間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -4ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
 
ふざけんな日本。
 
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
 
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
 
国が子供産ませないでどうすんだよ。
 
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
 
 これは2016年2月15日にインターネット上で投稿された「保育園落ちた日本死ね!!!」という記事の一部を抜粋したものです。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20160215171759
 この記事は、最初の一週間はインターネット上でどんどんと拡散されていき、二週目からはテレビでも「インターネットで話題の記事」としてポツポツと取り上げられ始めました。
 
 こうした待機児童の問題がなかなか解消されない現状の日本で、楽しく生きていくにはどうしたらいいか。
 そんな問題を考えるのに参考になりそうな、三者三様の意見を今回は紹介してみたいと思います。
 
 まず最初に紹介するのは「子育てに関する日本の現状を変えていこう」とする王道の意見です。
http://www.komazaki.net/activity/2016/02/004774.html
 
 都内で13園の小規模認可保育所を経営している駒崎弘樹は、「政府はいろいろと対策をこうじており、平成25年あたりから保育所数は劇的に増えているが、認可保育所に申し込む人が増えたこともあり、待機児童は減らせず、むしろ若干増えている」と報告します。
 その上で、この問題を解消していくには予算の壁、自治体の壁、物件の壁という3つの壁を崩さなければならないと述べますが、これらの壁を突き崩せるほど政府はこの問題に関心を抱いていないと論じます。
 
 その現状認識の上で彼が提案するのは、政府に対してもっと怒ること。
 彼は、ベビーカーを押すママたちが区役所前でデモをしてメディアに取り上げられた「杉並保育園一揆」が杉並区の認可保育園増設を加速させた例を取り上げ、現状を変えるには行政が無視できないほどに議論を加熱させるためのロビイングが必要であり、結局のところそれらを実現するほどの熱量が足りていないから日本はこの現状に甘んじてしまっていると読み解きます。
 その意味で、この「保育園落ちた日本死ね!!!」のような叫びは必要なものであったと意味づけます。
 
 この正攻法の議論の欠点は即効性がないことであり、5~10年先に子どもを生みたい若者たちのために起こす行動としては有効でしょうが、今すぐ子どもを生みたい人たちの策としては適当ではないかもしれません。
 そうした「今すぐ子どもを生みたい人」のために役立ちそうな記事が、こちらの「保育園の第一志望受かったけどやっぱり日本死ね」です。
 そこで書かれていた基本的な心構えや、筆者が実施した策の概要を抜粋してみましょう。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20160218153103
 
こと保育関連については、この国を「日本」だと思ってはいけない。
東南アジアか中南米の行政糞国家の住民になったつもりで対策を立てた方がいい。
 
事実上、この国では首都で子どもを産み育てることは罰則の対象だ。
マジで日本死ね。
 
うちは夫婦ともに海外(非欧米圏)での駐在経験があったので、国家の政策や行政のケア能力や社会のセーフティネットを最初から信用しておらず、かつ地味な情報収集やかゲームの裏技探し的な作業が夫婦共通の趣味だったことで勝てた感じである。
 
保活は各地区や各家庭環境によって動き方が異なるため絶対の解はない。
だが、不幸にも子どもを生んだせいでこの糞国家と糞行政に自分の人生を壊されたくない人のために、うちが保活の各段階で何を意識して、何をやっていたかをここで書いておこうと思う。
 
妊娠が判明し、両親への報告と産婦人科受診が終わったら、すぐに区役所の保育園関連課(名称は各区で違う)詣でを開始。
赤ん坊がミリ単位のおさかな生物状態のときから動く。
 
この段階では区役所側もヒマなので、早めに動いている人は歓迎される。
こと保活問題に関して、日本国家と地方行政はわれわれの人生を破壊する最低のゲスどもだが、その怒りや恨みを末端の小役人にぶつけてはいけない。
恫喝などはもってのほか。
むしろ、誠意ある態度で手続きについて教え請い、好感を持たれるようにこちらの顔と名前を相手側に刷り込む。
 
~中略~
 
他の行政糞国家と違って札束攻勢が通じないため、とにかく相手がヒマなときに接触回数を増やして篭絡するほうがいい。
日本人は実利的な利益がなくても情実のある長期的な人間関係が成立すれば相手に便宜を図る傾向がある。
 
結果、わが家は区役所方面から、保育点数を増やす上で合法の範囲内だが際どい裏技をリークしてもらった。
 
 つまり、保育に関しては「行政が何とかしてくれる」なんて受け身の期待を日本では決して持ってはならないということ。
 相手が糞みたいな国家ならばわざわざそれを変えようとはせずに、相手が糞であることは前提として認めた上で「糞国家に上手く取り入る方法」を模索したということです。
 
 そして、最後に紹介するのは女優の山口智子のインタビュー記事です。
http://laughy.jp/1455587836854186031
 
 この糞みたいな国で楽しく生きるために紹介した一つ目の考え方が国の現状を変える活動をすること、二つ目の考え方が国は変えずに糞国家に合わせて対応することでした。
 ですが、この国の糞みたいな部分は、生みたくても生めないことだけではなく、生まない人を生きづらく追い込むことでもあります。
 
 子どものいる家庭を標準と見なし、子どものいない家庭に対しては「まだいない」と未熟扱いしたり、「欲しくてもできない」とか「不仲なのか」と勘ぐって異端扱いするような「子なしハラスメント」が、日本ではまだまだ恥ずかしげもなく横行しています。
 そんな現状に、山口智子は雑誌のインタビューでこう答えて対抗しました。

私は、子供のいる人生じゃない人生がいい
 
子供を産んで育てる人生ではない、別の人生を望んでいました
 
 つまり、この糞みたいな国で楽しく生きる3つ目の考え方は、子のいない人生を選ぶこと。
 そして、世間の糞みたいな「子なしハラスメント」を蹴散らすことです。
 
 国の現状を変える、糞みたいな国に順応する、子がいる人生ばかりに囚われない、楽しくは生きない、などなど、どの生き方を選ぶかは本人次第。
 最終的に、自分の納得のいく選択をしたいものです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 すべての人間は生まれながらにして侵害されてはならない権利を有しているというのは、誰かが思い付いた作り話です。
 ですがこのフィクションのあらすじは、フランス革命をきっかけとして西洋社会を中心に広まっていき、今現在の国際社会では無視することのできない強大なストーリーへと成長しています。
 
 こうした「人権思想」も含むいくつもの作り話の積み重ねの上に成り立っているのが、私たちの生きる人間社会です。
 そんな人間社会を生きていくのに必要な知恵とは、身の回りではどの作り話がどれだけの力を持っているのかという「力関係の情勢」を察知し、その圧力の荒波に食い殺されてしまわないように気を付けておくことです。
 
 そういった意味で、前回は日本における育休と人権の話題を取り上げました。
 そのときまとめたラフスケッチは以下のようなものです。
 
近代以前の封建的な支配の現実への対抗手段として「人権とはすべての人間が生まれながらにしてもっているものであり、その普遍的な人権を侵害する行為は許されるものではない」という方便が生まれ、この聞こえの良い大義名分を武器にのし上がった近代国家群が世界を席巻するようになった。
 
この「天賦人権説」を尊重しているようにふるまわないと相手にしてもらえなくなるような圧力が欧米を中心に広がっていき、日本もその圧力に巻き込まれて表向きは「天賦人権説を尊重する」という立場をとるようになった。
 
それによって「最低限の生存権が保障されている比較的マシな国だ」と見なされるようになってきた日本だが、女性の権利、子どもの権利、労働者の権利といった諸々の件で「まだまだ遅れている」とお叱りを受けることも多い。
 
日本においてリベラルと呼ばれる人々は、こうした国際的圧力を背景に「天賦人権説を蔑ろにするとは何事だ」といった綺麗事を恥ずかしげもなく口にする傾向がある。
 
保守と呼ばれる人々は「天賦人権説は近代における新たな支配体制のための建前・フィクションに過ぎない」という本音ベースの共感力を武器に、日本が公式には天賦人権説を尊重する立場にあることを軽んじるような言動をとる傾向がある。
 
 このまとめを通じて私がまず言いたかったのは、どの立場にも「客観的な正しさ」という次元でのアドバンテージはないということ。
 私たち人間は意図的にしろ無意識のうちにしろ、自分が巻き込まれてきた世界の力関係に応じて、それぞれが「支持する立場ごとの作り話」を演じているに過ぎないということです。
 
 この手の作り話の最大手はもちろん「人権」ですが、この物語が創作されたおかげで「人権侵害」というレッテル貼りの技術が普及し、そのおかげで生命の危機や理不尽な支配から逃れられる人が増えたという功績があります。
 大事なのはその「お話」によってどんな変化が生まれるかという効果の方であり、その話がこの世の真理だろうが誰かが思い付いた作り話だろうがそんなことは大した問題ではないというのがその次に言いたかったことです。
 
 このように、現象に名前をつけ、それに合わせてストーリーを築いていけば、影響力次第で世の中も変わっていきます。
 そして、レッテル貼りの王様である「人権侵害」のバリエーションとして、今もなお次々と発明されているのが「~~ハラスメント」というレッテル貼りです。
 
 パワハラ、セクハラが定義づけられたからこそ、部下の嫌がる行為の一部を上司が控えるようになりました。
 アルハラが定義されたおかげで、アルコールの強要による苦痛を受けずに済む人がだんだんと増えてきました。
 そして、マタハラという言葉によって「子どもができたら退職を無理強いさせられる」といった問題が定義され、まだ改善されてはいないにしろ「問題だ」という意識は広まりつつあります。
 
 こうして次々と開発されていく新造のハラスメントに対して、「なにかにつけて『ハラスメント』と言われるようになったためにやりにくくなった」と苦情を付けたがる人も、世の中には数多く存在します。
 その中には、世の中はでっちあげの綺麗事のように上手くは行かず、そんな理想論を無視した方が現実的に上手くいくんだという本音まじりの言い分も幅を利かせています。
 
 これは、どちらが正しいという話ではなく、どちらの圧力が優位にことを進められるかという「単なる戦争」です。
 人権侵害もハラスメントもただの作り話でしかありませんが、この種の戦争を戦うための立派な武器ではあります。
 どちらの陣営の味方をするか、どの陣営とも距離を置くのか、なんてことはそれぞれが好みや立場に応じて勝手に選べばいいでしょう。
 
 最近では「繊細チンピラ」や「クソバイス」といった造語による新たなレッテル貼りも、不快な攻撃から身を守るための武器として開発されています。
 そしてこうした「武器としての作り話」や「武器としてのレッテル貼り」は、これから先もどんどんと作られていくことでしょう。
 
 このように、私たちの世界が作り話で埋め尽くされていくこと自体は、特に嘆くべきことではありません。
 なぜって、そもそも私たちが言葉を使って考えているようなことはすべて、過去に作られてきた作り話の再利用や組み合わせでしかないんですから。
 
 「作り話でない本当の話がどこかにあるはず」「客観的な正しさ」といった『真理』の概念自体が、この「単なる戦争」を戦うための武器として発明された作り話。
 作り話であることを嘆いてしまう癖そのものは、『真理』という巧妙な大量洗脳兵器の圧力に負けている証拠なんです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 宮崎謙介とは、2015年末から2016年にかけての3ヶ月間になにかと話題を集めた元国会委員です。
 Wikipediaにまとめられている彼についての話題を、一部抜粋して紹介してみましょう。
 
2015年5月19日、同じ自民党・二階派所属議員である衆議院議員・金子恵美との再婚を発表した。
再婚に先立ち、すでに妊娠している(いわゆる「できちゃった結婚」)と報じられた。
 
2015年12月23日、日枝神社で挙式し、都内のホテルで結婚披露宴を行った。
政治家の挙式・披露宴としては珍しくマスコミフルオープン(カメラ取材など全て自由)で行われた。
 
金子の出産を控えた2015年12月、宮崎は男性の育児休暇について、「休暇を取ることによって職場で冷遇されるのではないかということが障壁になっている中、国会議員が先例となって率先して育児に参加したい」として、国会開会中に一か月程度の育児休暇を取得する意向を示した。
 
これに対し、女性活躍を担当する加藤勝信一億総活躍担当大臣は、「男性の育児休暇を促していきたい中で、議員が率先してやっていくのは大事」と述べるとともに、現状、衆議院の規則では育児休暇の規定はないため、「民間の就業規則などとは違うので、どのように国会の制度に入れていくのか、国会で議論してほしい」、「国民から負託を受けた一票は大変重たいが、それをどう行使していくのかバランスの問題だ」との考えを示した。
 
また、宮崎は有志とともに、個人事業主など育休の取得が困難な労働者に対する法整備などを議論する勉強会を立ち上げた。
 
2016年2月、金子が出産(切迫早産)のため緊急入院していた1月30日から31日にかけて、宮崎が自身の選挙区にある京都市伏見区内の自宅マンションに女性タレントを招き入れ、ともに宿泊したと週刊文春(2016年2月18日号)に報じられた。
 
民主党の安住淳は一連の報道に対し「(宮崎に)育児休暇を与える国会議員は1人もいないのではないか」「(育児休暇取得は)売名行為だったのではないか」と報道陣に答えた。
 
同年2月12日、宮崎は議員会館内で記者会見を行い、事実関係を認めた上で、議員辞職する意向を表明した。
不倫による議員辞職は憲政史上初めてのことであった。
 
 こうした事の顛末によって、2016年2月以降は「宮崎元議員の人格がどれほど下劣であるか」という点が、巷での話題の中心となっていきました。
 こんな下世話な話題なんかよりも「この不倫騒動のせいで育休の是非についての議論が吹き飛んでしまったこと」の方が大問題だと意見を表明しているのが、エッセイストの小田嶋隆です。
 彼は、日経ビジネスオンラインでの連載の中で以下のように論じています。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/021200031/
 
私が残念に思っているのは、 宮崎議員に不倫が発覚した瞬間に、育休の是非を問う議論そのものがまるごと無効化してしまったことだ。
 
個人的には、国会議員の育休に関しては、賛成する意見にも反対する意見にも、それぞれ、もっともな論拠があると思っている。
「一般企業の育休取得者への不当な風当たりを弱めるためにも、国会議員は率先して堂々と育休を取るべきだ」という意見にはなるほどその通りだと思わせる力があるし、「国会議員の重責を思えば、育休を取りたい気持ちは抑えて、国民に奉仕するべきだ」という見方にも、一定の説得力はある。
 
心情的にはともかく、 育休の是非とそれを申請する人間の品格の高低は、議論のスジとして、まったく別の話だ。
ここのところは切り分けて議論しなければいけない。
 
育休は、労働者の「権利」だ。
「権利」である以上、あらゆる労働者に保障されていなければならない。
逆に言えば、すべての人間に与えられているのでなければ、それは「権利」と呼ぶことはできない。
 
今回のケースは、「権利」ということについて、良くない誤解を与える結果をもたらしている。
すなわち「権利を行使するには、それなりの資格が必要だ」という誤った理解を世間に流布しているということだ。
ということになると、「育休」への理解は、むしろ後退する。
 
今回のすったもんだを通じて、「育休議員」がヘタを打って、「議員の育休」という問題提起自体が、思い出すのも恥ずかしいお笑い種になってしまったことは、返す返すも残念な展開だ。
おかげで、「育休」は、「すべての労働者に与えられた権利」であるという本来の意味を喪失して、「育休に値する労働者だけが育休を許される」という「条件給付」の地点に泥まみれで放置される結果となっている。
 
このままだと、「育休」は、労働者があらかじめ持っている「権利」ではなくて、雇用者からご褒美として給付される「温情」だという解釈が定着することになる。
というよりも、すでにそうなっているのかもしれない。
 
古い考えの政治家の中には、もともと「権利の取得は義務の遂行と引きかえに与えられるものだ」「権利と義務はバーターです」「権利だけを主張する人間は卑怯だ」「天賦人権説は人間を堕落させる」という考え方が、牢固として根を張っている。
 
彼らのアタマの中には、まず、国民としての義務があって、その義務を果たさない人間に、権利などあってたまるものかと思っている。
 
もしかしたら、「権利は義務とワンセットでしょ?」と思っている人間が多数派で、天賦人権説を教科書通りに信じている国民の方がむしろ少数派なのかもしれない。
 
育児休暇を、「それに値する人にだけ与えられる特権」ぐらいの位置にとどめておく方が、現場はうまく回るはずだと考えている労働者や経営者は、おそらく少なくない。
 
育休議員は、立派な人ではないのかもしれない。
が、育休は、立派な人でなくても、有用な労働者でなくても、同僚に好かれていなくても、子を持つ労働者のすべてが差別されることなく、堂々と、当然の権利として、申請・取得できるものでなければならない。
 
 ここで彼が指摘しているのは、日本における「権利」「人権」という概念の一般的な受け取られ方が、「すべての人間が生まれながらにしてもっているもの」という天賦人権説に全く則していないということ。
 「義務を果たしている者にしか権利は与えられない」という考え方は日本社会にしぶとく根付いている古臭い悪習だというのが、彼の基調路線でしょう。
 
 彼が論拠とする天賦人権説を推し進めている最大勢力は、2016年2月現在193ヶ国が加盟している国際連合。
 「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」を第一条とした「世界人権宣言」を1948年に採択して以降、国連は人権規約が守られているかどうかを世界各地で監視し続けています。
 つまり、ことの順番を整理すると次のようになります。
 
近代以前の封建的な支配の現実への対抗手段として天賦人権説というフィクションが生まれ、この聞こえの良い大義名分を武器にのし上がった近代国家群が世界を席巻するようになった。
 
天賦人権説を尊重しているようにふるまわないと相手にしてもらえなくなるような圧力が欧米を中心に広がり、日本もその圧力に従って表向きは「天賦人権説を尊重する」という立場をとるようになった。
 
それによって「最低限の生存権が保障されている比較的マシな国だ」と見なされるようになってきた日本だが、女性の権利、子どもの権利、労働者の権利といった諸々の件で「まだまだ遅れている」とお叱りを受けることも多い。
 
日本においてリベラルと呼ばれる人々は、こうした国際的圧力を背景に「天賦人権説を蔑ろにするとは何事だ」といった綺麗事を恥ずかしげもなく口にする傾向がある。
 
保守と呼ばれる人々は「天賦人権説は近代における新たな支配体制のための建前に過ぎない」という本音ベースの共感力を武器に、日本が公式には天賦人権説を尊重する立場にあることを軽んじるような言動をとる傾向がある。
 
 このような文脈の中でリベラルの側に属する小田嶋隆は、宮崎元議員の人格にばかりフォーカスを当てて「育休なんて御大層な権利はふさわしい人にしか与える必要がない」という風になってしまいかねない世の論調に異を唱えました。
 日本という国家は国際社会の力関係の中で、このイデオロギーを「人類普遍の価値」ととらえて振る舞うことを選びとっています。
 ですから、日本国内で流布している「義務と権利はワンセットだ」という言い方が、日本が国際社会に約束している人権順守の概念から外れたものであり、約束した態度を演じ切れていない証拠になっているということだけは前提として知っておいた方が良いでしょう。
 
 人権は、生まれながらにして皆が持っているものなのか、その人の人格云々によって保障される度合いが変わるものなのか、そもそもどうでもいい作り話なのか、本当はどれが正しいということはありません。
 現実の力関係に応じて、皆が「どの立場を演じることにするのか」を選びとっているというだけなんです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 私の生き甲斐は、人に何かを教えること。
 18歳で始めた家庭教師の頃から20年近く、バイトや趣味や職業で、数学・和太鼓・篠笛・民舞などを教え続けてきました。
 
 どんな分野であっても、複数の人間に向けて一斉に教えていると、吸収の早い人と遅い人との差が出てくるもの。
 私はこの差を「元々のできが違うから」といった、ありがちな才能論で片付けるのが好きではありません。
 こうした「上達スピードの違い」の原因は「あらゆる物事に通じる上達のコツ」を知っているか知らないかの差に過ぎないというのが、教えることを長年続けてきた私なりの仮説です。
 
 素早く上達するコツとは、失敗の回数を短期間で数多く稼ぐこと。
 逆にいうと、なかなか上手くならない人は、長い時間をかけていても失敗の回数をほんの僅かしか稼いでいません。
 
 他の人よりも早く上手くなる人は、普通の人が怖がったり面倒臭がったりして数回しか失敗できないでいる間に、黙々と何十回・何百回と細かい失敗を積み重ねているものです。
 何故ならそういう人は、数回のチャレンジで上手くいったとしてもそれは偶発的なものに過ぎず、ある程度失敗の回数を積み重ねないと確実には身に付かないと、経験で知っているからです。
 だから失敗を恐れて無駄に躊躇している暇があったら、身に付けるために必要な失敗をさっさと稼ごうとするのです。
 
 この「失敗を稼げ」というノウハウに似たアドバイスに「失敗を恐れるな」というものがありますが、前者と後者とでは失敗に対する捉え方のニュアンスがずいぶんと異なります。
 「失敗を恐れるな」という風に言ってしまうと、発言者の狙いとは別に「そもそも失敗は怖いものだ」という暗黙の前提が先入観として刷り込まれてしまう危険性があります。
 でも「失敗を稼ぐ」という言葉遣いには「そもそも失敗は上達のために必要な美味しいものだ」という前提が隠れているため、失敗への躊躇や恐怖心で無駄にする時間を削減し易くなります。
 
 物心ついたころから私が計算に強かったのは、数に関することであればこうしたトライ&エラーを無意識のうちに延々と積み重ねていたから。
 逆に、音楽などには何の興味もなかったため、リコーダーなどでは効率よく失敗を稼ぐことができず、苦手意識でいっぱいでした。
 「失敗を短時間で数多く稼げば何であろうが上達は早い」というコツを意識的に実践できるようになったのは、大人になってからのめり込んだ和太鼓や篠笛や民舞を通してのことです。
 
 勉強であれ音楽であれスポーツであれ、その人が「もとから得意だ」と思っているようなジャンルにおいては、それが努力だとも感じない無意識のレベルでこの上達法が実践できてしまっていることが多いです。
 そのような無意識のうちの成果だけに頼らず、複数のジャンルでこの上達のコツを意図的に実践してきた人であれば、さらなる次のジャンルでもこのノウハウを活かしていけます。
 
 もし仮に、個々の潜在的な才能の差が現れるとしたら、この程度の上達のコツを知っているかどうかという低次元な話ではなく、こんな段階は当たり前に通り越していった上級者同士の次元においてでしょう。
 ビギナーから中級者へステップアップをしていくような段階においては、「失敗を数多く稼ぐ」という程度のコツで十分対応可能です。
 
 また、ビギナーレベルを脱した後は一見失敗していないように見えるパフォーマンスの中に、どれだけの修正要素を見出だしていけるかが上達の鍵を握ります。
 つまり、中級者以上になると「稼げる失敗がどこにあるか」「失敗に見えない失敗がどれだけ潜んでいるか」を見抜く力こそが、さらなる上達へと導いてくれるのです。
 
 そして、最低でもそれくらいの段階まで積み重ねていなければ、才能の差なんて大した問題ではないというのが私の意見です。
 そこまで踏み込んだこともない人が考える「元々からの才能の差」なんて、こまめな失敗の積み重ねで埋められるノウハウの差でしかないでしょう。
 
 上達のコツは失敗を稼ぐこと。
 もしあなたが上達したいのならば、グダグダ言ってないでとっとと失敗を稼いでしまいましょう。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
楽しむ力さえ行使できれば人生は楽しい
 
 これは、大学生のころに身に付けた私なりの人生観。
 もし、現状であなたの人生が楽しくないとすれば、それは他人や環境のせいで陥っている仕方のない事態ではなく、あなた自身の捉え方が招いている等身大の実績でしかありません。
 人生が楽しくないのがそんなに嫌なら、楽しむことそのものを人生の最優先事項にし、楽しむために必要な力を養い、その楽しむ力を堂々と行使すればいいのです。
 
 ここで問題になるのが「楽しむ力とは何か」ということ。
 ですがこれは、別にどこかで教わらなきゃいけないような難しい内容ではありません。
 ただ単に「人生における最優先事項は楽しむことであり他は二の次だ」と納得することこそが、楽しむ力の全てです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/08/084900
 
 このことが心の底から納得できていない人は、様々な行動の選択肢が現れたときに「自分が楽しむ」を採ることができません。
 これが「楽しむ力を行使できていない」ということ。
 
 また、「人生における最優先事項は楽しむこと」だとは思わせてくれないような刷り込みや同調圧力が、家庭にも学校にも社会にも何重にもなって待ち構えています。
 これらの「雑音」に負けて、楽しむことが最優先だと思えなくなっている状態が「楽しむ力が足りていない」ということです。
 
 こうした「雑音」を真に受けるでもなく否定するでもなく無視するでもなく、ただ「世間にはそう押し付けたがる人が大勢いて、そう刷り込まれた従順な人たちがこの世の中の大半を形作っているんだな」とだけ受け止めておいて、「でも私はこの圧力をかいくぐって楽しんでいこう」と建設的に考えられる姿勢こそが私の理想とする「楽しむ力」です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/18/064700
 自分にふりかかる圧力の正体が判らないうちは建設的に捉えられずにしんどい思いをするかもしれませんが、実際に痛い目に会ってみれば自分を悩ませうる圧力の正体が掴め、以後の人生を楽しいものにするための判断材料にすることができます。
 
 この「間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)」というブログの目的は、世に溢れる「人生を楽しませないための雑音」を「これは雑音ですよ」と指摘して、誰かが「楽しむ力」を築く際のお手伝いをすること。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/
 そして、2016年から更新を始めた「毎日バチコーン(和太鼓に狂った数学教師の備忘録)」というブログの目的は、私なりの「楽しむ力さえ行使できれば人生は楽しい」という人生観の妥当性を身をもって示すことです。
http://mrbachikorn.hatenadiary.jp/
 
 余計な「雑音」に振り回されずに「楽しむ力」さえ行使できれば、人生は楽しいんですよ。
 もしあなたが「雑音に振り回されずに楽しむ力を行使しているはずなのに人生楽しくならない」と思っているのなら、自分が信じ込んでいる「雑音に振り回されてない」という現状認識の方を真っ先に疑ってみてください。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 この『間違ってもいいから思いっきり』というブログに書いているようなことを考え始めたのは、ちょうど18年前の2~3月くらい。
 大学一年生だった私は、時間をもて余して眠れなくなった春休みの夜に、ただひたすら考え事をしていました。
 
 そのとき私が一生懸命考えていたのは、「世の中は間違っていてどいつもこいつも馬鹿ばかりである」という想いを、数学の証明のようにクリアに説明し切ってしまいたいということ。
  ですが、大学の数学科で基礎論などをかじっていた私は、数学のレベルの厳密さでは、現実世界のできごとなんて何一つ証明できないと気付きます。 

 そして「世の中は間違っていてどいつもこいつも馬鹿ばかりである」なんてことを数学レベルの厳密さで言い切りたがっていたそれまでの自分を恥じ、同じ愚を二度と繰り返さないようにと「証明できていないことは決め付けない」というマナーを自分に課すことにしました。
 そうすると、現実世界のことに触れた「+++は***である」という種類の言及は、どれも私の証明できる範囲を超えていますから断言できません。
 これらの話題については「たぶん+++は***だろう」とか「おそらく+++は***じゃないかと思う」という言い方しかできなくなったのです。
 
 しかし、「私は***だ」という言及になると話が別です。
 ここまでの議論を忠実に再現するなら「私」も現実世界の事柄の1つですから、「私はラーメンが好きだ」や「私はキャンプに行きたい」なんて発言も許されません。
 なぜなら「私は本当にラーメンが好きなのか」とか「私は本当にキャンプに行きたいのか」という問いに対して、私は「私がそう思っているからそうだ」という何の説明にもなってない答え方しかできないからです。
 
 ただ、「私は今からラーメンを食べる」とか「私は来週キャンプに行く」という決意表明に関してはぎりぎりセーフとみなされました。
 なぜなら数学の答案において「今からこの方程式を解く」とか「今からこの命題を証明する」というような決意表明は認められていたからです。
 それすら認めなければ何の行動も起こすことができないし、数学という学問を作ること自体が不可能になりますから。
 
 ただ、決意表明の一歩手前には「* **したい」という欲求の存在を、その欲求の一歩手前には「***が好きだ(嫌いだ)」という好みの存在を想定することができます。
 つまり19歳から20歳にかけての私にとっての問題は「自分の欲求や好みを断言できるか?」ということでした。
 自分に課した「証明できないことは断言しない」というマナーに従うならば、私は「*** したい」とも「***が好きだ」とも言えないのです。
 
 私はしばらくの間、「たぶん***したいんだと思う」とか「たぶん私は***が好きだろう」という推測を述べることだけを自分に許していました。
 しかし、この『「***したい」とか「***が好きだ」という風に断言したい』という想いだけは、自分にどう言い聞かせようとも解消できません。
 ・・・ほら、このように『断言したい』と思ってしまっています。
 これもマナー違反となると、私の想いは吐き出しようがないのです。
 
 この「証明できないことを断言するかどうか」という個人的な問題は、20歳の頃に少しだけ前進することになります。
 そのとき考えたのは、「断言に対して自分が感じている不快感はどこから来ているのか」ということ。
 
 そしてその答えは、「他人の都合で自分の都合を仕切られてきたことへの反発」が主な原因だろうということに落ち着きました。
 子どものころから「こうあるべきだ」「***してはいけない」といった道徳的な命令には「どうも嘘くさい」という不信感を抱いていましたし、「+++は***である」という現実世界の解釈についての断言も「発言者の好む世界観を勝手に押し付けられている」という不快感を覚えていましたから。
 私は、証明できないようなことを断言することで、自分に不愉快な思いをさせた人々と同種の人間になってしまうのを避けたいと考えていたわけです。
 
 たとえば「人を殺してはいけない」「小津安二郎の映画は素晴らしい」「相対性理論は正しい」という3つの主張を見てみましょう。
 これらの主張を人に向けて断言した瞬間、私の中で「他人の都合を仕切ろうとする行為への嫌悪感」が発動していました。
 なぜなら、これらの断言は「この主張を真なる主張として認めよ」という発言者からの押し付けがましい命令として解釈できたからです。
 
 ただ、「小津安二郎の映画は素晴らしい」「相対性理論は正しい」については、発言者にそのような命令の意図はないかもしれません。
 しかし、「誤解の可能性のある表現は極力使わない」という数学のマナーからすると、「命令として解釈できる余地が残っている」という時点でこの言い方はアウトでした。
 
 じゃあ口には出さずに自分の心の中で思っているだけなら大丈夫なのかというとそうではありません。
 私は「自分の中での正義」とか「自分の中での真理」といった方便にも嫌悪感を覚えたのです。
 
 「自分の中での正義」や「自分の中での真理」というのは、直接口に出してなくても自分の中で「あれは正しい」「これは間違ってる」というジャッジを下しているわけで、結局は自分の都合で他人の都合を裁いてしまっているということです。
 私にとっての問題は「口に出して断言するかどうか」ではなく「心の中で愚かな決め付けをしているかどうか」でした。
 
 ではここで「人を殺してほしくない」「小津安二郎の映画が好きだ」「相対性理論はたぶん正しいだろう」という言い回しに変えてみたらどうでしょう。
 先ほどと違ってこれらの言い回しは「他人の都合」について何も強制しておらず、「自分の身の程をわきまえて話そう」という節度を備えています。 
 「人を殺してほしくない」と いうのは明らかに「他人の都合」に触れてしまってるじゃないかと思われるかもしれませんが、「してほしくない」という主張の仕方においては、これはただの私的な願望であり、実際にどうするかを決めるのは「相手の都合」しだいであるという節度がちゃんと守られています。
 
 つまり、「***したい」や「***が好きだ」と自分の欲求や決め付けてしまっても、私の中で「他人の都合を仕切ろうとする行為への自己嫌悪」は発動しないということに気づいたのです。
 「自分の好みや欲求について証明することはできないけど、これらについては断言してしまっても他人の都合を踏みにじることにはならない」という気付きによって、20歳の頃の私は「+++ は***だろう」という推測のほかに、「***したい」とか「*** が好きだ」という欲求や好みについての断言を自分に許すことにしました。
 
 こうした20歳の頃の気付きから、さらに考えを進められたのは26歳の夏。
 このとき私は内田樹のブログと出会い、青年期の私が抱いていた「数学と同じくらい厳密な水準でしか断言をしたくない」というこだわりは、「言葉はそもそも世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするためにあるもの」という固定観念が生み出していたのではないかと思い当たります。
 言葉の根本的な存在理由が「人心を説得すること」ならば、「断言」とは人心を説得するための効果的なテクニックの一つに過ぎないわけですから、「正しく記述すべき」という無駄なこだわりで自主規制する必要などなかったという結論に至ったのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/08/17/143400
 
 そんなわけで、私は私の個人的な好き嫌いを堂々と発信していきます。
 20歳の頃にそう感じたように、そこにどんな意味があるかなんて説明できなくても、己の欲求に従ってただ為したいことを行うのみです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

 『暗殺教室』とは、週間少年ジャンプで連載されている松井優征作の人気学園コメディ。
 蛸のような軟体動物の体を持つ主人公の殺せんせー(誰にも殺せない先生の略称)は、惑星を破壊できるほどの反物質を体内に抱えており、1年後には地球を木っ端微塵にしてしまうかもしれないという規格外の超生物。
 そんな殺せんせーの暗殺を日本政府から命じられた中学生たちと、そんな生徒たちの担任となって愛情たっぷりに自己流の教育活動を行う殺せんせーという、一風変わった教室の風景を描いた作品です。
 
 人間だったころの殺せんせーは死神と呼ばれた超一流の殺し屋で、そうした裏の世界で身に付けた知恵を、授業では「世の中を生き延びるための実践的な知恵」へと昇華しながら生徒たちに伝授していきます。
 そんな殺せんせーの授業の中でも、私が一番気に入っている教えを引用して紹介してみたいと思います。
 
君達はこの先の人生で…
強大な社会の流れに邪魔をされて望んだ結果が出せない事が必ずあります
 
その時社会に対して原因を求めてはいけません
社会を否定してはいけません
それは率直に言って時間の無駄です
 
そういう時は「世の中そんなもんだ」…と悔しい気持ちをなんとかやり過ごして下さい
やり過ごした後で考えるんです
社会の激流が自分を翻弄するならば…その中で自分はどうやって泳いでいくべきかを
 
いつも正面から立ち向かわなくていい
避難しても隠れてもいい
反則でなければ奇襲してもいい
常識外れの武器を使ってもいい
 
殺る気を持って焦らず腐らず試行錯誤を繰り返せば…
いつか必ず素晴らしい結果がついてきます
 
 ここで殺せんせーが述べているように、自分の今いる世界にどんな理不尽があろうとも、それを「許せない」だとか感情的に否定するだけでは単なる時間の無駄です。
 だって、そもそも世界は「もしそうだったら都合がよい」という程度の正論に沿って作られたものなんかじゃないんですから。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/01/10/122812
 
 現に理不尽が存在する世界で生きていくためには、「本当は世の中はこうあるべき」という感情的でご都合主義な理想論に引っ張られずに、自分がどんな世界に生まれ落ちたのかをありのままにしっかりと現状認識することがまず大事。
 だから殺せんせーは「本来あるべき姿になってないからこの世の中は間違ってる」といった子どもの糧にならない無意味な言い分は、自分の教育の場に一切持ち込みません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/09/065600
 
 そして、社会の現状をまずは受け入れた上で、そこから自分の生きやすい突破口を見出だすためには、「殺る気」の伴った試行錯誤が必要だと説きます。
 この「殺る気」とは、これまで暗殺教室で子どもたちが培ってきた「殺るか殺られるか」というレベルの真剣さや、「いつも正面から立ち向かわねばならない」「逃げ隠れしてはいけない」「フェアでなければならない」といった塗り固められた正論に縛られない発想の自由さなどを含んだ言葉でしょう。
 
 こうした殺せんせーの教育者としての態度は、「変なおじさん」という教師像を目指す私にも大変共感できるもの。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/20/001000
 
 このブログも、世の中に溢れる「言葉の荒波」の存在をまず認識し、それに対して「間違ってる」などと無意味な反感は抜きにして受け入れた上で、激流の中でどう泳いでいくのかを考えていこうという、殺せんせーのようなモチベーションで運営しています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/02/14/064900
 
 そして、自分なりにこの世の中を楽しく泳いでいっている様を、「毎日バチコーン」というブログで発信しています。
http://mrbachikorn.hatenadiary.jp/
 
 そんなわけで、人気漫画『暗殺教室』は、生きるための知恵や教育におけるヒントが得られる格好の教材だと、私は思います。
 気軽に読める楽しい作品ですので、まだ読んでいない方はぜひお試しあれ。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 大学生のころ、ずっと疑問に思っていた言葉があります。
 それは「許せない」です。
 当時は理屈先行で考える傾向が今よりもずいぶんと強烈だったので、この言葉に何か建設的な意味があるんだろうかと心の底から馬鹿にしていました。
 
 それは、一個人が誰かに対して「許す」とか「許さない」とか言ったところで、言われた当人はそんな「何の権限もない言葉」を真に受けて行動を変える必要が全くないからです。
 人に対して「許す」とか「許さない」なんて言ってしまえる人はどれだけ偉いんだろう、自分に何の権限があるつもりなんだろうと、その無意味な権威の根拠を不思議がっていました。
http://mrbachikorn.hatenadiary.jp/entry/2016/01/09/162259
 
 もし「許さない」が何か意味を持つとすれば、それは「それをすればこんな痛手を負わせてやる」といった脅迫が裏に隠されている場合です。
 親や教師や上司や取引先や警察など、自分に力を及ぼせる存在が使う「許さない」にはその裏に具体的な報復が匂わされており、その報復を被りたくなければ「許さない」には従わざるを得ません。
 逆に、そんな報復など知ったことかと思えるのなら、その相手からの「許さない」は無意味なものになります。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/02/000035
 
 つまり、「許さない」と言ったときにその言葉が効力を持つかどうかは、言った人と言われた人の間にどんな力関係があるかによって決まるということ。
 実際の行動を制限しているのはそうした現実のパワーバランスであり、単に「許さない」という言葉だけでは何の効力もありません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/12/14/000707
 
 実際の力関係がない赤の他人に対して「許さない」と言ったところで、そんな空虚な言葉だけで人の行動を制限することはできないので、基本的に赤の他人への「許さない」は無意味です。
 しかし、それがどんなに無意味だろうと、何かに対する「許さない」という不毛な感情を共有することで、似たようなクレーマー同士が連帯感を得ることができます。
 それこそが、そもそも建設性のない「許さない」という言葉の、ほんのわずかな利用価値と言えるでしょう。 
 
 要するに、「許さない」は何か意味のある行為を指す言葉ではなく、ある種の負の感情を結集させるための旗のようなものでしかないのです。
 不快感ホイホイとなる旗のバリエーションとしては「~を許さない」を始めとして「~なんて許せない」や「~は決して許されない」や「~は間違ってる」などがあり、言葉自体には何の建設的な意味もありませんが、それなりに利用価値はあるようです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/09/065600
 
 ただ可哀想なのは、負の感情を結集するという運動家のような目的を持ってるわけではないのに、素朴に「許さない」「許せない」などの感情を抱えてしまっている人。
 単に「嫌いだ」とか「不快だ」というだけならば、そう感じた瞬間にその不快感を受け止めれば良いだけで、違う場面になったときに切り替えてしまえば大した後腐れはありません。
 でも「許せない」という感情の持ち方は、不快だと思った現状が改善されない限りはくすぶり続けるという意味で、場面ごとに味わう単なる不快感よりもはるかに粘着質です。
 
 基本的には無意味な「許せない」の利用価値とは、その負の感情を原動力に不快な現状を変更する、自分一人では現状変更できないときに協力してくれる共感者を集めるために旗として使う、さもなくば「許せないよねー」と管を巻いて会話を楽しむ、といったくらいのもの。
 そのどれでもなく、発散に結び付かない「許せない」であれば、そのようにくすぶり続ける負の感情は持ち主を蝕んでいきます。
 具体的な発散行動に結び付けるかその場限りの単なる不快感と切り替えてしまうかどちらかの手段で、無意味な「許せない」のしつこい毒性を解消していきたいものですね。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/25/084508


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http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300


 以前紹介した田島隆というタンバリン奏者は、自作のタンバリン一つでドレミのメロディを奏でたり、ドラムセットの音色まで表現するという、超絶プレイヤー。
 そんな彼が「世界一怪しく胡散臭いですが世界一安全で幸せな場所を目指します」という変わったテーマで行っている舞台が「タンバリン教」です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/11/01/232731
 
 こんなテーマを取り扱おうと思った彼の問題意識は「世の中の殆どが等身大ではない」ということ。
 世の中には沢山作るためのいろんな工夫や、良く見せるためにいろんな工夫などあり、食物や着物や人や音楽や仕事などすべてにおいて、不自然な物が自然とアナウンスされ、偽物なのに本物とアナウンスされているものが多すぎるために、本物とアナウンスされているものにこそ安心できない世の中になってしまったという懸念が彼を、胡散臭さの追究へと追い立てました。
 
 言うならばこれは、「本物だから選ぶ」だとか「自然だから選ぶ」だとか「良いとされているから選ぶ」という風に、どこかで定まっているであろう基準に従ってしか選択ができない人がうじゃうじゃ溢れている世の中へのアンチテーゼです。
 自分自身の極々個人的な基準で「好きだから選ぶ」と自信を持って言える人ならば、本物かどうかだとか、自然かどうかだとか、良いとされているかどうかなんて「外注の基準」に惑わされるはずがありません。
 そのような「外注の基準」に振り回される愚かさを分かりやすく風刺し、代替案として「たとえそれが偽物だろうが自分好みの世界を選びとっていった方が幸せじゃないか」という積極的なメッセージを発信することがこの「タンバリン教」の目的なんでしょう。
 
 卑近な例ではありますが、福岡の居酒屋に私の大好物の「ひつまぶし」という料理を出す店があります。

 ひつまぶしとは本来名古屋名物のうなぎ料理なんですが、私が好きなのは福岡の居酒屋でアレンジされ過ぎてしまい、もはやうなぎ料理でもなくなってしまったオリジナルとは似ても似つかない「ひつまぶし」でしかありません。
 ですが私は、それが本物だろうが偽物だろうが、福岡で食べる「ひつまぶし」の方が断然好きだからそれを食べ続けていくでしょう。
http://mrbachikorn.hatenadiary.jp/entry/2016/01/03/122757
 
 世の中には、根拠のよくわからないオカルト的な与太話をそれっぽく話に仕上げてお金をまきあげる錬金術師が、それこそ無数にいます。
 その人の話す物語があなたにとって心地好く、その空間にいることがあなたの幸せに繋がっていると感じられるなら、それが本物だろうが偽物だろうが付き合いを持てば良いでしょう。
 
 ですが「この人が本物のはずだから多少の違和感は呑み込んでもついていく」なんて思っているのなら、好き嫌いという自家製の基準をもう少し尊重してあげてはと心配になってしまいます。
 それが本物じゃないとか自然でないと分かったときに「偽物だから」だとか「自然じゃないから」なんて理由で切り捨ててしまえる人は、結局のところ好き嫌いという自家製のセンサーが発達していないということなので、いつまた別の「本物もどき」にひっかかってしまうか分かりませんからね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300
 「日本の民俗芸能がいかに心踊る文化であるか」を舞台や講座などを通じて全国に伝えている歌舞劇団田楽座は、私にとっての心の師。
 全国各地の民俗芸能の担い手たちに今も師事している田楽座は、地元に芸能を持たないような人にもそのエッセンスが少しでも感じられるようにと、「太鼓ばやし」「寄せ囃子」「海のお囃子」「海の太鼓」「山のお囃子」など、和のテイスト豊かな曲をいくつも創作し、全国の和太鼓チームの共有財産として提供してきました。
 
 和太鼓愛好家としての私の幸運は、そんな田楽座を師と仰ぐ太鼓チームとたまたま出会ったことで、田楽座の創った共有財産の恩恵を受けられたこと。
 田楽座の創作曲を演奏している太鼓チームの人とならば、初対面であっても一緒に演奏することで親交を深めることができたのです。
 
 元来人見知りで人との交流が不得手な私にとって、田楽座の伝える曲は交友の輪を広げてくれる絶好のコミュニケーションツールでした。
 福岡・長崎・鹿児島・兵庫・大阪・奈良・京都・福井・長野・静岡・神奈川・千葉・群馬・東京などなど、会えば一緒に演奏できる仲間が今では全国に点在しています。
 そんな風にして出会うことができた仲間と一緒に演奏し、そのようなな繋がる楽しさをより多くの人たちにお裾分けできる機会が、毎年お正月の三ヶ日に訪れます。
 
 まず、元日の午前0時と、正午には、福岡県福岡市の五社神社にて、初詣の参拝者たちをお囃子演奏で迎えます。
 そして、2日と3日の正午前後からは、大阪府大阪市の千日商店街や法善寺周辺にて、お囃子演奏と振る舞い酒と振る舞いぜんざいと獅子舞練り歩きで商店街の来訪者を迎えます。


 
 このように、私の場合は田楽座のお囃子でしたが、世の中には他にも多種多様な共有財産が存在し、それがなければ結び付くことがなかったであろう人たちを繋ぐ縁として機能しています。
 過去に誰かが造り出したであろう共有財産のおかげで互いに結び付き、未来に誰かと誰かを繋ぐはずの共有財産を造り出すことができるのが私たち人間なのです。
 
 缶コーヒーのCMでも「世界は誰かの仕事でできている」と言っていますが、ここでこうして不特定多数の人にも言葉を手軽に届けられるのは、インターネットを整備し、ブログの仕組みを築いてくれた人たちのおかげ。
 人と人とが繋がることでそれまではなかった新たなストレスが生まれることだってありますが、だからといって副作用ばかりを恐れて何のアクションも起こさければ、人生を広げる契機はどんどん死んでいきます。
 
 人生を広げていく際に避けることができない副作用が人と衝突することであり、そんな衝突は大抵「ちょっとした言葉の食い違い」から生まれます。
 そんな言葉の荒波に負けることなく、せっかく人間として生まれたからには、誰かの造った共有財産に乗っかって人生を豊かに育みながら、誰かの人生を豊かにする(かもしれない)新たな共有財産の構築に貢献していきたいと、私は思います。
 
 ですからこのブログでは、そんな言葉の荒波との付き合い方についての考察をコツコツと発信していきます。
 それは、共有財産の恩恵を受けて人生を豊かにするという営みを邪魔をされないため、そしてそんな「他人に人生を邪魔されないための知恵」を人類の共有財産にしていく壮大なプロジェクトの一員として自分なりの貢献するためです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300