間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -11ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

 「ホンマでっか!?TV」は、様々なジャンルの専門家や評論家たちに最新の研究結果や専門家の知見などを次々と披露してもらい、それに対して明石家さんまを始めとするタレントたちが面白おかしくリアクションを加えていくという情報バラエティ番組です。
 この番組に心理評論家として出演している植木理恵のカウンセラー気質に、私はいつも感心させられます。
 番組の進行に合わせて専門知識を披露するとき、彼女の回答には「世に溢れる悩みの数々を少しでも軽減するためにテレビの場を活用できれば」という意図が含まれているように思うのです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11819071275.html  

 2014年10月15日の放送回で彼女が発表した「ホンマでっか!?」な情報は、子どもをしつけるために『トイレをキレイに』などの注意書きの貼り紙を多用する家庭では、子どもの心が深く傷付けられているというものでした。
 この貼り紙による指示・命令は、小児うつを発症してしまう家庭の典型例の一つとして挙げられているそうです。

「字で書かれたものは冷たい」
「家の中では直接声かけをしてあげる方が良い」
「何度言っても言うことを聞かないからといって貼り紙を使うのはNG」
「貼り紙だらけの家であれば、子どもは大抵病んでいる」
 こう説明する彼女に対して、タレントたちは様々な質問をしていました。

「相田みつをの言葉が載った日めくりなどもダメなのか」
「それは構わないと思います」

「自分で『絶対合格!』などと書くのもダメなのか」
「自らの意志で書いたものなら問題ないと思います」

「『電気を消しましょう』とかがダメなんですか」
「そうですね」

「じゃあ『電気を消しましょう』じゃなくて『電気消し上手だなあ』とか『ナイス消灯!』にしたら大丈夫なのか」
「(困った様子で)おそらく意味が分からないと思います」

 番組の進行上、貼り紙の話題はここまでで終わってしまったのですが、「『電気を消しましょう』の言い替えをしたがったタレントたちは植木先生の提言の意図を理解しなかっただろうな」という印象を私は受けました。
 植木先生の意図が「親からの手抜きのコミュニケーションは子どもを傷付ける」ということならば、子どもにとって「貼り紙によるコントロール」自体が「手抜きのコミュニケーション」であることには変わりありませんから。

 ちなみにこの話題の前に植木先生が紹介した情報は「幼少期から勉強部屋を与えると小児うつを発症する確率が高くなる」というもの。
 親子のコミュニケーションがまだまだ必要な時期に良かれと思って専用の遊び部屋などを与えると、個室に放っておかれた子どもは大変な孤独感を覚えてしまうという文脈からこの貼り紙の話に移ってきたのでした。

 植木先生の意図を読み誤ってしまえる人々に共通しているのは、「子育てとは子どもに言うことをきかせることだ」という先入観ではないでしょうか。
 子どもの立場に立って「子どもが傷付くかどうか」を考えるよりも、「いかにして言うことをきかせるか」という親側の都合を優先させることに慣れ切っているから、植木先生の意図を容易く見過ごしてしまえるのだと思います。 

 言うことをきかせたがる親が理想としてしまっているのは、言うなれば「お利口なワンちゃん」のような聞き分けの良い子ども。
 「飼い犬のように自分をコントロールしようとしている」と親の下心を察知することで、子どもたちは深く深く傷付いていくのです。

 「他人の意のままに動くように調教されたい」という願望を持つ人は、世の中にそう多くはないでしょう。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11940651812.html
 そのような「自分ならされたくないはずのこと」を、親たちは我が子に対してどうしても強要しがちです。

 人は自分にとって大事な人と接するとき、相手の人格を尊重しつつ丁寧にコミュニケーションを取っていくもの。
 手抜きのコミュニケーションで所有物のように支配される子どもが果たして「自分は大切にされている」という実感を持てるものなのか、とても考えさせられる話でした。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 私は小さなころから世間を狭くして生きてきました。
 小学校が終わってから遊ぶ友達などもほとんどいないし、家は母子家庭で親は21時頃まで家に帰ってこないので、弟と家で遊ぶかテレビを見てボーっとするくらいしかやることがありません。

 厳密に言うと、放課後は近くの児童館で開かれている学童保育に通っていて17時まではそこで過ごしていたのですが、学校にしても学童保育にしても、帰宅した後に遊ぶプライベートな友達というのはなかなか作れません。
 習い事も小学2年生のころに週1回スイミングに通っていたくらいで、それも1年ほどで辞めてしまいました。

 小学校低学年のときは下校時間が早いので、学童に行っても人がそれほど集まっていません。
 みんなが来るまでの間は一人でもできることで時間をつぶすことになります。

 児童館の図書室においてある本を読んだり、置いてあったドラえもんのコミックを見ながらイラストを描いたり、学童の指導員から教わった計算を延々と繰り返したり。
 そう、小学校に入ったときから計算が得意だった私を見た学童の指導員が、まだ学校では習わない掛け算と割り算の筆算を教えてくれたので、私は得意になってそればかりしていたのです。

 小学校に入ったとき、既に計算が得意だったのは母のおかげでした。
 足し算・引き算を最初に覚えたのはたぶん5~6歳のころだと思いますが、たまのお出かけのときの会話で、母がクイズの一つとして出題してみたのがきっかけだったと思います。
 そのゲームのコツを覚えた私は面白くなって、お出かけや送り迎えのたびに出題をせがんでいました。
 特撮やアニメくらいしか娯楽のなかった当時の私にとって、計算というゲームは数少ない貴重な刺激だったのです。

 そのように低学年のころは暇があれば筆算ばかりしていました。
 はじめのうちは学童の先生が問題を出していたと思いますが、そのうち自分で勝手に数字を設定して解くようになりました。
 4桁~7桁くらいの桁の大きな掛け算・割り算も勝手に作ってやっていました。 割り算の場合、数字をテキトーに設定するとほとんどが割り切れない問題になりますが、小数点第10位くらいまでは平気で計算を続けていたと思います。

 外でボーっと突っ立って考え事をすることもありました。
 そんなときは「2、4、8、16、32、64、128、256…」と2の乗数を暗算しています。
 たしか「…8192、16384、32768」くらいで、数を覚えておくのが面倒になってやめていました。

 そんな当時の私のお気に入りだった数は4と16と256です。
 今改めて考えてみると馬鹿みたいな理由ですが、「2×2=4」だから4が好きで、「4×4=16」だから16がさらにお気に入りで、16×16の結果である256なんかはもうスーパースターでした。

 そして2つ下の弟の、保育園の運動会を観に行ったときのことです。
 園児たちが竹馬に乗って競争をしたり玉を転がしたりしていましたが、園児のはしゃいでいる様子を見ても小学2年生の私には特に楽しいと思えません。
 私は退屈しのぎにこんなことを考えてみました。

 「10、100、1000みたいな切りの良い数の中で、一番最初に16で割り切れるのはどんな数だろう? 」
 当時は「10や100が16で割り切れないこと」くらいはすでに分かっていましたから、そのときは1000以上の数から検討を始めました。

 まず最初に、「16×5=80」となるので、80も800も8000もすべて16で割り切れます。
 1000から800を取り出すと残りが200になり、残った200からは80が2つ取り出せて残りは40になります。
 残りの40は明らかに16では割れないので、この時点で1000は16で割り切れないことが判明します。

 じゃあ次は10000です。
 10000からは8000が取り出せるし、残りの2000からは1600が取り出せます。
 すると残りは400ですが、400には80がちょうど5つ入ります。
というわけで、10000は16で割り切れました。

 ちなみに10000を割り切るまでに取り出してきた数字を思い出すと、8000には16が500個入っていて、1600には16が100個入っていました。
 さらに400には80が5個入っていて、その80には16が5個入っているので、400には16が「5×5=25」で計25個入ってるということになります。
 それらを全部足し合わせると「500+100+25=625」となり、10000には16が625個入っているということが分かりました。

 「10、100、1000みたいな切りの良い数の中で一番最初に16で割り切れるのは10000で、割ったら商は625になる」という結論が、保育園の運動会の客席で出ました。
 自分が何かすごいことを発見したような気になってうれしくなりました。

 運動会のことは上の空で、何度も頭の中で計算を繰り返してこの結論が間違いでないかどうかを確かめていました。
 この個人的な発見は計算が趣味になっていた当時の私にとって強烈なインパクトを持っており、その後は「10は2で割り切れて5になる」「100は4で割り切れて25になる」「1000は8で割り切れて125になる」「10000は16で割り切れて625になる」「100000は32で割り切れて3125になる」という事実から類推して「64以降の2の乗数でも、0が1個増えるごとに割り切れていく」という法則性に何となく気付いていきました。

 この法則性は、中学で教わる素因数分解の考え方を使うと「10のn乗は2のn乗で割り切れて5のn乗になる」と簡単に説明できます。
 私は小学生のころからこのような問題に慣れ親しんでいましたから、中学で素因数分解を習ったときも「何でこんな無意味なことを覚えなきゃいけないのか」などとありがちな疑問は抱かず、「たったこれだけの書き方の工夫でこんなにも分かりやすくなるのか」と感心していました。

 このように、私は小さなころから数字の絡む事柄に関心を抱いていており、その関心を表現するための言語を仕入れる場所が学校の数学の授業でした。
 私が数学を得意になったのは、他に魅力的な刺激がないという生活環境が関係していたと思います。
 自虐的な言い方をするならば、他にやることがなかったから数学なんてものに興味を持って打ち込めたのかもしれません。

 私にとって運が良かったことがあるとすれば、勉強に関して私に「あれをしろこれをしろ」といった指図をする人間が誰もいなかったということでしょう。
 本を読む、絵を描く、計算する、妄想するなど、私には興味が向くままにやりたいことをやる自由な時間が大量にあったのです。

 ですから、過干渉な親に「あれをしろこれをしろ」と指図され続ける子どもたちを見るたびに、「何に興味を持つべきか」といった個人的な趣向の問題に口を挟まれずに育ってこれた私は本当に幸運だったのだなあと思います。
 私に向かって「そんな風に数学が得意になるにはどう育てたら良いか」と聞いてくる親もいますが、正直に「私には自分の興味関心を口うるさくコントロールしたがる親がいなかったから」と答えてしまうかどうかはいつも悩みどころですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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 普段は高校の非常勤講師として、数学を教えている私。
 学校での授業はチャイムとともに始まりますが、チャイムが鳴るより前に教室に行くと生徒同士の雑談を耳にすることもあります。

 そんな雑談の中で男子同士が「今回ばかりは積んだな」「次見とけよ」などと軽口を叩き合っていることがあったので何のことかと訊ねてみたら、国語の授業で予定されているディベートの話題でした。
 そのときの議題は「外国人参政権を認めるべきかどうか」で、A君は「認めるべき」という立場に立ち、他の多くの生徒たちは「認めるべきでない」という立場だったみたいです。

 クラスの中でもA君は特に弁が立つ方らしく、このディベートの授業ではA君の入ったチームが連勝中。
 今回の議題では「外国人参政権は認めるべきでない」の立場の方が圧倒的に有利だと踏んでいたA君は、最初から有利な立場で勝ったところで今さら面白味がないと判断し、敢えて不利な立場を選んでみたということでした。

 その結果、次の国語の時間では「認めるべきでない」とする友人たちに論破されてしまい、A君の連勝記録は途切れてしまったそうです。
 挑戦だと思って「外国人参政権を認めるべき」の方に参加してみたけどやはり不利過ぎて勝ち目がなかったと語るA君に、私は「その立場ならば話のスケールを大きくし過ぎるという作戦が有効だったかもしれない」とこたえました。

 「話のスケールを大きくし過ぎる」というのは、当たり前だとされている既存の枠組みを疑ってみるということ。
 この議題では「国民国家」という既存の枠組みに疑問を呈することが、一つの攻め手となったかもしれません。

 例えば私は日本国籍を有しており、本籍地は福岡県ですが、住民票は兵庫県にあります。
 この場合、私は日本の国政選挙への投票権と兵庫の地方選挙への投票権を有することになります。
 
 本籍地が福岡であるにも関わらず私が兵庫の地方選挙に投票することができるのは、福岡も兵庫も日本国というくくりの中では「同じ仲間」だとみなされているから。
 東京に引っ越そうが北海道に引っ越そうが沖縄に引っ越そうが日本というエリア内で住民票を移しさえすれば、日本国籍を有している私はどの都道府県に住んでも投票権を獲得することができるのです。

 ですが、日本以外の国に移住したときは話が変わります。
 国籍が日本のままで国政選挙への投票権が得られる可能性があるのは、ニュージーランド、チリなどほんのわずかな国のみ。
 地方選挙への投票権が得られる可能性があるのもデンマーク、ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、オランダ、ヴェネズエラ、韓国など、これまた少数に限られます。
 さらにいずれの場合も、年収や一定以上の定住期間などなんらかの条件をクリアする必要があります。

 これは、日本・アメリカ・中国・イギリス・フランス・ドイツなど…「国民国家」という枠組みによって「よそ者か仲間か」を区別するという制度の中を私たちが生きているから。
 ですがこの「国民国家」という枠組み自体は、カトリックとプロテスタントの宗教戦争を収めた1648年のウェストファリア条約から普及し始めた作り物の制度であり、現時点の世界で通用しているからといって別に人類にとっての普遍的な制度ではありません。

 今は「同じ仲間」だとみなされている福岡と兵庫にしても「よそ者同士」だった時代があるのですから、「国民国家」という現在の枠組み自体も筑前国や摂津国のように過去のものとなる時代が来るかもしれないのです。
 SF作品で言うならば、機動戦士ガンダムには地球連邦という枠組みがありますし、スタートレックに至っては惑星連邦という枠組みすらあります。

 ですから、A君が「外国人参政権を認めるべきでない」という意見に反論するのであれば、「人類は皆仲間であるべき」というベタな進歩主義思想を強弁するという手もあったわけです。
 世の現状はひとまず棚上げにしておいて、「都道府県間の引っ越しと同じように、住んでいる場所の政治に参加できるよう制度を整えるのは当たり前」「国籍なんて幻想にいつまでも縛られているのは非合理的だ」などと理想論をふりかざせば、相手チームも多少は面倒臭かったかもしれません。

 こうしたディベートの機会などを活かして、私たち人間の社会がいくつもの幻想によって成り立っていることや、ある制度がたとえ幻想であったとしてもそれを支持している人がいる限りはたやすく無視することができないことなどを、生徒たちが少しずつでも学んでいってくれればと思います。 
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11916964470.html
 人間社会をとりまく言葉の荒波に、将来彼らが潰されてしまわないためにも。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
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 私が結婚したのは7ヶ月前のこと。
 そのとき、友人の何人かからは「お前も結婚なんて堅実なことをちゃんと考えていたのか」という風に意外がられました。

 ですが、私は大学院生の頃からずっと結婚願望を持ち続けてきました。
 「自分がおじいさんになったときに仲良く過ごせるおばあさんがいないのは辛いだろうな」という観点から、私は「共に連れ添っていく未来のおばあさん」を常に求めていたのです。

 子どものころから変わり者と呼ばれて育ってきた私は、そんな自分と一緒にやっていける人なんて滅多に出会えないのだろうと危機感を抱いていました。
 若い頃の男女の恋愛感情の盛り上がりで意気投合したような気になったところで、おじいさんとおばあさんになったときに普段の日常生活を穏やかに過ごせるかどうかは全くの別問題。
 ですから当時の私は、たとえ現時点での恋愛関係が表面上は上手くいっているときであっても、「ジジババになったときに善きパートナーとして過ごしていくのが難しいだろうな」と想像してしまうような価値観の食い違いを感じてしまった時点で、目先の恋愛よりも老後の結婚生活を優先して早々に別れを切り出していました。

 若い頃のそんなこだわりを知っていた友人の一人が、久々に集まった仲間たちとの席で「今回なぜ結婚しようと思ったのか」と質問をしてきました。
 真面目に考えた上で私は「お互いが相手に勝手な期待を押し付け合わないのが良かった」という風に答えました。
 双方ともに三十路過ぎで出会ったこともあり、若い恋愛にありがちな幼稚な一体感に陥ることなく、相手は自分とは別人格なんだという大前提を踏み外さずに互いを尊重し合う信頼関係を築いていけたので、結婚生活への移行は大変スムーズだったのです。

 ですが、その場では私の回答はウケが悪かったようでした。
 浮かれた新婚トークで盛り上がりたかったであろう連中の期待を外してしまった私は、その場の雰囲気を優先して「食の好みが合ったのが良かった」と答え直すことにしました。
 すると、こちらの回答はその場の人たちのお眼鏡にかなったらしく、「食の相性は大事だよね」という共感的なムードに落ち着くことができました。

 とまあ、こんな日常の会話の場面では雰囲気を乱さないことを優先して「よく知られたわかりやすい話」の方を選択することが多々あります。
 ですが、私的な時間を費やして毎週更新しているこのブログでは日常生活での凡庸な気づかいを封印し、「井戸端会議や茶飲み話なんかでは決して扱われないような複雑な話」の方を優先的に発信していきます。

どうせ口を開く以上は、自分が言いたいことのうちの「自分が言わなくても誰かが代わりに言いそうなこと」よりは「自分がここで言わないと、たぶん誰も言わないこと」を選んで語るほうがいい。
それは個人の場合も、メディアの場合も変わらないのではないかと僕は思います。

 これは『街場のメディア論』という著書で内田樹が表明した、彼自身の言論へのスタンスです。
 私もわざわざブログを更新するからには、「自分が言わなくても誰かが代わりに言いそうなこと」を書いて世の風潮に安易に迎合するのではなく、「自分がここで言わないと、たぶん誰も言わないこと」を選択的に発信していきたいと思います。

 ですからこのブログでは、世の現状に対する単なる愚痴やクレームなどは発信していません。
 不満をぶちまけて安い共感をねだっている暇があったら、不満に思ってしまう自身の受け取り方の方を疑ったり、現状を変更していくための具体的な提案をしたりといった、建設的な行動に専念します。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11791749081.html

 その際、参考にしているのが内田樹流の世直しの方法論です。
 内田樹はその著書『邪悪なものの鎮め方』の中で、このように語っています。

自分が今いる場所が「ろくでもない場所」であり、まわりにいるのは「ろくでもない人間」ばかりなので、「そうではない社会」を創造したいと望む人がいるかもしれない。
残念ながらその望みは原理的に実現不能である。

人間は自分の手で、その「先駆的形態」あるいは「ミニチュア」あるいは「幼体」をつくることができたものしかフルスケールで再現することができないからである。
どれほど「ろくでもない世界」に住まいしようとも、その人の周囲だけは、それがわずかな空間、わずかな人々によって構成されているローカルな場であっても、そこだけは例外的に「気分のいい世界」であるような場を立ち上げることのできる人間だけが、「未来社会」の担い手になりうる。

革命をめざす政治党派はその組織自体がやがて実現されるべき未来社会の先駆的形態でなければならない。
もし、その政治党派が上意下達の管理組織であれば、その党派が実権を掌握した場合に実現することになる未来社会は「上意下達の管理社会」である。
党派が権謀術数うずまく党内闘争の場であれば、その党派が実現する未来社会は「権謀術数うずまく国内闘争の場」となるほかない。
蟹が自分の甲羅に似せて穴を掘るように、私たちは自分の「今いる場」に合わせて未来を考想する。

そして、歴史は私たちに「社会を根本的によくする方法」を採用するとだいたいろくなことにはならないということを教えてくれた。
「一気に社会的公正を実現する」ことを望んだ政治体制はどれも強制収容所か大量粛清かあるいはその両方を政策的に採用したからである。

近代市民社会の基礎理論を打ち立てた大思想家たちに私たちがつけくわえるべき知見が一つだけあるとすれば、それは「急いじゃいかん」である。
人間社会を一気に「気分のいい場」にすることはできないし、望むべきでもない。

「公正で人間的な社会」はそのつど、個人的創意によって小石を積み上げるようにして構築される以外に実現される方法を知らない。
だから、とりあえず「自分がそこにいると気分のいい場」をまず手近に作る。
そこの出入りするメンバーの数を少しずつ増やしてゆく。
別の「気分のいい場」で愉快にやっている「気分のいいやつら」とそのうちどこかで出会う。
そしたら「こんちは」と挨拶をして、双方のメンバーたちが誰でも出入りできる「気分のいい場所」ネットワークのリストに加える。
迂遠だけれど、それがもっとも確実な方法だと経験は私に教えている。

 この文章を読んだとき、それまで自分が和太鼓の世界でコツコツと積み上げてきたことが、心の師に認められたような気分になりました。
 大学院生のころから10年以上、日本のお稽古ごとの世界にありがちなそつのないお利口さん志向を排し、個々が思いっきりのびのびと楽しめる「気分のいい場所」を築くことに専念してきた私にとっては、深く染み渡る言葉だったのです。
「和太鼓・民俗芸能」

 ですからこのブログでも快適な言論の場を作るための小さな一歩として、普段は口に出すのがはばかられるようなデリケートな問題について、危うく波風を立ててしまいそうな具体的な提言を紹介することにしています。
「政治を考える」
「宗教と向き合う」
「カルトビジネスの罠」
「気になるTV番組」

 また、教師という職業に全く憧れを抱かないまま「変なおじさん」として教師になった私独自の教育観や教育実践についても、単なる不平不満の吐露に終わることなく建設的に語っていきます。
「子育て・教育の問題」
「高校教師の生き方」

 さらに、私自身の和太鼓ライフや教員人生の基礎となっている数学観について、巷に流布している一般的な受け取り方とは別の見方を紹介しています。
「数式のない数学」

 そして当ブログの一番の目的は、全ての話題に共通する言葉をめぐる洗脳や煽動の問題について語っていくことです。
「言語の存在意義」

 そのようにして、家庭や和太鼓や学校の授業や言論など自分が携わる場面において、創意工夫を凝らして例外的に「気分のいい場」を立ち上げることが私のライフワークです。
 そのうちどこかで「気分のいいやつら」と出会えることをうっすらと願いながら、少しずつでも「気分のいい場所」ネットワークを広げていけたらと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 東日本大震災が起きた2011年3月11日の昼すぎ、私はライブハウスで和太鼓演奏のためのリハーサルをしていました。
 そのときはライブの準備で忙しくしていたため、「東北の方で地震が起きたらしい」という以上の大した情報は入ってきませんでした。
 そうして夜はほとんど何も知らない状態で演奏し、ライブ後にメンバー同士で反省会をしてからすぐに帰宅して、そのまま深い眠りにつきました。

 翌朝目覚めてからインターネットに接続してみたところ、前日の地震が未曾有の大惨事へと発展していたことを初めて知りました。
 そしてSNSは数日のうちに、「電気がもったいないからコンビニや飲食店は深夜営業をするな」「企業はもっと救援物資を送れ」「有名人はもっと寄付しろ」といった他人に社会貢献を強要したがる声や、「私は節電をする」「今日は募金をしてきた」などと自らの善行をアピールする声で溢れていきました。
 というか、この種の「震災のための発信」しか許されないような威圧感がSNS内を支配しており、その雰囲気を少しでも乱そうものなら【非国民】の烙印を押されかねないような勢いすら感じられました。

 これほどまでに国民全員に震災へのシンパシーを強要するこのムードは、戦前の日本を戦争に向かわせたヒステリー状態と似ているんだろうなという思いが何となくありました。
 ですが、そんな見解をインターネット上にアップしようものならヒステリーに囚われた人々から徹底的に糾弾されるだろうと思い、SNSに何かを書き込むときは思い入れの激しい人々にも届きやすい言葉を慎重に選びながら「被災地にいない自分たちは落ち着いていつも通りの生活に専念しよう」という発信を恐る恐る続けていました。

 そんな折、震災から10日目の3月21日に、Twitterで作家の高橋源一郎のつぶやきと出会いました。
 集団ヒステリーを気にしながら言葉を選んでいた貧弱な私とは違い、高橋源一郎は「被災地のために良いことをしろと強要してくる世間の声に押しつぶされるな」と、巷を支配する正論強弁者たちと真っ向からぶつかるような言葉を吐いていたのです。
 以下にそのつぶやきの全文を引用したいと思います。

「午前0時の小説ラジオ・震災篇」・「祝辞」・「正しさ」について
http://togetter.com/li/114124

今年、明治学院大学国際学部を卒業されたみなさんに、予定されていた卒業式はありませんでした。
代わりに、祝辞のみを贈らせていただきます。

いまから四十二年前、わたしが大学に入学した頃、日本中のほとんどの大学は学生の手によって封鎖されていて、入学式はありませんでした。
それから八年後、わたしのところに大学から「満期除籍」の通知が来ました。
それが、わたしの「卒業式」でした。
ですから、わたしは、大学に関して、「正式」には「入学式」も「卒業式」も経験していません。
けれど、そのことは、わたしにとって大きな財産になったのです。

あなたたちに、「公」の「卒業式」はありません。
それは、特別な経験になることでしょう。
あなたたちが生まれた1988年は、昭和の最後の年でした。
翌年、戦争と、そしてそこからの復興と繁栄の時代であった昭和は終わり、それからずっと、なにもかもが緩やかに後退してゆきました。
そして、あなたたちは、大学を卒業する時、すべてを決定的に終わらせる事件に遭遇したのです。

おそらく、あなたたちは「時代の子」として生まれたのですね。
わたしは、いま、あなたたちに、希望を語ることができません。
あなたたちは、困難な日々を過ごすことになるでしょう。
あなたたちの中には、いまも就職活動をしている者もいます。
仮に就職できたとして、その会社がいつまでも続く保証はありません。

かつて大学生はエリートとされていました。
残念ながら、あなたたちはもはやエリートではありません。
この社会に生きる大多数の人たちと同じ立場なのです。
だからこそ、あなたたちの生き方が、実は、この社会を構成する人たちみんなの生き方にも通じていることを知ってください。

わたしは、この学校に着任して六年、知識ではなく、あなたたちに「考える」力を持ってもらえるよう努力してきました。
その力だけが、あなたたちを強くし、この社会で生き抜くことを可能にすると信じてきたからです。
あなたたちは、十分に学びましたか?
だったら、その力を発揮してください。
まだ、足りないと思っていますか? 
では、社会に出てからも、努力し続けてください。

あなたたちの顔を見る最後の機会に、一つだけ話したいことがあります。
それは「正しさ」についてです。

あなたたちは、途方もなく大きな災害に遭遇しました。
確かに、あなたたちは、直接、津波に巻き込まれたわけでもなく、原子力発電所から出る炎や煙から逃げてきたわけでもありません。
けれど、ほんとうのところ、あなたたちはすっかり巻き込まれているのです。

なぜ、あなたたちは「卒業式」ができないのでしょう。
それは、「非常時」には「卒業式」をしないことが「正しい」といわれているからです。

でも、あなたたちは納得していませんね。
どうして、あなたたちは、今日、卒業式もないのに、少し着飾って、学校に集まったのでしょう。
あなたたちの中には、少なからず疑問が渦巻いています。
その疑問に答えることが、あなたたちの教師として、わたしにできる最後の役割です。

いま「正しさ」への同調圧力が、かつてないほど大きくなっています。
凄惨な悲劇を目の前にして、多くの人たちが、連帯や希望を熱く語ります。
それは、確かに「正しい」のです。

しかし、この社会の全員が、同じ感情を共有しているわけではありません。
ある人にとっては、どんな事件も心にさざ波を起こすだけであり、ある人にとっては、そんなものは見たくもない現実であるかもしれません。

しかし、その人たちは、いま、それをうまく発言することができません。
なぜなら、彼らには、「正しさ」がないからです。

幾人かの教え子は、「なにかをしなければならないのだけれど、なにをしていいのかわからない」と訴えました。
だから、わたしは「慌てないで。心の底からやりたいと思えることだけをやりなさい」と答えました。
彼らは、「正しさ」への同調圧力に押しつぶされそうになっていたのです。

わたしは、二つのことを、あなたたちにいいたいと思っています。
一つは、これが特殊な事件ではないということです。
幸いなことに、わたしは、あなたたちよりずっと年上で、だから、たくさんの本を読み、まったく同じことが、繰り返し起こったことを知っています。
明治の戦争でも、昭和の戦争が始まった頃にも、それが終わって民主主義の世界に変わった時にも、今回と同じことが起こり、人々は今回と同じように、時には美しいことばで、「不謹慎」や「非国民」や「反動」を排撃し、「正しさ」への同調を熱狂的に主張したのです。

「正しさ」の中身は変わります。
けれど、「正しさ」のあり方に、変わりはありません。
気をつけてください。
「不正」への抵抗は、じつは簡単です。
けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです。

二つ目は、わたしが今回しようとしていることです。
わたしは、一つだけ、いつもと異なったことをするつもりです。
それは、自分にとって大きな負担となる金額を寄付する、というものです。
それ以外は、ふだんと変わらぬよう過ごすつもりです。

けれど、誤解しないでください。
わたしは「正しい」から寄付をするのではありません。
わたしはただ寄付をするだけで、偶然、それが、現在の「正しさ」に一致しているだけなのです。

「正しい」という理由で、なにかをするべきではありません。
「正しさ」への同調圧力によって、「正しい」ことをするべきではありません。

あなたたちが、心の底からやろうと思うことが、結果として、「正しさ」と合致する。
それでいいのです。
もし、あなたが、どうしても、積極的に、「正しい」ことを、する気になれないとしたら、それでもかまわないのです。

いいですか、わたしが負担となる金額を寄付するのは、いま、それを心からはすることができないあなたたちの分も入っているからです。
三十年前のわたしなら、なにもしなかったでしょう。
いま、わたしが、それをするのは、考えが変わったからではありません。
ただ「時期」が来たからです。

あなたたちには、いま、なにかをしなければならない理由はありません。
その「時期」が来たら、なにかをしてください。
その時は、できるなら、納得ができず、同調圧力で心が折れそうになっている、もっと若い人たちの分も、してあげてください。
共同体の意味はそこにしかありません。

「正しさ」とは「公」のことです。
「公」は間違いを知りません。
けれど、わたしたちはいつも間違います。
しかし、間違いの他に、わたしたちを成長させてくれるものはないのです。
いま、あなたたちが、迷っているのは、「公」と「私」に関する、永遠の問いなのです。

最後に、あなたたちに感謝のことばを捧げたいと思います。
あなたたちを教えることは、わたしにとって大きな経験でした。
あなたたちがわたしから得たものより、わたしがあなたたちから得たものの方がずっと大きかったのです。
ほんとうに、ありがとう。

あなたたちの前には、あなたたちの、ほんとうの戦場が広がっています。
あなたを襲う「津波」や「地震」と、戦ってください。
挫けずに。
さようなら。
善い人生を。

 この力強いメッセージに、当時の私は強烈に胸を打たれました。
 そして、「正しさ」に抵抗する難しさという一大テーマを、このように生々しく語ることができる高橋源一郎に強烈な憧れを抱きました。

 私がブログを始めたきっかけも、そんな論者たちへの憧れからだったのかもしれません。
 このブログでは、私たちに襲いかかる言葉の「津波」や「地震」と向き合っていくため、「正しさ」に抵抗する私なりの術を描いているつもりです。

「人類を飼い慣らした物語」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11787898414.html
「なぜ人を殺してはいけないのか」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11789717718.html
「世の中間違っていますか」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11791749081.html
「全人類プロレス」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
「真理ムラの癒着と圧力」
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11813540497.html

 私の場合はまだまだ理屈っぽくて、内田樹や高橋源一郎など憧れの人たちの説得力には遠く及びません。
 ですが、それでも今の私にできる精一杯をここで表現していきますので、今後ともお付き合いいただければ幸いです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html


「安易に学級崩壊という言葉を使うのはおかしいのではないか」

 そう私に語りかけてきたのは、小学校で勤める友人。
 彼女は日本人なのですが、家族の仕事の関係で海外生活が長く、初等教育はドイツで受けています。
 そのため彼女は、日本の初等教育のあり方を知らないまま日本の小学校で勤めることになり、そこで初めて画一的すぎる小学校教育の実態と直面してしまったのです。

「小学1年生くらいの子どもなら45分も椅子に座っていられないのは当たり前なのに、教室内で歩き回っているくらいで学級崩壊と呼ぶのは変だ」

 彼女のこの指摘は非常にまっとうなものです。 
 ドイツの心理学者ゲハルト・ラウトは子どもがじっとしていられる時間について研究し、その成果をレポートを『Baby und Familie』誌に掲載しました。
 彼は子どものじっとしていられる時間を、5歳児で10分から15分、10歳児でも約20分だとしており、それ以上に「じっとしていること」を求めるのは「非現実的な期待」だと述べています。

 2013年12月14日付のニューヨークタイムズ紙にも「ADHDを売ること」という特集が組まれており、「医師も教育者も親も、製薬会社のADHDの治療薬のキャンペーン」に乗せられ過ぎではないかと疑問視する声を紹介しています。
 それによると、多くの親や教育者が非現実な期待から「子どもがじっとできないこと」を許容できなくなっており、アメリカではADHDの薬を服用している子供の数が、1990年の60万人から350万人に増加しているそうです。

 「子どもがじっとできないこと」が当たり前だと許容できるのならば、教育のプログラムもそれを前提として組み立てることができます。
 実際、彼女がドイツで受けた小学校の授業では、教師の話を椅子に座ってずっと聞かされ続けるなんてことはなかったと言います。
 授業の最初にその時間で達成すべき目標が示され、子どもたちは座席に縛られることなく自由に行動しながら自分たちで試行錯誤したり相談し合ったりし、教師は子どもたちの自主的な学びをただサポートするだけ。

 そんな教育を受けてきた彼女にとっては、生き物として非現実的なあり方を子どもに押し付けておきながら、その勝手な期待が裏切られたからといって「学級崩壊」など騒ぎたてるのは馬鹿馬鹿しいと感じられたのでしょう。
 また、彼女は日本の教育とドイツの教育との関係について、以下のような疑問も抱いていました。

「日本の教育システムはドイツを参考にして作られたと言われているが、自分が実際に受けてきたドイツの教育と全く違うのは何故か」

 この質問に対する私の回答は、日本が参考にしたのは彼女が実際に受けた現代のドイツにおける教育ではなく、明治維新当時のドイツにおける教育だということ。
 イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・ドイツなど列強と呼ばれる国々による植民地拡大が盛んだった時代、他のアジアの周辺諸国と同じように欧米列強に従属させられないようにすることが日本にとっての緊急の課題でした。

 そういった列強の仲間入りをするために日本は各国からさまざまな制度を取り入れましたが、そのときドイツから吸収したのが学校教育システムであり、ドイツ式の歩兵運用法です。
 ドイツ式の歩兵運用とは、集団で縦横が揃った陣形を作り、歩幅を揃えて隊列を崩さないように移動し、銃の発射や装填もすべて指揮官の合図に従って一斉に行うというもので、各自の勝手な判断で発射したりを隊列を乱したりすれば懲罰を課されていました。
 そして、そんな軍規に従って整然と集団行動を遂行できる人間を効率よく育成するためのカリキュラムが、学校教育の段階から組織的に組み込まれていたわけです。

 「気をつけ」「礼」「着席」「右向け右」「回れ右」「全体止まれ」などの号令、整列や行進などの集団行動、 海軍で行われていた5分前行動の徹底、小隊・分隊をモデルにした組・班という行動の単位、行軍の演習としての遠足、模擬戦の意味を持つ赤白別れての運動会、現在の軍隊でも訓練として行われている障害物競争などなど、これらは効率的な歩兵教育のために生まれた制度です。

 こうしたマイルドな軍事演習を初等教育の段階から取り入れるというのは、時代の流れに合わせた政府の選択の一つ。
 第一次大戦、第二次大戦をきっかけに歩兵訓練的な教育は時代の流れとは合わなくなってきたため、欧米諸国では次第に選ばれなくなって廃れていきました。
 ですが、日本では「近代教育とはこうあるべき」という最初の刷り込みの影響が強かったのか、終戦以降も学校教育の枠組み自体には大した変化はなく、それまでの歩兵教育の惰性をいつまでも引きずることになります。

 私が言う歩兵教育の惰性とは、「集団行動での規律を優先すべき」「目上の人からの命令は絶対」といった態度のこと。
 戦前・戦中に支配的だった「お国のために」という建前の方は、戦後になって国民主権・平和主義・基本的人権の尊重などの民主的な物言いに刷り変わっていきましたが、権威に追従し集団としてのまとまりを優先するムード自体は民衆の間に温存されていきました。
 伝統的な家父長制が解体されてからもしばらくは「父親の言うことは絶対」という制度の名残が各家庭に残っていましたし、「学校では教師の言うことには従うもの」という不文律も戦後長らくの間は有効でした。

 椅子に座って教師の言うことを聴くだけの授業が小学校低学年の段階で成立していたとすれば、それは徹底した歩兵教育の影響が人々の中にまだまだ残っていたから。
 学校での教師の指導のあり方だけでなく、家庭での躾や社会の雰囲気といった諸々の同調圧力が働いていたために、多くの子どもたちは「学校では教師の言うことに従う」という態度を自然に身に付けていられました。

 ですが、そういった過去の歩兵教育の惰性は、世代が交代していくとともにだんだんと失われていきます。
 「たとえ権威者の言うことであろうが盲目的に従う必要はない」という言説がようやく主流となってきた現代の日本において、小学校低学年の子どもたち全員に「45分間行儀よくじっと教師の話を聴く」という不自然な態度を強制できるような同調圧力はほとんど存在していないのです。

 だからといって「45分間行儀よくじっと教師の話を聴くような画一的な授業には意味がない」と言い切ることもできません。
 何故ならば、この日本では「古き良き歩兵教育のあり方」を名残惜しんでいる人々がまだまだ力を持っているから。
 教育問題について「昔は今よりも良かった」と語る人のほとんどは、教育における「歩兵教育的な側面」が機能しなくなったことを嘆いているに過ぎません。

 「うちの子が言うことを聞かないのは先生の指導が至らないから」といったクレームを付ける親や「学校での指導が至らないから我慢の効かない若者が増えていく」と嘆く経営者たちの本音とは、結局のところ「聞き分けのよい歩兵のような人材に育ててほしい」ということ。
 そのような身も蓋もないニーズは社会の隅々でまだまだ根強く、子どもに関わる教師には「優秀な歩兵へと鍛え上げられる優秀な教官」としての能力が暗に期待されていたりします。

 幸か不幸か「優秀な歩兵としての振る舞い」を身に付けられた人間は、「優秀な歩兵のような人間を好む有力者」には気に入られる可能性が高いため、結果的にこの日本社会を上手く世渡りしていけるかもしれません。
 実際、生きるか死ぬかの大災害にさらされても、救援物資を受けとるのにきちんと列を作って順番を待てる日本人の異常なまでの行儀のよさは、「統制のとれた歩兵としてのあり方」を理想とするこれまでの教育の賜物と言えるでしょう。
 ですから、今もなお形を変えながら続いている日本の画一的な教育の姿が、全くの無意味だとは決め付けられないのです。

 内田樹はそのブログ記事の中で、人の指向を「平時対応」か「非常時対応」かで分類するというものの見方を提案しています。
http://blog.tatsuru.com/2014/05/14_0818.php

自分の将来について考えるときに、「死ぬまで、この社会は今あるような社会のままだろう」ということを不可疑の前提として、このシステムの中で「費用対効果のよい生き方」を探す子供たちと、「いつか、この社会は予測もつかないようなかたちで破局を迎えるのではあるまいか」という漠然とした不安に囚われ、その日に備えておかなければならないと考える子供たちがいる。

「平時対応」の子供たちと「非常時対応」の子供たちと言い換えてもいい。
実は、彼らはそれぞれの「モード」に従って何かを「あきらめている」。

「平時対応」を選んだ子供たちは、「もしものとき」に自分が営々として築いてきたもの、地位や名誉や財貨や文化資本が「紙くず」になるリスクを負っている。
「非常時対応」の子供たちは、「もしものとき」に備えるために、今のシステムで人々がありがたがっている諸々の価値の追求を断念している。

 内田樹はこのように述べて、地位や名誉や財貨や文化資本を得るための「平時対応」の能力を「どうでもいい才能」と呼び、この世の根本的な成り立ちについて考察するための「非常時対応」の能力を「真の才能」と名付けています。
 これらの言葉を使って語るならば、画一的な歩兵教育とは「優秀な歩兵としての生き方をよしとする世界」で上手く生きていくための「平時対応」の能力を鍛えるものと呼べるでしょう。

 こうした「平時対応」の「どうでもいい才能」を伸ばすための教育に専念する人ならば世の中にいくらでもいますので、私自身は「非常時対応」の「真の才能」を暖かく見守れるような教育者でありたいと考えています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11827675094.html
 そして、叶うことなら自分自身も「非常時対応」の「真の才能」を発揮していきたいと願いながら、これからもこのブログを更新していこうと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 私の本職は高校の数学教師。
 当ブログのテーマは人間を変容させてしまう言葉の影響力なのですが、こうした言葉へのこだわりも元々は数学との関わり方から生まれたものです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11885863539.html

 数学とは、自然科学などにも使える便利な理系の言語。
 真に数学が得意な人は、日本人が漢字やカタカナを使うことで外国生まれの概念を日常に取り入れているのと同じように、さまざまな問題を考えるのに数学という言語を当たり前に使用しています。

 「数学も言語の一種に過ぎない」と私が確信できたのは、高校1年生の確率の授業のとき。
 定義や定理や法則というのは結局のところ言葉なんだから、矛盾なく意味が読み取れる文章を組み立てることができればそれこそが正しい解答として認められるし、そもそも教科書だってそのようなマナーで書かれているのだと合点がいったのです。

 それまでの中学数学で出てくる問題と言えば、「計算しなさい」「方程式を解きなさい」「グラフをかきなさい」「交点の座標を求めなさい」「2つの三角形が合同であることを証明しなさい」「角度を求めなさい」 のような単純な命令文がほとんど。
 たとえ問題の解き方が分からなかったとしても、「何を聞かれているのか」という質問の意味自体を理解するのはそう難しくありません。

 ですが、高校数学の応用問題では問題文の構造や使われる言葉がちょっぴり複雑になりますので、中学までの数学よりもしっかりとした日本語の読解力が必要になります。
 ですから私は教師として数学の「言語としての側面」を重視して教え、「たとえ初めて見るような問題であっても、用語の意味と日本語の使い方さえ理解していればどんな問題も読み取ることができる」と伝えるようにしています。

 そして、どうすれば生徒の印象に残るかと考え、黒板の板書だけでなく比喩表現やボディランゲージなども駆使しています。
 教師として経験を積むうちに、ガチャガチャの販売機のイメージから数列の和の記号Σを教えたり 、ヒーロー戦隊ものの合体ロボットのイメージでベクトルの和と分解を「のりしろ合体」として教えたり、x軸に垂直な直線には傾きが存在しないこたとをパントマイムを交えて説明したり、法則や問題文を恋愛話にたとえてみたりと、思い付いたことはその場のノリで何でも試すようになりました。
 今回はその中でも、「数学を恋愛にたとえてみた場合」の生徒との対応例を2つほど紹介してみたいと思います。

 まず最初は『1から100までの自然数のうち、2と7の少なくとも一方で割り切れないような数はいくつあるか』という問題を質問してきた生徒との受け答えです。
 この問題を解くためには「少なくとも一方」という日本語の意味と、「ド・モルガンの法則」という論理法則を把握しておく必要がありますが、この質問してきた生徒はド・モルガンの法則をそれほど理解していないようでした。
 そこで、以下のようなたとえ話をしました。

P子さんの好きなタイプはイケメンかまたは金持ち。
相手がイケメンか金持ちか、どちらか片方の条件でも満たしていればP子さんはその人と付き合っちゃいます。
ここにX君がいて、P子さんに告白しましたが振られてしまいました。
さてX君はどんな人だったのでしょう。

「イケメンでも金持ちでもない」

正解!
これがド・モルガンの法則なんよ。
「AまたはB」の否定は「AでないかつBでない」になるんよね。
じゃあド・モルガンの法則の2つ目に行ってみようか。

Q子さんはP子さんよりも図々しい根性の持ち主で、イケメンでなおかつ金持ちな人しか相手にしないし、その条件さえ満たしていれば誰でもOKなんよ。
ここにY君がいて、Q子さんに告白しましたが振られました。
さてY君はどんな人だったのでしょう。

「うーん………やっぱりイケメンでも金持ちでもないかなあ」

それは正解とは言えないねぇ。
Q子さんはイケメンと金持ちの両方を兼ね備えていないと付き合わないんだから、たとえイケメンであっても金持ちじゃなきゃダメだし、イケメンじゃない金持ちでもダメなんよ。
つまりイケメンか金持ちのどちらかでも欠けていたらダメってこと。
だから「イケメンでなおかつ金持ち」の否定は「イケメンでないかまたは金持ちでない」なんよ。

「なるほど、納得」

それがド・モルガンの法則の2つ目で、「AかつB」の否定は「AでないまたはBでない」ってことなんよね。
さて、ここでさっきの問題に移るんだけど、「2と7の少なくとも一方で割り切れない」というのはつまり「2で割り切れないか、または7で割り切れない」っていうのと同じなんよ。
だからこの問題もド・モルガンの法則で考えれば良いわけ。
「2で割り切れないか、または7で割り切れない」は「2の倍数であり、かつ7の倍数でもある」の否定と同じこと。
「2の倍数であり、かつ7の倍数でもある」ということはつまり14の倍数ってことだから、この問題では「14の倍数でない自然数」が何個あるかを数えればいいってわけ。

「なんだそういうことか。じゃあ100割る14は……7あまり2だから14の倍数が7個。100引く7は93だから、14の倍数じゃない数は93個!」

はい、大正解!

 「~~の法則」などと大袈裟な名前が付いてしまうと日常とは関係がない学問の世界だけの話と思われがちですが、この「ド・モルガンの法則」は日常言語における基本的な論理の働き方を抽出しているだけ。
 計算や数式といった側面ばかりが注目されがちな数学ですが、複雑な問題になればなるほど「言葉の意味が分かっているかどうか」という日本語の問題こそが重要になっていくのです。

 そして次に紹介するのは、授業で2次方程式の問題演習をしていたときの、生徒からの質問に対する解説です。
 その授業では、「2つの2次方程式が互いに共通な解を持つための条件」を求める問題を扱った後に、「2つの2次方程式がともに実数解を持つための条件」を求める問題を解説したのですが、質問した生徒はこの2種類の問題の区別がつかなくて混乱しているようでした。

 「共通な解を持つための条件」という問題では2次方程式Aと2次方程式Bが同じ解を持たなければいけないと説明していたので、その生徒は「ともに実数解を持つための条件」という問題でも2つの2次方程式が同じ解を持たなければいけないと勘違いしてしまったのです。
 これもまた純粋に日本語の読み取りの問題ですから、具体例を持ち出して以下のようにその違いを説明してみました。

「A君とB君には、ともに彼女がいます」

こう言ったらどういう意味になるかな。
A君にはA君の彼女が、B君にはB君の彼女が、それぞれいるってことだよね。
このときは2人ともたまたま彼女がいるってだけであって、A君の彼女とB君の彼女の間には別に関連性は無いわけ。

「2次方程式Aと2次方程式Bは、ともに実数解を持つ」

この文章だって同じこと。
2次方程式Aは2次方程式Aで実数解を持ち、2次方程式Bもそれとは関係なく実数解を持つってだけ。
お互いの実数解はそれぞれ別で構わないんよ。
「彼女がいる」っていうのが「実数解を持つ」にすり替わっただけなんだからそうなるはずだよね。

さっきの問題で2つの2次方程式の解が同じじゃなきゃいけなかったのは、それが「共通な解」って問題だったから。
これを彼女の例に直そうとすると「A君とB君には、共通の彼女がいます」という風になって、ドロドロの三角関係になっちゃうよね。

でも「A君とB君には、ともに彼女がいます」なら別に普通のことだよね。
だからこの問題では、2つの2次方程式は同じ解を持つ必要はないんよ。

 この解説によって、生徒もようやく2つの問題の違いを理解してくれました。
 「ともに」も「共通な」も日常会話であれば当たり前に読み取れる言葉でしょうが、「数学の言葉は、普段使っている言葉とは全然違うものだ」という先入観のせいで普通には読み取れなくなっていたのです。

 数学の問題は一種の言葉遊び。
 日頃から言葉の意味をしっかり理解して使っていれば、見たことのない応用問題に出会ったとしても質問の意味が分からないという事態は起きません。

 私たち文明人にとっての世界は言葉で形作られています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11858425764.html
 ですから、言葉との付き合い方は万人にとっての重要な課題です。
 私も一人の高校教師として、これからも数学の授業を通じて言葉の重みを伝えていけたらと考えています。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 私のライフワークは、日本古来の太鼓や笛や踊りなどを通じて、多くの人の居場所となれるようなお祭りの輪を築くこと。
 そのために、演奏活動や技術指導、プロの演奏家による公演やアマチュアチームによる合同コンサートといったイベント企画などに携わっています。

 中でも力を入れているのが、そういった世界に縁のない人にも興味を持ってもらうための普及活動。
 打てば大きな音が鳴る和太鼓は多くの人に興味を持ってもらいやすいため、民俗芸能の世界を知ってもらうための入り口として、初心者のための和太鼓体験なども開催しています。
 そうして和太鼓を体験してもらった人たちの中からは、いくつかの太鼓チームも生まれてきています。

 そんな太鼓チームを運営していくにあたって分岐点となるのが、篠笛という楽器の存在。
 太鼓を使った楽曲の中には、リズムを刻む打楽器だけでなく、メロディーを奏でる篠笛などの管楽器を併用するものも数多く存在します。
 こうしたメロディーありの曲に取り組むかどうかによって、そのチームのカラーは随分と左右されることになります。

 私は太鼓や鉦や笛が渾然一体となってドンドン・チキチン・ピーヒャララと楽しく奏でるお囃子を中心に教わってきましたので、必然的に私が携わる太鼓チームにもメロディーありの楽しげな曲を好む傾向が生まれます。
 そこで浮かび上がるのが、誰が篠笛を吹くのかという問題です。

 篠笛の難点は、ただ単に息を吹き込むだけでは音が出ないということ。
 フルート・ピッコロ・龍笛・篠笛などの横笛を鳴らすには、ビーム状に絞られた空気を適切な位置と角度で歌口に当てなければいけません。 
 そして、空気をビーム状に絞る口許の使い方や、音の鳴る適切な位置と角度を掴むには、ある程度の熟練が必要となります。

 そのため、太鼓チームにおける篠笛担当者の割合はかなり低く、「メンバーの半数以上は全く篠笛に取り組まない」という太鼓チームの方が主流となっています。
 そんなわけで、チーム内に他の吹き手がいないせいでいつも篠笛ばかり吹いているという篠笛担当者も少なくありません。

 最初から篠笛を吹くためにそのチームに入っているのならそれでも構わないのでしょうが、そんなケースはかなり稀です。
 太鼓チームにおける篠笛担当者は、まず太鼓を打つ爽快感に魅せられてチームに入り、後から篠笛を始めたという人がほとんど。
 その場合、そもそも太鼓が打ちたくて始めた活動のはずなのに、チームの必要に応じて篠笛を覚えたがために、打ちたい太鼓がなかなか打てなくなるのです。

 ちなみに私は太鼓を始めて2~3年経ってから篠笛に取り組み始めました。
 私は人に何かを伝えるのが趣味のようなものですから、数学だろうが太鼓・篠笛・踊りなどの民俗芸能だろうが、「どうやったらやれるのか」と人から聴かれる場面があれば熱心に応え続けてきました。

 その過程の中で考察を重ねてきたテーマが、「篠笛に取り組みやすい環境とはどのようなものか」というものです。
 そして、メンバー全体の2割以下しかいなかった吹き手の数を、1~2年で8割以上にまで増やした福岡の太鼓チームの成功例をもとに、私が考案したのが「篠笛カフェ」という練習スタイルです。

 和太鼓と違って篠笛は、ただ音を出すというだけで訓練を要する楽器。
 篠笛を自然に鳴らすためには、箸の使い方や自転車の乗り方を覚えるのと同じように、新たな口許の使い方を身体に染み込ませていかなければなりません。
 それには地道な反復練習が必要不可欠ですが、多くの太鼓打ちは音出しの反復練習の段階で篠笛に挫折し、それ以降は太鼓などの打楽器にしか取り組まなくなります。
 
 通常ならばこの孤独な反復練習に耐えうる精神の持ち主のみが晴れて篠笛の担い手となれるわけですが、私の目的は優秀な演奏家を養成することではなく、多くの人にとってより居心地の良い居場所を築くこと。
 もっとゆるい雰囲気で篠笛に取り組めるよう、みんなでワイワイとお茶やトークを楽しみながら、反復練習にまつわる孤独を軽減しつつ篠笛に励んでいこうというのが、私の考える篠笛カフェの第一のコンセプトです。

 そして第二のコンセプトは、なかなか音が出ない人が余計な劣等感を感じずに練習に打ち込める環境を確保すること。
 物事の上達にはどうしても個人差がありますから、自分がまだ音を出せていないときに周りの人がピーピー音を鳴らしていると、その場所が自分の居場所だとは思えなくなってくる人も出てきます。

 そうした疎外感を回避するための工夫としては、練習する部屋を二つ以上確保するというやり方もあります。
 初学者がアドバイスを受けながら練習できるスペースと、ある程度音が出せる人が共同で自主練するスペースとを別個に分けてしまえば、初学者に余計な重圧を与えることもありません。

 湯茶にお茶菓子なども用意していつでも休憩できる場所を準備しておくのも、重圧を和らげるのに効果的です。
 私が主催している篠笛と踊りの練習会では、紅茶・コーヒー・カフェラテ・抹茶ラテなどと、その日までに選んでおいた何種類かのお菓子を持っていって、練習に疲れて休んでいるときにも居場所があるようにと工夫しています。
 そのおかげか、3つの太鼓チームのメンバーが篠笛の練習に集まり、これまで篠笛に挫折してきた人たちものびのびと楽しく練習に打ち込んでいます。

 また、初学者の篠笛練習へのモチベーションを下げてしまう要因として、「まず音がしっかりと出なければ曲の練習には移れない」という思い込みがあります。
 この固定観念に囚われると「音がしっかりと出る」という初学者にとって高めのハードルをクリアしない限り次の段階には進めないため、達成感をなかなか得られないまま挫折してしまうという事態に陥ってしまいます。

 ですから私の主催する練習会では、音がしっかりと出ていなくても関係なしに曲の練習に入ります。
 篠笛の練習を大まかに二つに分類すると、安定した綺麗な音を出すための息の練習と、曲を奏でるための指の動きの練習とがありますが、穴を塞いだり叩いたりする指の運動自体は練習すれば即座にその成果が実感できるため、音出しだけの練習よりも達成感が得やすいからです。

 そして、一曲でいいので指の動かし方だけでもマスターしてしまえば、何の曲も知らないときよりも反復練習に向かうための心理的なハードルが低くなります。
 さらに、音がまだしっかり出ていなくても、指パクでもいいからとチームの演奏の輪に加わっていれば、そのうちに自然と体が息の使い方を覚えていってくれます。

 私自身も、音の出し方を習ってから半年以上は篠笛をほったらかしにしていました。
 ですが、まだしっかりと音が出ていない段階で大好きだった水口囃子という曲の指使いを同じチームのメンバーに教わり、音を出さない指だけの反復練習でまずは指使いだけを身に付け、音が出ないままチームの合同練習に何度も飛び込むことでいつの間にか音が出るようになっていました。

 つまり、太鼓チーム内の篠笛人口を増やすためには、まず第一に篠笛に対する抵抗感を減らすように場の雰囲気を整えること。
 完璧主義や勤勉の精神などストイックさのみが支配している場所では、ごく一部の限られたメンバーしか頑張り続ける気になれません。

 人が何かに熱心に打ち込めるのは、まずその対象に興味を抱いて引き込まれ、「とことんやりたい」という欲求が自然と湧いてくるから。
 ですから、少しでも興味を持った人がすぐに挫折してしまわないよう、篠笛の初学者に対して手厚くケアする体制が太鼓チーム内でもできれば、篠笛をやり込みたくなる人も自然と増えていきます。

 その点、この篠笛カフェのスタイルであれば、より気楽により多くのメンバーが篠笛の練習に向き合うことができます。
 メンバーの多くが篠笛を吹けるようなチームを目指すのであれば、「ひたすら練習に励め」とただ叱咤するだけでなくこのようなゆるい導入の方法もありますので、もし興味があれば試してみてはいかがでしょうか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 当ブログの目的は、気付かないうちに私たちを洗脳していく言葉の影響力について、様々な角度から見つめ直していくこと。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11885863539.html
 中でも特に力を注いでいるのが、「言葉はそもそも何のためにあるのか」という存在意義について、大学時代から温め続けてきた持論を発信することです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 そしてその次に力を注いでいる当ブログの裏テーマは、私が勝手に心の師と仰いでいる内田樹の言説を紹介すること。
 人に伝えるのが難しくて長い間一人だけで抱えてきた自説を、私がこうして曲がりなりにも発信できるようになったのは、「その問題の難しさ」について分かりやすく説いていた内田樹という先達がいてくれたから。
 そんなわけで、これまでもたくさんの内田樹の文章や語り方を紹介してきています。

「内田樹に関する記事一覧」

 そんな彼が書いてきた本の中で、私の最高のお気に入りは前にも紹介した『子どもは判ってくれない』です。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11911157031.html
 この本には「子どもじみた正論」だけで世の中を語り付くそうとしない「知恵ある大人の語り方」の具体例とその合理的根拠とが列挙されていますので、今回はそういった内田樹のエッセンスを紹介したいと思います。

 例えば彼は、日本の歴史認識問題について、いわゆる皇国史観も自虐史観も作為的に練り上げられた作り話に過ぎないという正論をまず述べます。
 ですが彼は、作り話に対して「それは作り話だから意味がない」などと短絡的に却下することはありません。

 子どもじみた正論ユーザーと内田樹との違いは、「同じ作り話ならどの作り話が使い勝手が良いかを時と場合に応じて選べば良い」とクールに算盤を弾いているところ。
 そんな大人の計算が伺える部分を抜粋してみましょう。

私が大学受験のときに愛読したのは山川出版社の『資料世界史』である。
これはマルクス主義的な歴史観に基づいて編まれた参考書であるので、ただ一つの「歴史を貫く鉄の法則性」によって、世界史上のすべての出来事が「なんでそうなるのか」きちんと説明されている。

私はこの教科書を一読したときの「心からの感動」を今でも覚えている。
ただし、その感動は「今まで『なんでそうなるのか』判らなかった」ことが「分かった」がゆえの感動ではない。

私は一読して「これはつくり話だ」ということが分かった。
しかし、「つくり話」であれ、因果の糸にきちんと貫かれている歴史書は、物語的関連なしに事実だけが羅列してある歴史書よりもはるかに暗記しやすい。
受験生である私にとって喫緊の課題は何よりも世界史の「まる暗記」であった。

だから、単純な「お話」でありさえすれば、世界史は「神の見えざる手」が導いていようが、「階級闘争の歴史」であろうが、「絶対精神の顕現の審級」であろうが、「ウェストファリア・システム内部でのゼロサムゲーム」であろうが、受験生にとってはどうだっていいのである。
どんなに「ばかばかしい内容」であれ、「説得しようとする熱気」さえあれば、それは受験生にとっては「よい教科書」であると私は思う。

 つまり内田樹は、「歪められた情報を歴史教科書に載せるべきではない」とする幼稚な正論に対し、「歪みを含まない情報など存在しないのだから歪みは歪みとして活かせば良い」との達観を示しているのです。
 その上で彼は、見解の異なる様々な歴史教科書が存在することの教育的な意義について、日教組や「新しい歴史教科書を作る会」などとは全く違う、以下のような見解を述べています。

高校生たちのうちに、どんな「お話」も簡単には信用しない懐疑精神が育ってくれるのであれば、歴史の教育効果としてこれにすぐるものはないと私は思う。

 「お話」はあくまでも「お話」として受け止め、その「お話」が通用している世界では「お話」として便利に活用していく。
 これこそが、内田樹が日頃から説いている、「作り話だらけのこの世の中」を生きていくための大人の叡智です。

 神話、宗教、科学など、私たちがこの世界を生きていくためには何らかの作り話が必要です。
 誰かが主張する「真実」も所詮はその人の脳内における作り話に過ぎませんから、「作り話だから」と言ってすべての作り話を却下していたのでは、私たちに使える物語はなくなってしまいます。

 「お医者さんに任せておけば安心」という作り話を信じていられる人は、医者の能力を常に疑ってかかる人よりも、同じ治療を受けていても回復が早い場合があります。
 「とにかく先生はえらいものだ」という作り話を信じていられる人は、教師の能力を常に疑ってかかる人よりも、同じ講義を受けていても多くの学びを得る場合があります。
 「誰の仕事でもない仕事は自分の仕事だ」という作り話を信じていられる人が一定数存在する社会は、皆が「自分の仕事以外はする必要がない」と信じている社会よりも住み心地が良くなる場合があります。

 このように、作り話の中にも「有用な幻想」があると、内田樹は言います。
 そしてその上で、大人同士の有意義な議論とは、「あなたは幻を見ている。私も幻を見ている。だが、私の見ている幻の方が快適であるので、こちらを採択されてはいかがか(もっと快適な幻が出てきたら、いっしょにそちらに乗り換えましょうね)」という形で繰り広げられるべきものだろうと述べています。
 「あなたは幻を見ている。私は真実を見ている。だからあなたも私が説明する真実を理解しなさい」という一方的な宣言は、どんな年長者が主張したところで子どもの言い分なのです。

 その意味で、内田樹が「子どもじみた正論ユーザー」として批判し続けているのが、上野千鶴子を始めとするフェミニストたちです。
 彼は、「母性愛というのは近代の父権性の下で、女性を家庭に繋縛するために発明された幻想である」と断じて「母性愛幻想」を粉々に打ち砕こうとするフェミニストたちに対して、以下のような反論を加えています。

「母親になったからといって自然に子どもに対する汲み尽くせぬほどの愛情が湧き上がるはずではない」というのは事実である。
しかし、そのような「事実」の背景には、その女性が育児の代償に、「自由気ままな生活」や「ビジネスでのサクセス」や「スレンダーなボディ」を享受するチャンスを逸したという「怨み」がしばしば潜在している。

だが、「自由気まま」や「サクセス」や「美貌」を「素晴らしいもの」と思いなす幻想のあり方は、「母性愛」神話に繋縛された母親が「母であることの幸福はすべてを圧する」と信じ込んでいるときの幻想のあり方と本質的にはどこも違わない。
どちらも、その社会の「システム内的」な幻想であることに変わりはない。

「母性愛は幻想だ」と言うのは正しい。
私たちの社会には幻想性を免れているような制度は一つも存在しないからだ。
しかし、その言明が「幻想を棄却すれば、あなたは真実に出会える」と言外に言おうとしているなら、それは問題の多い言説であると言わねばならない。

母性愛をかなぐり棄てて、ビジネスに没頭する女性は、「母性愛幻想」と「サクセス幻想」を交換しているにすぎない。
子どもを棄てて、めくるめく恋愛に没頭する女性は「母性愛幻想」と「恋愛幻想」を交換しているにすぎない。
家を棄てて、自己表現にすべてを賭ける女性は「母性愛幻想」と「承認幻想」を交換しているにすぎない。

どの幻想に支援されて生きるかは、その人の自由である。
しかし、それは「幻想を脱して、真実に触れた」のではなく、幻想Aを幻想Bと置換しているにすぎないという不愉快な事実はアナウンスしておく必要があるだろう。

 内田樹は「母性愛幻想」を必要としていない人が「母性愛なんて無意味だ」と断言することについては全く反対をしていません。
 ですが、世の中には「母であることの幸せさえあればどんな苦労も苦痛ではない」と信じ込んでいられるおかげで、仕事や家事や育児などを何とかこなせているという人もいます。
 そんな人たちに向けてまで「母性愛なんて無意味だ」などと言って幻想を砕いてまわろうとするフェミニストたちの原理主義的な行為に、常識ある大人の一人として彼は反対しているのです。

 といっても彼は、フェミニズムに対して全面的に異議を唱えているわけではありません。
 戦前から続いていた「女性たちの生きづらさ」を改善させてきたウーマンリブ運動の成果については、彼もその意義をある程度までは評価しています。

 内田樹が述べているのは、その運動の原理をどこまで言い張っていくかという思想の「賞味期限」の問題。
 父権制が築いてきた幻想を打ち砕くことに熱心なあまり「まだニーズのある幻想」までも打ち砕こうとするフェミニストたちの姿勢に、彼は「そのクレームの付け方はもはや賞味期限切れではないか」と投げかけていたわけです。

 こうした「思想や制度や常識には賞味期限がある」という考え方も、内田樹が常々発信している提案の一つ。
 『子どもは判ってくれない』の中で彼は、人種という物語の賞味期限について語っています。

 内田樹が目をつけたのは、2002年に日本で公開された『チョコレート』という映画の紹介文。
 その映画評には「今年のアカデミー賞で、黒人の父、白人の母を両親に持つハル・ベリーが黒人女性として初めて主演女優賞を受けて話題になった作品」と書いてあったそうです。

 彼が引っ掛かったのは、「黒人と白人の子は黒人である」と分類するその偏見のあり方。
 まず彼は、そうした物言いに潜んでいる差別的な見方について、以下のような歯切れの良い正論を述べます。

アメリカでは「黒人の父と白人の母を両親に持つ子ども」は「黒人」にカテゴライズされるのが「ふつう」である、だから別にこれはイデオロギッシュな言明ではなく、たんに客観的事実を記述しているにすぎない、というふうに言えるかもしれない。

なるほど。だとすると、ハル・ベリーはたしかに「黒人」だ。
彼女が白人男性と結婚しても、その子どもたちは「黒人」だ。
その子どもたちが非黒人と結婚しても、孫たちは「黒人」だ。以下無限に続く……。
と、いうことでよろしいのかな。

透明な水に一滴の墨汁が垂れたのと同じで、いくら「希釈」しても、「原初の透明」には決して帰ることができない。
と、そういうことでよろしいのかな。

しかし、それなら、逆に、「白い絵の具」を水に垂らすと、透明な水が「白濁」して、いくら「希釈」しても、「原初の透明」には帰ることができない、という「白人汚染論」があってもよいはずである。
でも、「黒人の父と白人の母を両親に持つ、白人女性」ということは誰も言わない。
なぜ、言わないのか。

 ここまでの歯切れの良い正論を盾に「こんな人種差別はおかしいじゃないか」とクレームをつけるだけならば、内田樹自身が批判しているヒステリックなフェミニストたちと同じ。
 ですが彼は、黒人を差別するレイシストたちの物言いだけでなく、「黒人への差別を解消せよ」「差別の現実を覆して黒人がアカデミー主演女優賞をとれた」と声高にアピールする運動家の物言いまでも、「その言葉づかいこそが差別の構造を固定化している」と指摘します。
 そして、「いつまでも白人だ黒人だとわめくよりも、人種という前時代的な幻想にこだわり続けるのを徐々にやめていかないか」という大人の折衷案を以下のように提出します。

「黒人」「白人」問題というのは、要するに「どちらを有徴項(汚れ)として見るか」という純粋に「見る側」の決断の問題である。
「黒人の父と白人の母を両親に持つ」者は「黒人」であるとする「一般的見解」を「客観的事実」として受け入れるというのは、その人に自覚があろうとなかろうと、その人が白人であろうと黒人であろうと、KKKであろうと公民権運動の活動家であろうと、本質的に「レイシストの視線」で世界を眺めている。

「披差別者の解放」という事業が、ある段階まで「披差別者の有徴化」を戦略としてとらざるをえない、ということを私は理解できる。
「黒人」であれ「ユダヤ人」であれ「在日コリアン」であれ「部落民」であれ、その人が現に受けている差別をはね返すために、「披差別有徴者」としてのポジションをはっきりと示すということは必要なプロセスだろう。

しかし、差別の解消ということが、「有徴化するまなざし」そのものの廃絶をめざすものであろうとするなら、「有徴化」の戦略は「どこか」で廃棄されなければならない。 
私は「今すぐ」廃棄しろと申し上げているのではない。
それが無理であることくらいは承知している。
ただ、「いつか、どこかで」廃棄されなければならない戦略である、ということは頭の隅に置いておきましょう、と申し上げているのである。

「黒人の父と白人の母の子どもは黒人である」というような有徴化の言説は、現在は「常識」として通用している。
しかし、これは「とりあえずは通用しているが、いずれ廃棄されるべき常識」であると私は考えている。

私は「常識」にも「賞味期限」を刻印することが必要ではないかと申し上げているのである。
「これは今は『常識』で通用していますけど、賞味期限がそのうち切れますから、切れたら棄ててくださいね」と誰かが言い続けることが必要だと私は思う。

でも、こういう地味な仕事の意義を理解してくれる人はなかなかいない。
「常識は永遠に常識である」とするか、「棄てるべきものは、今すぐ棄てろ」とするか、どちらかに決めてスッキリしたいという方々ばかりである。

常識の多くは、賞味期限が来たら「腐る」。
しかし、賞味期限が来るまでは「食べられる」。
そういうものである。

「いずれ腐るものなら棄ててしまえ」ということを言う人もいるが、それを棄てると、とりあえずほかに食べるものがない、という場合もある(民主主義とか国民国家とか一夫一婦制というのは、そういう「もの」だ)。

あらゆる社会制度には「前史」があり「後史」(という言葉は存在しないけど)がある。
それが生まれるには生まれるだけの歴史的条件というものがあり、それが消滅し、別の何かによってその社会的機能が代替されるためには、それなりの歴史的条件の熟成というものが必要なのである。

私たちの世界に「未来永劫に正しい制度」などというものは存在しないし、同じように「存在すること自体が人間性にもとるような、本質的に邪悪な制度」というものも存在しない。
それぞれの制度やイデオロギーや慣習は、果たすべき歴史的使命があって登場し、その使命を終えたら退場する。
ただ、それだけのことである。

だから、「制度の賞味期限」をチェックして、「腐ったものを食べない」、「まだ食べられるものを棄てない」という作業はけっこう大切だと私は思っている。
そのうえで、ハル・ベリーを「黒人女優」と呼ぶ習慣をそろそろやめませんかとご提案させていただいているのである。
この「そろそろ」という副詞の使い方に私の万感はこもっているのであるが、残念ながらそれを理解してくださる方はあまり多くはおられないのである。

 制度、イデオロギー、慣習、常識などは、人が生きていくために必要な物語なので、「正しくないから今すぐなくせ」と訴えるだけでなくせるものではない。
 こうした歯切れの悪い複雑な大人の物言いに、独自の説得力を持たせられるのが内田樹の真骨頂です。
 当ブログではこれからも彼の紡いだ叡知を紹介していきますので、良かったら一度だけでも目を通してみてください。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 以前「本当の幸せ」という記事で、この大袈裟な言葉に付きまとう「あなたは本当に幸せか」といった強迫的なメッセージの危険性について述べました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11837972333.html

 この手の脅し文句は、カルト教団や自己啓発セミナーが信者や顧客の獲得目的にも利用しがちなもの。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11864744405.html
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11866547864.html

 そう書いてfacebookにもシェアしたところ、現在大学生になっている教え子の一人と、コメントのやり取りで盛り上がりました。
 その会話の末に、このブログが目指す「社会通念との闘い」というテーマに行き当たりましたので、そのやり取りを再録してみたいと思います。

【教え子】
自己啓発に関わる全ての人がつけこんでるわけではないと思うけど、少なくとも私の知ってる人たちは自己啓発セミナー(笑)的なことというより講演会的なことは無料でやってて自然と人が集まる感じですね~。
お金というリスクで意識を高めないと実行できない人もいるらしいからどっちがいいかわからないですが(笑)

【私】
そういう世界ではよく「自己実現のためには自分に投資をしなさい」などとまことしやかに言われたりするもの。
確かに言われるがままに「自分への投資」をする人が増えれば、そういう自己実現フリークに本を売り付けたりセミナーを開いたりすることで、本の筆者やセミナー講師自身はお金儲けという自己実現ができちゃう。
自己啓発の世界では、そんな薄っぺらな夢とむやみなハイテンションを感じさせるだけの錬金術もまかり通ってるよね。
そんな風にお金をつぎ込みたくなる人を造り上げるためによく使われる方便が、あなたは今本当に幸せなのかっていう懐疑思想なんだよ。
そして、著者やセミナー講師自身が誘導する課金の先に「本当の幸せ」が待っているかのようなことを匂わせる。
この錬金術は幸せへの飢えや渇きを造り出し増幅することで成り立っているから、「あなたの今のままの生活はそれだけで十分幸せ」なんてことはなかなかアナウンスされない。
でも、そんな風に増幅された飢えや渇きを持たされない人の方が、幸せなんじゃないかと思うんだよね。
何気ない日常のことに充実を覚える感性さえあれば、「本当の~」なんて絵空事は必要ないんだよ。

【教え子】
確かに確かに!!!
すごくわかります!!
私も一時期疑問を持ちつつも自己啓発本読んだりしてたんですが、やっぱり疑問が拭えなくて。
でも先生のコメントみてすごく腑に落ちました!
やっぱり、幸せはすぐそばにあることに気づけることが幸せなんだな~と感じました。
「不足」を指摘したり先生の言葉を借りると懐疑思想によってもたらされる「飢えや渇き」によって「支配」のエネルギーの入り込める状態を作ってしまうのはとても恐ろしいですね。
過激な言い方すると天使の顔をした悪魔みたい。
「悪魔ですよ~」といって近づくより、「天使ですよ~」といって近づいてくる人には、確かに騙されやすいでしょうが、そうやって心の隙にはいりこまれていつの間にか洗脳されて食い物にされているとしたら、悲しすぎる。
私たちはみんな幸せを感じる感性を疑いなんかで濁らせないで、最初からもこれからも「完璧」だということ、幸せだということ、忘れちゃいけないですね。

【私】
この錬金術で一番手強い相手は、お金儲けを企む「自称・本当の幸せ供給者」のような小物ではなく、「本当の幸せ」という思想を普及させて「本当の幸せ」という需要を生み出してしまった世の社会通念の方だと思うんだよね。
悪魔のように見える「自称・本当の幸せ供給者」も、最初は「本当の幸せ」を求めて何かに飛び付いていった犠牲者だったりするし、本人は自分のことを「本当に幸せをもたらす天使側の人間」と信じこんでたりもする。
つまり、カルトや自己啓発が宣伝するより以前に、世の中で「本当の幸せ」という懐疑思想が普及してしまっているがために、そういった小物たちが商売しやすいような土壌ができあがっている。
このブログを始めた目的は、そういった社会通念との闘いでもあるんだよね。
言い換えるなら「自称・本当の幸せ供給者」たちが商売し辛い社会の実現こそが、俺の密かな野望なんだよ♪
そんな俺の想いが響いてくれたかな?

【教え子】
響きましたよ~!!!
うんうん!!!
最初は犠牲者だったり、天使側の人間だとおもいこんでたり、、、すごくわかる。
この社会通念との戦い、先生がなさってることは大切なことですね。
一刻も早く皆の目が覚めて空虚な不安定なものを頼るのをやめて、今目の前の幸せに気づけることを心から願います。
先生こういう話できて嬉しかったです。
有難うございます(^_^)

【私】
自称天使側の人々のしつこさ・巧妙さはまだまだこんなものじゃないから、これからも自分は引っ掛からないと油断せずに気をつけて~!(`◇´)ゞ

 この対話は私自身にとっても有意義なものになりました。
 学校教育における目的の一つとして「社会を生き延びていくにあたって必要な知恵を育むこと」が挙げられますが、このような生々しい話は高校の教壇という場にはなかなか馴染みません。

 ですが今回はこうしたSNSを通すことで、社会に出始める大学生という時期に、滅多に語る機会のない重要な注意を喚起することができました。
 こうした社会通念との闘いをこそがこのブログ本来の目的ですので、これからも草の根からの発信を推進していきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html