふさわしい)。

半面、資本の論理、キャピタリズムの側では、最も重要なことは儲け・利潤の最大化である。
国内の投資先より外国の投資先の方が儲かるなら、資本を外国に移転して儲けようとする。
帝国の論理に基づくなら、脅威として潰すべき他国でも、資本の論理に基づくと、自国より利回り(成長率)が高い好ましい外国投資先だという、論理の対峙・相克が往々にして起きる。

帝国の論理に基づき国家を政治的に動かす支配層と、資本の論理に基づき経済的に動かす大資本家とは、往々にして重なりあう勢力である。
帝国と資本の対立というより、支配層内の内部葛藤というべきかもしれない。

重要なのは、アメリカの上層部が、自分たちが世界の中心であり続ける「米英中心主義」ではなく、あえて中国やロシア、インドなどに覇権を譲り渡す「多極主義」を選ぶ、ということである。
私は、その理由が「資本の論理」にあるのではないかと考えている。

欧米や日本といった先進国は、すでに経済的にかなり成熟しているため、この先あまり経済成長が望めない。
地球温暖化対策が途上国の足かせとして用意されていることを見るとわかるように、今後も欧米中心の世界体制を続けようとすることは、世界経済の全体としての成長を鈍化させることにつながる。
これは、世界の大資本家たちに不満を抱かせる。
欧米中心主義を捨て、中国やインド、ブラジルなどの大きな途上国を経済発展させる多極主義に移行することは、大資本家たちの儲け心を満たす。

 こんな風に「アメリカは欧米中心主義を捨てようとしている」などと書かれても、アメリカに対する「自己中心的で傲慢な正義をゴリ押しする国」といった一般的なイメージとのズレを感じる人もいるでしょう。
 そのズレを埋めるために、まずは田中宇なりの「覇権」の定義と、イギリスというサンプルを用いた解説を見てみましょう。

国際政治を考える際に「覇権」(ヘゲモニー、hegemony)という言葉はとても重要だ。
国家間の関係は、国連などの場での建前では、あらゆる国家が対等な関係にあるが、実際には大国と小国、覇権国とその他の国々の間に優劣がある。
今の覇権国はアメリカである。
覇権とは「武力を使わずに他国に影響力を持つこと」である。

なぜ世界を支配するのに、武力を使わない覇権というやり方が必要なのか。
結論から先に書くと「民主主義、主権在民が国家の理想の姿であるというのが近代の国際社会における建前であり、ある国が他国を武力で脅して強制的に動かす支配の手法は、被支配国の民意を無視する悪いことだから」である。

この建前があるため、表向きは、武力を使わず、国際政治の分野での権威とか、文化的影響力によって、世界的もしくは地域諸国に対する影響力が行使され、それが覇権だということになっている。
実際には、軍事力の強い国しか覇権国になれないので、武力が担保になっている。

人類史上、初めて世界的な覇権を構築したのはイギリスである。
イギリスが世界覇権を初めて構築できた主因は、1780年代から産業革命を引き起こし、それまで馬力や人力、水力などしかなかった動力の分野に蒸気機関やガソリンエンジンをもたらし、汽船や鉄道などを開発し、交通の所要時間の面で世界を縮小させたからである。

フランス革命自体、その少し前に起きたアメリカの独立とともに、イギリスの資本家が国際投資環境の実験的な整備のために誘発したのではないかとも思える。
フランス革命によって世界で初めて確立した国民国家体制(共和制民主主義)は、戦争に強いだけでなく、政府の財政面でも、国民の愛国心に基づく納税システムの確立につながり、先進的な国家財政制度となった。
それまでの欧州諸国は、土地に縛られた農民が、いやいやながら地主に収穫の一部を納税する制度で、農民の生産性は上がらず、国家の税収は増えにくかった。

フランス革命を発端に、世界各地で起きた国民国家革命は、人々を、喜んで国家のために金を出し、国土防衛のために命を投げ出させる「国民」という名のカルト信者に仕立てた。
権力者としては、国民に愛国心を植え付け、必要に応じて周辺国の脅威を煽動するだけで、財政と兵力が手に入る。
国民国家にとって教育とマスコミが重要なのは、このカルト制度を維持発展させる「洗脳機能」を担っているからだ。

国民国家は、最も効率のよい戦争装置となった。
どの国の為政者も、国民国家のシステムを導入したがった。
王候貴族は、自分たちが辞めたくないので立憲君主制と国民国家制を抱き合わせる形にした。
また「国民」を形成するほどの結束力が人々の間になかった中国やロシアなどでは、一党独裁で「共産主義の理想」を実現するという共同幻想を軸に「国民」の代わりに「人民」の自覚を持たせ、いかがわしい「民主集中制」であって民主主義ではないものの、人々の愛国心や貢献心を煽って頑張らせる点では国民国家に劣らない「社会主義国」が作られた。

ナポレオンが英征服を企てた点では、フランス革命はイギリスにとって迷惑だった。
だが、フランス革命を皮切りに、欧州各国が政治体制を国民国家型(主に立憲君主制)に転換し、産業革命が欧州全体に拡大していく土壌を作り、英の資本家が海外投資して儲け続けることを可能にした点では、フランス革命は良いことだった。

イギリスを含む欧州各国は、キリスト教世界として同質の文化を持っていたので、イギリス発祥の産業革命と、フランス発祥の国民革命は、ロシアまでの全欧州に拡大した。
その中で、ナポレオンを打ち負かして欧州最強の状態を維持した後のイギリスは、欧州大陸諸国が団結せぬよう、また一国が抜きん出て強くならないよう、拮抗した状態を維持する均衡戦略を、外交的な策略を駆使して展開し、1815年のウィーン会議から1914年の第一次大戦までの覇権体制(パックス・ブリタニカ)を実現した。

 こうして築かれた「世界一の覇権国」としての地位は第一次大戦や第二次大戦を経てイギリスからアメリカへと譲り渡されますが、諜報活動に優れていたイギリスはマスコミや軍事産業への影響力を駆使してアメリカを利用し、米英中心の世界を演出してきたといいます。
 ですが、たとえ自国が不利益を被ろうとも自分たちが儲かればいいという資本家がイギリスの支配層に紛れていたのと同じように、アメリカの支配層にも「国家としての覇権維持よりも金儲けを優先したい」とする多極主義者が食い込んでおり、利害が食い違う米英中心主義者と暗闘を繰り広げてきたそうです。
 
 私たちがアメリカに「身勝手なジャイアン」のようなイメージを重ねていたのは、米英中心主義者の方がこれまでは優勢だったから。
 しかし、近年の世界情勢を見る限り、米英中心主義者のふりをした「隠れ多極主義者」たちが活躍することで、形勢は逆転しつつあると彼は分析しています。
 その解説をご覧ください。

アメリカの「自滅主義」は、多極主義者がホワイトハウスを握っているにもかかわらず、世論操作(マスコミのプロパガンダ)などの面で米英中心主義者(冷戦派)にかなわないので、米英中心主義者の戦略に乗らざるを得ないところに起因している。
相手の戦略に乗らざるを得ないが、乗った上でやりすぎによって自滅して相手の戦略を壊すという、複雑な戦略がとられている。

やりすぎによる自滅戦略の結果、アメリカはひどい経済難に陥り、ドル崩壊が予測される事態になった。
多極化が進むと、ドルは崩壊し、世界の各地域ごとに基軸通貨が複数生まれ、国際通貨体制は多極化する。
ドルが崩壊すると、アメリカは政治社会的にも混乱が増し、連邦が崩壊するかもしれない。

アメリカの分析者の間では、ドル崩壊による米連邦崩壊の懸念が強まった。
多極主義者の資本家は、自国を破綻させ、ドルという自国の富の源泉を潰してもかまわないと思っているということだ。

彼らの本質は、16~17世紀にアムステルダムからロンドンに本拠を移転し、19世紀にロンドンからニューヨークに移り、移動のたびに覇権国も移転するという「覇権転がし」によって儲けを維持しているユダヤ的な「世界ネットワーク」である。
100年単位で戦略を考える彼らは、自分たちが米国民になって100年過ぎたからといって米国家に忠誠を尽くすようになるとは考えにくい。

米英中心主義者による延命策や逆流策がうまくいかなければ、ドルは崩壊し、米英中心の世界体制は崩れ、アメリカは財政の破綻と、もしかすると米連邦の解体まで起きる。
しかしアメリカが破綻するのは、イギリスなど覇権を維持したい勢力に牛耳られてきた状態をふりほどくためであり、アメリカは恒久的に崩壊状態になるのではなく、システムが「再起動」されるだけである。
いったん単独覇権型のアメリカの国家システムが「シャットダウン」された後、多極型の世界に対応した別のシステム(従来の中傷表現でいうところの「孤立主義」)を採用する新生アメリカが立ち上がってくるだろう。

米英を中心とする先進国のマスコミは、人々の善悪観を操作するプロパガンダマシンの機能を持つことが、少しずつ人々にばれてきた。
米英のマスコミは「人権」「民主化」「環境」といった、先進国が新興諸国を封じ込められるテーマにおいて人々の善悪観を操作する巧みな情報管理を行い、米英中心主義を維持することに貢献してきた(イスラム諸国に対する濡れ衣報道や、地球温暖化問題など)。
大不況の中、広告収入の減少などによってマスコミ各社が経営難になって潰れていくことも、多極化の一環と言える。

米英が中心だったG8は、世界の中心的な機関としての地位を、新興諸国が力を持つより多極型のG20に取って代わられた。
ドルの基軸制が崩壊しそうなので、多極型の基軸通貨体制に移行しようという提案も各国から次々と出ている。
米英中心の体制が崩れ、世界が多極化している観が強まっている。

 こうした彼の視点が妥当かどうかは意見の別れるところでしょうが、「どんなに権威ある人の言い分だろうが鵜呑みにせずに自分の頭で考える」という等身大の姿勢には大変好感が持てます。
 彼は自分なりの仮説や未来予測を積極的に発信し、たとえ具体的な予測が外れてもうやむやに誤魔化すことなく「自分が予測を外した理由」を検証して見せ、その欠点を乗り越えるような新たな説を再提案します。

 逆に、田中宇を権威ある識者と見なして彼の書いていることを「これこそが真実だ」と鵜呑みにしている陰謀論信者がいれば、たとえその発言が彼と同じ内容であろうと、その軽々しく信じこむ姿勢の方に気味の悪さを感じます。
 私も彼が実践しているように「健全な疑いの姿勢」を貫いていきたいものです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 プロレス興業の目的は、敵を倒すことではなく、試合をお客さんに観てもらって収入を得ること。
 プロレスがお客さんに注目してもらえる魅力的なエンターテイメントであるために、彼らは肉体を鍛え、技を磨き、演出を洗練させ、ストーリーを練り込んでいきます。
 例えば、ヒール対ベビーフェイスという軍団同士のお決まりの抗争なども、ストーリーを盛り上げてお客さんを取り込むための要素として活用されています。
 
 では、日本の安全保障問題における保守とリベラルの論争は、何を目的に行われているように見えるのでしょうか。
 日本国内の当事者同士の言い分はともかくとして、この対立をアメリカ側から見れば、両者がグルになって「できの悪いプロレス」を演じているように見えるのかもしれません。
 その場合、プロレスの興業主である日本の目的は、安全保障上の盾としてアメリカを利用しつつも、アメリカへの軍事協力をネグレクトすることだと解釈されるでしょう。
 
 日本に平和憲法を押し付けながらも後に自衛隊の設立を後押ししたアメリカ側の思惑は、日本をアメリカにとって「無害かつ有益な属国」の立場に留めておくこと。
 自衛隊の活動範囲を狭く制限しておけば、アメリカの役に立つ場面自体は少なくなりますが、軍事的に去勢された日本がアメリカにとっての脅威になる危険性は減ります。
 憲法の縛りを緩くして自衛隊の活動範囲を拡大すれば、アメリカの利益のために日本の人員を活用できる場面が増える一方、将来的に日本を「自立できない属国」の立場に留めておくことが難しくなるかもしれません。
 
 アメリカとしては、日本を無害で無抵抗な属国の立場に留めたまま、より多くの場面でアメリカのために自衛隊を使い倒せる状況がベスト。
 宗主国であるアメリカ側のそんなリクエストに答えるべく、日本の政権は「国際社会への平和貢献」や「積極的平和主義」といった言い回しを駆使して、平和憲法の縛りをアメリカにとってのベストバランスにまで緩めようと努力させられます。
 
 ですがより威勢の良い右派は、日本がアメリカの属国として自立できていない状況を嫌って、アメリカにとってのベストバランスを越える程の現状変更を望んでいます。
 憲法を改定して国としての交戦権を認め自衛隊を国防軍に改名するだとか、日本も自衛のために核武装をすべきといった右派側の意見は、「日本は戦争のできる国にする気か」「日本を戦争に巻き込む気か」という左派側の反論をより一層煽ることになります。
 その結果、国論をまとめられない日本は、アメリカが求めるよりも遥かに狭い範囲でしか軍事協力ができなくなります。
 
 アメリカからすれば、日本は国の代表に「もっと協力する」と調子の良いことを言わせてアメリカ側の気を惹きながらも、最終的には「頑張ったけど無理でした」という言い訳をできるようにわざと国内でグチャグチャにもめさせているように見えるかもしれません。
 この茶番劇の目的は、アメリカへの軍事協力を最小限に絞りながらも、アメリカに対して「あなたのために尽くすつもりはちゃんとあるんです」「だから米軍は日本に置いててください」という態度だけはしっかりと見せておくこと。
 平和憲法によって防衛力を去勢された日本の、国を守るための狡猾な外交交渉の一環だととらえることができるでしょう。
 
 実りのないように見える日本のグチャグチャとした論争には、このような具体的な効能があります。
 ノンポリである私は、その論争の渦中に積極的に入っていくつもりはありませんが、やりたい者同士が活発に茶番をやりあっている分には、それを止めるつもりもありません。
 ただ、こうした茶番の材料として使われるそれぞれの陣営の説なり主張なりを真に受けて真剣に押し付けてくる輩がいれば、その相手が左派だろうが右派だろうが「お前らの茶番劇に巻き込むな」と振り払います。

 保守とリベラル、仲良く喧嘩しな。
 ノンポリの私はそのような心境で、日本人らしく的を外した罵り合いの様子を眺めているわけです。

「ノンポリとして政治を眺める」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/06/14/090152

「人殺しを抑止できるのは人を殺せる力でしかない」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/08/000134

「平和とは戦線の後方でしかない」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/04/26/000202

「真面目ぶりながら従順な子分に成り下がる日本」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/04/19/005822

「夢や理想じゃなく日本の政治家は『どうすればアメリカが喜ぶか』が重要なんです」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/04/05/000108

「日本の主な論争は立憲主義の仕組みをろくに理解しないままに行われている」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/27/000900

「日本の安全保障は現状維持でグズグズしているくらいがちょうど良い」
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/08/03/024900


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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
【ノンポリ】
ノンポリは、英語の「nonpolitical」の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。
元は1960-70年代の日本の学生運動に参加しなかった学生を指す用語である。
 
政治にまったく興味を持たなかった人だけではなく、政治問題に関心はあるものの次第にセクト化・過激化していった学生運動を嫌い、特定の党派に属することを拒否した人々(ノンセクト・ラジカル)なども含まれていた。
無党派の中の消極的無党派をノンポリと呼ぶことがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%AA
 
 Wikipediaにおけるこの定義に従うならば、どんな政治運動にも荷担する気がない私の立場は「ノンポリ」に分類されます。
 これは「お前はどちらの味方か」という党派的な対立に関与するのが嫌いということであり、政治問題自体に関心がないわけではありません。
 これまでも、そういった下世話な対立の構造に簡単に組み入れられないようにと気をつけながら、自分なりに政治の問題を考えてきました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/archive/category/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3
 
 とは言っても、「それを語っている当のお前は右寄りなのか左寄りなのか」とか「その発言は結局のところ現政権を批判しているのか擁護しているのか」という党派性の問題が、政治の話題をするときには必ず付いて回ります。
 この世の中では、「何が理に叶っているかを冷静に考えたい」という人の落ち着いた声よりも、「どちらの味方なのかはっきりしろ」という単細胞な人の叫び声の方が、どうしてもやかましく響きわたってしまうのです。
 
 しかし、「意見を持つこと」と「どちらかの味方をすること」は決して同じではありません。
 右派にしろ左派にしろ、私は「どちらの味方かという受け取り方しかできない湿った情念が気持ち悪い」という感性の持ち主ですので、どちらの味方とも誤解されないような言葉選びを慎重に心掛けています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/06/07/235511
 
 だからと言って「自分はどちらの味方でもなく、ただ客観的に物事を判断しているだけ」と自称する人間の言い分を鵜呑みにするのも危険です。
 それは、世に溢れる「右とか左とかではなく先入観抜きに真実だけを見つめよう」といった中立めいた発言は、多くの場合、どちらかの政治的立場に引き込むための巧妙な誘い水になっているから。
 怪しまれないようにと自身の立場を隠しながら接近して、客観的な事実を教えるようなふりをして「あなたは分かってない、本当はこうなのだ」と偏った信条を刷り込むその手法は、カルト宗教やカルトビジネスの洗脳のやり口にそっくりです。
 
 政治だろうが宗教だろうがビジネスだろうが、私は「真実に目覚めないと酷い目に会うぞ」「真剣に考えないやつがそんな態度でいるからこの世がおかしくなるんだ」などと恫喝することで自身の勢力に組み入れようとしてくる輩が、生理的に大嫌いです。
 私がこのブログで発信しようとしているのは、そんなうるさい小虫どもを遠ざけて近寄らせないための知恵でもあります。
 
 そのための一つの方法として、世間に溢れる「正論めいた脅迫」を気にしないでいられる気の持ちようを、私なりの視点から紹介しています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/18/002319
 特に政治の話題については、人生を豊かにするための「建設的な政治との関わり方」として4種類の在り方を紹介しました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/25/084508
 
①世の中を直接動かす人になる
②政治運動に積極的に参加する
③政治を会話のネタにする
④政治に期待をかけず自分の人生に専念する
 
 この4つの順番は一応、政治にかける熱量が大きいとされる順に並べたもの。
 注意したいのは、自分の人生を豊かにするための政治との付き合い方は人それぞれであり、政治にかける熱量の大きさの差がそのまま人間性の高低に繋がるわけではないということ。
 ですがこの世には、こうした政治への熱量の差を根拠に、自分より熱量の低い相手を見下そうとする面倒くさい輩が一定数存在します。
 
 もしあなたが、そういった自称「真面目な人」から「あなたは政治に対して不真面目だ」とか「そんないい加減な人がのさばっているから世の中よくならないんだ」などと責められても、そんな使い古された決まり文句を真に受けて真剣に悩んだりする必要はありません。
 「この人はこのように言うことで自分なりの満足を守ろうとしてるんだな」ととらえて済ませればそれで十分です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/02/22/202235
 
 私に政治的な立場があるとすれば、それは「人がノンポリでいることを応援する」ということ。
 それは「ノンポリを攻撃する右派を責める」ということでも「ノンポリを攻撃する左派を責める」ということでもありません。

 そんな風に、立場の違う相手を攻撃したがる人がこの世に存在するのは、ヒトが感情を持った動物である以上仕方のないこと。
 だから、ノンポリである私たち自身が「正論めいた人格攻撃」をさらっと受け流すことのできる大人になろうという、建設的で前向きな提案なんです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 前回、私は2015年6月1日の改正道路交通法の施行に関して、「自転車運転に関する禁止事項が増えたわけではない」とする見解を述べました。
 そもそも法改正以前から「歩行者による信号無視」ですら厳密には違法行為なのですが、歩行者や自転車はバイクや自動車に比べて取り締まりがルーズだったというだけ。
 今回の法改正は、ただ単に「これまで違法なはずなのに見逃されてきた自転車の危険運転」への取り締まりを、改めて引き締めていくための単なるきっかけに過ぎません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/05/31/224655
 
 私がこの記事を書いたのは、法律として書かれてある通りの内容と、取り締まりの場面での実際の運用のされ方と、世間での受け取られ方との間には、大きな隔たりがあるということを単に指摘するため。
 タイトルの「道交法違反は犯罪なんです」は、この認識のズレに対して「法律をマニュアルとして文面通りに解釈すればそういうことになるんですよ」と改めて確認しようとするニュアンスを込めたものです。
 
 自転車利用者を締め付けるために「危険運転は犯罪なんだからこれからは調子に乗るな」と言いたかったわけでもないし、だからといって自転車を利用する立場から「厳罰化は不当であり承服できない」とアピールしたかったわけでもありません。
 というよりはむしろ、私自身が常日頃からその種の「最初から結論を決めつけているポジショントーク」に嫌気がさしているので、「もう少しドライに事態を見つめる努力をしてみませんか?」と提案したかっただけでした。

 私は大学で数学を専攻していた20歳のころから、日常的な議論におけるこうした「湿り気」の問題が気にかかっていました。
 ここで私が言う「湿り気」とは、議論の結論をどちらか一方に持っていきたがる私たちの感情や現実世界の力関係のこと。
 
 数学という非日常の場面では、議論の結論は主張する人の感情やポジションには左右されません。
 公理や形式論理という数学の世界の約束事に従って、「証明ができたか」という基準だけでことの正否はドライに判定されます。
 
 真だと証明できればそれは正しい。
 偽だと証明できれば間違っている。
 どちらとも証明できなければその問題は「未解決問題」として保留しておく。
 
 数学の世界でこうしたきっちりとした判定ができるのは、数学が「公理と形式論理」という限られた世界の中でのゲームに過ぎないからです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/18/064700
 
 ですが、私たちが生きる日常的な世界では、「公理や形式論理」のような参加者全員が守るべきルールが、数学のようにきっちりとは定められていません。
 宗教にしろ科学にしろ法律にしろ、そこから提案される諸々のルールには、主張者自身の「こうあってほしい」という感情や現実世界における力関係が必ず反映されています。
 そもそも人には、公正な視点による結論を、感情やポジションに左右されずにドライに導き出す能力など備わっていないのです。
 
 人はそれぞれ違った好みや立場を持っていますから、こうした感情的な対立がなくなることは原理的にありえません。
 こうした「じめじめした対立」を解決するためのマシな手段の一つとして、これまで人類は民主制という仕組みを工夫してきました。
 民主制とは、集団における意思決定のプロセスに、「最終的には多数決で決定する」という比較的ドライなルールを採用したものです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/27/000900
 
 つまり、社会に民主制が導入されてきた背景には「人の営みにはじめじめとした対立がある」という大前提の人類知があるのです。
 しかし、民主制がある程度普及しきってしまった社会では、この大前提が忘れ去られることがあります。
 その結果、民主的な話し合いによって追求すべきなのは、客観的で理性的で感情に左右されない結論だとする妄想めいた理想論が生まれたりします。
 
 そうではなく、私たちのじめじめとした情念を叶えるための方便として、「ドライなふりをする」という方法が一部の人に対して説得力を持っているというだけ。
 理想主義者が望むような真にドライな討論なんて、私たち人類はこれまで一度も経験していません。
 真実や「正しさ」なんていかにもドライぶった物言いは、じめじめとした感情や立場が言わせているものでしかないんです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/05/060200
 
 数学というこの世でもっともドライな世界にいた私は、日常の現実世界で持て囃されている表向きのドライさが「中途半端な偽物」にしか見えていません。
 というわけで、そんな私が一番嫌いなのは、ドライでクールな正論を吐いているつもりのびちゃびちゃに湿った人。
 ですから、このブログでは世間に流通している中途半端なドライさを取り上げて、「正論ぶってドライに見せかけているけど、その背景は随分とじめじめしてるよね」と指摘することを目的の一つとしています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/04/102726
 
 私はそうした「湿り気への無自覚」を毛嫌いする性格を持ってしまっているので、できる限り「己の湿り気」で理を汚してしまわないように語ろうと努力します。
 もっとドライに人心の誘導だけに徹するならば「中途半端なドライさ」を割り切って利用した方が効果的なのでしょうが、私は「そういうやり方は恥ずかしいし気持ち悪い」というウェットな感情を抱えているため、「ドライさを偽装しない伝え方」にこだわってしまいます。
 
 そんなわけで、私はどんな案件に関しても「どちらの立場に味方するか」という自分の好みに過ぎないものをドライぶって正当化するのを控えて、好き嫌いという「己の湿り気」を相対化した上での視点を探っていきます。
 そんな傾向こそが私の「湿り気」なので、これからも感情やポジション的には分かりにくい話ばかりを扱っていく所存です。
 立場を明らかにしない記事ばかりを見せてしまって、まことに申し訳ありません。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 道路交通法の改正により、明日から「自転車運転者講習制度」という新しい制度が始まります。
 これまで自転車の危険運転に対しての取り締まりには、違反の摘発による「罰金の支払い」などの方法がありました。
 そして2015年の6月1日以降は、14歳以上の人が3年以内に2回以上の摘発を受けた場合、警察が実施する「安全講習」を受講しなければならなくなります。
 
 安全講習の受講には5700円の手数料がかかり、受講命令に従わない場合は5万円以下の罰金が科せられます。
 安全講習は運転免許試験場などで行われ、所要時間は休憩を除いて3時間。
 講習の中では、自転車事故の被害者や遺族の体験談などを通じて危険運転が社会に及ぼす悪影響を知らしめた上で、法で定められた自転車運転のルールを学んでいくことになります。
 
 2013年6月1日に公布されていたこの改正道路交通法は、今年の5月ごろからインターネット上で頻繁に言及され始め、施行直前の先週末あたりからマスメディアでも周知されるようになりました。
 そこでは、道路の右側通行や一時不停止や音楽を聴きながらの運転など、今回の法改正に合わせて「摘発の対象となる14の危険行為」が紹介されています。
 ですが、そもそも世間では道路交通法に関する理解がそれほどなされていないため、本質的でない議論ばかりが溢れているような印象を受けます。
 
 今回の法改正は、「自転車ならばこれまで守らなくても良かった交通ルールでも、これからは守らなければならなくなる」という種類の変更ではありません。
 そもそも道路交通法とは、車やバイクだけでなく、自転車も歩行者など、道路を利用する全ての人が守るべき法律として作られたものです。
 今回はただ単に「自転車に対する取り締まりの手段」として講習が一つ追加されるというだけのことであり、自転車運転における「違法とみなされる範囲」が根本的に変わるわけではないのです。
 
 もっと突き詰めて言うならば、道路交通法に対する違反行為は、たとえ「歩行者の信号無視」といったありふれたものであっても、それが「犯罪」であることに変わりはありません。
 しかし、道路交通法違反という犯罪の全てを本気で検挙しようと思ったら、該当する件数が多すぎて司法の機能はとても追い付きません。
 
 ですから実際の運用では、道路交通法違反という犯罪には軽重のグラデーションが細かく設定されており、歩行者や自転車といった優先順位の低い道路利用者の違法行為に関してはそのほとんどが見逃されてしまっています。
 こうした現状に甘んじて、これまで私たち道路利用者のほとんどが、道路交通法を軽視してきたというだけなんです。
 
 こうした軽重のグラデーションの中でも、これまでもっとも厳しく取り締まられてきたのが、その運転に免許を必要とするバイクや自動車です。 
 免許が必要ということは、警察に厳しく管理されることと引き換えに運転することを一時的に「免じて」「許されている」ということ。
 つまり、免許という「特例措置」を受けなければ、バイクや自動車の運転といった行為自体が、基本的には「市民の安全を脅かす行為」として法律で禁じられているということでもあります。
 
 ですが、もっとも厳しく取り締まられているバイクや自動車の運転でさえ、スピード違反や禁止区域への駐車、一時不停止などの「違法行為」は日常茶飯事です。
 これらの違反者すべてを裁判所に起訴してしまうとキリがないので、比較的軽微な違反には警察との手続きだけでことが済む「青切符」という制度が整えられています。
 
 通常、法を犯した罪で訴えられて裁判所で有罪が確定すれば、その人には前科がつく上に刑として「罰金」を支払わなければなりませんが、青切符であれば前科とならない「反則金」という扱いで済みます。
 この反則金の位置付けは「違法行為であっても前科者にはしてあげないための免除措置のようなもの」でしかなく、決して「軽微な違反であれば犯罪とみなさない」というわけではありません。
 
 一方、自転車の運転にはこうした「青切符による反則金」の制度がなく、危険な自動車運転に対してペナルティを科すには、前科者となってしまう「罰金」しか手段がありません。
 道路交通法をよく知らない大勢の自転車運転者を前科者にすることがためらわれるのか、これまでの自転車に対する危険運転への取り締まりは、バイクや自動車に比べると随分とゆるいものになっていました。
 
 こうした経緯があったため、今回の法改正に際してインターネット上では「自転車運転にも青切符のような講習制度を取り入れることでこれまでより取り締まりやすくするため」とする解釈が飛び交いました。
 これは先入観による勝手な思い込みで作られたデマであり、この見解は警察も正式に否定しています。

 改正法をきちんと読めば、自転車を取り締まるための大まかな枠組み自体はこれまでとほとんど変わっていないことが分かります。
 道路交通法の違反で検挙されて有罪が確定すればこれまでと同様に前科者となりますし、反則金のようなグレーな免除手段は自転車運転にはありません。
 変わったのは「3年以内に2回以上の危険運転(つまり犯罪)が摘発されてしまえば講習を受けさせられる」という部分だけです。
 
 それではこの法改正にはどんな意味があるのでしょうか。
 この疑問に対する私の仮説は次のようなものです。
 
 これまでは、社会通念上「自転車はそれほど厳しく取り締まる必要がない」といった認識が根強く、罰金刑を与えたからといってその後の遵法意識に結び付かない可能性が高かった。
 だが、今回の法改正で「常習的な違反者には関連法や自転車の危険性を学ばせるなど更正の機会を確保している」と言えるようになった。
 これで、法律通りに自転車を取り締まるようになっても国民への言い訳がしやすくなるので、「自転車であっても道路交通法は遵守しなければならない」という新しい常識を、堂々と日本国民に植え付けていける。
 
 今回まとめられた「摘発の対象となる14の危険行為」も、これまではなあなあで見逃されてきた違法行為を、改めて並び直しただけのことです。
 「法律によって国民をしつけていきたい」とする法治国家の論理と、「私たちの生活をそこまで杓子定規に法律で縛らなくても」とする庶民の感覚とのせめぎ合いは、明日から新たなラウンドを迎えていきます。
 
 
【14の危険運転の法的根拠】
 
信号無視(道路交通法第7条)
通行禁止違反(道路交通法第8条第1項)
歩行者用道路における車両の義務違反(徐行違反)(道路交通法第9条)
通行区分違反(道路交通法第17条第1項、第4項、第6項)
路側帯通行時の歩行者妨害(道路交通法第17条の2第2項)
遮断踏切立入り(道路交通法第33条第2項)
交差点安全進行義務違反等(道路交通法第36条)
交差点優先者妨害等(道路交通法第37条)
環状交差点安全進行義務違反等(道路交通法第37条の2)
指定場所一時不停止等(道路交通法第43条)
歩道通行時の通行方法違反(道路交通法第63条の4第2項)
制動装置(ブレーキ)不良自転車運転(道路交通法第63条の9第1項)
酒酔い運転(道路交通法第65条第1項)
安全運転義務違反(道路交通法第70条)


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