間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -5ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

 2013年に少しだけ話題になった「繊細チンピラ」とは、己の不遇な境遇や傷つきやすい繊細な感受性を武器に「幸せな人は幸せそうにしているだけで不幸な私を傷つけるので一生黙っててください」というようなクレームをしらみ潰しに繰り返して他人の言動を封じようとする人のこと。
 この言葉が現れた当時、このネーミングセンスに対して「よくぞ言ってくれた!」と賛同する人も大勢いましたが、それとは逆に「ひどいレッテル貼りがまた一つ増えてしまった」と嘆く人もいました。
http://togech.jp/2013/09/12/3445
 
 私自身は、レッテルはレッテルでも他人の言動を封じようと絡んでくる人を牽制するためのレッテル貼りなら、そんなもの大歓迎に決まってると感じていました。
 他人の言動を封じたがっている人が「私の妨害活動に繊細チンピラというレッテル貼りは邪魔だ」と訴えたところで、そもそもそんな人がやっている「幸せそうに振る舞わせない活動」自体が不愉快ですから願ったり叶ったりでしかなかったのです。
 
 ただ、 発案者の意図とは異なる誤解も生まれているようだと問題視はしていました。
 それは、ただ単に傷つきやすく繊細なだけで他人に絡んだりするわけではない人の中に「傷つきやすい人はチンピラと見なされるの?そんなのひどいレッテル貼りだ!」と、的外れな受け止め方をする人がいたことです。
 
 この問題を思い出すきっかけになったのが、2015年9月26日に放送された「バカリ山里若林と坂上忍の提案型バラエティ よろしくご検討下さい!」というテレビ番組です。
 その番組では、世の中に対して妬み・嫉み・恨み・辛みを抱えた「心の闇4」と呼ばれる出演者たちが、彼ら自身のわがままな要求を「世の中をよくするための提案」として紹介していました。
 
 若林正恭は、コンビニの冷たいドリンク棚の前で選んでいる人や、居酒屋の前で「二次会行く人こっち」などと溜まっている人などに「どけよ!」と思うことが多いことから「腕時計にクラクションをつける」ことを提案。
 バカリズムは、野球部に所属していた男子校時代に「女性がいるかどうか」という共学校との環境の差に大きなハンデを感じたことから「男子校が甲子園に出たら2対0から開始」というルール改定を提案。
 坂上忍は、15歳年下の女性と付き合った時に「あなたと一緒にいるとホント疲れる」と言われて傷ついた体験から、「40代男性に告白した20代女性に手当金を出す」という提案を発表しました。
 
 そして、山里亮太は若者たちがプリクラ撮影時にキス写真を撮っているという傾向を問題視して、「キスプリクラを撮影する時に警告文を表示する」というよく分からない提案をしました。
 その理由はアイドルのキス写真が後に出回るのを避けるためであり、そんな悲劇を予防するためにも「デビューの予定はありませんか?」という警告文が必要だというのです。
 
 しかし、山里のこの主張に他の出演者の同意は得られませんでした。
 キスプリなんて自分達には関係ない話だと割り切るバカリズムは「僕らって大体…、自分の敷地内で何か迷惑だったりとか困ったことがあるから文句だとか言うんですけど…、山ちゃんの提案は自分の敷地ではなく人ん家の芝生に農薬を撒くような提案」とつっこみ、無関係な他人に対して「勝手に幸せになりやがって!」と怒りを燃やして絡みにいく山里とは違うと明確に区別しました。
 
 この山里のように、本来自分に実害はないはずの他人の敷地内の出来事に勝手に傷ついて農薬を撒きにくる人こそ、チンピラと呼ばれるべき存在です。
 ですから、たとえ傷つきやすい繊細な性格であっても、他人に絡みに行かない人は別にチンピラではないのです。
 
 この点を勘違いして、今まさに傷ついている人のところに「お前は繊細チンピラだ」とレッテルをわざわざ貼りに行くのは、ただのがさつなチンピラです。
 それとは別に、「繊細チンピラとはよくぞ言ってくれた」と溜飲を下げている人に対して「繊細な人をチンピラと呼ぶなんてひどい」などと勝手な解釈で絡んでいく人も、まさしく繊細チンピラと呼ばれるべき存在でしょう。
 
 その人がチンピラであるかどうかは、わざわざ他人の敷地にまで絡みに行くかどうかで決まります。
 人に絡む趣味なんてもの、どうか存分に邪魔されてくださいね。
 繊細な人がチンピラなわけではありませんよ。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 2013年に「繊細チンピラ」という言葉が話題になりました。
 この言葉を取り上げて広めたのはライターの小野ほりでい。
 女子二人の会話という形式で面白おかしくウェブサイトで紹介したことをきっかけに、一部の人々の間でスラングとして普及していったのです。
 
 繊細チンピラとはSNSに登場する一種のクレーマー。
 小野ほりでいが例として挙げたのは、テーブルの向かいに異性の姿が入っている料理の写真をアップした女性に対して「あなたの男がいるアピールがめんどくさい」とわざわざ指摘しにくる人。
 また、会社にいくのに化粧をし忘れていたことを呟いた女性に対して「スッピンでもかわいいこととちょっとドジな自分をアピールしている」と口撃する人。
 さらに極端な例としては、ネイルの写真をアップした女性に対して「爪がある自慢はうざい」などと難癖をつけてくる人などが挙げられます。
 
 例には挙がっていませんが、子育て中のタレントがブログにアップする「素敵な日常の風景」に対して、「まだまだ目の離せない赤ちゃんの時期なのに仕事入れ過ぎ、遊び過ぎ、外食し過ぎ」「子どもが欲しくてもできない人の気持ちを少しは考えろ」などと嫉妬まじりのコメントを付けて炎上させる人たちも似たようなものでしょう。
 このような人たちに対する評価を描いた部分を引用してみましょう。
http://togech.jp/2013/09/12/3445
 
この人たちはSNS名物、「自分に欠けている何かを持っていることに無自覚な他人の発言を勝手に自慢と受け取って激昂する人」よ。
何かを持っている人がそれを「あって当たり前」と思って何の気なしにそのことに言及しても、それを持っていない人からしたら自慢や嫌味に見えることがあるのよ。
 
もし誰かが自分に欠けた何かを持っていることが少しも苦しくなかったら誰もそれを得ようと努力しないわ。
苦しみたくなければその何かを得るか、自分の価値観を変える必要があるのよ。
 
でも、その苦しみの解決を自分でなく他人に任せようとすると、「幸せな人は幸せそうにしているだけで不幸な私を傷つけるので一生黙っててください」というようなクレームをしらみ潰しに繰り返すしかなくなるのよ。
 
 小野ほりでいの目的はおそらく、インターネット上で氾濫するこのような不毛なやりとりをばっさりと切り捨てること。
 そのための戦略の一環として、この種の難癖をつけてくる相手を以下のように大々的に名付けます。
 
気付いたかしら?
最近のネット上の「弱い者、持たざる者は強い者、持てる者をいくら攻撃してもよい」という不文律に・・・・。
 
行動が常に監視されている環境下では弱者が最強になるのよ。 誰かにとって有益な行動でも、「傷つくのでやめてください」の一言で止めさせられる。
被害者の立場で居続けるためにみんな弱い部分を曝け出す・・・
 
「傷つくのでやめてください」
の一言で自分の不快なものをこの世からなくそうなんて、暴力と同じなのよ。
だからこういうふうに弱者の立場を利用して意見を通す人に、畏敬の念を込めて”繊細チンピラ”と呼ぶのよ。

繊細な人というのはおおよそ、傷つくポイントが多い人というふうに考えることができるわね。
傷つくポイントが多い、ということを人のために利用すれば、同じくらい繊細な他人が傷つかないように特別に思いやることができるわ。
これは繊細さの良い側面よ。
 
でも逆に、繊細な自分を傷つけないように他人に要求する輩もいるわ。
繊細な人が繊細でない人たちに自分を傷つけないように求めても、何に傷つくかわからない人を気遣う側は大変なのよ。
 
 つまり、繊細チンピラという言葉は、己の傷つきやすさを他人に対する武器に転用して不毛な「傷つきますハラスメント」を仕掛けてくる輩を追い払うために、カウンターとして貼り付けるレッテルなわけです。
 この繊細チンピラたちの心理について、小野ほりでいは以下のような考察を加えています。
 
繊細チンピラはどうして人に絡むと思う?
たとえば・・・
 
ハイキングを楽しんでるだけの人に、「何の当てつけだ」とカラんでる人がいるとするわね。
この人は本当はハイキングをしたいけど、仕事があって行けないのかもしれない。
 
でも、本当に行きたいのなら仕事なんてやめてハイキングに行けばいいわ。
それでも仕事をするのなら自分がそれを選んだということよ。
自分の選択の責任を他の人に負わせることはできないわ。
 
仕事を早く終わらせていればハイキングに行けたかもしれない。
あるいは、今すぐ仕事を放り出せばハイキングに行ける・・・
 
それでもそういう選択肢を取れない自分の怠惰や、勇気のなさに対する怒りを他人にぶつけてしまうのが繊細チンピラなの。
 
怒っている人というのは基本的に、自分の状況を整理できていない人だと憶えておくといいわ。
悲しすぎて受け止められない事実、自分の行動の自己矛盾、考えなければならない分からないややこしい事態に思考回路がショートすると人は怒るの。
 
 こうして小野ほりでいは、繊細チンピラたちがこうした「傷つきますハラスメント」を犯してしまうのは、自分自身の状況を冷静に把握できていないからだと断じます。
 まだまだインターネット内の一部でしか知られていない「繊細チンピラ」ですが、この用語がもっと認知されることによって繊細チンピラたちのキズハラ行為が減っていくことを、私も願っています。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 一般に「がんばって」という言葉には、「不用意に使うのはやめておこう」とためらってしまうようなデリケートな問題があります。
 それは、この言葉を「君はがんばるべきだ」という発言者からの押し付けがましさとして解釈する人や「がんばって」という言葉を目の敵にしている人から、「今でもがんばってるよ!」「がんばればいいのはわかってる!」「何でがんばらないといけないわけ!?」「人を追い詰める言葉を使うな!」などと反感を買ってしまうリスクのことです。
 
 この「がんばって」をめぐる面倒くさい問題は、「そもそも言葉は何のためにあるのか」という目的意識の食い違いから生まれていると思います。
 たとえば私は「効果を生むための道具として言葉は存在している」と認識していますが、巷には「言葉は世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするために存在する」と無邪気に信じている人も数多くいます。
 
 ですから、「がんばって」と言われてしまった生真面目な人は相手がどんな意図だろうと関係なく、「がんばって」という言葉が語っているはずの「正しい意味」とやらを真に受けて腹を立てます。 
 たとえ相手が「励みになるように何か声をかけたい」と思って何気なくかけた言葉だったとしても、「誤解を与えない正しい言葉」を使わなかった相手のほうが悪いというわけです。
 
 しかし、落ち込んでいる人や大変な境遇の人に向けて、「励みになるように何らかの声をかけたい」という気持ちから出てくる「がんばって」だってあるはずです。
 「がんばる」という動詞の命令形としての杓子定規な意味にこだわってしまえば、こうした言葉の「プレゼントとしての側面」を素直に受け止めることはできないでしょう。
 
 言葉に「意図を正確に伝達するための手段であるべき」などと過度な期待をかけてしまわずに、コミュニケーションを立ち上げるための道具の一つに過ぎないと割り切っていれば、「がんばって」と言われたときにも「その言葉が示してはずの辞書的な正しい意味」だけではなく「相手はその言葉を使うことでどんな効果を得ようとしているのか」をくみ取ることができます。
 そこに「励みになるように何か声をかけたい」「相手の気分が良くなるような贈り物をしたい」という気持ちがそこに込められているのなら、私はその気持ちの方を素直に受け取って喜ぼうと思います。
 
 ただこれはあくまでも個人の解釈の問題であって、人がどういう考えを持っているかは一概に判断できせんから、私から言葉をかける際には地雷を踏まないように「がんばって」は使わずにできるだけ他の言葉で自分の意図を表そうとします。
 気軽に「がんばって」と声をかけることができるのは、相手が言葉尻の意味にいちいちこだわらずにこちらの伝えたい気持ちを優先して汲み取ってくれると信頼関係ができているときに限られますね。
 また、相手がどんな人か詳しく知らない場合でも、地雷のリスクを念頭に置いた上で「これだけで誤解されるならそれまでの関係だ」という覚悟さえできれば「がんばって」と言うことができます。
 
 当ブログの目的は「言葉は世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするために存在する」と素朴に信じてしまう記述信仰からの卒業を促し、「効果を生むための道具として言葉は存在している」という言語観を新たな常識に登録しませんかと投げ掛けること。
 もしこの新たな常識が根付いてしまえば、世にはびこる「がんばって狩り」の脅威に怯える必要もなくなるんでしょうね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 以前、当ブログで数学に対する「0.999999…が1になるのは何故か」という疑問への、私なりの決着法を紹介させていただきました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/11/15/234734
 こういった数学への素朴な疑問は他にも代表的なものがいくつかありますが、今回はそれらを一気に解決してみたいと思います。
 これからまとめて片付ける疑問は以下の4つです。
 
①かけ算の順序を逆にしてはいけないのか
②分数で割るとはどういう意味か
③0で割れないのは何故か
④4次元、5次元、……、10次元、11次元、…っていったい何なんだ
 
 これらの疑問はみな「数学は机上のゲームに過ぎない」と割り切ってしまえば、それ以上取り合う必要のない話題です。
 ゲームの中での「正しさ」は最初に取り決めたルールにのみ左右されるもの。
 ですから、そうしたルールの範疇にない「現実世界における意味はどうなんだ」なんて雑音は、ゲームとしての数学にとって最初から気にする必要がない問題なのです。
 
 この明快な言い分には「数学がただの机上のゲームならそんなものは学校で教える必要がないはずだから『現実においてはどんな意味があるのか』という視点は欠かしてはいけない」という反論が想定できます。
 この立場から数学を捉えてみると、数学の成すべき使命は現実世界に則した役立つ知識を産み出すことであり、単なる机上のゲームなんかに甘んじていてはいけないということになるでしょうか。
 
 それに対するゲーム数学側の言い分は、数学にとっての現実とは論理的なゲームを作るための単なる参考資料でしかないということになるでしょう。
 ゲーム数学の主な目的は理路整然としたゲームを構築することでしかありませんが、そんなゲーム数学からも現実に役に立つ知識が「副産物」として生まれることがあります。
 そして、そんな「副産物」たちが現実世界のあちこちで重宝されているからこそ、数学は学校教育で伝えられているわけです。
 
 つまり、ゲーム数学の立場から見た現実世界は決して従うべき上位概念ではなく、求められれば応えてあげても良いという程度の「お客さんの一人」でしかありません。
 「数学の言っていることを現実世界にどう当てはめられるか」という問題は、数学の世界で造られたモデルを現実世界に有効活用したいと望む第三者が勝手に悩んでいればいい話で、そもそもゲーム数学の側にとっては現実での意味なんて本質でも何でもないのです。
 
 ですから、一番目の「かけ算の順序を逆にしてはいけないのか」というのはゲーム数学の側から見れば相手にする必要のない話題であり、数学という抽象ゲームの中では「逆にしていいに決まってる」という結論にしかなりません。
 順序にこだわって「逆にしてはいけない」とごねている人は、「かけ算の順序は(一つ分の数)×(いくつ分の数)でなければならない」とするよそでは通用しないローカルルールへの従順さを査定したがっているだけ。
 世間で通用している計算のルールを純粋に伝えることよりも、教える側と教えられる側のローカルな上下関係を崩さないことの方が大事なんでしょう。
 
 二番目の「分数で割るとはどういう意味か」も三番目の「0で割れないのは何故か」も、小学校でわり算の計算をどうやって学んだかを思い出せば簡単に解決できます。
 たとえば「12÷3」の計算は「3に何をかければ12になるか」という風に九九の逆として教わっているはずです。
 つまり、わり算のそもそものルールとは「現実世界での等分の仕方」ではなく「かけ算の逆当てゲーム」に過ぎないのです。
 
 そう考えれば、「分数で割るとはどういうことか」と哲学的に悩まずとも、単なるかけ算の逆当てゲームとして割り切ってしまえば「ゲームを成り立たせるためには、分数のわり算は逆数のかけ算に直せばよいし、理由なんてそれだけで良い」と開き直ることができます。
 さらに「0で割れないのは何故か」という疑問も、ただ単に「0での割り算をかけ算の逆あてゲームで考えると答えが見つからなくなるから」と説明することができます。
 
 四番目の「4次元、5次元、……、10次元、11次元、…っていったい何なんだ」という疑問への回答も同様です。
 数学で言う「次元」というのは、ただ単に「数をいくつ並べるか」というだけの話であり、4つの数を並べれば4次元、10個の数を並べれば10次元ということに過ぎないんです。
 「現実世界で言うと、1次元は直線を表し、2次元は縦横の平面を表し、3次元は縦横高さのある空間を表す、それなら4次元の4つ目の軸は何か、10次元の10個の軸は何か」なんてことは、数学を利用したい自然科学者たちが悩めばいいことで、机上の理論や計算に打ち込んでいればいいゲーム数学の側の問題ではないのです。
 
 数学という机上のゲームに対して「現実での意味」を必要以上に教え込もうとする大人たちの姿勢を見ていると、「白か黒かをはっきりさせられる数学のようにこの世の真理も理性で見出だされるはず」という近代社会のドグマを植え付けるために、ゲームと現実の区別をわざと曖昧にしているのではないかと疑ってしまいたくなります。
 そんなインチキ宣教師たちの洗脳的な布教活動は放っておいて、いさぎよく「数学は机上のゲームに過ぎない」と割り切ってしまいませんか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 教師として高校生に数学を教えつつ、プライベートで和太鼓を教えることもある私の指導上のこだわりは、曖昧な精神論に逃げずにできるだけ具体的な解説を目指すこと。
 この方針に従って、いつのころからか数学の計算ミスに関しても「気を付けろ」「よく見直せ」「ミスの重大さを肝に命じろ」といったありきたりな精神論以外の手法を伝えるようになりました。
 
 その方法とは、計算式を書きながら眼球を小刻みに動かし続けること。
 数学の問題では計算を進めるごとに何行も式を続けていくことがよくありますが、一つの式を書き上げるまでにの間に、今書いている式とその直前の式とを何度も見比べる習慣を身に付ければ、計算ミスは自然と減っていきます。
 
 この手法で計算ミスが減るのは、高校数学における計算ミスでもっとも多いのが単純な「書き写しミス」だから。
 前の式から次の式にうつるときにプラスとマイナスを写し間違える、数字が全然違うものに変わっている、xやtやaなど文字が別物に刷り変わっているなど、答えに至るまでの途中式が長くなるごとにこうした書き写しミスの出現頻度も増えていきます。
 
 やってしまった書き写しミスを修正するためには、自分の犯したミスに気付けないといけません。
 ですが、そもそも「書き写しミスはよく起こるもの」という認識を持っていなければ、自分に対して「書き写しミスをやってしまっているかも」という疑いの目を持てませんから、ミスの発見率は絶望的に低くなります。
 
 逆に「書き写しミスはよく起こるもの」という常識さえ身に付けていれば、一行書くごとに新たなミスは起こっているのかもしれないのですから、今書いている式とその直前の式とを見比べるなんてことは極々当たり前の話です。 
 仮に一行書くごとに視線の往復を5回しているとしたら、問題文から十行の途中式を書くまでに、50回はこの小刻みな眼球運動を繰り返していることになります。
 このように数十回の眼球運動を当たり前の癖のように修得してしまえば、後から見直すよりも時間がかかりませんし、計算ミスの発見率も飛躍的に向上します。
  
 大変面倒な作業に感じるかもしれませんが、計算ミスは「次の行に移るまでほんのわずかな時間しかないのにまさか間違えているはずがない」という己の記憶力への過信から生まれます。
 この手法自体も「さっさと先に解き進めていきたいけど、必ず起こるミスを無駄に見逃して、不安まじりの見直し作業を後に残したくない」という私自身のせっかちな性分から自然と生まれた、時間短縮のための工夫です。
 
 一朝一夕には身に付かないテクニックですが、高校1年の早い時期から意識して練習していけば、大学受験までには確固たる技術へと昇華させることができます。
 数学のペーパーテストを受ける必要がある方は、これから試してみてはいかがでしょうか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 数学教師という肩書きを持っていると、ときどき聴かれるのが「0.999999…が1になるのは何故か」という質問です。
 この疑問に対するもっともありふれた回答は以下のようなものです。
 
1÷3=0.3333333…
1÷3×3=0.333333…×3
1=0.999999…
 
 他にも、極限という高校・大学で習う概念を用いたより厳密な説明がありますが、そういった説明を一通り理解した上で「それでもその説明はおかしい」と判断している方もいらっしゃいます。
 そこで今回は、この疑問を解消するために用意している、私なりの説明を文章化してみたいと思います。 
 この問題に対する私の個人的な見解はこうです。
 
問題の原因は「=(イコール)」という記号の意味をめぐる「最初の取り決め」の食い違いにある。
数学では「0.999999…と9を果てしなく続けていくと1にどこまでも近付いていく」といった文意を「0.999999…=1」のように書き表す「ルール」があるというだけのこと。
 
実は数学には二種類のイコールがあり、ここで使われているイコールは「左右の二つの数が互いに等しい」という意味で使われる一般的なイコールではなく、「左の作業を果てしなく続けていくと右の数にどこまでも近付いていく」という意味を持つ極限のイコールである。 
「0.999999…」というのも「何か特定の数」を指す記号ではなく、「9を果てしなく続けていく」という「作業」を表す記号でしかない。
 
つまり、「0.999999…が1になるのは何故か」といった疑問が生じるのは「左右の二つの数が互いに等しい」という一般的な意味でしかイコールを捉えていないから。
「数学の世界では通常のイコールと極限のイコールとが共存している」という知識さえあれば、「0.999999…=1」はただ単に「0.999999…と9を果てしなく続けていくと1にどこまでも近付いていく」という事実をルール通りに書き表しているだけなので、不思議でもなんでもなくなる。

 ここで私が最初に「個人的な見解」と断ったのは、数学の世界での「立場に左右されない統一的な見解」が、この件に関しては定まっていないからです。
 白か黒かがすべてはっきりしているように見える数学の世界にも、実は「右翼と左翼のいがみ合い」のようなイデオロギー的対立があるんです。
 それが、無限という概念をめぐる「実無限派」と「可能無限派」との対立です。
 
 この対立について、今回の例に則して大雑把に説明してみると、「0.9+0.09+0.009+0.0009+0.00009+0.000009+…という果てしない作業を想定することはできるが、そのような終わらない計算の結果なんて定まった数として取り扱うことはできない」と考えるのが可能無限派であり、「無限に続く計算の収束先は一つの数として取り扱うことができるので0.999999…はちゃんとした数だと見なしてよい」と考えるのが実無限派だと言うことができるでしょう。
 中学、高校、大学などでも教えられている現代数学の主流はこの実無限の考え方ですが、ギリシャ哲学の時代から数千年間の主流はむしろ可能無限の考え方であり、実無限派が巻き返してきたのは近現代のたかだか数百年でしかありません。
 
 この実無限と可能無限の問題については、野矢茂樹という哲学者が『無限論の教室』という著書で丁寧に説明しています。
 その中に、実無限と可能無限の違いが分かる、シンプルな喩えがいくつか提示されていたので紹介してみましょう。
 
 一つ目の喩えは彫刻です。
 与えられた木材から彫れる作品の形は、人、動物、植物、無機物、仏など、ありとあらゆる可能性があります。
 木材には、こうした無数の可能性が彫られる前の時点からあらかじめ内臓されており、彫刻家はその膨大な選択肢からどれか一つを選んでいるだけなんだと、神の視座に立って解釈するのが実無限的な発想です。
 一方、可能無限的な考え方では、彫刻家は木材をありとあらゆる形に彫っていくことができるが、別にその可能性が最初から選択肢として木材にインプットされていたわけではないと捉えます。
 
 この可能無限の考え方によると「無数の点が集まって直線ができている」という、中学、高校で教わる実無限的な知識も明確に否定されます。
 そのことを端的に説明している、野矢茂樹の二つ目の比喩を紹介しましょう。
 
 まず、果てしなく長い羊羮を想像し、これを数がびっしりと並んだ数直線だと見なします。
 さらに、この羊羮をカットする行為を想定し、このときにできる切れ目を一つ一つの数、つまり点と見なします。
 そうすると、実無限的に「無数の点が集まって直線ができている」と考えたのでは辻褄の合わない事例が出てきます。
 
 実無限的な「点が集まって線になる」という考え方を羊羮の喩えに当てはめると、「羊羮の切れ目を無数に集めれば羊羮ができあがる」ということになります。
 ですが、切れ目はあくまでも切れ目でしかなく羊羮そのものではないので、いくら集めたって羊羮にはならないでしょう。
 少しでも厚みのある羊羮のかけらを集めなければ羊羮にはならないのと同じように、長さのない点ではなく少しでも長さをもった線のかけらを集めなければ直線になんてなるはずがないのです。
 
 一方、可能無限的な考え方であれば、この羊羮の喩えには何の矛盾も生じません。
 「直線からは無数の点を一つ一つ見つけ出していくことはできるが、だからといって無数の点から直線ができているわけではない」というのが可能無限の考え方。
 これならば「羊羮に無数の切れ目を一つ一つ付けていくことはできるが、だからといって無数の切れ目から羊羮ができているわけではない」と、羊羮に置き換えても自然な解釈が成り立ちます。
 
 このように、羊羮は厚みの全くない切れ目の集まりでできており、木材にはどんな形の彫刻も最初からインプットされており、終わりもしない計算の結果を普通の数として扱っても構わないとする独特の信仰こそが、現代に流通している数学で主に採用されている実無限の考え方です。
 なぜ可能無限ではなく実無限の方が採用されているかというと、実無限の考えを使った方が数学者の気に入るような「すっきりと辻褄の合う理論」をいろいろと作りやすかったから。
 「そう考えてしまっても本当に大丈夫なのか」としつこくこだわる哲学者と違って、ゲームとしての計算や証明が大好きな数学者は「綺麗なゲームが成り立ってくれれば嬉しい」というプレイヤーとしての気持ちの方が強いのでしょう。
 
 そんなわけで、可能無限に近い自然な考え方にこだわるタイプの人は、「0.999999…が1と同じだなんておかしい」という違和感を主張し続けます。
 それに対して、実無限的な現代数学のお約束を素直に「決まり事」として飲み込んでいる人は、0.999999…や0.333333…や無理数など「果てしない作業を前提とする概念」を通常の数として扱う説明に何の違和感もありません。
 数学好きが高じて「実無限を是とする今風の数学」に染まりきっている人の中には、違和感を表明する人に対して「分かってない」と正しにかかろうとする人さえいます。
 
 そういう私自身は、可能無限を是とする伝統的かつ哲学的な数学観に共感していますが、一方では実無限的な方便を用いた今風な数学ゲームを楽しみたいとも思っている人間です。
 そこで思い付いたのが、冒頭で紹介した「イコールには二種類の意味があり、互いに矛盾なく共存している」という考え方です。
 
 可能無限的な考えをする人が実無限的な数学に違和感を覚えるのは、イコールのことを「二つの数が互いに等しい」という一般的な意味に留めているから。
 ですが、イコールという記号は一般的な意味以外にも「左に記した作業を果てしなく続けていくと右の数にどこまでも近付いていく」という極限の意味にも使われるんだと割り切ってしまえれば、可能無限的な視点からも比較的納得しやすいかと思います。
 さらに、実無限の立場で書かれた高校や大学の教科書を見ても、極限の定義を真摯に読めば「片方がもう片方に近付いていくことを示す別物の記号」として解釈できることが分かります。
 
 この経緯を踏まえた上で、私自身は「数学の世界では通常のイコールと極限のイコールとが共存している」という見解に至りました。
 根本的に立場が違う人とは決して解り合えないかもしれませんが、物事を上手く運ぶための現実的な妥協が許容できる人には、なかなかおすすめな方法だと思いますよ。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

 私にとって、和太鼓とはただの娯楽。
 和太鼓に取り組む際の最優先事項は「純粋に娯楽としての楽しさを追求する」という一点であり、それ以外の「和太鼓の意義」なんてものはオマケで付いてくる副産物でしかないと捉えています。
 
 ですから、私が好むのも「観ていて楽しさや気持ちよさを感じる太鼓」であり、「熱心に練習して統制されてはいるけれど観ていてちっとも楽しくない太鼓」や「キツい運動に耐えている様をこれ見よがしにアピールして『感心しろ』と圧迫してくるような太鼓」には全く興味が湧きません。
 現代の創作和太鼓よりも全国各地に伝わっている民俗芸能の方が気に入ってしまいがちなのも、別に「伝統が大事だ」と教条的に信じこんでいるからではなく、それらを観ていれば「数百年も飽きずに受け継いでこられるほど面白みのある娯楽なんだな」と納得がいくからです。
 
 そんな民俗芸能の味わい深さを私に教えてくれたのが、長野を拠点に活動する歌舞劇団田楽座です。
 田楽座を通じて学んだ太鼓やお囃子や踊りなど民俗芸能の楽しみを地元福岡でも広くシェアしていきたいと思って、「にぎわい祭」という和太鼓チームによる合同イベントを2007年に立ち上げました。
 
 にぎわい祭は、実行委員会形式で毎年バトンを繋いできており、2015年11月21日で第9回を迎えます。
 今回の目玉は、長野からお招きした田楽座によるミニ公演。
 また、福岡の和太鼓チームによる10曲以上の合同演奏も披露されます。
 
 その中で私は「寄せ囃子」という田楽座から教わった曲の演出を任されており、老若男女による楽しさが伝わるような演奏を目指して練習会を重ねています。
 この「寄せ囃子」は、初心者への指導にも活用されているシンプルな曲で、同じリズムを6回ずつ繰り返したりと、下手をすると単調になりがちな曲でもあります。
 そんなわけで、以下のようなメッセージを投げかけて、楽しさを見失わないようにアドバイスしています。
 
寄せ囃子を演奏するにあたって一番大事なことは「人を集めるための賑やかしとして演奏される曲」だということです。
「人を寄せる」「囃したてる」という言葉から読み取れるように、この曲のキーワードはコミュニケーション。
だから「コミュニケーションが楽しくなるための工夫」がそのまま寄せ囃子を豊かにするための工夫となります。
そのためのこだわりをいくつか紹介してみましょう。
 
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
 
どうです?
同じことの繰り返しに6回もつき合わされたらウンザリするでしょ?
どんなに振り付けを決めてかけ声を揃えようと、全く同じことを何度も繰り返されたら見ている方としては退屈でたまらんのです。
 
じゃあ6種類の動作のパターンを考えて、その順番を決めて完璧になるまで練習すれば良いのかというとそれも違います。
コミュニケーションっていうのは相手があって初めて立ち上がるものですから、相手によってそのコミュニケーションのやりようは変わるはず。
 
また、相手だけじゃなく、時や場所やその時々のコンディションによっても、コミュニケーションの取り方は変わるはず。
相手が誰だろうといつでもどこでも同じパターンをなぞるだけなんて、やり取りをする相手に対して失礼極まりないと思いません?
そこにいるみんなとのコミュニケーションというナマモノを取り扱ってるんですから!
 
前振りが長くなりましたが、この課題をクリアするための具体的な解決法の1つは【いろんな相手とコミュニケーションをしっかり取る】です!
 
「右隣の打ち手と対話しながら」
「左隣の打ち手と対話しながら」
「近づいてきてくれた囃し手と対話しながら」
「後ろにいる囃し手と対話しながら」
「打っている太鼓の皮と対話しながら」
「操作しているバチの弾みと対話しながら」
「自分自身の体の動きと対話しながら」
「内なる自分と対話しながら」
「天井または大空またはさらにその先の宇宙と対話しながら」
「今自分のいる空間そのものと対話しながら」
「見てくれてる知人と対話しながら」
「目の前で楽しそうに見てくれているお子さんと対話しながら」
「お囃子を楽しんでくれてる見知らぬお客さんと対話しながら」
 
その場にいる全ての者にフォーカスを当ててコミュニケーションをとるには、6回では全然足りないはず。
そう考えれば「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」なんて簡単なことでしょ?
 
そしてコミュニケーションを取ろうとする相手を変えていけば必然的にその動作も変わっていくはずなんです。
決して見た目の動作中心に練習するのではなく、内面から湧き上がってくるものを真ん中において、それに付随するように動きを付けていって欲しいです。
一応動作のヒントとなりそうな具体例もいくつか挙げてみますね。
 
「右側を向きながら」
「左側を向きながら」
「正面の人と目を合わせながら」
「後ろを振り向きながら」
「何もない中空を見つめながら」
「目を閉じながら」
「低く小さく体をまとめながら」
「大きく伸び上がりながら」
「周りに手を差し伸べながら」
「太鼓のふちを軽快に打ち鳴らしながら」
「目的の方向に歩み寄りながら」
「バネのように弾みながら」
「思いっきり飛び跳ねながら」
「重力と慣性に身を任せながら」
「ときには静止も取り入れながら」
 
いろいろ書き上げましたが、くれぐれも動作のバリエーションをコレクションするだけの動作マニアにはならないようにしてださいね。
あくまでも「内面を表すための動作」「コミュニケーションのための動作」であって、「動作のための動作」ではないのです。
「動作のための動作」を見せびらかして悦に入るだけのつまらない打ち手にはならないようにお気をつけください。
 
 ここで書いた内容は、単に寄せ囃子だけのコツに留まりません。
 和太鼓を人にパフォーマンスとプライドと我を見せ付けるための道具ととらえるのか、それを通じて人と繋がっていくためのコミュニケーションツールととらえるのか。
 その根本的な前提の違いが、この寄せ囃子についての要望に端的に現れているんです。
 
 「己の凄いところを見せ付けたがるだけの格好つけた人達」よりも、私は「楽しさを思いっきり共感させてくれる凄いパワーの人達」の方が断然好き。
 だから全国に数多とあるどんな太鼓グループよりも、田楽座のことが大好きなんです。
 そんなパッションあふれるにぎわい祭に、あなたも是非足を運んでみませんか。

2015年11月21日(土)
福岡県糟屋郡久山町 『第9回にぎわい祭り 見合って笑って囃しあおう~囃して実るは笑顔の輪~』
場所:レスポアール久山
開場 12:30 開演 13:00
おとな 1500円 学生 1000円 小学生 700円 (当日300円増)


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300


世界一怪しく胡散臭いですが
世界一安全で幸せな場所を目指します
 
 これは田島隆の「タンバリン教」というステージに込められた想い。
 彼は、世界中の様々なタンバリンに精通するタンバリン博士であると同時に、タンバリンの演奏や指導を生業とするタンバリン奏者でもあります。
http://www.tazy.jp/
 
 タンバリン博士としてタンバリンについて解説するときの彼は、葉加瀬太郎や茂木健一郎のように明るくフレンドリーな和み系。
 しかし、自作タンバリン「タジバリン」で演奏するときの彼は、2オクターブの音域でメロディを奏でたり、ドラムセットの音色までタンバリンのみで表現するという、驚異のパフォーマンスを魅せます。
http://www.youtube.com/watch?v=G2ulY2aBPWg
 
 それだけでも十分にインパクトのある彼が、万を持して企画したステージがこの「タンバリン教」です。
 ホームページでの紹介文はこちら。
 
タンバリン奏者による、タンバリンのための、タンバリンづくしな夜をお届けします!!!
世界各国のタンバリンやオリジナルのタンバリンの紹介や演奏、タンバリンクイズやリズム遊び、そして最後はタンバリン教の教祖が登場してタンバリンの儀式が行われます。
公演終了後は名物と化した撮影会も実施!
ご利益のあるタンバリン教オリジナルグッズ(タンバリンのお守り、タンバリン御札、タンバリンおみくじ、etc)の販売もあります。
終始タンバリンづくしにあなたは耐えられるか?
 
 私はこのコミカルなPR文だけでもついつい惹かれてしまいましたが、彼がこの作品を作った動機を知ってからは「絶対に見なければ!」という気持ちにかわりました。
 Facebookで語られていたその動機を、引用して紹介してみましょう。
 
この演目をするきっかけになったのは4年前の元旦に遡ります。
 
私はそれまで初詣とか殆ど行ったりしなかったんですが
その日ある神社に行った時、それはもう凄い人集りで・・
 
なかなか前に行けないので後ろからお金を投げる人
逸れないよう子供の手をシッカリ握ってくぐり抜ける親子
お守りとかのグッズ売場を見ると、我先にと競い合うように・・・
 
神社で人の欲の大塊が見えた
神様の居る所で人々が互いを押し退けあっていた
 
幸せをつかみたい人
元旦というイベントを満喫したい人
いろんな人の欲している事柄が理解できて
 
そんなに幸せになりたいなら
そんなに楽しみたいなら
私も何かやってあげようと思いました。
神様になろうと・・(笑)
 
それからしばらくいろんな人を見たり、リサーチの時期が続きました。
 
すると、世の中の殆どが等身大ではない事がわかりました。
 
沢山作るためにいろんな工夫
良く見せるためにいろんな工夫
 
それがいつのまにか
 
不自然な物を自然とアナウンスしている
偽物なのに本物とアナウンスしている
食物も着物も人も音楽も仕事もすべて
 
しかも、それに薄々気づいているけど
安全なんて
本物なんて
どこにもないと諦めて
 
なんだか自然にそこを見ないようにしていた。
 
若い頃、緒先輩方に言われた事
 
「人々は安心を求めてんだよ。
ジャズなのか
ロックなのか
クラシックなのか
分からないと安心できないだろ?
分からないから、ほら、人を呼べないだろ?
だからお前の演ってる事は間違ってる!」
 
でも今は「本物」とアナウンスしてるのに安心できない世の中になってしまった。
 
だったら全部ひっくり返してみようと思って・・・
 
「私は胡散臭いです」
「全部フィクションでインチキです」
とアナウンスし
誰でも解るくらいに嘘つきのクオリティを下げる
 
そうするだけで、そこが世の中で唯一の安全な場所となる事に気がついた。
 
そして、一番それがマッチするのが宗教だと思いついて(笑)
 
そこでは私は常に皆さんをダマし、イジり、低レベルを保ちつつ笑わせ続けます。
 
ただ、演奏は真剣にやります。
そして真剣にふざけます。
 
皆さん自身で騙される事を気軽に経験し
そのメカニズムや精神的影響などを感じてみる。
 
えらい人やネットとかではなく、自身の力で簡単にしっかり判断する事をバーチャル体験できる唯一の場所だと自負してます。
 
まずは騙される楽しさを味わってみませんか?(笑)
 
“世界一怪しく胡散臭いですが世界一安全で幸せな場所を目指します”
 
 この文章を読んで私が感動したのは、彼が「身近なところから自分なりのやり方でこの世を住み良くしようと努力を重ねている人」なんだと確信できたから。
 同じ志を持つ仲間と出会えたような衝撃を感じたのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/10/04/235750
 
 そんなわけで、私は彼の造り出す世界観をすぐにでも体験してみたいのですが、11月7日に開催される関西での初演はすでに完売していてキャンセル待ち状態だったので、1月11日の追加公演を観に行く予定です。
 是非あなたも、彼が立ち上げる「気分のいい世界」を体験してみませんか。
 
 
■ タンバリン教 Xmas 特別企画!!! @名古屋
 
~タンバリン的クリスマス~
 
♪教祖が街にやってくる♪
 
日時:12月20日(日) open 13:30 start 14:00
拝感料:ご予約 2000円 当日 2500円
場所:スペースたのしい
http://tanoshii.petit.cc/
〒462-0847 名古屋市北区金城3-12-9 グランシャリオ城見2F
TEL:080-9483-3912(たのしい専用携帯)
 
ご予約はこちら
https://reserva.be/jollyjolly
よりお願いいたします。
 
主催:Happy Beat http://www.happybeat758.com/email : happybeat@ymail.com
 
 
■ タンバリン教 2015 新年 特別編!!! @大阪
 
~タンバリン的初詣~
 
♪神社もイイけどタンバリン教もね♪
 
日時:2016年1月11日(月•祝) open 19:30 start 20:00
拝感料:ご予約 大人2000 円 学生1500円 小学生以下無料 当日 一律2500円 ( 1ドリンクオーダーをお願いします)
場所:common cafe
大阪市北区中崎西1-1-6 吉村ビルB1F
 
ご予約はこちら
http://www.tazy.jp/111.html
 日本各地のお祭りで使われていた和太鼓という楽器が、舞台演奏の場で頻繁に使われるようになったのは昭和の中期ごろから。
 地方に受け継がれてきたお祭りの太鼓や和太鼓だけで構成された創作曲などが、プロの劇団や和太鼓集団の舞台に取り入れられました。
 そうした流れに触発されるように、祭りではなく舞台で演奏するために和太鼓にはげむアマチュアチームも増えていきました。
 
 全国各地に伝わる民俗芸能にとって、この一連の和太鼓ブームはメリットにもデメリットにもなりました。
 地方の郷土芸能でしかなかったものがブームを通じて全国の和太鼓フリークに知られ、敬意とともに広く評価されるようになったこと自体は大きなメリットです。
 ですが、よそ者による余計なアレンジや稚拙な劣化コピーによって、本家本元とは全く違う紛い物があたかも正統派のようなふりをして出回るという凶悪なデメリットも発生しました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/05/10/000016
 
 こうした嘆かわしい事態を問題視し、地元以外の人々にも自分たちの民俗芸能をきちんと伝えていこうとする動きも各地に増えてきました。
 彼らは外部への講習会を積極的に開催し、これまで歪んだ形で広められてきた地元の大切な共有財産を、自分たちの手で守ろうとしているのです。
 
【三宅島木遣太鼓の場合】
http://www.kiyaridaiko.com/kyoryoku.html  
【秩父屋台囃子の場合】
http://blog.goo.ne.jp/moriyayasuyuki/e/8257f19f131d87e0663c57fbfef2ea5d
 
【水口囃子の場合】
http://www.eonet.ne.jp/~minakuchi-sousha/newpage1.htm
 
 土地に根差した民俗芸能を見識の浅いよそ者が真似しようとする場合、そのパフォーマンスが劣化コピーになってしまうこと自体は、よそ者がやっている以上仕方のないことかも知れません。
 ですが、「地元の芸能を舞台でそのままやってもそれほど面白くならない」という浅はかな判断で、地元の方々が「こんなのは私たちの愛する芸能じゃない」と嘆くレベルにまで変更を加えた上で、それでも各地の民俗芸能の名を堂々と騙るというのはもはや倫理観の問題です。
 
 舞台を面白くするためにとそうした倫理をないがしろにするプロ集団も多い中、長野を拠点に活動する歌舞劇団田楽座は「芸能を大切に伝承している地元の方々の気持ちを踏みにじらない」という倫理観を大事にしながらも、エンターテインメント性豊かなステージを実現している稀有な集団です。
 彼らは各地の民俗芸能の担い手たちに直々に弟子入りし、その芸能を舞台に上げてもよいというお墨付きをきちんといただいています。
 教わった地元の師から「現地でやっているものしか地名を冠することはできないから、演奏はしてもいいけど地名を冠しないでほしい」と言われれば、その約束を厳守していきます。
 
 各地で大切に伝えられてきた民俗芸能をエンターテインメント性優先で大幅に改変してしまうプロ集団が多い中、地元を悲しませるような手段を自制している田楽座のステージがそれでもつまらなくならないのは、素材本来の持ち味を信じて最大限に活かそうとしているから。
 田楽座の舞台を観れば、日本に伝わってきた民俗芸能の魅力そのものと、その日本ならではの魅力を真摯に伝えようと身を賭している田楽座員たちの魅力とを、両方感じることができますよ。

【田楽座の公演情報】
http://www.dengakuza.com/

2015年11月3日(祝)
長野県松川町 『歌舞劇団田楽座 和 in 』
場所:信州まし野ワイナリー
開場 18:00 開演 18:30
おとな 3500円 子ども 1000円
「まし野ワインを飲みながら田楽座&ジャズナイトをお楽しみください。限定60名!」

2015年11月14日(土)
石川県津幡町 『伝統芸能を受け継いで』
場所:津幡町立刈安小学校
開場 13:30 開演 14:00
一般 2000円 子ども 500円

2015年11月21日(土)
福岡県糟屋郡久山町 『第9回にぎわい祭り』
場所:レスポアール久山
開場 12:30 開演 13:00
おとな 1500円 学生 1000円 小学生 700円 (当日300円増)
「福岡の太鼓団体10チームによる合同演奏会。田楽座もゲスト出演!」

2016年1月16日(土)
群馬県前橋市 『田楽座50周年記念作品 まつり芸能楽 信濃』
場所:前橋テルサ
昼公演 開場 13:00 開演 13:30
夜公演 開場 17:30 開演 18:00
一般 3500円 小学生~大学生・障がい者・70歳以上 2000円(当日500円増)

2016年1月31日(日)
愛知県稲沢市 『日本の心 故郷にひびけ』
場所:名古屋文理大学フォーラム(稲沢市民会館)
開場 13:00 開演 13:30
おとな 2500円 小学生・中学生 1000円

2016年2月28日(日)
奈良県磯城群田原本町 『田楽座らいぶin奈良』
場所:弥生の里ホール
開場 15:30 開演 16:00
おとな 2800円 学生 1500円 おとなペア2名 5000円 (当日500円増)
「日本のさまざまな芸能を目と鼻の先で体験できます!臨場感あふれるお祭りの場をお楽しみください。限定330名!」


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

 「日本の民俗芸能がいかに心踊る文化であるか」を舞台や講座などを通じて全国に伝えている歌舞劇団田楽座は、私にとっての心の師です。
 これまで私が田楽座から学んできたものは、和太鼓や踊りなどの芸能、その中で培われてきた自然な身体操作のコツ、そして「後世に大事なものを遺していこう」とする芸能の担い手たちの心意気などです。
 
 田楽座の言葉やそのふるまいから学んできた芸能の担い手としての精神性を、私なりの言葉で表現すると「抱え込むな、パスを出せ」ということに尽きます。
 全国各地の民俗芸能の担い手たちに今も師事している田楽座は、「自分のもらいを増やすこと」よりも「自分が受けてきた文化の恩恵を次の人々に引き継いでいくこと」を優先する伝承者としての精神性を身をもって体言しています。
 
 1964年から51年間活動を続けてきた田楽座は、地元に芸能を持たないような人にもそのエッセンスが少しでも感じられるようにと、「太鼓ばやし」「寄せ囃子」「海のお囃子」「海の太鼓」「山のお囃子」など、和のテイスト豊かな曲をいくつも創作し、全国の和太鼓チームの共有財産として提供してきました。
 その中でももっとも古い曲であろう「太鼓ばやし」は、今では全国の幼稚園・保育園・小学校にまで広く普及しています。
 
 しかし、田楽座と出会ってからの13年間で「太鼓ばやし」の講座は一度も開かれなかったので、私には「太鼓ばやし」についての知識がほとんどありませんでした。
 今年になって「再起動・太鼓ばやし」という講座が田楽座によって開かれたので、そこで初めて太鼓ばやしについての公式見解を知ることができた次第です。
 
 そんな「太鼓ばやし」にまつわる経緯や思い入れなどが田楽座が発行している会報に詳しく書かれており、そこには「抱え込むな、パスを出せ」を地で行く田楽座の普段からのスタンスがにじみ出ていました。 
 以下に引用して紹介しますので、占有より共有を優先する人々のこだわりを是非感じとってみてください。
 
【なぜ今「太鼓ばやし」なのか?】
 
●「太鼓ばやし」はどうして生まれたの?
田楽座員が岐阜県串原村の中山神社のお祭りに行き、録音してきた中山太鼓の曲調からインスピレーションを受けて創った、と聞いています。
「中山太鼓を元に…」という説明だけがなぜか一人歩きしてしまっているので、中山太鼓の地元の方をはじめ、いろんな方を混乱させてしまってますが、直接的な関係はありません。
作曲当初の太鼓ばやしには、笛のメロディーはなく、リズムも繰り返しが違うなど、いま普及している太鼓ばやしとはだいぶ違う形の楽譜が残っています。
 
●笛のメロディーは誰が作ったのですか?
四日市青年合唱団の方です。
愛知県で「日本うたごえ祭典」があったときに、田楽座の太鼓ばやしを元に、笛のメロディーをつけて合同曲として演奏したものが、全国に普及したようです。
 
●これまで講座をしてこなかったのは?
太鼓ばやしを、本家本元の田楽座にきちんと習いたい、というニーズはあったと思うんですが、皆さんが習いたいのは一般に広く普及しているバージョンで、座としては自分たちが作った形じゃないものを教えにくかったんですね。
最近になって「広く普及したものは、それはそれで愛され定着しているひとつの文化ではないか」と。
普及しているバージョンの太鼓ばやしを、田楽座の公式見解にしてもいいのでは、と考えられるようになりました。
笛を作曲した四日市青年合唱団に、当時在籍していた方にもお話を聞き、講座をしたいという話をしたら「もともと田楽座の曲ですから自分達は何も…」と快諾していただきました。
 
●講座にあげるにあたって苦労したことは?
全国に普及してるといっても、打法や構成は各地域、各チームそれぞれですから、「何を田楽座流にするか?」は議論がありました。
あまり細かく決めすぎてもすでに普及しているものを否定することになりますし、逆に決めなさすぎると、太鼓ばやしのアイデンティティがなくなってしまいます。
「何が太鼓ばやしなの?」「太鼓ばやしらしさって何?」というのは、座内でもちょっともめしたね。
表面的な衝突はないけど、自分がこうだと思ってる打ち方は変えない、みたいな(笑)
 
●「らしさ」ってどういうことでしょう?
どんな太鼓にも芸能にも、「その曲をその曲らしくしている何か」があるんですね。
過去から伝統のない太鼓ばやしのような創作曲の場合は、「これが太鼓ばやしらしさです」と断定するのが難しい。
でもやはり、なぜその曲が愛され演奏されているのか、他の曲には替えられない独自の魅力や利点は何なのか、と考えると見えてきます。
 
●曲が変化することをどうとらえていますか?
民俗芸能の魅力のひとつは、愛着を持って様々な世代に引き継がれ、磨かれた「結果の美」です。
「こう変えたほうが面白い」という改革派と、「昔からの形がいちばんいい」という年寄りや保守派とのせめぎあいの中から、民俗芸能の魅力が搾り出されてきたのだと思います。
そういう視点を田楽座も学んで来ましたから、自分たちが創る曲も変化するものだし、むしろ変化するべきだと思っています。
 
●10年後、20年後の海のお囃子や山のお囃子は、今とは違う?
そう思います。
新曲を創作した際にも、依頼者の方に「いい曲に育ててください」とお渡ししてます。
いろんな方に演奏された結果、どんどんいい曲に育っていく。
そういう曲は、きっとこの先も何十年も演奏され続けていくと思います。
 
 つまり、現在全国に普及している「太鼓ばやし」は、田楽座が作曲した当時のオリジナルとは別物だったわけです。
 ですが、自分たちが意図したのとは別の形で普及している姿を見て「著作権の侵害」を訴えるでもなく、「広く普及したものは、それはそれで愛され定着しているひとつの文化ではないか」と許容できるのが、民俗芸能と向き合い続けてきた田楽座らしい懐の深さです。
 
 普通ならば「自分たちが最初に作ったオリジナル以外は邪道だ」とか「これから自分たちが認めるものだけが正式だ」 などと、曲の所有者としての権利を堂々と行使しても良さそうなもの。
 ですが、田楽座が優先しているのは、これまで全国で「太鼓ばやし」を打ってきた担い手たちの実績を尊重したいという想いの方なのです。
 
 このように「みんなの共有財産がよりよく共有されていくために作曲者たる自分たちはどんな役割を果たすべきか」と当たり前に考えられる伝導者としての謙虚な姿勢こそが、ついつい応援してしまいたくなる田楽座の魅力でもあります。
 そんな田楽座に惚れ込む私自身も、日本各地に伝わる民俗芸能の味わい深さ、それを素敵な舞台に乗せて世に伝えようとする田楽座の心意気を、より多くの人々に伝えられるようなパスを出し続けていきたいと願っています。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300