間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -10ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

 あけましておめでとうございます。
 去年の2月から始めたこのブログも何とか続いており、2014年の間に合計67本の記事を発信することができました。
 今回は「なぜこんなブログをやっているのか」というそもそもの目的を、初心に戻って手短に紹介させていただきたいと思います。

 このブログを始めた動機は、確固たる信念を持たない人が楽しくのほほんと生きていくのを応援すること。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11771839315.html
 それは私自身が、確固たる信念をお持ちの立派な人よりも、そんなややこしいものを持たずに生きている人の方がはるかに好きだからです。

 私が嫌いなのは、ややこしい信念を持つ人が他人に対してしばしば行う「それは間違っている」というマウンティング行為。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11765430240.html
 そのような個人的な価値観を「正しいもの」として押し付けたい難癖屋から、押し付けられたくない人々を庇いたいという理由でこのブログを運営しているわけです。

 私のブログ記事のほとんどは、こうした様々な「正しさのマウンティング」を分析して、それらを受け流すための気の持ちようや跳ね返すための方法などを提案しています。
 つまりこの試みは、「私は確固たる信念を持っている」と主張してマウンティングを行っている全ての人に喧嘩を売ることでもあります。

 というわけで、これからもこのブログはいろんな「正しさ」に喧嘩を売ってしまうことになると思います。
 ですから、その「正しさ」を大切に想う人からは反感を買うでしょうが、それでも私はその「正しさ」に苦しめられている人を庇うことの方を優先していきたいと思います。


※以下に、人々を苦しめる「正しさのマウンティング」への対応策をまとめていますので、良かったら参考にしてみてください。
 
「自分の適性に合った仕事を見つけなければならない」
「自分と相性ぴったりのパートナーと出会わなければいけない」
     ↓↓↓
「結婚も就職も入れ歯と同じ」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11805447018.html

「あなたは本当に幸せか」
  ↓↓↓
「本当の幸せ」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11837972333.html
「生徒と語る自己啓発」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11913290477.html

「夢を持って生きるべきだ」
  ↓↓↓
「夢の呪縛」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11845466033.html
「打算で夢を語るな」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11844490476.html

「生きることに意味はあるのか」
   ↓↓↓
「オカルトの誘惑」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11866547864.html

「教師は立派でなければならない」
   ↓↓↓
「変なおじさん宣言」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11827675094.html
「制度は動機を内面化する」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11826041810.html

「宿題代行業者は悪だ」
「宿題代行業者は善だ」
    ↓↓↓
「嫌いな相手を追い詰める方法」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11964227903.html

「数学なんて将来役に立たない」
      ↓↓↓
「数学を勉強して何の役に立つのか」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11816736283.html  

「勉強しなければならない」
     ↓↓↓
「なぜ勉強しなければならないか」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11955556510.html  

「日本の英語教育は無意味だ」
     ↓↓↓
「日本の英語教育は無意味か」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11952961936.html

「13歳で結婚。14歳で出産。恋は、まだ知らない。」
   ↓↓↓
「流行と常識と思想」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11883543883.html

「こんなの常識でしょ」
  ↓↓↓
「常識の方程式」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11798926743.html

「場の雰囲気を乱すべきでない」
      ↓↓↓
「ろくでもない世界を変えるには」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11934830160.html

「友達は必要だ」
「友達は多い方が良い」
  ↓↓↓
「友達はいらない」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11819071275.html  

「基本的な善悪は誰もが身に付けるべき」
      ↓↓↓
「なぜ人を殺してはいけないのか」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11789717718.html

「世の中間違ってる」
   ↓↓↓
「世の中は間違ってますか」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11791749081.html

「正しくないものは今すぐなくすべき」
      ↓↓↓
「作り話の効用と賞味期限」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11916964470.html
「素敵な「大人の条件」」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11803032280.html

「支持政党がなくても投票に行くべき」
「投票するからには白票など言語道断」
「どこそこの党に入れた人は売国奴」
      ↓↓↓
「選挙に行かないと非国民?」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11967241170.html
「「支持政党なし」は詐欺か挑戦か」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11969358077.html

「外国人参政権を認めるべき」
「外国人参政権を認めるべきでない」
  ↓↓↓
「国家の幻覚」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11937555232.html

「集団的自衛権を認めるべき」
「集団的自衛権を認めるべきでない」
    ↓↓↓
「立憲主義か封建主義か」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11899694171.html

「被災地のために行動すべき」
    ↓↓↓
「集団心理という災害」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11931315596.html

「習い事はストイックに打ち込むべき」
      ↓↓↓
「非ストイックと篠笛カフェのススメ」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11921380362.html

「脳は意識や心を産み出すためにある」
   ↓↓↓
「身体性を優先せよ」  
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11872025361.html
「○×はしんどい」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11870976520.html
「失われた神を求めて」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11858425764.html

「腰痛や肩凝りの原因は身体の歪みにある」
     ↓↓↓
「脳は不調を自作自演する」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11907902645.html

「行儀よくじっとしているべき」
    ↓↓↓
「お行儀との距離感」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11877744259.html
「バガボンドに学ぶ運動のコツ」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11872230259.html

「人の印象を操作してはいけない」
    ↓↓↓
「ステマという魔女狩り」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11768346042.html
「責任ある大人のマナー」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11809789350.html

「刷り込みや洗脳をすっかり打ち破って望み通りに生きるべき」
    ↓↓↓
「洗脳だったら何なのか」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11885863539.html
「原子力発電は必要か否か」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11881159509.html
「核ミサイルまがいの潜在意識ビジネス」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11864744405.html

「子どもは正しく育てるべき」
     ↓↓↓
「おすすめの叱り方を紹介します」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11961590352.html
「どうせなら背中で語ろう」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11958674890.html
「私の強育論」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11949591621.html
「過干渉を戒める劇薬」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11945451867.html
「お利口なワンちゃんが好きですか」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11944370057.html
「数学が得意になったわけ」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11940651812.html
「歩兵教育の惰性」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11928284877.html
「バカリズムに学ぶ排泄の習慣づけ」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11896715667.html

「言葉は論理的に厳正でなければならない」
      ↓↓↓
「正しい子どもと複雑な大人」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11911157031.html
「内田樹と私」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11902714772.html  
「上辺だけで終わらないために」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11880028038.html
「アキレスと亀の詐術」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11836317237.html
「去勢されない強さ」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11834665484.html
「作り話の楽しみ方」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11799851146.html  
「人類を飼い慣らした物語」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11787898414.html
「ヒトの生存戦略」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11783753847.html
「文明人だけがハマる罠」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11786264193.html

「真理を探求するべき」
  ↓↓↓
「科学の目的」  
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11884786421.html
「数学の特権」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11821161395.html
「真理ムラの癒着と圧力」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11813540497.html


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 2014年の第47回衆議院議員総選挙において、日本の民主主義のあり方を根本から問い直すような衝撃的な出来事が起こりました。
 北海道比例ブロックで立候補した政党「支持政党なし」が有効票の4.2%にあたる104854票を獲得し、既存政党である社民党の50364票や次世代の党の38342票をはるかに上回ったのです。

 この密かな一大事はメディアでもだんだんと取り上げられてきており、「支持政党なし」に対する世間での評価は大きく別れています。
 それらのギャップは、この党名を有権者に対する詐欺行為ととらえるか、政治の現状に対する挑戦ととらえるかの食い違いから生まれているようです。

 詐欺行為として批判する人の多くは、この政党名の狙いが「事情を知らない有権者から票をだましとること」にあるとみなしています。
 こうした批判に対して代表の佐野秀光は、自身のブログの中で以下のように反論しています。
http://sanohidemitsu.seesaa.net/s/article/410997582.html

マスコミの方とお話をしますと、必ずと言って良いほどに「支持政党なし」という党名だと知らずに投票した人もいるのではって言われますが、それはマスコミの責任ではないですか。

こちらは隠れていたわけでもないし、堂々と名簿届出政党として立候補している訳ですし、選挙公報も政見放送も街頭演説も行っているわけですし、自分たちで出来ることは全てやっているんですよ。
ただ、11党ある名簿届出政党の中で、幸福実現党と支持政党なしだけが、報道されなかっただけで、私がひっそりと隠れていたわけではないんですよ。

また、政策を一切なしにしているのは支持政党なしに投票していただいた方を裏切らないためなんですよね。
我が支持政党なしが政策的に右寄りだとか左寄りだとしたら、それは支持政党なしに投票していただいた方を裏切ることになってしまいますからね。

マスコミの方にだけは一番言われたくないのが、だまし討ちしていたような言い方ですよ。
支持政党なしの存在を報道しなかったのはマスコミですからね。

 この反論にもあるように、有権者の票をかすめとることだけが目的だったのなら、立候補した後は何の活動もせずに隠れていた方がずっと多くの勘違い票を期待できたはずです。
 ですが彼はインターネットや選挙公報や政見放送や街頭演説などの場で、「支持できる政党が一つもない」という有権者の正直な声を、誰もが無視できない形で世に示したいとアピールし続けてきました。  

 さらには、北海道ブロックに比例で立候補するのに2人の候補者を立てる必要があるため、立候補のための供託金だけでも1200万円の出費が発生しています。
 これだけ本気でPRし、メディアなどにも露出している活動が、単に勘違いによる投票のみを目的になされているとは考えにくいでしょう。

 また、たとえ勘違い票が目的ではないとしても、政党としての主張そのものがハナから信用できないという批判の声もあります。
 それを検証するために、まずはホームページ中の「なぜ政策がないのか?」という項目に挙げられている党側の説明を見てみましょう。
http://xn--68jubz91pp0oypc1c.com/riyuu.html

現在様々な世論調査では「支持政党なし」が圧倒的に多くなっておりますが、その支持政党なしの方の投票する選択肢がありません。
よって仕方がなく自分の考え方に全て合致していなくても、考え方が近いとかその時に人気のある政党や政治家に投票するしかありません。

また支持政党がある方も、その政党の政策が10個あって7つ賛成で3つ反対でも他の党よりも賛成の政策が多いからこそ、その政党を支持して投票するだけで決してその党の政策が全部賛成で一括してお任せした訳ではないはずです。
そして選ばれた議員は自分の政策と違っていても当然に所属政党の政策に合わせざるを得ません。

支持政党なしでは、党としての政策はなく、議会において出てくる各種の議案や法案については、その議案や法案ごとに一つずつインターネット等を通じて皆様方にその議決に参加して頂き、一括してお任せ頂く訳ではなく個別にその議案や法案ごとに賛成多数であれば賛成に反対多数であれば反対へと、皆様方の使者として議決権を行使しに行くだけと考えております。
よって事前に党としての政策は一切ございません。

 これらの言い分を信用するならば、この党の一番の活動目的は「支持政党がない人々の民意」を正式な選挙結果にとにかく反映させること。
 それを理解した上で今回「支持政党なし」に投票した北海道ブロックの有権者たちは「どの既存政党も支持しない」という自分の正直な気持ちを実際の選挙結果にしっかりと表示させることができました。
 「支持政党なし104854票」という文言を公的な記録として残すなんて、無効票や白票や棄権という従来型の手段では叶わなかったことです。
 
 ですが、疑いの目で見るならば、信用できない点などいくらでも見つけることができます。
 まず、何よりも大きいのが「いざ議席を獲得したら支持者の意見など無視するのではないか」という、政治家のモラルに関する定番の疑念でしょう。
 そして、このモラルの問題をクリアしたとしても、次には「有権者の意見を集約するネット投票のシステムを公正かつ適切に運用できるのか」という実行能力の問題が待ち構えています。

 仮に「支持政党なし」が議席を一つでも獲得した場合、こうしたモラルや実行能力の問題をクリアしない限りは「選挙前の公約に反している」と詐欺師の烙印を押されるでしょう。
 ただ、もし本当にこのネット投票システムの本人認証や個人情報保護やセキュリティや管理者のモラルなどの問題をすべてクリアできたなら、そのインパクトの大きさは図り知れません。

 「支持政党なし」に議席を持たせて法案ごとにネット投票で直接意思表示しようとする国民が増えれば、それは立法を国会議員に丸投げしなければならない現在の日本の制度自体に対する不服申し立てとも言えます。
 単に「現在は支持政党がない」というレベルの話ではなく、「民意を反映できない現状の間接民主主義よりもネットを活用した直接民主主義の方が良い」という、国の政治原則に関わる話にもなりかねないのです。

 「支持政党なし」の主張が大がかりな詐欺なのか偉大な挑戦なのか、正直なところ私には判断できません。
 ただ、「言っていることが詐欺なのか挑戦なのか判断がつかない」という点だけで見れば、程度の差こそあれ他の政党や政治家も本質的には同じでしょう。

 選挙前の公約を実行しないままに、約束していない政策をどんどん実行していく与党。
 与党になれないと分かっているのを良いことに、できそうもない理想を無責任に約束する野党。
 ちゃんと管理できるかも分からないネット投票を約束する支持政党なし。

 どの政党が言っていることがマシなのか、判断するのは私たち有権者です。
 要は、投票の際の選択肢が一つだけ増えたということですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 日本では、選挙のたびにその投票率の低さが問題になります。
 メディアやネットには、選挙に行かない人の言い分を封じ込めるために、「投票しないやつには政治に意見する資格などない」「選挙に行かないやつは非国民だ」といった主張が溢れます。
 それに対して「政治に意見するのに資格がいるなんて法はない」という反発も起こります。

 この「投票に行くこと」ばかりを大袈裟に取り沙汰する風潮に対して、「日本は民主主義を根本的に誤解している」と説くのは弁護士の升永英俊です。
 彼は東京プレスクラブからのインタビューに、以下のように応じています。

「民主主義っていうのはね、権力闘争なんだよ!」
http://getnews.jp/archives/252927

民衆は権力闘争のプレーヤーなんだよね、本当は。
ところが観客の意識でしょ。
その代わり罵詈罵倒するんだ。

日本は権力闘争やることを馬鹿にして軽蔑して見下すでしょ。
民主主義の発想違うんですよ。

(権力闘争を軽蔑する民衆によると)
権力闘争やるのは政治家なんだよ。
あれは下劣な奴がやる事だ。
我々は大所高所に立って政治家をあれこれ見下すのが仕事だと。

(こういう当事者意識がない人は)
自分がだれに投票するかしか関心がない。
だから権力闘争にならないわけですよ。

こんなの一票なんてのはね一億人中の一人分しか発言力ないんだから。
この一票を二十票にして自分の発言力を増やして権力を握ろうと、自分の発言する政党に権力を握らせようという利害関係を感じてないんですよ。

投票に行く事はなんかいい人のすることで、行かない人は悪い人という仕分けじゃなくて。
要するにお金の取り合いでゴリゴリの権力闘争をやろうよっていうことじゃないと。
選挙っていうのはそういうもんだよと。

だからあなた一人で行ったってしょうがないんだよと。
行こうよってのはあなた一人で行こうよってことでしょ?
あなた一人で行ったって、たった一票じゃないのと。

あなた、自分と同じ意見の人を百人そろえるのに一年かけて頑張んなさい。
そういう運動をしなきゃ駄目だよ。
(支持者なり支持政党なりに)
寄付しなさいと。

 そして彼は、税金の使い道をめぐって国民同士で堂々と権力闘争を繰り広げるアメリカの例を述べながら、日本はそのような実のある民主主義を一回も経験していないと断じます。
 さらに、そんなアメリカでも実際の投票率は日本より低いのだから、日本の民主主義の成熟に必要なのは、投票率の向上よりも権力闘争のプレーヤーとしての当事者意識の方だと言うのです。

 そう言う彼自身は、権力闘争のプレーヤーの一員として、日本に「健全な権力闘争ができる環境」を整えるための運動をしています。
 全国民に平等な一票が与えられていない現在の選挙区割では、互いに権力闘争をしようにも国民一人一人の条件が全くフェアではありません。
 だから、一票の格差問題に違憲判決を行わない最高裁判事を国民審査という正統な手続きでやめさせて、国会や内閣や裁判所に「一人一票」を実現するための圧力をかけていこうというのが彼の活動目的だそうです。

「東京は一人0.23票、北海道は0.21票しかない。これで得をしているのは政治家だけです」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/28165
「『一人一票』に反対する最高裁判事を罷免することで本当の民主主義を実現しよう」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/28518

 私自身は、升永氏の「民主主義とは権力闘争だ」という見解そのものには全面的に賛成です。
 ですが、具体的な政治運動に加担しようとしない日本の民衆が、権力闘争に全く参加していないとも思いません。
 そうではなく、積極的な政治運動を嫌い、投票率をめぐる低レベルな口論くらいしか起きないこの冷めた現状こそが、日本で長らく積み重ねられてきた民衆同士の扇動合戦の結果なのです。

 民主主義がその他の統治システムよりもマシなのは、権力闘争に参加するためのルールが「公開されている」という点にあります。
 もしこのルールが公開されていなければ、封建主義時代のように暴力を背景にした統治者が力ずくで好き勝手をすることができます。
 一般の民衆がその権力闘争に加わろうと思ったら、民衆の方も武力蜂起などの暴力に訴えるしかありません。

 ですが、現代の日本は民主主義のルールが公開されているおかげで、暴力的な手段を持たない一般の民衆でも権力闘争の輪に加われることになっています。  
 日本の政治を変えたいと思う人がいれば、自分の意思に賛同する人を数多く集めて、国会議員の過半数を当選させれば良いのです。
 このように、選挙とは「どれだけ大規模に徒党を組み合えるか」という国民規模での派閥争いでしかありません。

 そして、日本人が得意とするのは論点をあらわにして正々堂々と議論することではなく、集団心理による同調圧力に訴えかけて他人の行動を遠回しに制限することです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11931315596.html

 升永氏が問題視する権力闘争を見下す傾向も、日本人らしい遠回しな説得工作の一つに過ぎません。
 この日本人特有の同調圧力の結果として、「表立った政治運動には加わらないが投票にだけは行く人が偉そうにしている」という、なかなか不思議な現象が起きているのです。

 これは、日本における権力闘争のされ方が分かりにくいというだけで、日本国民が権力闘争をしていないというわけではありません。
 日本の民衆の間では、金のぶん取り合いである民主主義のシステムよりも、メンツや体裁をめぐるマウンティングの方が流行ってしまっているということだけのことです。

 日本の低い投票率は、これまで日本で行われてきた国民同士の粘着質なやり込め合いの結果でしかありません。
 「選挙に行かない人は一人前と認めない」という類いの同調圧力は使い古され過ぎて既に賞味期限が切れかかっていますので、今さら日本の投票率を上げるのに役には立たないでしょう。

 そもそも「正しさを盾に人をやり込める」というやり口の効力自体が、だんだんと薄れている時代です。
 自分の賛同者を増やしたいのに思うようにいかずに「世の中間違ってる」と八つ当たりの説教ばかりしてしまっているような人は、「不愉快な説教」以外の魅力的な説得の手段を考えた方が賢明でしょうね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 2014年11月2日に放送された「ニュースな晩餐会」というバラエティ番組にて、小学校の宿題をお金で請け負う業者が紹介されました。
 それによると計算ドリルなどの単純な宿題の代行だけでなく読書感想文や絵日記の代行なども行われているらしく、代行が教師にばれないようにするためのテクニックなども業者本人の口から語られていました。

 こうした代行業者に怒っているという前ふりで登場したのが、教育評論家の尾木直樹です。
 彼はこの番組の中で、様々な言葉を使いながら代行業者のイメージを落としにかかっていました。

これは教師を騙す教育詐欺だ。
悪徳業者の典型だ。
子どもにそんなズルを教えたらろくな大人に育たない。
国を滅ぼす行いだ。
もはや教育犯罪だ。
違法性はなくても、教育関係者から言わせたらとんでもないことだ。

 この尾木直樹の言い分に対し、番組では受験生の親の言い分が肯定的な意見の代表格として紹介されていました。
 街中でインタビューを受けていたある親の感想は、「いいんじゃないか」「学校の宿題を業者に任せれば本人は受験勉強に専念できる」といったものでした。

 それらの言い分を踏まえた上で、スタジオでは芸能人たちによる 「宿題代行サービスは善なのか?悪なのか?」というテーマで討論が行われました。
 まず最初に参加者それぞれの立場を明らかにしたところ、代行業に賛成だったのが5名、反対だったのが4名でした。

 全体を通して印象的だったのは、賛成派の芸能人はそれぞれの立場の合理性を堂々と主張できるのに対し、反対派の芸能人たちは賛成派たちへの人格攻撃しかできていなかったということです。
 反対派で具体的な議論をしようとしていたのは専門化の尾木直樹だけで、他の反対派芸能人たちは「そうだそうだ」と権威に乗っかっているだけでした。

 たとえば芸人の千原せいじは「全く悪じゃないと思う、善やこんなもん」「宿題なんて先生の手抜き」「学校だけでちゃんと教えといたらいい」「評価するためものを増やしているだけ」などと自分なりの意見を堂々と述べていました。
 これに対してタレントのYOUは、千原せいじの発言中に「違いますよね~」とひそひそ声で尾木直樹に同意を求め、彼の話が終わると顔をしかめながら「育ちが悪い」と人格否定をして笑いをとるだけで、彼の発言に対する具体的な反論は何一つしませんでした。

 また、京大卒のグラビアアイドルだという紫野レイは「宿題って勉強ができない子のためのものだと思うので、受験勉強を頑張りたい子が代行業者を使っても何の問題もない」と主張し、周囲を驚かせました。
 自身も宿題は邪魔だと思っていたかという質問に対して「(分かりきったことをやるのは)ただの腕の運動だった」 と正直に答えると、 薬丸裕英など反対派の芸能人たちは「可愛い顔してなんてことを言うんだ」と信じられないような素振りで騒ぐだけで、根拠のある反論は何もしませんでした。

 このように書くと、私自身も宿題代行サービスに積極的に賛成しているように受け取られるかもしれませんが、そういうわけではありません。
 不要な誤解を避けるためにまず確認しておきたいのは、「好きか嫌いか」「賛成か反対か」「善か悪か」という3つの論点はどれも別物だということです。

 その上で私の好みを述べるならば、代行サービスを堂々と使う人よりは使わないでおこうとする人の方が好きです。
 ですが、代行サービスがあってはならないとは思いませんし、代行業者とその利用者に向かって「あなたたちは間違っている」と非難して回りたいとも思いません。
 ただ、私と彼らとでは好みが違うというだけです。

 論点ごとに整理するならば、代行サービスのようなものは嫌いだが、その存在を許せないとまでは思わないからどちらかといえば容認してしまっている「消極的な賛成派」であり、そもそもが好みの問題だと思っているから「善か悪か」を問うこと自体が馬鹿馬鹿しいということになります。
 ただ、自分の個人的な好みを「善悪」という別の言葉にすり替えて、それがあたかも世の既成事実であるかのようなふりをする言いっぷりこそが私にとっての一番嫌いなことだから、それを指摘するためにこうして文章化しているというだけなのです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11791749081.html

 つまり、表向きには「善か悪か」と煽られていたこの議論も、実質的には個人的な好き嫌いの対立でしかありません。
 そんな好き嫌いの食い違いがもっとも顕著に現れていたのが、番組中に起きた絵日記の代行をめぐる言い争いです。

 まるで子ども本人が描いたかのように作文や絵日記を作る技術を業者が紹介しているときに、女優の波乃久里子は「寂しいお仕事だな」と述べて業者のあり方を感情的に揶揄しました。
 さらに薬丸裕英は「我が家では作文や絵日記をすべて保管しているが、これだと何の思い出にもならない」と代行行為の虚しさをアピールしました。
 これらの感情論に対して代行業者の一人は「思い出として残したい人は自分でやったらいいが、不必要な人もいる」と答えて、それらの反感は価値観の違いでしかないと説いていました。

 「受験勉強を頑張っている子で、絵日記が必要だなんて思っている子は少ない」と絵日記という宿題の存在意義に疑問を呈する紫野レイに対して、尾木直樹は「感じていることを文章で書き、どんな絵を描くかを考えることが大事」と教育における大義名分を説きますが、 彼女は「必要と言うのは他人の押し付け」と返していました。
 東大卒タレントの八田亜矢子も「絵日記をやらなかったからって変な大人になるわけじゃない」と加勢しましたが、尾木直樹は「そんな変なエリートが育つから日本は駄目なんですよ」と人格攻撃で応じていました。

 結局このような不毛な言い争いに決着がつくはずもなく、女子大生の代行業者が使おうとしたデータの誤りを尾木直樹が指摘して「あなたたちはいい加減だ」とあげつらう揚げ足とりのシーンが番組のハイライトとして編集されてこのコーナーは終了しました。
 ですが、この討論の裏では「代行サービスの是非を問う」という茶番よりもはるかに重大な出来事が進行しており、もう一人の代行業者はそのことを冒頭の時点で冷静に語っていました。

 彼が最初に述べたのは、尾木直樹のような評論家が「宿題代行サービスは問題だ」と話題にしてくれたおかげで宿題代行サービスという業界の市場規模が急激に大きくなったということ。
 つまり、この大袈裟な討論会を開いてゴールデンタイムに放送してくれた時点で、表向きの討論に勝とうが負けようが彼らは「潜在顧客へのPR」という当初の目的を果たせていたのです。

 実際、今回の放送を見て宿題代行サービスの存在を初めて知り、「そんなものがあるなら是非使いたい」と思った人もいるでしょう。
 そして、実際に使ってみたいと興味を持つような視聴者の耳に届いたのは、反対派からの高圧的な人格攻撃の方ではなく、利用者や業者を励ますような賛成派の堂々とした主張っぷりの方ではないでしょうか。 

 この番組を見て「代行業者が悪であることが示された」と思っている人がいるとすれば、それは代行サービスのようなものがもともと嫌いで、その嫌いなものを「悪だ」と断じるような発言を聞きたがっていた人です。
 逆に、「善であることが示された」と受け取った人はもともと、「代行サービスは別に悪くない」と誰かに言って欲しかった人です。
 この討論を見た人は、自分の好みに合わない主張の持ち主をもっと嫌いになって終わったことでしょう。

 私が言いたかったのは、善悪とは常に好き嫌いで語られるものだということ。
 日常的に使われる「正しさ」なんて言葉も、結局は「好き嫌い」の言い替えであり、嫌いな相手を追い詰めるための口実でしかありません。

 私は数学という世界で、好き嫌いの言い換えではない「正しさ」という基準と長年付き合ってきました。
 そうした経緯からか、私は「好き嫌い」の言い換えとしていい加減に濫用される「正しさ」が大嫌いです。

 この私の文章も「嫌いな相手を追い詰めている」という点では、私が嫌う「正論を振りかざす人々」と同じことをしてしまっています。
 ですが、私は「好き嫌いを正しさで言い換えるのが嫌いだ」と言っているだけで、決して「間違っている」とは言っていないことに注意してください。

 私は「これが正しいからこう主張する」という責任の逃れ方はしません。
 私はこれからも自分の好みだけを根拠にしながら、「好きなものは好きだ」と応援し、「嫌いなものは嫌いだ」と発信していこうと思います。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11961590352.html

 そして、根拠の怪しい「正しさ」に惑わされている人がいたら、人を追い詰めるためのただの口実と真面目に付き合ってあげる必要はないと伝えたいです。
 なぜって、それこそが私好みの生き方ですからです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 あなたは正しい叱り方を知っていますか。
 「叱る」という行為は、家庭・学校・習い事・職場など、社会のさまざまな場所で行われます。
 中には「どう叱っていいのかわからない」と悩んでいる人もいるでしょう。

 私は「このように叱るのが正しい」と言える方法なんて知りませんが、「叱るときの心がけ」で良ければ私のおすすめを紹介できます。
 それは、自分が与えるかもしれないすべての不快感に責任を持つということです。

 私の言う「責任を持つ」とは、誰かに文句を言われたときに「自分のせいでその不快感が起こったのだな」とシンプルに受け止められる精神状態のこと。
 何はともあれ、自分に向けて文句が来るからには、自分の何かが相手を不快にしたということです。
 仮に相手の主張する内容に正当性が全くなかったとしても、残念ながら「自分が相手を不快にした」という過去は動かせません。

 こうした私の言い分に対して、自分は間違った行動を正しているのだけなのにそれを不快に思われたからと言って「自分のせい」と受け止めるなんて納得がいかないという人もいるでしょう。
 そのように思ってしまう人は事態をシンプルには受け止め切れておらず、ことの責任を「正しさ」という自分以外のものに押し付けようとしています。

 自分のやったことが正しかろうが正しくなかろうが、結果として自分が相手を不快にしたことには変わりありません。
 「正しさ」という理屈に逃げてしまわずに、まずは自分の引き起こした結果をシンプルに認めるところから始めてみましょう。

 私は別に、どんな理由があっても相手を不快にさせたなら自分の非を認めるべきだと言っているわけではありません。
 そうではなく、「間違っていたなら非を認める」とか「正しい行為なら許さなれる」なんて余計なことを考えている時点で、自分の引き起こした事態を冷静に受け止められる精神状態になっていないと言っているのです。
 「責任を持つ」というのは、「自分に返ってくるリアクションはすべて自分が引き起こした」という現実から逃げないというただそれだけのことです。

 教育に関わる人の多くは、「相手の将来のためにはこうすることが必要だ」と思って教育を行います。
 ですが、教育者は神ではありませんから、そうして行われた教育活動が本当に相手のためになるかどうかは結局のところ分かりません。

 その教育活動は、すんなりと相手に受け入れられるかもしれませんし、激しい反発に会うかもしれません。
 また、そのときは反発されたとしても将来「おかげさまで今の自分がある」と感謝されるかもしれないし、逆にすんなり受け入れられているように見えても将来「あの不当な支配のせいで前向きに生きられなくなった」と糾弾されるかもしれません。

 教育は相手あっての営みですから、教育者自身がいかに熟練しようとも、望んだ結果だけを引き起こすことは不可能です。 
 もちろん「できるだけ多くの望んだ結果を出したい」と教育方法を試行錯誤するのは大事なことです。
 しかし、「望んだ結果しか出したくない」と駄々をこね、「望んだ結果が出ないのは相手が悪かったから」「正しい教育法を誰も教えてくれなかったから」などと自分以外のものに責任を押し付けるのは大人のすることではありません。  

 ですから、指導的な立場の人は「自分の行いが望まない結果を引き起こす可能性だってあるが、それでも自分はこう関わる」と覚悟を決める必要があります。
 それが、自分が与えるかもしれないすべての不快感に責任を持つということです。

 私は『どうせなら背中で語ろう』という記事の中で、他人から「しなければならない」と無理強いされたものに前向きな興味なんて抱けるはずがないと書きました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11958674890.html

 これも、「しなければならない」と強制するのが間違った教育で、何も強制しないのが正しい教育だと述べたわけではありません。
 そもそもどんな動物だって弱肉強食という「強制の応酬」の下に生きていますし、私たち人間も基本的には同じ原則の中で生きています。

 私が危惧していたのは、「正しい」と思って強制を正当化している人ほど己の行動が相手に与えた不快感に鈍いということ。
 いくら「正しいこと」をしたからって強制には不快感という副作用がともないます。
 「その副作用を避けたいと思うのなら背中で語るという方法もある」というのがこの記事の意図でした。

 逆に、「副作用があったとしてもここだけは従わせなきゃいけない」「興味の質は前向きでなくてもかまわない」と思えるのであれば、潔癖的に強制を避ける必要はないでしょう。
 大事なのは「リスクはあってもそれを踏まえた上で私はやる」という有責感の自覚であって、「正しい強制ならば許される」という責任逃れのための言い訳ではありませんから。

 また、『なぜ勉強しなければならないのか』という記事では、私たちは近代的な文明社会に支配されているから学校での勉強を強制されているという話をしました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11955556510.html

 この理屈から言えば、現役の高校教師である私は、授業の中で子どもたちに勉強を強制する存在。
 もし授業を成立させるための指示に従わない生徒がいれば、何らかの指導を与えて指示に従わせようと試みます。

 ですから、授業の中で私から受けるこうした支配に、不快感を覚える生徒も少なからずいるはずです。
 私はそのことについて、生徒に悪いとも思いませんし、逆に理屈を付けて正当化しようとも思いません。 
 ただ、「これを不快に思う子もいるだろうな」と想定し、そのリスクも承知の上で「それでもやる」と覚悟を決めて選択するだけです。

 この「想定の上でそれでもリスクを選ぶ」という心理的プロセス抜きに、単純に「正しいからこうする」と信じこんでいるだけの人は、自分が与えている不快感の質にどこまでも鈍感になれます。
 正しさを信じて鈍感でいられるのはある意味幸せなことかもしれませんが、相手が鬱になるなどして「自分は鈍感なだけだった」と気付かされたときには、信じていた分だけショックも大きいでしょう。

 リスクの想定と覚悟という考え方については『責任ある大人のマナー』という記事の中で、自分が相手に及ぼす影響を当たり前に考慮に入れて全ての言動と付き合うことの重要性を説いています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11809789350.html

 人が他人に対して何かを訴えているとき、そこで起こっているのは無垢な心情の告白や事実の記述なんかではなく「己の影響力の拡大」という手垢まみれの説得工作です。
 「是か非か」という作られた基準にばかり捉われていると、「自分がその泥臭い説得合戦の渦中にいる」ということをついつい忘れがちになります。

 しかし、叱るというのは自分の影響力を行使する行為です。
 どこの誰が「この叱り方が正しい」と保証したところで、「力を使う」という事実に変わりはありません。

 「自分が与えるかもしれないすべての不快感に責任を持つ」とは、「自分は力を使っている」という犯意を当たり前に自覚して生きるということでもあります。
 たとえ自分の叱り方が下手でも、「自分が力を使えば相手に影響を及ぼすことになる」と自覚することで、誰かが決めた「正しい叱り方」とやらに振り回されずに覚悟を決めることができます。

 「正しい叱り方が分からない」とオロオロするのは、覚悟が定まっておらず責任から逃れたいからです。
 生きている限り「影響力の応酬」という現実から逃れることはできません。

 「正しさ」という理想郷に逃げこんだところで、自分がやっていることに鈍感になれるだけで、あなたは結局力を行使し続けるのです。
 「こうあるべきだ」と保証してくれる思考停止の誘惑に悩まされている暇があったら、この世界で力を使いながら生きていく覚悟をとっとと決めてしまいましょう。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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給食残してしかられた
俺の体を本当に心配してたのか
嫌いなもの口につめこまれた
常識的な発言と非常識な行動だ
うまけりゃ喰う

 これはザ・ハイロウズの『ゲロ』という曲の冒頭の歌詞です。
 ここには「あなたのため」という大義名分のもとに、嫌いなものを無理矢理詰め込まれてしまう人々の不満が描かれています。

 元歌の方では、この後に「まずけりゃ吐くぜ、遠慮なく吐くぜ」と、力強い拒絶のメッセージが続いていきます。
 しかし、幼い子どもたちの多くは支配の現実にそこまで強い抵抗もできず、自分にとっての「まずいもの」でもしぶしぶ飲み込むハメになっています。

 大人の立場から言えば、たとえしぶしぶであってもとにかく飲み込ませてしまえば、それらの「まずいもの」はその子の血肉になるはず。
 食べ物は栄養になりますし、勉強は教養や受験の武器として将来のためになりますし、倫理観やマナーなどはその社会で適応するために必要となります。

 ですが、当の子どもたちには「まずいものを無理強いされた」という印象の方が先に刻まれてしまいます。
 「常識的な発言と非常識な行動だ」という歌詞にもあるように、本人が心から望まなければどんなに価値のあるものだろうが「不愉快な支配の象徴」でしかありません。
 
 自立心が弱く支配に屈服している間はそれらの「まずいもの」を表面的に受け入れるかもしれませんが、そうした負の感情は「大人たちが勧めたがる価値」に対するブレーキとして働きます。
 その反動は、体に良いとされる食べ物ほど受け付けず、大切とされる勉強には見向きもせず、しまいにはグレて社会的規範を無視するという態度になって現れることもあります。

 また、こうした大人からの支配に対して、子どもが反抗の意志を表明できているのならまだマシな方。  
 もしその子が「自分がまずいと思っているもの」であっても「良いとされているもの」なら我慢して受け入れる「良い子」をいつまでも演じているのなら、発散されることなく蓄積した負の感情はその子を密かに蝕み続けているはずです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11944370057.html

 子どもの教育に関わる大人たちにとっての一番の理想は、子どもたち自身が勝手に「大人が良しとするもの」に興味関心を抱いている状態。
 しかし、子どもたちが自然と大人たちの望み通りになることはなかなかないので、それを不安に思う大人たちはついつい「自分が良しとするもの」を教え込もうとします。
 そのおかげで、子どもたちの興味の質は「大人からの不愉快な支配を上手くやりすごす」という後ろ向きなものになってしまいます。

 ですから、大人の理想通りに「子どもに前向きな興味を持って欲しい」と願うのならば、「目を向けて欲しいこと」について余計な干渉をしないのが最良の選択になります。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11940651812.html
 それで子どもたちが「世間で良しとされるもの」に前向きな興味を持つのかと言えば別に何の保証もありませんが、少なくとも「良しとされるもの」を「不愉快な支配」とセットで突き付けることだけは避けられます。
 
 これはあくまでも、興味のスタートラインをマイナスにしてしまわないための大前提。
 そこから子どもたちがどんなジャンルに「沸き上がるプラスの興味」を持つかはあくまでも本人の問題であって、他人が決定できることではありません。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11949591621.html

 ただ、私たち動物に備わった生存の本能は、現に「快適に生きている同類」の行動を見習うことで、自らの生存の可能性を高めようとする傾向を持っています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11945451867.html
 私たちの興味関心が「楽しそうにしている人」の姿に触発されることが多いのも、この生存の本能が働いているからです。

 コンピューターゲームにばかりハマってしまう子どもが増えているのも、結局はこの生存の本能が活発に働いているため。
 文明社会のがんじがらめの圧力に支配されてストレスを感じている子どもたちにとって、ゲームはその現実の支配から一時期に逃れたような気分になれる貴重な場所なのです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11955556510.html

 このゲームへの逃避行動を「うまいもの」だと捉える友達が身の回りにいれば、その「うまそうにしている様」に生存の本能が触発されて、ゲームに対して前向きな興味を持つ可能性も高くなります。
 逆に言えば、子どもが「世間で良しとされるもの」に前向きな興味をなかなか示さないのは、そもそもそれらに前向きな興味を抱いている「生き生きとした大人」が身の回りにほとんどいないからです。
 
「自分は嫌いだけど健康に良いから食べさせねば」
「自分は苦手だけど大事だから勉強させねば」
「自分もしぶしぶ従ってきたけど、やっぱりマナーや道徳だけは身に付けさせねば」

 こんな姿勢の大人たちが頻繁に子ども関われば、まず伝わるのはその人の「実は好きではない」という感情の方であり、次に伝わるのは「自分でも嫌だと思っているものをこちらに押し付けようとしている」という支配の現実です。 
 まっとうな生存の本能が、そんな「まずそうなもの」をすすんで受け入れるはずがありません。

 したがって、子どもが前向きな興味を抱く可能性を高めたいのなら、まずは子に関わる大人自身がそれを「うまいもの」だと感じること、そしてその大好物を決して子どもに押し付けることなく、ただ自らがうまそうに味わうことです。 
 実際、知的好奇心が旺盛な親のもとで触発されながら育った子は、特に「勉強しろ」などと強制されなくても学校の勉強でも好成績を上げる傾向があることが知られています。 

 だからといって、子どもの前でだけ知的好奇心があるようなフリだけして見せても、その演技の裏にある「どうにかして子どもをコントロールしたい」という支配欲は簡単には隠せないので、「前向きな興味の触発」という観点からは逆効果になる可能性が高いでしょう。
 大人自身が「その姿に子どもが触発されるかどうか」なんてことがどうでも良いくらいにハマり込んでみて初めて、それを見て「なんだかうまそうだ」と関心を持つ子が現れるのだと思います。

 私は数学好きが高じて高校で数学の教師をしていますが、すべての子どもたちが数学に対して前向きな興味を持つ必要なんてないと思っています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11821161395.html
 だから、子どもたちに「数学の面白さを分からせる」といった興味の押し付けを授業の中でしようとは思いませんし、興味の触発に関しては「世の中には数学を楽しんでいる人もいる」という事実を自分の姿を通じて示すだけで十分だと思っています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11827675094.html
 その上で、好きでもないのに数学を勉強しなきゃいけないという大多数の生徒の苦悩に共感しつつ、彼らが必要な範囲で数学を習得するためのサポートに徹しています。  
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11826041810.html

 また、和太鼓好きが高じて初心者向けの和太鼓体験などもしていますが、そこでは「楽しむための和太鼓」のみを追及することにしています。
 生真面目な日本人の気質なのか、いざやり始めると「間違わずに上手に演奏すること」や「そのためのストイックな姿勢」を周囲に押し付け始める人もでてきますが、私の主催する場所では「多くの人が楽しむ邪魔になるならそんな真面目さはいらない」という方針を打ち出すことでそうした仲間内での圧力の発生を予防することにしています。
 そんな場の雰囲気に触発されたのか「和太鼓の技術は未熟でも思いっきり感情豊かに演奏するのは得意だ」という人が何人も現れ、熱心にハマりこんだオマケとして技術も後から伸びていってます。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11877744259.html

 人は「うまけりゃ喰う」生き物です。
 まずそうにしている人からの説教なんて、仮に支配力があったとしても説得力はありません。
 何かを人に勧めたいのなら、自らの背中で語るのが一番の近道ではないでしょうか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 なぜ勉強しなければならないのか。
 これは、近代教育の制度がすでに完備された国々で、多くの子どもたちが頻繁に口にする愚痴です。

「数学を勉強して何の役に立つのか」
http://s.ameblo.jp/futaproject/entry-11816736283.html
「日本の英語教育は無意味か」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11952961936.html

 逆に、近代的な学校教育の制度が整備されていない国では、そのような声を聴くことは稀です。
 土着の伝統的な価値観の中で育っていく子どもたちは、その世界で生きていくのに無関係な「学校の勉強」なんて強制されることがないからです。

 そんな伝統的な価値観が支配する国でも「教育を受けたい」「教育を受けさせたい」と切望する人々が現れることがあります。
 それは、国全体でより多くの人々が生き残っていくためには、発達した近代テクノロジーの助けが必要だと判断するからでしょう。

 ですが、こうした近代教育の導入には激しい抵抗が起こることもあります。
 それは、近代教育がもたらすものがテクノロジーだけではないから。 
 近代教育に付き物である合理主義思想が持ち込まれることによって、彼らの大切にしてきた伝統的な価値観が危機にさらされることを恐れるからです。

 国家が教育を制度化する目的は、テクノロジーの発展と価値観の刷り込み。
 「国家による価値観の刷り込み」という営み自体は、北朝鮮でも中国でも韓国でも日本でもアメリカでもイギリスでもドイツでもフランスでも、どんな国でも多かれ少なかれ行われています。

 というか、家族、学校、会社、地域社会、国家など、たとえそれがどんな共同体であっても、その共同体が存続していくためにはメンバー同士が何らかの流儀を共有する必要があります。
 つまり、共同体が存続したいと願っている限り、そこに価値観の刷り込みという営みが生じていくこと自体は仕方のないことです。

 ですが、西欧で始まった近代化の背景には「支配の現実から人間を解放すべきだ」という、強大な大義名分が控えています。
 この近代思想はあくまでもヨーロッパ発祥のローカルな思想のはずですが、近代教育はこの大義名分を「ある地方における特殊な思想」としてではなく、合理的な理性によって発見された「全人類共通の普遍的な法則」として刷り込んでいきます。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11821161395.html

 人間はすべて自由を求め、物質的に豊かになることを求め、対等になることを求め、衛生的で健康的な生活を求めるものであり、共同体はそれらの価値を実現すべく進歩していくものである。
 こう刷り込んでいく近代思想は、結果的に世界中で育まれてきたそれぞれの伝統的な価値観を「不条理なもの」「非合理的な思い込み」「近代化を阻む障害」として一掃しようと働いてしまいます。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11883543883.html

 こうして、近代合理主義思想の刷り込みだけは「必要な教育」として正当化されるが、それに反する思想の刷り込みは時代遅れだと糾弾される国際的な同調圧力が出来上がります。
 「近代思想が理想とする価値の実現にどれだけ貢献したか」を評価して褒め称えるノーベル賞なども、こうした政治的圧力の一端を担っています。

 国連は「人権」「人道」という大義名分を掲げて価値観を画一化しようと圧力を強めていますが、実際に「伝統的な価値観がどこまで解体されているか」という事情は国によってさまざま。
 日本もこの近代思想の圧力の中でいくつもの伝統的な価値観を解体して「西欧型価値観を共有する良きパートナー」を演じてきましたが、それでもまだ「欧米に比べて遅れている」という批判を頻繁に被っています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11928284877.html

 一方、ロシア、中国、中東諸国などは西欧型価値観の伝染に抵抗しており、自由や民主主義などを普遍的な価値とは認めていません。
 それでも、西欧型近代思想は現代のこの世界で強大な影響力を行使しているため、価値観を共有しないこれらの国々もある程度までは近代思想と歩調を合わせざるを得ない場面が出てきます。 

 こうして眺めてみると、近代とはこの文明社会を牛耳っている巨大なヤクザ組織のようなものです。
 国連という寄り合いで一応の盃を交わしあった国民国家という組員たちは、近代思想の存在を完全に無視してこの国際社会を渡っていくことはできません。

 つまり、私たち現代人が命懸けのサバイバルをせずともぬくぬくと生きていけるのは、近代という巨大なヤクザ組織の傘下で文明社会のおこぼれに預かっているからです。
 他の動物に食い殺される心配をしなくて済むのは、大型獣を駆除できるだけの武力が人間にはあるから。
 地域住民からの略奪や殺人などをそれほど警戒しなくても済むのは、その共同体ごとの価値観や掟が住民に刷り込まれており、そこから逸脱しないよう法律や警察によって取り締まられているから。
 他国からの侵略戦争を常に警戒せずに済んでいるのは、国防を軍隊や自衛隊などに丸投げし、互いに「国際社会の仲間同士」という役柄を演じることでよその国からの軍事侵攻を牽制し合っているから。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11783753847.html

 ですから国家は、国という共同体が生き残っていくために、教育制度を通じて国内のテクノロジーを発展させ、国民に価値観を刷り込んでいこうとします。
 そこで国民に強制されるのが学問であり、そのおかげで「なぜ勉強しなければならないのか」という愚痴が生まれていくのです。

 この愚痴を緩和して国民を学問に誘導するために使われるのが「勉強は個人の幸せに繋がる」という方便であり、勉強の成果次第で社会的上昇を保証する公務員試験などの社会システムです。
 これによって「求める人が自ら望んでやるもの」だった学問は、「共同体存続のために押し付けられるもの」「社会的上昇への野心をくすぐる道具」へと貶められていきました。

 こうした世の中の状況をいくら嘆いたところで、近代という巨大勢力は現に圧倒的な支配力を行使し続けています。
 私たち文明人は近代という地上最強のヤクザの構成員として生まれてきましたので、その現実が気に入らないのならこの文明社会から脱退する道を探るしかありません。

 しかし、近代的な文明社会から脱退する覚悟がないのであれば、現に存在しているこの力関係と折り合いをつける必要があります。
 学問に興味のない人であっても学校で獲られるものが何かあるとすれば、それはこの社会と折り合っていくための生活の知恵。

 私自身は「数学を教える高校教師」という役割を演じることで、この西欧型文明社会の支配的な圧力と折り合いをつけています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11826041810.html
 私は近代思想が作り上げた「個人の幸せのために勉強は必要」という方便を生徒に堂々と刷り込んでいける「理想的な教師」ではありませんが、やらざるを得なくて数学に取り組んでいる生徒たちに対して「支配される苦悩に共感を示しつつ彼らが必要とする範囲で数学を伝える」という仕事にはとてもやり甲斐を感じています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11827675094.html

 なぜ勉強しなければならないのか。
 それは私たちが近代的な文明社会に支配されているからです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 巷でよく言われている学校教育への文句に「日本の英語教育は効率が悪い」というものがあります。
 このクレームの主な根拠は、中学・高校と6年間も英語教育に時間を費やしておきながら、ほとんどの日本人が学校教育だけでは英語で話せるようにはなっていないというものです。

 そんな日本の英語教育を見限って、英語運用能力を身につけさせるための効率的な方法として「子どもを中等教育から海外留学させる」というオプションを選択する家庭も少しずつ増えているようです。
 詳しくは以下に紹介する内田樹のブログ記事に書かれていますが、富裕層は欧米の寄宿学校へ子供を送り、それほど富裕でもない層ではアジア諸国に家族ごと移住して子弟をインターナショナル・スクールに通わせ、父は単身日本に残って働いて送金するというかたちが選ばれているということです。

「グローバリズムと英語教育」
http://blog.tatsuru.com/2014/09/03_1101.php
「英語教育論についての再考」
http://blog.tatsuru.com/2014/09/14_1017.php

 計算高い方々のこの選択が期待したような効果をさほど上げられていない実態とその理由についての解説は上のブログ記事に譲ることにして、ここではまず日本の英語教育の実態とその問題点について考えてみます。

 まず、日本での英語教育は実際には何のために行われているのでしょうか。
 これに対しては「実際に英語で会話するためではなく、英文を読むため、受験を通過するためにしか授業がなされていない」という批判が一般的ですし、私自身もその現状認識自体には同意できます。
 私が疑問に思うのは「その現状のどこが問題なのか」ということです。

 日本国民の大多数が「英語で話せるようになりたい」と切望しており、学校自身もその要求を満たすことを約束しておきながら果たせていないというのであれば確かに問題でしょう。
 ですが、そもそも「英語で話せるようになりたい」と本気で望んでいる日本国民がどれだけいると言うのでしょうか。
 多くの英語教育推進論者が「こうすれば英語教育は上手くいくはず」と好き勝手な提言をしていますが、当の国民自身が「英語で話せるようになりたい」と切望しない限りそれらの提言は絵に描いた餅でしかありません。

 もし仮に、日本が「英語で話せないとまともな職につけず安定した生活はなかなか送れない」ような社会であれば、国民の「英語で話せるようになりたい」という欲求は自然と高まっていくと思います。
 しかし、日本はまだまだ「英語なんか身に付けなくても貧困に苦しまずに生きていく選択肢はいくらでも残されている」ような比較的裕福な社会です。

 現在の日本社会における英会話のスキルとは、選択可能な数多くのオプションの一つに過ぎず、生存のための必要不可欠な要素ではありません。
 ですから問題があるとすれば、そのような「特に必要とされていないこと」がまるで必要不可欠なことであるかのように大袈裟に宣伝されている現状の方です。
 もともと必要のないことが達成できていないからといって、それを嘆く必要などないのです。

 英語教育推進論者たちは「そのうち日本も英語が話せないとまともに生きていけない社会になるんだ」としきりに脅したがりますが、日本がまだそんな社会になっていないというのはむしろ幸せなこと。
 英語が話せないとまともに生きていけないような「不幸な社会」の到来に備えて先回りして準備することと、そんな「不幸な社会」を実現しないための努力をすることとでは、後者の方がはるかに優先順位が高いオプションのように感じます。

 日本における英語教育も、元はと言えば「日本を英語が話せないとまともに生きていけない社会にしないため」に始められたものです。
 この件に関しては内田樹が何度となく論じているので、彼のブログからその説明を抜粋してみましょう。
http://blog.tatsuru.com/2010/05/12_1857.php

植民地ではオーラル中心の語学教育を行い、読み書きには副次的な重要性しか与えない。
これは伝統的な帝国主義の言語戦略である。

理由は明らかで、うっかり子どもたちに宗主国の言語の文法規則や古典の鑑賞や、修辞法を教えてしまうと、知的資質にめぐまれた子どもたちは、いずれ植民地支配者たちがむずかしくて理解できない書物を読むようになり、彼らが読んだこともない古典の教養を披歴するようになるからである。

植民地人を便利に使役するためには宗主国の言語が理解できなくては困る。
けれども、宗主国民を知的に凌駕する人間が出てきてはもっと困る。

「文法を教えない。古典を読ませない」というのが、その要請が導く実践的結論である。
教えるのは、「会話」だけ、トピックは「現代の世俗のできごと」だけ。
それが「植民地からの収奪を最大化するための言語教育戦略」の基本である。

「会話」に限定されている限り、母語話者は好きなときに相手の話を遮って「ちちち」と指を揺らし、発音の誤りを訂正し、相手の「知的劣位」を思い知らせることができる。

「現代の世俗のできごと」にトピックを限定している限り(政治経済のような「浮世の話」や、流行の音楽や映画やスポーツやテレビ番組について語っている限り)、植民地人がどれほどトリヴィアルな知識を披歴しようと、宗主国の人間は知的威圧感を感じることがない。

しかし、どれほどたどたどしくても、自分たちが(名前を知っているだけで)読んだこともない自国の古典を原語で読み、それについてコメントできる外国人の出現にはつよい不快感を覚える。

日本の語学教育が明治以来読み書き中心であったのは、「欧米にキャッチアップ」するという国家的要請があったからである。
戦後、オーラル中心に変わったのは、「戦勝国アメリカに対して構造的に劣位にあること」が敗戦国民に求められたからである。

 つまり、黒船襲来によって近代国家の脅威を知った有志たちが、日本を近代国家へと変えるために始めたのが英語などの外国語です。
 近代国家の概念や科学技術を日本に取り入れるためには、外国の思想家や科学者などの著書を読んで翻訳していく必要がありました。

 彼らは外国人とコミュニケーションを楽しむために語学に励んだのではありません。
 日本にとって大事なことは、外国人とのおしゃべりではなく外国の書物の中にあったのです。

 そうした先人の努力のおかげで、それまでの日本には存在しなかった概念が日本人のものとなりました。
 現代の日本人が「社会」「歴史」「哲学」「権利」「義務」「自由」といった概念を日本語として自然に使用できるのは、「society」「history」「philosophy」「right」「duty」「liberty」を翻訳してくれた人がいたからこそ。
 その意味では、英会話の能力なんかよりも英文読解能力の方が、この国にはるかに貢献してきたと言えるでしょう。
http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php
 
 そして現代の英語教育の実態は、英文読解が中心だった当時の面影を色濃く残しています。
 敗戦国として「オーラル中心の英語教育を目指す」と言わざるをえなかった立場の中で、読解中心の英語教育をさほど変えずに来た省庁や現場の教師たちの怠慢(と呼ばれている姿勢)は、結果的に日本の実質的な植民地化を遅らせてきました。

 そのおかげで残された「英語が当たり前に通用しない」という日本の言語環境は、欧米の企業にとっての非関税障壁となって日本企業を守ってきました。
 国民が「日本に来たからには日本語で話せ」と言えているこの社会は、「英語なしではまともに生きていけない」ほどに植民地化された社会よりもはるかに幸せな世界です。
 
 結果的に現在の学校現場では、外国人と話すことができる「本当の英語力」なんかよりも、日本国内で上手く立ち回るための武器としての受験英語の方が求められています。
 私は、日本における英語のニーズがその程度でしかないという現状が特に問題だとは思いませんし、その実際のニーズを満たすために熱心に働いている英語教師たちが怠惰だとも無意味だとも思いません。

 また、受験科目に英語が使用されているという環境があるからこそ、英語の論文や新聞やインターネットサイトから知識を獲られる日本人の数が一定数確保されています。
 そのようにして獲られた知識によるメリットは、英語が読めない日本人にも現にもたらされています。

 英会話を習得させられない日本の英語教育は無意味なのか。
 この問いに対する私の答えはノーです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

学習は本能です。
どんな人も伸びています。
あなたの物差しでは測れなくても。

 これは、前回紹介した『強育論』にある宮本哲也の言葉を、私なりの教育観に合わせてアレンジしたものです。
 ちなみに、彼のオリジナルバージョンは以下の通りです。

学習は本能です。
どんな子でも伸びます。
親が余計なことをしない限り。

 彼のこの言葉は、親や教師の余計な関わりのせいで勉強が嫌いになってしまっている子どもたちの現状を表す痛烈な皮肉であり、大人たちの過干渉をたしなめるための前向きな提言でもあります。
 実際、私の場合も幼少期から「勉強しろ」と干渉してくる大人がいなかったため、勉強に対する自分なりの興味に水を差されることなく育っていくことができました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11940651812.html

 ただ、過去に過干渉な子育てをしてしまったと思う親たちは、この言葉を「私が余計なことをしたから伸びなかったのか」「うちの子はもう手遅れなのか」などと後ろ向きに受け取ってしまうかもしれません。
 そこで今回は、子育てと呼ばれる時期をすでに過ぎてしまった親たちが、この提言を「現在の我が子との関係」にどう前向きに活かしていけるのかについて考えてみたいと思います。

 まず「うちの子がもう手遅れなのかどうか」という心配の仕方については、こうした受け取り方自体に根本的な問題があります。
 子どもはあなたの所有物でも作品でもありません。
 その人格の持ち主は子ども自身ですから、「その子が不良品かどうか」「その子が失敗作かどうか」を査定する権限など、あなたには最初から与えられていないのです。

 動物には学習の本能が備わっていますから、どんな人も生きている限りは学び続けているものです。
 たかが親の関わり方ごときで、生まれもった本能の働きを停止させることはできません。
 たとえあなたから「親による支配的な関わり」という環境が与えられたとしても、子どもは己の興味に応じてその環境からでも確実に何かを学んでいきます。

 ですから、あなたの子を伸ばしていく真の立役者は、その子自身の本能です。
 あなたには「我が子を伸ばす」という役目も権限もありません。
 別人格であるあなたは、子どもにとって環境の一つに過ぎません。

 『強育論』では「親が余計なことをするから子どもの学習の本能が壊れる」という指摘がありましたが、それは「親による支配的な関わり」の中では支配者が誘導する「勉強」というジャンルに興味関心を持てなくなると言っていただけ。
 あなたが実際に「うちの子は伸びていない」と感じるのであれば、それは我が子を「自分の期待」という物差しでしか測っていないからです。
 あなたの目の行き届かない場面で、あなたの子は確実に伸び続けています。

 あなたの子がこれまで生きてこれたということは、その子の環境が「生き延びていける程度には快適だった」ということであり、それだけでも十分に親の役割は果たしていると言えます。
 あなたがそれ以上の関わり方をしたいと望むのならば、子どもにとっての「より快適な環境」を目指すくらいしか選択肢はありません。

 過干渉な親たちの「我が子が自分の期待通りに育ってほしい」というリクエストは、そんな分別をわきまえない甘ったれのわがままです。
 この『強育論』から学べる親子関係の知恵があるとすれば、「どんなに近い関係であっても別々の人格を持つ者同士として分をわきまえる」ということになるでしょう。

 あなたがこれまで我が子に対して「あまり快適ではない環境」にしかなれていなかったと反省できるのであれば、「どうにかして我が子を救ってやろう」とあれこれ勝手に手出しするのはやめましょう。
 そのような「上から目線の支配的な介入」こそが、あなた自身が子どもにとっての「不快な環境」へと成り下がっている要因です。
 あなたがいまだに保有しているつもりの「子の人格を査定する権限」を、そろそろ完全に手放してください。

 そうして、環境に応じて学ぶ本能を立派に備えている我が子を、あなたと同じ様に一人前の人格を持った他者として尊重していきましょう。 
 あなた自身の態度が「上位者としての介入」から「対等者としての尊重」へとシフトすることができれば、「より快適な環境」としてあなたが受け入れられていく可能性が開けますから。

 この本を通じて私が強調したかったのは、「自分の思い通りに他者を操作することはできない」というただそれだけのこと。
 世の中には「子育てとは子どもに言うことをきかせることだ」という先入観に踊らされて、それと知らずに我が子を傷付けてしまう親がたくさんいます。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11944370057.html
 「素直に言うことを聞く人間」を重宝して量産したがる日本社会では、その傾向が特に強いかもしれません。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11928284877.html
 こうした大人たちの幼稚な支配願望を咎めるために、先の『強育論』を紹介させていただいたわけです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11945451867.html

 繰り返しますが、子どもにとってあなたは環境の一つでしかありません。
 「これからあなたの子が大丈夫かどうか」というのはその子自身の問題であって、あなたの問題ではありません。
 過去の子育てを悔やんでいる暇があったら、いまだに抱えてしまっているその支配願望をとっとと手放してみてはいかがでしょうか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
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http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

学習は本能です。
どんな子でも伸びます。
親が余計なことをしない限り。

 これは、中学受験のための算数教室を主宰する宮本哲也の言葉です。
 彼の著書『強育論』には、「指導なき指導」という独自のスキルと、そのバックボーンとなる信念とが紹介されています。
 まずは「学習は本能」だという冒頭の言葉について、詳しく解説してある文章を引用してみましょう。

すべての生き物には学習するという本能があります。
人間の赤ちゃんもお母さんのお腹にいる間から学習を始め、生まれた瞬間からはさらに猛烈な勢いで学習をします。
寝たままの状態から起き上がり、つかまり立ちをし、やがては立って歩くようになる。
その瞬間を目の当たりにしたお父さん、お母さんの感激はさぞかし大きいことでしょう。

もちろん、赤ちゃんは親を喜ばせるために立ち上がるわけではなく、本能に突き動かされ、精いっぱいの力を振り絞って立ち上がるのです。
そこには何の打算も計算も働いてはいません。
この本能の部分をそのまま潰さなければ優秀児が壊れることはありません。

ところが、ある時期から彼らは親の顔色に反応するようになります。
もちろん、そういうことが必要な場合もあります。
赤ちゃんが危険なものに近づこうとしたら、親は怖い顔をして声を荒げて叱らなければなりません。
言葉を理解できない赤ちゃんには叱られている内容はわからなくても、自分が何かいけないことをしたことに気づき、その情報は確実に脳に刻まれます。
これは必要な躾です。

しかし、生活全般、学習全般にわたってこれをやってしまうと、本能の部分がどんどんすり減ってしまい、自分の興味の赴くままに何かに取り組むことがなくなっていきます。
自分の興味や好奇心を満たして叱られるより、親の顔色をうかがって相手の喜ぶ行動をとったほうが彼らにとっては楽だからです。
これでは動物に芸を仕込むのと同じです。

世間一般では、我を通して叱られる子どもより、大人の顔色をうかがい、相手が喜びそうな答えを素早く用意できる子どものほうを優秀と判断する場合が多いようです。
でも、この場合の「優秀児」というのは、「お利口なワンちゃん」と同程度の意味合いしかありません。

飼い犬はご主人にほめられ、頭をなでてもらったり餌をもらったりするのが大好きなので問題ありませんが、人間の子どもに同じことをやらせてはいけません。
私の観察する限りでは、従順さと優秀さは両立しません。
自分なりの判断を放棄し、他人の言うことを鵜呑みにする子が優秀なわけがありません。

実は「優秀」というレッテルを貼られた時点で、その子は壊れているのです。
この場合の「優秀」とは、大人の顔色をうかがうのがうまいということで、壊れているのは学習するという本能です。
言い換えると、「大人の顔色をうかがうのがうまい子は学習するという本能が壊れている」というのが私の結論です。

 ここで彼が警告しているのは、子どもに「人の顔色をうかがって勉強する」という悪癖を刷り込んでしまう、周囲の人間たちの関わり方。
 それは、塾講師としての彼自身の経験から来る反省でもあります。

 塾講師になりたての頃は超のつくスパルタ特訓塾である程度の実績を上げていた彼でしたが、体罰で生徒をコントロールするというその塾の指導方法に限界を感じて一年半で辞めたそうです。
 次に勤めた体罰厳禁の大手塾では、授業延長、補講、個別指導など熱心に行って実績を上げていたそうですが、生徒が教師に依存してしまうこのやり方にも疑問を持ったということです。
 そうして彼は、宿題も出さず、質問も受け付けず、ただ自分の頭でとことんまで考えさせる「指導なき指導」の手法を確立させ、無試験先着順の入塾で首都圏トップ校に驚異の進学率を上げ続けたのです。

 これまで様々な受験生の親子を見てきた彼は、中学受験で失敗する原因のほとんどが「やらせ過ぎ」にあると指摘します。
 子どもたちが本来持っているはずの学ぶ本能が壊れていくプロセスを、彼はこのように描写しています。

私の授業の目的は子どもに頭を使わせることにあります。
問題が解けるかどうかはどうでもいいのです。
頭を使い続ければ必ず頭がよくなります。
元のレベルがどれだけ低くても関係ありません。

本来、算数という科目は、知的欲求を刺激してやまない子どもとは、非常に相性のいい科目なのです。
だから、放っておきさえすれば算数嫌いの子なんて世の中に存在するはずがありません。
でも、現実には多数存在します。
何がいけないのでしょう。
親の関わり方がいけないのです。

親が子どもに対して学習を無理強いするのは子どものためではなく、自分の不安を解消するためであり、欲求を満たすためなのです。
だから、子どもが拒絶するのです。

学習は本能ですが、「他人に支配されたくない!」というのも自己保存の本能です。
どちらが優先されるかというと、当然、自己保存の本能のほうなのです。
結果を求めることをあせるとすべてが壊れます。

「子どものために」と言いながら、実際には自分の不安と欲望に流され、わが子に対して虐待としか思えない仕打ちを平然と日常的にやってのけるのがバカ親です。
もちろん、子どもを虐待している自覚はまったくありません。
子どもの痛みや苦しみに極めて鈍感で、中学入試もペットの品評会くらいにしか思っていません。
こういうバカ親に冷水をぶっかけて目を覚まさせることは、私の重要な仕事のひとつです。
手加減はしません。

 そんなわけでこの『強育論』も、過干渉な親たちを手加減なしのめった斬りにしています。
 2004年に刊行されたこの著作が支持され続けてきたわけは、その中身が単なる学習法の紹介にとどまらず、子育てや教育や人生についての鋭い考察に満ち溢れているから。
 その中でも、過干渉な親の弊害をもっとも鋭くえぐったテーマが、以下に抜粋する「最悪の子育ての結末とは?」です。
  
最悪の子育ての結末とはどのようなものだと思いますか?
結論から先に申し上げると、最悪の子育ての結末とは、「親が子を殺す」または「子が親を殺す」です。
これ以上不幸な結末はありません。

現在、小学生以下のお子さんをお持ちの方は、将来自分が子どもを殺す場面、または自分が子どもに殺される場面なんて絶対に想像できないでしょうが、ほんの数年後にそういう現実と向かい合うことになるかもしれません。
そういう不幸を未然に防ぐにはどうすればいいのでしょうか?

簡単なことです。
さっさと家から出してしまえばいいのです。
タイミングとしては高校を卒業するあたりがよいでしょう。
親子の関係というのはあまりにも近過ぎるので、あるいは濃過ぎるので、いったん距離を置いたほうがお互いをよりよく理解することができるのです。

【親子が殺し合うもっともありふれたケース】
二十歳を過ぎても三十を過ぎても四十を過ぎても働きもせずにぶらぶらしている子ども(もはや子どもと呼べる年代ではありませんが、精神年齢は中学一年生あたりで止まっています)に、親が意見をする。
意見をして直るくらいなら、二十歳をとうに過ぎてもぶらぶらしているような状況に陥るはずがありません。
自分を生かす場がなくてぶらぶらしているわけですから、自己主張できる場所は家庭しかありません。
それでも、働いていないことに対する引け目は感じているはずなので、ふだんは親に対してもあまり強くは出られません。

そこへ意見されると「待ってました!」とばかりに反発する。
自分に正当性がまったくなくても反発します。
親以外に自分の言うことを真剣に受け止めてくれる人なんていないのですから。
ふつうは年老いた親が負けます。
ときには殺されるときもあります。

親が勝つためには相手が油断している隙を狙う、つまり寝込みを襲うしかありません。
失敗すると自分が殺されるので一撃必殺。
両親で力を合わせて絞め殺したという事例もありました。

【反抗期は自立期】
三十路を過ぎてもひきこもりという人にも、自立の芽生えはあったはずです。
それまで全面的に受け入れてきた親に対してあるとき、うとましさを感じるようになる。
親はそういう兆候を感じたら一歩引かなければなりません。
これを力で押さえ込もうとすると自立の芽が潰れてしまいます。

この場合、押さえ込むという行為は親の側の甘えです。
「あなたにはまだお母さんが必要なのよ!」
子どもにもっと甘えていてほしい。
もっと頼っていてほしい。
子どもの成長(=子どもの幸福)よりも自分の母性を満たすことを優先しているのです(母親失格!)。

そういう甘ったれた母親に対する私のとっておきのアドバイスは——。
「子どもをペット化してはいけません。猫っ可愛がりしたいのなら、猫を飼いなさい。今すぐペットショップに行っていちばん弱々しい死にかけた子猫を買ってきなさい。そして必死に看病し、育てなさい。ベタベタに甘やかしてかまいません。自立させる必要はありませんから」

いったん親が自立の芽を潰してしまうと、次にいつ芽が出てくるかわかりません。
もう出てこないかもしれません。
そして、子どもが二十歳を過ぎ、親が子どもを持て余し、「あなたもそろそろ独り立ちしないと……」なんて言ってももう手遅れです。

だいたい自分が子どもの自立の芽を潰しておいて勝手なことを言ってはいけません。
一生、子どもの面倒をみなさい。
決して子どもより先に死んではいけません。
自活能力のない子どもを社会に押しつけて自分だけ先に死んではいけません。
子どもが一生困らないだけの蓄えを残すか、自分が死ぬときに道連れにするか、どっちかにしてください。

子どもは天からの授かりものと言われていますが、授かりものであると同時に預かりものでもあります。
決して所有物ではありません。
いつかは社会に返さねばならないのです。
そういうつもりで子どもを育ててください。
見返りは何もありません。
親とはそういう報われない役割なのです。
子どもだけが生き甲斐という方は、子どもが巣立ったあとのご自身の人生設計をしておいたほうがよいでしょう。

 などなど、過激すぎて私の口からはとても言い放つことができない言葉ばかりですが、あまりにも過干渉な親と接しているとこのように言いたくなってしまう気持ちが痛いほどわかります。
 ですから、どんな忠告も耳に入らなくなっている教育ママには、「中学受験のエキスパートが書いた凄い本がありますよ」と言って『強育論』を紹介することにしています。
 あなたの周りの手強い教育ママたちにも、劇薬として処方してみてはいかがでしょうか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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