間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -6ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

土の香 人の情 ふるさとをこよなく愛して
 
 これは、日本の民俗芸能を舞台で50年以上も演じ続けている歌舞劇団田楽座の活動理念。
 彼らは、全国各地のお祭り芸能の担い手に師事し、ふるさとを築いてきた人と人との繋がりのありかたや、土地土地に特有の味わいなどを舞台の上で表現しようと取り組んでいます。 
 また、和の色合い豊かなお囃子の曲を創作し、演奏を通じてそういった日本古来の心意気を追体験できるようにと、全国のファンや太鼓チームの共有財産として提供しています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/01/011427
 
 そんな田楽座が、西宮のファンたちの依頼に応えて作成したのが「えびす田笑囃子八祭(えびすでんしょうばやし・やっさい)」です。
 このお囃子が初お披露目されたのは2015年10月10日。
 西宮の人々に大々的にお伝えするため、田楽座に「うひゃりこどんどん むか~しむかし」という舞台を演じてもらい、そこに集まったお客さんに向けて発表したのです。

 
 この田楽座公演では、日本各地に伝わってきた太鼓にお囃子に踊り、獅子舞、玉すだれ、昔話などが楽しいノリで次々と紹介されていきました。
 さらには、浜松のファンからの依頼で浜松の祭をモチーフに作られた「濱のお囃子」や、福岡のファンからの依頼で作曲された「踊り囃子にぎまつ」なども披露。
 どちらも、地元のファンたちによって熱心に広められてきており、伝統の根を着実に生やそうとしている曲です。
 
 そんな流れから最後に紹介されたのが、西宮の新曲です。
 田楽座による最高のお膳立てのおかげで、「えびす田笑囃子八祭」は華々しくデビューすることができました。 

 
 今は「伝統芸能」と呼ばれている芸能も、生まれた当時は最新流行だったものが、流行り廃りの淘汰圧を乗り越えて数百年に渡って生き残ってきたもの。
 西宮で生まれたこの新曲も、浜松や福岡のように広く地元に伝えていって、いつの日か「伝統芸能」の仲間入りを果たせるといいなあと願っています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/10/04/235750

【えびす田笑囃子八祭・練習会参加者募集】
 
「えびす田笑囃子八祭」を練習して、お祭りで演奏しませんか?
太鼓が初めての人も大歓迎!
もちろん、太鼓を演奏できる人も大歓迎です!
 
1回目 11月14日(土)13~17時
2回目 12月13日(日)13~17時
3回目 1月11日(祝)13~17時

場 所 こうべ輪太鼓センター
(JR兵庫駅から徒歩約13分)
参加費 1回1000円
対 象 小学校4年生以上
持ち物 太鼓ができる動きやすい服装、バチのない方は貸し出します。
申込み ①名前②連絡先③お子さまの場合年齢を、mrbachikorn@gmail.comまでお知らせください。 


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

自分が今いる場所が「ろくでもない場所」であり、まわりにいるのは「ろくでもない人間」ばかりなので、「そうではない社会」を創造したいと望む人がいるかもしれない。
残念ながらその望みは原理的に実現不能である。

人間は自分の手で、その「先駆的形態」あるいは「ミニチュア」あるいは「幼体」をつくることができたものしかフルスケールで再現することができないからである。
どれほど「ろくでもない世界」に住まいしようとも、その人の周囲だけは、それがわずかな空間、わずかな人々によって構成されているローカルな場であっても、そこだけは例外的に「気分のいい世界」であるような場を立ち上げることのできる人間だけが、「未来社会」の担い手になりうる。

 これは、以前紹介した内田樹の言葉。
 この世の欠陥をどれだけ的確に指摘することができたとしても、これまで自分の周りに「気分のいい空間」を少しも築いてこなかったような「気分の悪い人」が、これから「今より気分のいい社会」を実現する可能性は極めて低いでしょう。 
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/10/05/163718
 
 大言を吐いている暇があったら、まずは身近な問題から。
 さらに、内田樹は以下のように続けています。
 
人間社会を一気に「気分のいい場」にすることはできないし、望むべきでもない。
「公正で人間的な社会」はそのつど、 個人的創意によって小石を積み上げるようにして構築される以外に実現される方法を知らない。

だから、とりあえず「自分がそこにいると気分のいい場」をまず手近に作る。
そこの出入りするメンバーの数を少しずつ増やしてゆく。

別の「気分のいい場」で愉快にやっている「気分のいいやつら」とそのうちどこかで出会う。
そしたら「こんちは」と挨拶をして、双方のメンバーたちが誰でも出入りできる「気分のいい場所」ネットワークのリストに加える。

迂遠だけれど、それがもっとも確実な方法だと経験は私に教えている。
 
 そんなわけで、この世を住み良くするために私がしている身近な努力とは、長野を拠点に活動している歌舞劇団田楽座の舞台を、より多くの人に観てもらうための活動をすること。
 田楽座とは、お祭りの場で昔から人と人とを繋いできた日本の民俗芸能の温かみを舞台で伝えているプロ集団。
 2004年に長野から田楽座を呼ぶための実行委員会を福岡で立ち上げ、活動を拡大していく中で長崎や大阪や堺や奈良や姫路の実行委員会とも交流を深めてきました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/05/10/000016
 
 2009年に関西に引っ越してからは西宮に「楽太鼓 笑宴快(ええんかい)」という和太鼓チームを立ち上げ、民俗芸能というジャンルへの興味を触発しようと試みてきました。
 そして、そこで知り合った西宮の仲間たちが「笑う門には田楽座実行委員会」という会を立ち上げ、2013年には初めての田楽座公演を開催するに至りました。

 こうして私たちなりの「気分のいい場所」ネットワークを広げていく中で「こんちわ」と出逢うことができたのが、NPO法人「人と地域の活動応援団ぽっかぽか」です。
 ぽっかぽかとは、都会の中で弱体化しつつあるコミュニティの結束力を取り戻すため、行政だけに頼らず自分たちの手でやれることをしていこうと活動している団体。
 放課後の子どもたちの居場所を作るために、校長と直接交渉をして小学校の敷地内に事務所を建てるなど、既存の枠に捕らわれない活動をしています。
 
 ぽっかぽかは、校区に関係なく子どもたちが立ち寄れる居場所というだけでなく、日本の伝統文化を次の世代に少しでも残していくための活動として、昔の遊び体験、そば打ち体験に着付け教室まで、幅広く活動しながら、それと同時に親の世代の横の繋がりをも育んでいます。
 そんなぽっかぽかと西宮の仲間たちが出会うことで、「瓦木楽太鼓たたき隊」という子どもたちのための太鼓チームが生まれました。
 「和太鼓を通じて世代を越えた繋がりを地域に築いていきたい」というぽっかぽかの願いに応えて、私も西宮の子どもたちと楽しく関わらせてもらっています。
 
 そして2015年、西宮の地域活動に貢献するため、西宮のための新たなお囃子「えびす田笑囃子 八祭(やっさい)」を、田楽座に作曲していただきました。
 2015年10月10日(土)開催の田楽座西宮公演で初お披露目するこの曲とともに、これからもええんかいと西宮実行委員会は西宮の地域活動に貢献していきます。

 
 こういった経緯から、冒頭で紹介した内田樹の言葉には深く共感することができました。
 たとえどんな小さな一歩からであっても、愉快な実践を積み重ねていけば「気分のいい場所」のネットワークは確実に広がっていくんです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 私が提唱する「会話≒白ごはん」理論とは、「会話の楽しみと人生経験」の関係を日本食における「白ごはんとおかず」の関係に喩えるもの。
 人生のもっとも基本的な楽しみを「会話」と見なし、すべての人生経験を会話のネタと捉えることで、どんな経験だろうと人生の楽しみに変換していけるという考え方です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/09/13/225554
 
 そして前回の記事では、つらい経験や苦しい経験を辛い食材や苦い食材に喩えてみました。
 それは、そのままでは飲み込みにくく消化し難い経験であっても、工夫次第で充実した会話のネタに料理できると伝えるためです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/09/20/074843
 
 こうしたアイデアのベースとなっているのは、学生時代に見出だした「幸せのために最優先で取り組むべき課題は楽しみを生み出すことであり、人生におけるその他の要素は2番手以降の雑事に過ぎない」という自分なりの信念。
 そうやって人生の優先順位を整理していたおかげで「悩みも人生を楽しむための材料に過ぎない」と明快に割り切ることができ、これまで遭遇した苦境とも比較的前向きに向き合ってこれました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/08/30/064247
 
 ですが世の中には、楽しみを自ら生み出そうとはせずに悩みだけで自分をいっぱいいっぱいにしてしまいがちな人や、楽しみを優先せずに率先して自分を追い詰めておきながらひたすら深刻ぶりたがる人などが、少なからず存在しています。
 このタイプの人がする悩み相談は、その目的が「悩み自体を解消すること」から「安い同情を得続けること」に刷りかわってしまいがちです。
 
 これはまるで、不味いおかずをごはんで無理矢理かきこむような行為。
 話した本人は一時的に気を紛らわせることができても、不味い晩餐に付き合わされた相手は我慢を強いられることになります。
 それに、人生の辛味や苦味を美味しく料理しようと工夫しなければ、本人は不味いおかずと一生付き合うことになります。
 
 日本一企業顧問数の多い心理カウンセラーとして知られる衛藤信之は、このような典型的な症状を「なげき癖」とか「悲しみ依存症」という風に表現しています。 
 新米の心理カウンセラーをしばしば苦しめるのもこの「悲しみ依存症」らしく、彼は自身のブログ記事の中で、なげき癖のある人と心理カウンセラーの双方に以下のようなアドバイスを送っています。
http://s.ameblo.jp/n-etoh/entry-12070282320.html?frm_id=v.jpameblo
 
「最悪」「悲しい」「不幸」「自分だけが」と言って嘆いている人が親切なカウンセラーに出会う。
いくら、カウンセラーが手を差し伸べても、現状を「なげくばかり」で、色んなアドバイスをしたとしても人生を前に向かわせない。
「私はこんなにツラい」と訴えるばかりで、解決の決断をしない。

フロイトは、人生を失敗する人は「いつも悩みたがる」と書いています。
こういう人は時間が「ある過去」で止まってしまっています。
 
人生の時間は限りがあり、この悩んでいる瞬間にも、人生の大切な時間が流れていることを知識としてわかっていても、感覚としてわかりたくないのです。
 
それは、周囲が「大変ね」と同情し、関わってくれることに意味を見出しているからです。
だから、誰かの援助を求めています。
そして、自分の思うようにならない現実や世界を恨んでいます。
 
その人にとって「こんなにツラい」「苦しい」と言うことが、無意識の中で唯一のストレスのハケ口になってしまっています。
簡単に解決してしまうと困るので、アドバイスは耳で聞いてはいても、心からは聴いていません。
相談者の心に届かないのです。
 
~中略~
 
こうして「私は簡単には解決できない」と泣き叫ぶ相手に、優しい心理カウンセラーの相関関係が出来上がります。
このような心理カウンセラーも「早く解決しなければ」と焦りがあります。
「早く解決しないと自分はダメなカウンセラーになる」という思いにせかされて、苦しむtypeのカウンセラーが多いようです。
 
だから「私は誰も救えない(あなたなんかに解決できないのよ!!)」と攻撃しながら、 前を向かない「悲しみ依存症」 の人にしがみつかれてしまう。
相手を助けようとして、一緒に深みに沈んで行くのです。
 
こんな場合、カウンセラーとして、気づかないといけない。
嘆いているのにどうして相手は前を向いて動こうとしないのか?
「苦しい」「ツラい」と言いながら、どうして、解決する意思を本人は見せないのか?
 
泣いていて、落ち込んでいて「大丈夫?」と声をかけてくれるのは親です。
親が子どもを愛しているから慰めてくれる。
 
「ツラい、苦しい、自分は価値がない」と言われ続けると、普通の人間関係では、いつかは誰もが逃げてしまう。
過去の苦しみにしがみついて「今」を生きようとしない人には、普通の人は去っていってしまう。
幼児性が強いから、誰に対しても「親代わり」を求めてしまう。
 
「私は生きることを楽しんでみます!」と言ったほうが、聞いていて誰もが清々しいし、明るい気持ちになる。
それをしないのは、周囲のことを考えていない。
相手の気持ちに無関心になって、周囲の出来事にイラだち「自分だけの過去」に生きています。
ある意味で自己中心的なのです。
相手に無関心と言えば言い過ぎかもしれないけど、僕はそう思っています。
 
「幸せなこと探してみます」と、言ったら、人は笑顔になるし、そのほうが好かれる。
でも、悲しみ依存症の人は、周りが同情してくれることにしがみつく。
 
好かれようとして、嫌われる。
泣いて注目を集め、周囲を心配させて振り回す。
悲しみながら、好かれようとするから、周囲は去って行く。
 
自分は「特別に悲しい」と訴え、周囲にいる親代理の誰かが、かまってくれることを、いつも求めてしまうのです。
何よりも自分の悩みを優先するのが、相手の心に対しては無関心な証拠なのだと思うのです。
 
有名な心理学者、G・ウエインバーグは、抑うつ期の人に、こうアドバイスするそうです。
「ある一定の期間、自分の問題について話すのをやめること。まず、一日やってごらんなさい。それから一週間。もし、不平を言うのをやめると、あなたは、自分自身について重要な発見をするかもしれません。抱えている問題を話すことは、しばしば抑うつな気分を刺激します。あなたが不平なことしか、しゃべらないから、あなたの人生はすべて不平以外のことは、人生に何もないと思ってしまうのです」
 
アドラーは「うつ病になる人は、毎朝、人に喜びを運ぶことを考えなさい」とアドバイスをしました。
「そうすれば、あなたのうつ病は、二週間で治るでしょう」とアドラーは断言しました。
 
うつ病になる人は、周囲のこと考えないで、自分の悩みの世界だけにひたっている。
すべては自分の悩みだけを優先させてしまう。
 
僕は思います。
泣いている時間、空を見よう!
「楽しいことは世界に、きっとある!」と人に呼びかけ、誰かに援助を与えよう!
 
悩んでいる人は空を見ない、草の中のクローバーを探す気にもならない。
風のそよぎが頬にあたっても感じることなども数年忘れてしまっている。
 
楽しいことは、あなたの世界にも、きっとある!
 
 ここでも繰り返し触れられていますが、楽しみとはみずから見出だすもの。
 「楽しいことがない」「自分が不幸なのは仕方ない」という捉え方は、「人生が充実するかどうかの責任を自分では負いたくない」という幼児性の現れでもあります。
 
 幸せのために最優先で取り組むべき課題は「楽しみ」を生み出すことであり、人生におけるその他の要素は2番手以降の雑事に過ぎません。
 「自分の人生を充実させる責任」は少々重たいものかもしれませんが、覚悟を決めて担いでみれば結構楽しいものですよ。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 それは三年半前の昼のことでした。
 デスクワークをしていると、唐突に、腰の右脇の方に猛烈な痛みが襲ってきました。
 姿勢を保つこともできないくらいの破滅的な激痛に椅子からへなへなと崩れ落ち、痛みに悶えて這いつくばりながら職場の保健室へと直行。
 
 保健室に向かいながら携帯電話で「右脇腹の痛み」と検索してみると、真っ先に出てきたのは「盲腸の疑い」でした。
 「盲腸かあ、手術せずに薬で散らせるといいなあ」と思いながら何とか保健室にたどり着くと、保健の先生は背中の方を押さえてる私を見て「盲腸じゃないよ、多分結石やね」と診断。
 すぐさま職場近くの病院に車で運ばれていきました。
 
 痛みに顔を全開で歪め、身をよじりながら初診受付をしていると、見かねた受付の方が車椅子を持ってきてくれました。
 しかし、診察を待つ間にも痛みの波はドンドン酷くなり、身をよじりすぎて車椅子にも座っていられなくなりました。
 
 車椅子の座席を抱きかかえて七転八倒している私の様子に、今度は担架が出動。
 担架の上でしばらく放置され、散々身をよじったあとにようやく医師が到着し、触診を受けることができました。
 
 医師は背中に当てていた私の手をどかし、強烈に指圧しながら「ここが痛みますか?」などと当たり前の質問をしてくるので、「はい…」と息も絶え絶えに返事。
 さらに裏側のお腹を指圧してきて「こちらも痛みますか?」と冷酷に聞いてくるので、冷静さをギリギリで保ちながら「痛いことは痛いですが、何をしていても常に痛み続けているので、押されたから痛いのかどうかは判断がつきません」とひそかに苛立ちながら返事を突き返します。
 
 すると、横から「痛みを抑えてからでないと診断できないので、ボナフェックを使いましょう」という女性の声が聞こえてきたので、「何でもいいから痛みをどうにかしてくれ~」という破れかぶれの気分に。
 そうして座薬・点滴・CTスキャンと「人生初体験」の3連コンボ。
 5分 10分で効くと言われた座薬も30分くらい経てば少しは効果がありましたが、効き目には波があって以下の3レベルの痛みを行ったりきたりするありさまでした。
 
①何とかジッとしていられるギリギリ限界のレベル
②ジタバタ身をよじることで何とか平静を保っていられるレベル
③いくら身をよじってもどうにもならず絶望的な気分で悶え苦しむレベル
 
 波が浅いときを狙ってCTスキャンと検尿を何とか終え、待合所でレベル2の痛みに苦しんでいるときに診察室に呼ばれました。
 患者用の丸椅子に真っ直ぐ座っていられる状態ではなかったので、医師のデスクに這いつくばった状態で説明を受けます。
 
 CTスキャンの断面図を見せられながら受けた診断は尿管結石。
 右の腎臓から膀胱へと通じる尿管の出口に小さな結石が詰まっており、せき止められた尿管が腫れ上がっていて激痛を起こしているとのことでした。
 
 極々小さな結石のため、自然に出てくるのを待つ以外に処置の仕様はない模様。
 だいたい2週間以内には出てくるということなので、それまでは薬で痛みを抑えながらやり過ごすしかないようでした。
 
 診断を受けてから会計処理を待つ間にもレベル2~3の痛みの波が襲いかかり、待合いのソファーの上で丘に打ち上げられた魚のようにピチピチ・ヒクヒクとのた打ち回っていました。
 あまりにも見苦しいので誰にも見られない個室で一人苦しもうと、トイレに入ったところで猛烈な吐き気が襲い、続けざまに1回、2回、3回と激しくえずきまくり。
 トイレから出たときは嘔吐の余韻で最悪な気分でしたが、ふと我にかえってみると、さっきまでの痛みがほとんど消えてしまってることに気付きました。
 
 3時間休みなく激痛に苦しみ抜いた後にふいに訪れた、痛みの全く無い世界はまさに極楽。
 過去に味わってきた帯状疱疹やアキレス腱完全断裂・アキレス腱部分断裂などとは比べものにならないくらいの痛みに、診断を受けるまでは死に至る病の可能性も頭によぎり、余命を宣告されでもしたら限られた時間をいかに有意義に過ごそうかなどという想像までしてしまうほどでした。 
 
 この尿管結石の後遺症と言えば、激痛でひきつり過ぎた顔に深い皺が刻まれ、たった一日でゴルゴ13のように老け込んでしまったことくらい。
 一時は「死ぬかも!?」と真剣に考え込んでいたので、無事に生きられて本当に良かったです。
 
 3年半も前の出来事をこのように詳細に記述できるのは、当時SNS上でネタにしたときの記録が残っていたから。
 実はこれこそが、私が昔から実践しているストレス軽減法なんです。
 このストレス軽減のための筋道を、前回紹介した「会話≒白ごはん」理論にし解説してみましょう。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/09/13/225554
 
 「会話≒白ごはん」理論というのは、人生における楽しみの主食を「会話」と見なし、人生の他の要素を会話のためのおかず(ネタ)と捉えることで、美味しいごはん(会話)さえあればどんな些細な経験だろうと人生の楽しみに変換していけるという考え方です。
 この「会話≒白ごはん」理論は当人の自覚とは無関係に世間でも広く実践されており、例えば政治のような深刻なテーマですら、会話というアトラクションのネタとして頻繁に有効活用されています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/25/084508
 
 このように人生における出来事のすべてを会話のネタの候補だと捉えると、つらい経験や苦しい経験は辛味や苦味の強い食材のようなもの。
 辛味や苦味といった癖のある食材(経験)を、白ごはん(会話)に合う美味しいおかずに仕上げるには、人の舌に合わせるための何らかの工夫が必要になります。
 
 その工夫を怠って「このつらさ・苦しさを分かって」と自分への共感をねだるだけになってしまえば、ただ辛いだけ、ただ苦いだけのおかずを、話し相手に押し付けることになってしまいますから。
 これは美味しくないおかずを白ごはんで無理矢理かきこむような不快な体験ですから、相当の信頼関係があるか余程のお人好しでない限り、そんな「不味い飯」には何度も付き合ってもらえません。
 ですから、つらい体験や苦しい経験を多くの人に共感してもらいたいと思うのなら、どう話せば興味を持ってもらえるかという「話の旨味」をプロデュースする必要があるのです。
 
 そのように考える習慣ができていると、いざ自分が苦境に立たされている最中でも「このしんどさはどのように話せば人に共感されやすいだろうか」という具合に「後の楽しみ」に想いを馳せられるようになります。
 そうすると、今味わっている痛みや理不尽さなどが極端であればあるほど、その素材を「話のネタ」として料理するのが楽しみで仕方なくなります。
 こうしてつらさや苦しみと同時に楽しさを味わうことで、自分の気分を絶望一色に染め切らなくて済むようになります。
 
 尿管結石の痛みで苦しんでいるときも、「後でどうしゃべってやろうか」「どんな文章にまとめてやろうか」と考えることで、前向きな覇気を引きずり出すことができました。
 インターネットにはとても書けないような深刻な事態に見舞われたときでさえ、いつか信頼できる人だけに話せるときのことを念頭に置きながら奮闘することができました。
 
 「苦しい中でも『苦境をネタに昇華する』ことを常に考えておく」というこのやり方は、その苦しい真っ只中のストレスの強度を少しだけ緩和する効果があったように思います。
 このストレス軽減法、興味があれば是非とも試してみてください。
 それでストレスが消え去ることはありませんが、少しはマシになるかもしれませんよ。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 幸せのために最優先で取り組むべき課題は「楽しみ」を生み出すことであり、人生におけるその他の要素は2番手以降の雑事に過ぎない。
 そして世の中の全ての不幸は、その優先順位の取り違えから生まれる。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/08/30/064247
 
 そう考えて「楽しみ」以外の価値を優先させたがる周囲の雑音は蹴散らしながら生きようと決めたのは大学の学部生~院生だったころ。
 当時私は社会人・大学生・高校生らが引率として中学生・小学生のグループを盛り立てていく地域のレクレーション活動に参加しており、そこで知り合った仲間たちとキャンプなどを頻繁に楽しんでいました。
 ですが、組織の合併によって思想がかった人に運営の主導権を握られてしまい、楽しかった自分たちの活動が「こうあるべき」という気持ち悪い啓蒙思想に汚されていくのが我慢ならなくて抵抗したり独立したりしていたときから冒頭の言葉のように強く感じ始めたのでした。
 
 そんな人生を充実させる「楽しみ」の中でも、私が「もっとも基本的で重要な娯楽」だと考えているのが会話です。
 そこで今回は、私が長年提唱している「会話≒白ごはん」理論を紹介させていただきます。
 
 日本人の食文化として特徴的なのが、おかずと一緒に米を食べるということ。
 「ごはんがすすむ」のフレーズが美味しい料理の誉め言葉として成立しているのも、この特殊な食文化があるからです。
 
 そして、娯楽として見たときの会話の地位は、日本食における白ごはんの地位とほぼ同じだというのが私の主張です。
 映画などの観劇、テーマパーク、アウトドアなどその他の娯楽は皆、会話というもっとも基本的な娯楽をバラエティ豊かに彩る絶好のおかずになります。
 また、ごはん自体が美味しければ漬物やふりかけなどちょっとしたごはんのお供でもご馳走になるように、心地よい会話ができる相手とであれば日々の些細な出来事すらも素敵な娯楽へと昇華することができます。
 
 こうした、会話を主食の「白ごはん」とみなし、その他の要素を「おかず」とみなす捉え方を、私は恋愛や結婚の場面でも活用することができました。
 一般に恋愛の主目的とされがちな「惚れた晴れたのドキドキ」などは、喩えて言うならば「肉料理」のようなもの。
 これまでのつたない恋愛経験から学習してきたのは、情熱という「肉料理」の分かりやすい味の濃さだけに囚われて、日々の会話という「ごはん」の味わいを疎かにしてしまえば、恋愛は失敗してしまうということです。
 
 20代の頃から「おじいさんになったときに仲良くやっていけるおばあさんと出会いたい」と考えていた私にとっては、いずれは薄れる情熱という「脂っこい肉料理」の派手な旨みよりも、一生味わっていける会話という「ごはん」の穏やかな旨みの方がはるかに重要でした。
 ですから、一時的な「肉の美味しさ」に溺れて夢中になったがゆえに不味い「ごはん」を無意識のうちに我慢してしまうような、そんな愚かな真似だけは絶対に避けようと常に意識してきたのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/10/05/163718
 
 そして今では、一緒にいて居心地のいい相手と結婚することができ、なんでもない日々の会話をしみじみと噛み締めています。
 そのおかげで、身の回りで起こるどんな出来事も絶好のおかずになるので、ごはん(会話)がすすむ幸せな毎日を送ることができています。
 
 世の中にはお米(なんでもない会話)が嫌いな人も肉(恋愛特有のドキドキ)ばかりいつまでも食べていられる人もいますから、今回紹介した「会話≒白ごはん」理論が全く当てはまらない人ももちろんいると思います。
 私としては、好みの合う方だけにでも何かの参考にしてもらえれば幸いです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 和太鼓にも人生にも共通する私のモットーは「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」「それ以外の雑音はほっとけばいい」というもの。
 世の中には「楽しいだけじゃ駄目でしょ」「気持ちよければいいなんて動物と一緒じゃないか」なんて圧力がいたるところに潜んでいるので、そんな圧力に負けずに「それだけでいいに決まってる」という姿勢を貫くには、ある種の強さが必要になります。
 私はこの姿勢を「この世は力こそがすべて」と解釈することで手に入れました。
 
 自分の中での「こうあらねばならない」とか「こうあってはならない」といった基準は、他者から自分に向けての「こうして欲しい」「これこれはやめて欲しい」というリクエストの圧力が、己の自然な欲求を抑えつけるときに生まれるもの。
 つまり、「駄目だ」とか「ねばならない」といった基準はその場その場の力関係によって変わっていく相対的なものでしかなく、力に左右されない絶対的な基準などこの世には一つもないということです。
 「そうであるならば他者からの圧力に負けて振り回されているのは馬鹿らしい」という判断から、「楽しさや気持ちよさ以外の基準を雑音としてほっとけるだけの強さを持てばいい」という今現在の態度が決まりました。
 
 とは言え、ここで大前提とした「力こそがすべて」という主張には、「力に左右されない価値だってあるはずだ」という反感が予想できます。
 それは、単に「力」とだけ言うと、暴力・武力・権力といった非難されやすい力の概念の方を連想してしまう人が多いからでしょう。
  
 「力こそがすべて」という言い方には、多くの人を惹き付けるだけの魅力や、納得させるだけの説得力が足りていないわけです。
 しかし、よく考えれば魅力も説得力も数ある「力」のうちの一つなんですから、「魅力や説得力が足りないから受け入れられない」というこの事態そのものが、最終的には「力こそがすべて」であることを裏付けています。
 
 浮わついた現実逃避のようにも聞こえる「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」「その他の雑音はほっとけばいい」という信念は、私にとっては「力こそがすべて」という大前提から導き出したドライな結論でしかありません。
 世の「こうでなければならない」とか「こうあってはならない」という雑音は、現実に力を持って私たちの行動を邪魔することがありますから、その雑音の「力」を完全に無視してしまうことはできないでしょう。
 ですが、それはあくまで「力に邪魔された」というだけのことですから、自分自身の内面の問題としては本気で「こうでなければならない」「こうあってはならない」と真に受けたりせずにほっといたらいいのです。
 
 巷に溢れる浮わついた現実逃避としての「楽しければそれでいい」にはこうした「力」の観点や「力」と向き合う覚悟が欠けていますから、「楽しいだけじゃ駄目」と言いたがる勢力の実際の圧力に相対したときに潰される場合が多々あります。
 そして覚悟もなく潰された元現実逃避組たちが、薄っぺらい失敗の体験を元に「楽しいだけじゃ駄目だ」と説教する勢力に加わっていくこともあるわけです。
 
 ブログ「間違ってもいいから思いっきり」の目的は、「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」と感じている人たちにとっての「力」となること。
 「ねばならない」というマウンティングの力学を種明かしして説教そのものの圧力を削いだり、身に降りかかる洗脳や煽動への抵抗力を上げていくきっかけになれればと思って毎週記事を書いています。
 とは言え私はまだまだ力不足ですから、記事の魅力や説得力を上げるにはどんな工夫ができるかと試行錯誤しながら、これからも自分のペースで楽しんでいくつもりです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
真面目なふりして
つまらないことで
悩んだふりする
たまにゃおもしろい
 
なんだかんだ気分次第
自由になら一秒でなれる
 
夏の朝にキャッチボールを
寝ぼけたままナチュラルハイで
幸せになるのには別に誰の許可もいらない
https://youtube.com/watch?v=t2bujSFEqww
 
 これはザ・ハイロウズの『夏の朝にキャッチボールを』という曲の歌詞。  
 この曲を聴いた二十代前半のころ、私が考えていたのは以下のようなことでした。
 
幸せのために最優先で取り組むべき課題は「楽しみ」を生み出すことであり、人生におけるその他の要素は2番手以降の雑事に過ぎない。
そして世の中の全ての不幸は、その優先順位の取り違えから生まれる。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/08/084900
 
 そんな当時の考えをズバリ代弁してくれるような心地よさがこの歌にはありました。
 私がしびれたのは、引用した中でも特に最初の四行。
 
真面目なふりして
つまらないことで
悩んだふりする
たまにゃおもしろい
 
 私はこの歌詞を「真面目ぶって悩むというのは人生を充実させるためのオプションとして本人が敢えて選んでいる自作自演の営みに過ぎない」という風に受け止めました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/08/10/202600
 また、ボーカルの甲本ヒロトは別の機会にこんな発言もしています。
 
悩むことは当たり前だしそれこそがダイナミズムだと思うんだよ。
それを楽しめないともったいないよ。
がっかりするときは思いっきりがっかりしたり、失望したり切望したり恋が叶ってもいいし失恋してもいいし、その瞬間をしっかりつかまえて心臓が張り裂けるようなダイナミズムを味わうってことがもっとも贅沢な生き方じゃん。
 
 悩みをまるで「人生のアトラクション」のように積極的にとらえるヒロトはまた、「なんだか僕は地球というテーマパークに生まれたような気持ちがするよ。パスポートを持って」とも語っています。
 これらの発言は「悩みは楽しむための材料に過ぎない」「悩み<<<<<楽しみ」という優先順位が整理できている人にしか言えない類いのもの。
 
 こんな視点からとらえるならば、もし仮に本人が「真剣に思い詰めて悩んでいる」つもりであったとしても、よそから見れば「人生の充実のために真面目なふりしてつまらないことで悩んだふりをしているだけ」「自ら進んで悩みたくて悩んでいるだけ」などと解釈することができます。
 私がこの四行の詞に惚れ込んだのは、悩みと楽しみの優先順位を取り違えて「自ら編み出した不幸」を嘆きたがっている人たちへのクールな眼差しを、シンプルかつ絶妙に表現できていたからでした。
 
 このような発想の転換さえできていれば、今まさに自分が悩んでいる最中であっても「充実した人生の楽しみ」の一環なのだと理解できる。
 そして、人生を楽しむ心さえあれば「幸せな感じ」だって気分次第でいつでも手に入れることができる。
 そんな今すぐ入手可能な「幸せな感じ」の具体例の一つとして提示されたのが、夏の朝のキャッチボールだったのでしょう。
 
 真島昌利が作詞した「幸せになるのには別に誰の許可もいらない」というこの心境を、ヒロトは自分なりに「幸せを手に入れるんじゃない。幸せを感じることのできる心を手に入れるんじゃ」と表現しています。
 つまり、幸せかどうかは外部の状況によって仕方なく決められるものではなく、自分の受け取りかた次第で自在に決められるものだということです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/30/191700
 
 ヒロトの言う「幸せを感じることのできる心」とは「楽しけりゃいい」の精神だと言い換えることもできます。
 このことについてヒロトは何度か言及していますので、その一端を紹介してみましょう。
 
楽しいと思った瞬間がゴールなんだ。
楽しけりゃいいじゃんと思ってる人間が楽しいと思ったら、もうその先はないんだ。
 
楽しけりゃいいんだよってことしかずっと言ってないんだけど、これは本質を煙に巻くためでも何でもなく本当のことなんだ。
それが本質なんだ。
 
 「楽しさこそがゴールであり他のことは本質ではない」「その先に何があるかなんて雑念がこの本質を見失わせる」といった彼らの強烈な信念は、自分なりのやり方でものを考えて始めた大学時代の自分に「これでいいんだ」と背中を押してくれる頼もしい存在でした。
 私が今「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」「その他の雑音はほっとけばいい」という発信をブログでしているのも、彼らの痛快な活動に心底触発されていたから。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/08/23/225811
 
 この地球というテーマパークには、私たちが楽しめるアトラクションがあちこちに転がっています。
 どうせなら自分なりのやり方で「楽しみ」をどんどん生み出していって、その一瞬一瞬をダイナミックに味わっていきたいですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 私が毎週日曜日に更新しているブログ「間違ってもいいから思いっきり」のタイトルに、二週間前から「和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動」という説明をサブタイトルとして付け加えました。
 和太鼓、数学、ブログ全てに共通している私の基本的なスタンスは、「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」「それ以外の雑音はほっとけばいい」といったもの。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/30/074956
 
 私が高校や大学での数学を通じて味わってきたのは、言葉ですっきりと説明できる気持ち良さ。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/13/020400
 そして大学院時代に和太鼓を通じて味わったのは、全身で感じとるタイプの言語以前の気持ち良さ。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/14/063000
 現在私が数学と和太鼓を軸にして生きているのは、ただ単にそれらが私にとって「気持ちのいいもの」だからです。
 
 私が生きる上で一番大事にしているのは「私にとっての気持ち良さ」であり、他人がどれだけ違う価値観を押し付けてこようとも、それはあくまでもその人にとっての個人的な好みに過ぎないので、必要以上に真面目に取り合おうとは思いません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/18/064700
 自分の好みと他人の好みの優先順位を取り違えてしまうことが、全ての不幸の元凶である。
 そのように私は二十代中頃から考え続けてきましたので、意識的に「他人の好み」に合わせ過ぎない生き方を選択してきました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/18/002319
 
 その結果、非常勤講師として私立高校で受験数学を教えながら、関西や九州を拠点に和太鼓など民俗芸能関連の活動をするという現在のライフスタイルにたどり着きました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/20/001000
 そして「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」「それ以外の雑音はほっとけばいい」 という私なりの処世術をつづるこのブログも、私にとっての気持ちいいことの一環です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/02/14/064900 
 
 世の中に「気持ち良ければそれでいい」とか「楽しければそれでいい」と思えない人が多くいるのは、「それ以上に大事なことがあるでしょ」という雑音があちこちに溢れているから。
 ですから、不特定多数の目に触れる可能性があるブログでは特に「そんな雑音はほっとけばいい」という部分を強調して伝えるようにしています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/29/053200
 
 ブログでの主張の核となっているのは、人間社会を動かしているのは煽動力だということ。
 私たち文明人が生きているこの世界は、これまでに行われてきた煽動の積み重ねで成り立っていると言えます。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
  
 「正しさ」というのはそうした煽動のために生まれた武器であり、煽動のためでない「真の正しさ」という次元は最初から存在していません。
 世の中では「それでも真の正しさは存在する」という主張が根強いですが、その主張も「真理」という名の「より強大な煽動兵器」でしかありません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 
 そして、こうした煽動への抵抗力が弱ければ、煽動力の高い勢力の思惑に流され続けて生きることになります。
 それこそが、自分の好みと他人の好みの優先順位を取り違えてしまうということです。
 
 私は自分の好みに従って「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」という生き方を貫いていきます。
 「これこそが正しい生き方だからあなたもそうしなさい」とは私は言いませんが、敢えて自分にとって気持ち良くない生き方を選んで苦しそうにしている人を見ると「そこまで他人の好みを優先しなくても人は十分生きていけるんだよ」と声をかけてたくなっちゃいますね。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/02/10/063900


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
宗教が力を持っていた時代であれば、まだ救いもあったでしょう。
神の教えこそが真理であり、世界であり、すべてだった。
その教えに従ってさえいれば、考えるべき課題も少なかった。
 
しかし宗教は力を失い、いまや神への信仰も形骸化しています。
頼れるものがなにもないまま、誰もが不安に打ち震え、猜疑心に凝り固まっている。
みんな自分のことだけを考えて生きている。
それが現代の社会というものです。
 
 これは、アドラー心理学の啓蒙活動を行っている哲学者岸見一郎とフリーライター古賀史健による共著『嫌われる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教え』に登場する青年の台詞です。
 この本は岸見一郎をモデルとした哲学者と、悩み多き青年との対話という形式で進んでいきます。
 「人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる」というアドラー心理学の教えに対して、青年が反論として述べたのが冒頭に引用した世界観です。
 
 青年が主張する「宗教が力を失ったせいで人々には従うべき確かな基準がなくなり『自分はこれで良いのか』という不安を拭えない人が救われにくくなった」という問題意識自体は特に珍しいものではありません。
 多くの人にとって「何をするかは己の責任で判断すべき」という自己責任の考え方は少々荷が重いもの。
 どんなに時代が変わっていっても、 占い、宗教、科学、スピリチュアル、自己啓発など、自分以上の権威に判断を委ねたいと願ってしまう人々の性分はそれほど変わっていません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/05/23/035700
 
 たとえば、フロイトから精神分析を学び臨床の現場でカウンセリングに携わっていたユングも、現代の心の問題の多くは神話を持たないことによって生じる虚無感や孤独感が一因となっているという問題意識を持っていました。
 「人は何のために生きているのか」という理由を神話の中に見出だすことができた時代は自分の存在意義について思い悩むことは少なかったが、人々の支えとなる神話が単なる迷信として解体されてきた現代ではそうした確信を持つことが難しい。
 そんな問題意識から彼は西洋と東洋それぞれに伝わる神話や伝説などの言い伝えには洋の別に関係なく共通の要素を数多く発見できたことから、人類の心の奥深くには共通した「集合的無意識」が存在するという仮説を編み出します。
 
 「深い部分ではみんな繋がっている」という風に解釈できる集合的無意識の概念は、悩める人々を救うための「失われた神話」の代替物とも呼べるもの。
 ユングの心理学には「グレートマザー」「老賢者」「セルフ」といった神秘的な用語が多用されているためかオカルト的な救いを求めたがる人々には好評で、その分かりやすい方便はカウンセリングの場面でも効果的に機能しています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/05/31/064300
 
 心理学の父と呼ばれるフロイトは「オカルト的な要素を科学に持ち込むべきでない」と、ユングのこうした独自のやり方を否定していました 。
 フロイト自身は「心の問題の根本には必ず性的欲求(リビドー)が関係する」という仮説で無意識の構造を説明し、カウンセリングの場面で効果をあげていましたが、フロイトのこの理論自体も「性欲だけでは人の心理は説明できない」とか「無意識などという実証しようがない概念を科学に持ち込むべきでない」といった批判を受けています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/08/09/092808
 
 このように科学と臨床の2つの顔を持つ心理学では、「その理論は本当に正しいのか」という科学的な厳密さへのこだわりと「どうすれば人は救われるのか」という臨床の場面での効能を求める姿勢との間で食い違うことがしばしばあります。
 二人と同時代に活躍した心理学者のアドラーは、この三人の中でも「どうすれば人は救われるのか」という後者の視点にもっともこだわった人物と言えます。
 『嫌われる勇気』においてもアドラー心理学は「幸せになるための思想」として扱われており、それ自身が科学として厳密であるかどうかという前者の視点にはさほどこだわっていないようです。
 
 つまり、最近流行りの「アドラー心理学」は、科学的に発見された客観的な事実というよりは、人が救われるためにはどうすればいいかという問いに対するアドラーなりの個人的な処方箋だと言えるでしょう。
 まずは『嫌われる勇気』の目次から一部を抜粋して、彼の処方箋の概要を覗いてみたいと思います。
 
トラウマは、存在しない
人は怒りを捏造する
過去に支配されない生き方
あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの
なぜ自分のことが嫌いなのか
すべての悩みは「対人関係の悩み」である
劣等感は、主観的な思い込み
承認欲求を否定する
「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない
「課題の分離」とは何か
対人関係のゴールは「共同体感覚」
なぜ「わたし」にしか関心がないのか
あなたは世界の中心ではない
より大きな共同体の声を聴け
叱ってはいけない、ほめてもいけない
ここに存在しているだけで、価値がある
自己肯定ではなく、自己受容
普通であることの勇気
無意味な人生に「意味」を与えよ
 
 これらの目次を見ても分かるように、アドラー心理学には特別な専門用語がほとんど使われておらず、常識的な範囲の平易な言葉がふんだんに使われています。
 その言葉遣いの分かりやすさのおかげなのか、デール・カーネギー著の『人を動かす』、スティーブ・コヴィー著の『7つの習慣』、リチャード・カールソン著の『小さなことにくよくよするな』など、アドラー思想の要素を採り入れた著書は世界的なヒットとなり、今日に至る自己啓発ブームの礎を築きました。
 
 ギリシャ哲学を専門としていた岸見一郎は、初めてアドラー心理学と出会ったとき、それがギリシャ哲学をルーツとする思想であることに気付き、その幸福論の洞察の深さに感銘を受けて、ギリシャ哲学と平行してアドラー心理学を学ぶことになります。
 アドラー心理学に使われているギリシャ哲学とは、その前提となっている認知論(人は客観的な世界ではなく自分が意味付けした主観的な世界に生きている)や、「どこから」という原因ではなく「どこへ」という目的を問う目的論など。
 
 アドラーに拠れば、トラウマなど過去の経験に現在の症状の原因を見出だすフロイト流の精神分析は、「あらゆる結果の前には原因がある」とする原因論や「現在・未来の私は過去の出来事によって決定済み」とする決定論に繋がるもの。
 そのように原因論や決定論に囚われている限り、現在の症状は過去の経験から生まれる必然としてしか意味付けされず、前に進むための原動力にはならないというのが、フロイトのトラウマ理論に対するアドラーの異議申し立てでした。
 目的論を採るアドラーにとっての心理的症状とは、過去の経験から導き出される仕方のない結果ではなく、己の目的を叶えるために使用される手段でしかなかったのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/08/10/202600
 
 そういった哲学的な観点からアドラー心理学の目的論を支持していた岸見一郎にとって、原因論への囚われや他人を操作したがる欲求を捨てきれない「形だけのアドラー心理学」がアドラー研究者の間で蔓延している状況や、フロイトやユングの陰に隠れてアドラーの功績がほとんど知られていないという日本国内での知名度の低さなどがもどかしかったのでしょう。
 彼は1996年からアドラーの著作の翻訳書を出し始め、1999年からは自分でもアドラー心理学に関する入門書を次々と出していくことで、啓蒙活動を精力的に行っていきます。
 
 そして2013年に古賀史健と共に出版した『嫌われる勇気』がベストセラーになったことで、日本でもようやくアドラーの名前が一般にまで浸透し始めました。
 「心理学の三大巨頭」「自己啓発の源流」といった謳い文句とも相まって、ブームに乗ったアドラー関連の書物が次々と出版されるようになっています。
 
 このブームに乗ってアドラー心理学に手を出す人のうち、どれだけの人が認知論や目的論など岸見一郎の重視する哲学的な観点を理解するかは分かりません。
 薄っぺらな理解で「使えない」と放り出して他の人生指南を求める人や、「今のトレンドはアドラー」とばかりにビジネスライクにつまみ食いするだけの人には、どうでもいい面倒な話として流されていくでしょう。
 
 しかし、中には本当に哲学的な観点から幸せというものを見つめ直して、これ以上他の人生指南に手を出す必要がなくなる人も出てくるはずです。
 ビジネスにおける箔付けや民衆の扇動のためにいい加減に利用されることの多い心理学の世界ですが、どうせなら「それだけじゃないんだよ」と語る専門家の声にしっかりと耳を傾けていきたいものですね。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/07/26/091724


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 「科学の目的は予測と制御であり真理の探究ではない」というのが構造主義者である高田明典の持論です。
 これはつまり、 神のような立場でなければ「なぜ世の中がこうなっているのか」に関する究極の理由なんて知りようがないのだから、神の立場にない私たち人間は「どうすればこの世の中に上手く対応できるのか」に関する実際的な知恵を磨くしかないという、WHYからHOWへの潔いシフトチェンジです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/27/013900
 
 彼の問題意識は、構造主義におけるこうしたシフトチェンジの妥当性が、WHYばかりにこだわる「うぶな人々」には上手く伝わっていないということ。
 彼はそんな「うぶな人々」にも構造主義の妥当性を伝えるため、『構造主義がよ~くわかる本』という著書でこう解説しています。
 
私たちの意識の外の世界に「何らかの実体」「実体物」が存在するという考え方を「実体論」と呼びます。
構造主義は、この「実体論」を採用しないという点で、思考の方法における画期的な一歩を踏み出したと言えます。
 
私たちは、「本当に正しいこと」「絶対的・普遍的な真理」に到達することはできませんし、そもそもそのようなものを求めてはいません。
私たちが求めているのは、ある状態を、別の(好ましい)状態に変化させるための効率的な方法であり、また、ある状態がどのような状態に変化していくのかを予測する効率的な方法であるはずです。
端的に言うならば、この二つの目的以外のものを標榜するものは、科学ではありませんし、科学にはそれ以上のことはできません。
 
 HOWにこだわるこの構造主義の確立に影響を及ぼした人物の一人が、心理学の父と呼ばれるフロイトです。
 フロイトの「人間には自覚できない無意識の領域がある」という発信は様々なジャンルの学問に影響を及ぼしており、無意識という言葉はもはや一般常識レベルにまで浸透しています。
 
 ですが、現代の心理学者の中には、こうして知れ渡るようになったフロイトらの業績が、まるで占いや宗教のように神秘的なシンボルとして扱われていると危惧する人々も大勢います。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/07/26/091724
 心理学者の植木理恵はその著書『本当にわかる心理学』の中で、心理学の扱いに関する現状への違和感をこう表現しています。
 
「抑圧された深層心理」は、他者の目には見えない(なぜなら「深層」なのだから)。
無意識も絶対に観測できない(なぜなら「無」意識なのだから)。
 
したがって、それらのものが本当にあるのかないのかも、科学的にはいまだに謎に包まれたままである。
そしてこれから先も、フロイトたちが提唱してきたさまざまな概念の「実存的な有無」を検証することは、理論上不可能だろう。
 
にもかかわらず、彼らの考え方は150年もの間、世界中の人々から熱心に支持され、研究者のみならず志井の人々の心をもとらえ続けている。
私の観察では、特に女性はこれに心酔する傾向にある。
 
「あなたは、無意識に潜むエゴに苦しめられている」……分析医がそう、厳かに告げれば、多くの女性は(はたから見ていて「エッ?」と思うくらい)、納得し涙する。
不思議である。
 
しかし、私はそういう不確かなことを、真実のように騙ることができないでいる。
心理学の真の意味が誤解されていくのには、もう耐えられないのだ。
 
 彼女のように「無意識を語ること」を避ける態度は、行動主義、認知主義と呼ばれる分野ではむしろ当然のこと。
 ただ、高田明典に言わせれば、無意識とは「実体物」ではなく「説明のための方便」です。
 この両者の違いは「無意識という実体物が存在するかしないか」という根の深い対立ではなく、ただ単に「無意識という方便を積極的に活用したいかどうか」という好みの差に過ぎません。
 
 たとえそれが実体として存在しようがしまいが、方便として役に立つなら遠慮なく語ればいい。
 そのように説く彼は、『構造主義がよ~くわかる本』の中でも、フロイトの提唱した仮説を以下のように擁護しています。
 
誰もが「心」という単語を知っていますし、それを適切に使用できると感じています。
しかし、いったい心とは何なのかと問われると、答えに困る場合が多いでしょう。
 
「心」とは、構成概念です。
構成概念とは、そのような概念によって物事をうまく説明できて、予測や制御を効果的に行うことができるようになるという理由から「仮に置かれるもの」です。
誤解をおそれずに断じてしまうならば、「〈心〉などというものは、どこにも存在しない」と言うことができます。
 
「無意識」も「心」と同様に構成概念です。
フロイトは、問題行動のある人間の行動を予測し制御することを考える過程で、「意識」されない何らかの要素(つまり「意識」の対立概念)を置くと、うまく説明できると考えました。
 
このフロイトの提唱した「構造」が他の分野に大きな影響を与えたのは、多くの分野においてそれまで説明できなかったことを説明しえたということによります。
「説明しえた」というのは、予測もしくは制御の可能性が高かったということです。
 
構造主義は、「有用であること」「予測と制御を行うこと」を求めているのであり、少々汚くても「役に立つ」ことを目指しているというわけです。
その意味で、フロイトが提唱した構造は、画期的であったと考えられます。
批判を恐れずに言えば、心理学に類される研究でフロイトの無意識心理学ほど「役に立った」ものは他には皆無です。
 
 これは「大事なのは真理ではなく役に立つかどうかだ」とする高田明典なりの潔い割り切りの表明です。
 さらに思想家の内田樹は、その著書『寝ながら学べる構造主義』の中で、フロイトの行った精神分析の効用とその目的を以下のようにより具体的に綴っています。
  
精神分析の治療は、ご存じのとおり、被分析者が、分析家に対して、自分自身の心の中を語る、という仕方で進行します。
あらゆる「自分についての物語」がそうであるように、被分析者の語りは、断片的な真実を含んではいますが、本質的には「作り話」に他なりません。
フロイトによれば、精神分析治療は、患者が無意識的に抑圧している心的過程を意識化させることで、症状を消失させることをめざしています。
 
「無意識的なものを意識的なものに移す」というのは、決して「抑圧されていた記憶を甦らせて、真実を明らかにする」ということを意味するのではありません。
病因となっている葛藤が解決されるなら、極端な話、何を思い出そうと構わないのです。
精神分析の使命は、「真相の究明」ではなく、「症候の寛解」だからです。
 
フロイトのヒステリー患者たちが語った過去の性的トラウマのいくぶんかは偽りの記憶でした。
しかし、「偽りの記憶」を思い出すことで症状が消滅すれば、分析は成功なのです。
 
 これは普段から「正しい情報を提供することが人間の世の中を少しでも住みよくする努力に水を差すことになるならば正しい情報なんか豚に食わせろ」と発信している内田樹らしい割り切り方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/08/03/024900
 症状に悩んで相談しにくる被分析者にとって大事なのは症状の改善であって、「本当は何が原因なのか」という真相の究明ではありません。
 もし分析家が「たとえ症状が改善してもその記憶が偽りならば許せない」とこだわる真実バカならば、そんな相手に相談したいという人がどれだけいるでしょうか。
 
 確かに「人間の心には自覚できない無意識の領域がある」というのは科学的に実証された事実ではありません。
 ですが、この考え方を方便として取り入れることで改善した症状は数多くありましたし、他の分野の学問にも大きく貢献しました。
 その意味では、それが実在するかしないかに関わらず、無意識というアイデアはすでにこの現代社会で重要な役割を果たしていると言えるのです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300