間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -12ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。


 高校一年生の頃、私は筒井康隆の『やつあたり文化論』というエッセイ集と出会いました。
 この本の冒頭に収録されていた「ゴルフ嫌い」というエッセイは、当時の私に強烈なインパクトを与えます。

 筒井康隆は、ゴルフに興味のない自分に対して己の価値観を押し付けてくる輩を、理詰めで滅多斬りにします。
 この本が刊行された1979年当時の日本はゴルフブームの真っ只中。
 仕事の手段として「ゴルフ接待」が使われ、「ゴルフも仕事のうち」などと持て囃されていたこの時代の風潮に、筒井康隆は以下のような筆誅を下したのでした。

ゴルフを面白がる気持ちだって、わからないではない。
ゴルフのボールというのはたしかによくとぶ。
しかしあれは老人が打ってもある程度とぶようにできているのであって、だからこそ老人たちが面白がってやっているわけだから、ましてあれを若い者が打ったらよくとぶのはあたり前なのである。
よくとんだからといって老人たちに褒められていい気分になるのもいいが、あまり自慢すると馬鹿に見えるから、ひとに喋るのだけはやめた方がよろしい。

「歩くのがいいのだなどというひともいるが、たしかによく歩くことは老人の健康法のひとつである。
しかし老人の健康法を若い者が真似たってしかたがないので、まあ何もやらないよりはましといったところであり、胸を張っていうほどのことではなく、そんならなぜ山へ登らないかといわれたら困るだろう。

「自然の中できれいな空気を吸うのがよろしい」などというやつもいるが、あんなもの何が自然だ。
木を根こそぎ引っこ抜いて地ならしし、芝生を植えただけの人工庭園ではないか。
これもやはり、そんならなぜ山へ登らないかといわれたら困るだろう。
どちらにしろ彼らは老人たちのいったことばをそのまま口うつしにしてゴルフを賛美しているのであり、それがすべて老人の論理であることに、喋っていながら気がついていない。

ゴルフをやる連中がなぜ「歩いたり」「自然の中で空気を吸う」ために山へ登らないかというと、そういうところへは老人が行かないからだ。
自分たちだけで山へ行ったのでは上役と交際できず、商談も成立せず、いい取引先を紹介してもらうこともできず、得意先の接待にもならず、費用を接待費として落とすことができず、これも仕事のうちだと妻にいうわけにいかず、したがって大威張りで日曜日に出かけるわけにもいかず、エリート意識も持てず、高価な会員証を自慢することもできず、何よりもまず第一にふだんの老人たちとの会話に困るからである。

どうもいやしさがついてまわるスポーツである。
いやしさのともなうことをやっている時に人間がまずしようとすることは、まずそれを美化することであり、次に仲間をたくさん作ることであり、仲間に入らない者を疎外することである。
話題があわなかったり座談に入れてもらえなくなったりすると、途端におろおろしはじめる連中の心理をよくつかんだ一種の村八分である。
これにまどわされ、老人たちとあまりつきあいのない連中までが、若い者ばかりでゴルフ場へ出かけたり貧乏ゴルフをやったりしているが、もの欲しげでもあり、愚の骨頂である。

 結論に至るまでに駆使されるこれらの鋭い語り口は、当時の私をしびれさせました。
「理詰めで世の中のことを何でもズバッと斬れるような人物になりたい」
 そんな憧れさえぼんやりと抱くようになりました。

 しかし、そんな大それた野望は19歳になったばかりのころに頓挫します。
 自分の器量ではそんな人になれそうもないと諦めたわけではありません。
 そんなことは原理的にほぼ不可能だろうという結論に至ったのです。

 少年時代の私はとにかく不満だらけでした。
 一般的に言って、不満には二つの根があります。
 ひとつは自分自身の未熟さについての不満、もうひとつは自分を取り巻く環境が望ましいものでないことについての不満です。

 そして自分の未熟さに目を向けられないほどに未熟な人間は、その不満の持って行き所として「世の中は間違っている」とか「どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ」なんていうありきたりな他責に走ることになります。
 私もそんな糞ガキの一人でした。
 「理詰めで世の中のことを何でもズバッと斬れるような人物になりたい」という憧れも、自分が不快だと感じている世の事柄を下等なものとして見下したいという欲求の現われだったのかもしれません。

 ただ、理のない主張をわめき散らすという行為は、当時の私のプライドが許しませんでした。
 決め付けや思い込みで物事を断ずるのは、実際には証明できていないのに証明できたふりをするようなもの。
 数学を得意としていた私にとって、その種の分かったふりは最も恥ずかしい行為でした。

 ですが、大学で数学の基礎論をかじって感じたのは、数学は「すっきりした理路によって物事を語りたい」と望む人にとっての理想郷であるために、「現実世界がどうなっているか」という何とでも言えてしまう問題には一切手を出さないということ。
 逆に言うと、複雑かつ曖昧な現実世界の問題を理詰めですっきりと語り尽くすのは不可能だからこそ、ルールと論理の積み重ねだけで構成された「数学」という温室の世界が重宝されてきたのです。
ttp://ameblo.jp/futaproject/entry-11821161395.html

 もともと数学と同じくらい厳密な水準でしか断言をしたくないと思っていた私は、そのようにして数学以外の話題では何も断ずることができない人間になります。
 高校時代に生まれた「理詰めで世の中のことを何でもズバッと斬れるような人物になりたい」という朧気な目標は、理路へのこだわりの前に脆くも崩れ去りました。

 自分自身の出した結論によって、ほとんどの話題が「語りえぬもの」となってしまった青年期の私は、それでも何かを語りたいと思い、自分にはどんなことが語りうるのかと考え続けるようになります。
 世の物事についての「~は…だ」という事実確認的な断定を自分自身に禁止した当初の私は、「~は…だろう」といった予想や仮説しか語ることができませんでした。
 その中で私は「この世界を動かしているのは理屈上の正しさではなく都合と力のバランスでしかない」という仮説を立て、その説に則って「複雑な都合と力の荒波」を生き抜いていくことを決意します。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11798926743.html

 そのようにして都合と力のバランスと向き合っているうちに、青年期の私が抱いていた「数学と同じくらい厳密な水準でしか断言をしたくない」というこだわりは、「言葉はそもそも世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするためにあるもの」という固定観念が生み出していたのではないかと思い当たります。
 言葉の根本的な存在理由が「人心を説得すること」ならば、「断言」とは人心を説得するための効果的なテクニックの一つに過ぎないわけですから、「正しく記述すべき」という無駄なこだわりで自主規制する必要などなかったのです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11821161395.html

 青年期における私のこうした葛藤とその克服の過程を分かりやすく代弁してくれていたのが、内田樹の『子どもは判ってくれない』です。
 この著書の「たいへんに長いまえがき」にあった以下のエピソードは、そのまま私自身の過去のこだわりにも当てはまるものでした。

例えば、「愛している」という言葉がある。
私たちはこの言葉をずいぶんと濫用する傾向にある。

私は若いころ、恋人に向かって「愛している」という言葉をあまりにみだりに口にしている自分の軽薄さを反省したことがあった。
そして、思いきって自分の「内面」を覗き込んでみた。
いったいどういう心理的根拠があって、私は「愛している」という言葉をこれほど濫発できるのだろうか調査してみたのである。

覗き込んだ私の心の中には、「がらん」とした空洞が広がっていた。
なんと、私が習慣的に口にしていた「愛している」という囁きにはまるで心理的根拠がなかったのである(多少の生理的根拠はあったようだが)。

私は若かったので、もう二度とこういう「いいかげんな言葉」を口にするのはやめるべきだと考えた。
そこで私は彼女にこう告げた。
「君を愛しているのかどうか、ぼくにはよく分からないんだ。でもね、『君を愛しているかどうかよく分からない』と君に告白するぼくの誠実さだけは信じてほしい。」
もちろん彼女は憤然と去ってしまった。

私はここで再び反省の人となった(若いころはよく反省する人間だったらしい)。
そして気づいたのである。

私は「愛している」という気持ちを実定的に所有していたがゆえに「愛している」という言葉を口にしたのではない。
そうではなくて、「愛している」という言葉を口にすると、私の身体はそれに呼応するように熱くなり、声が優しくなり、気持ちがなごんでくる。
それと同時に、彼女の声も優しくなり、目がきらきら輝き始め、肌がなめらかになる。
私は「愛している」という言葉のもたらすその効果を「愛していた」のである。

「愛している」は私の中にすでに存在するある種の感情を形容する言葉ではなく、その言葉を口にするまではそこになかったものを創造する言葉だったのである。
ことの順番が違うようだが、実はこれでよいのである。
世の中というのは存外そういうものである。
だから恋人たちが飽かず「愛している」「愛している」「愛している」と囁き続けるのは理にかなったふるまいなのである。
「もう君がぼくを愛しているのは分かったから、別の話をしない?」というわけにはゆかないのである。

大切なのは、「言葉そのものが、発話者において首尾一貫しており、論理的に厳正である」ことよりも、「その言葉が聞き手に届いて、そこから何かが始まる」ことである。

 内田樹のこうした複雑な物言いを、未熟な子どもは「妥協した大人の卑怯な詭弁」として受け止めるのかも知れません。
 そのような「正しい子ども」の誤解を緩和するために書かれたのがこの『子どもは判ってくれない』です。
 正しいことを言うことだけに執着しない「大人の合理性」を説いたこの本のあとがきには、私が長年言いたかったメッセージが凝縮されていましたので、最後にその引用をご覧ください。

この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。
一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。
いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多い)」。
これである。

命題に要約してもなお「ことがある」などという限定符を付してはなはだ歯切れがよろしくないが、そもそも「歯切れがよろしくないことは、歯切れがよいことに比べて『よくない』ことであると歯切れよく断言されるのはいかがなものか」ということを延々と申し上げている書物なのであるから、歯切れが悪いのは「当たり前田のクラッカー」なのである(お、ここだけ妙に歯切れがいいな)。

というわけであるから、本書を最初から最後まで読み通されたあとに「要するに何が言いたいわけ?」という問いが発せられることは避けがたいのであるが、もちろんそのような問いかけに対して著者には、「だからですね。何につけても『要するに』というような単純なもの言いはもうやめませんか、と申し上げているわけですよ。要するに」とお答えする心の準備ができているのである。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 肩こりや腰痛や手足の関節痛など、慢性的に起こる激痛の原因は何なのか。
 ニューヨーク医科大学のジョン・E・サーノは1980年代にTMS理論という仮説を発表し、慢性痛に関するそれまでの定説に反旗を翻しました。

 それまでの医学の常識では、脊椎の構造的な異常、姿勢の歪みや運動不足や過労などからくる筋肉の異常、神経の圧迫といった、物理的な要因が慢性痛の原因とされてきました。
 それに対してサーノは、慢性痛は脳が積極的に作り出した生理現象の一部であり、身体の構造に正すべき異常があるから痛みが起こっているわけではないと説いています。

 脳によって作り出される慢性痛を彼は緊張性筋炎症群(以下、TMSと略す)と名付け、 痛みを作り出すこうした脳の働きを防衛反応の一種だと説明しました。
 TMSでは、自律神経系が抑圧された不安や怒りなどの感情に反応し、ある部位の筋肉や神経、腱、靭帯の血流量を減少させていると仮定しています。
 こうして血液をあまり送り込まれなくなった組織は酸素欠乏を起こし、痛みやしびれ感、麻痺、筋力低下といった症状が完成するのです。

 ではなぜ脳は身体に痛みを作りたがるのか。
 それは抑圧された感情から己の自我を守るため。
 つらい感情に心が囚われてしまうのを避けるために、脳は身体に痛みを作り出すことで意識を痛みの方に向けさせているのだとサーノは説きます。

 それでは不安や怒りなどの不快な感情と縁を切らない限り、身体の不調とは離れられないのかと誤解されてしまいそうですが、そういうわけではありません。
 もしそうならば、人間である限り不快な感情と無縁でいることなど不可能ですから、痛みの完治も不可能という結論にしかならないでしょう。

 ですがサーノは、手術、理学療法、カイロプラクティック、整体、鍼灸、マッサージといった物理的なアプローチに一切頼らずに、17年間で数千人以上の慢性痛を完治させ、その後の再発すら防ぐことができました。
 彼が実践した治療法とは、数回の講義によって患者にTMS理論を学習させるという、シンプルな脳へのアプローチのみ。
 TMS理論によれば慢性痛を引き起こしているのは患者本人の脳なので、主犯格である脳に情報を与えて教育し、痛みを作ろうとする脳の動機そのものを断念させることが根本的な治療に繋がるというのです。

 これまで紹介した肩こり・腰痛・関節痛などのTMS以外にも、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、痙攣性大腸炎、便秘、緊張性頭痛、偏頭痛、動悸、湿疹、ニキビ、花粉症を始めとするアレルギー性鼻炎といった症状はすべて、抑圧された無意識下の感情から目を反らすために脳によって作り出された自作自演の苦痛だとサーノは主張しています。
 心的な要因から引き起こされる疾患として、この中でも特に有名なのが胃潰瘍と十二指腸潰瘍です。
 彼はこうした消化器の潰瘍とTMSとの密接な関係について、その著書『ヒーリングバックペイン』の中で大胆な分析を試みています。

 アメリカやカナダでは、1950年代から1980年代にかけて胃潰瘍や十二指腸潰瘍の発症件数は激減し、慢性的な肩こりや腰痛の発症件数は激増したと報告されています。
 サーノはこれらの事実から、脳は抑圧された感情から目を背けさせるための手段として昔は胃潰瘍や十二指腸潰瘍による痛みを多用していたが、近年は肩こりや腰痛や関節痛などのTMSの方をより頻繁に使うようになったと言います。

 そんな手段の乗り換えが起こった原因は、「胃潰瘍や十二指腸潰瘍はストレスが原因で起こる」という理解がアメリカやカナダで既に常識となってしまったこと。
 このような社会では、いくら脳が消化器に潰瘍をこしらえたとしても、潰瘍についての常識が「感情の問題から目を反らす」という脳の目的を邪魔してしまいます。 

 その点、肩こりや腰痛や関節痛については、脊椎や筋肉の構造的な異常、神経の圧迫、姿勢の歪みといった物理的な要因で発生するという理解のされ方が一般的。
 患者本人が「物理的な理由で痛みが生じている」と信じ込んでいる限り「感情の問題から目を反らす」という脳の目論みはまんまと成功しているので、脳はこの便利な逃避手段を多用することになりました。

 ですから、TMSに対する根本的な治療法とは、感情の問題から目を反らさないこと。
 脳が身体にいたずらするTMSの仕組みを患者本人がしっかりと理解し、肩や腰や関節などに激痛が走ったときに「私の脳はどんな不快な感情から気を反らせたくてこの痛みを作っているんだろう」と問い直す習慣を身に付ければ、痛みはじきにおさまります。
 いくら痛みを作ったところで「感情の問題から目を反らす」という当初の脳の目的はもう果たせないので、身体に痛みを作ろうとする脳の動機がなくなってしまうのです。

 この治療法の難点は、世間の常識が邪魔をして、「脳が痛みを自作自演している」というTMS理論を患者本人がなかなか受け入れられないということ。
 痛みを和らげるための対策として、安静にしなさい、姿勢をよくしなさい、筋肉を鍛えなさい、ストレッチをこまめにしなさい、血行をよくしなさい、といった物理的なアドバイスが世間に溢れているために、物理的な要因を真っ先に心配する習性が染み着いてしまっているのです。
 
 ですが、運動の仕方や普段の姿勢など身体のケアにばかり気を取られている姿こそ、脳が作り出したかった「感情の問題に目を向けない」状態です。
 脳は「物理的な要因で身体が痛んでいるだけ」だと私たちを騙しておきたいので、私たちが物理的な改善のアプローチを試みれば一時的に痛みを作るのをやめて「物理的アプローチが成功した」と思わせます。
 そして、そのトリックが私たちを騙せている間は、性懲りもなく新たな不調を作って私たちの気を反らそうとします。

 その最たる例がヘルニアです。
 本来ヘルニアは年とともに誰にでもできるもので、ヘルニアになっていても痛みを感じない人はいくらでもいます。
 サーノはヘルニアが原因とされている慢性痛の正体も脳が作り出したTMSだと指摘しており、外科的な手術など施さなくても痛みは取り除けることを何度となく実証しています。 

 もちろんヘルニアを手術することで痛みが改善することもあるのですが、それは脳が私たちに「手術をしたから痛みが改善した」と思わせたくて痛みを手術箇所に作るのをとりあえず止めたというだけのこと。
 「悪霊のせいで体が重い」と信じ込んでいる人が、お祓いによって不調を改善させるのと原理は同じで、こうした現象はプラシーボ効果と呼ばれます。
 どちらにしろ痛みが改善されているならばお祓いも手術も有効だという見方もありますが、これらのプラシーボに頼れば脳は「身体に不調を作れば不快な感情の問題から目を反らすことができる」と学習しますので、いつまた脳によって別の症状が作成されるか分かりません。

 このように、脳の目眩まし戦略を手助けするような常識が世間で幅を利かせているため、いくら患者がTMS理論を頭で理解したとしても、長年培ってきた思考の癖は一朝一夕では抜けきれません。
 ですから、サーノはそれまでの刷り込みを書き換えるために、TMS理論の留意点をまとめた以下の「毎日の注意」を毎日復習するよう患者たちに指示します。

◆痛みは(身体の)構造異常ではなくTMSのせいで起こる
◆痛みの直接原因は軽い酸素欠乏である
◆TMSは抑圧された感情が引き起こす無害な状態である
◆主犯たる感情は抑圧された怒りである
◆TMSは感情から注意をそらすためだけに存在する
◆背中(肩)も腰も正常なので何も恐れることはない
◆それゆえ身体を動かすことは危険ではない
◆よって元のように普通に身体を動かさなくてはいけない
◆痛みを気に病んだり怯えたりしない
◆注意を痛みから感情の問題に移す
◆自分を管理するのは潜在意識ではなく自分自身である
◆常に身体ではなく心に注目して考えなければならない

 このTMS理論をサーノが提唱し始めてから、もう30年以上が経ちます。
 心が身体に影響を及ぼすという心身症についての見識は当時よりかはいくらか一般的になってきましたが、それでも肩こりや腰痛や関節痛に関しては物理的なアプローチによる治療の方がまだまだ主流です。
 ですが、上に挙げられた12ヶ条の留意点が「地球が丸いこと」と同じくらい当たり前の常識となる日が来れば、肩こりや腰痛や関節痛に悩まされる人はほとんどいなくなっているのかもしれません。


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 私が内田樹の文章と初めて出会ったのは、大学院生だった2005年の夏。
 彼は2005年5月3日に投稿した「憲法記念日なので憲法について」というブログ記事の中で、トリッキーな独自の護憲論を展開していました。
http://blog.tatsuru.com/archives/000961.php

 『ためらいの倫理学』や『9条どうでしょう』といった著書をもとに彼の護憲論をざっくりとまとめると、「戦争放棄を謳う憲法9条も、明白な武力でしかない自衛隊の存在も、どちらも現状維持でよろしい」という結論になります。
 それは、日本が「武力を持ってはいるが自由に行使できない」というジレンマの中に置かれていたこと自体が、日本に何十年にもわたる情勢の安定をもたらしてきたと解釈しているから。
 完全なる非武装よりも、自由度の高い武力よりも、中途半端で不自由な武力を保持する現状の方が相対的には平和の維持に繋がると信じているので、彼は「ジレンマは解消しなくて良い」という自説を堂々と訴えているのです。

 憲法9条の理念に反するからと自衛隊の存在に難癖をつけたがる左派も、自衛隊の存在に整合性を持たせるために憲法9条を改正すべきだと唱える右派も、彼にしてみれば「理屈の上での正しさ」だけに執着し過ぎているという意味で同じ穴のムジナ。
 日本をアメリカの実質的な属国とみなせば、アメリカにとって無害であるための平和憲法もアメリカにとって有益であるための自衛隊も、どちらも矛盾なく両立します。
 そんな属国的状況はプライドが許さないからと「完全なる非武装」や「自由度の高い武力」を要求している人々は、一人前の国家として筋を通すことにこだわり過ぎる余り、現状の妥協的な平和を崩しかねないというのが内田樹の危惧でした。
 
 内田樹を支持する人の中には、護憲論を強化するための武器として彼の巧妙な方便に乗っかりたいだけの結論ありきな党派人間もいるようですが、私はそれとは別の理由から彼の言動をフォローするようになりました。
 私が内田樹を心の師と仰ぐようになったのは、彼の言動には「それが正しいかどうかなんてことよりも望む効果があるかどうかの方が大事でしょ」というプラグマティックな信念が徹底されていたからです。
 このことは『街場の教育論』という著書にある以下の文章からも伺えます。

必要なのは「あるべき社会」についての「正しい情報」ではありません(あるべき社会についての本当に「正しい情報」というのは、「そんなものはかつて存在したことがないし、これからも存在しない」です)。
そうではなくて、「あるべき社会」を構築「する気」に私たちがなるかどうか、です。
「正しい情報」を提供することが、人間の世の中を少しでも住みよくする努力に「水を差す」ことになるならば、「正しい情報」なんか豚に食わせろ。
少なくとも私はそう考えます。

 内田樹は、学者として専門の世界だけに閉じこもることを良しとせず、世の中を住みよくするための具体的な発信に本気で注力しています。
 ですから彼は、学術的な中立性や厳密性にはさほどこだわることなく、必要とあれば専門外のジャンルにまで首を突っ込んでラディカルで大胆な推論を次々と繰り出していきます。

 科学の存在意義は、真実を解明するという机上の茶番にあるのではなく、私たちにとっての世界を変えていく具体的な発信にあります。
 学術的な厳密性とか中立性といった正しさの基準に意味があるのは、その流儀に従った方が発信力が高まるときのみ。
 レヴィ=ストロースは、哲学という学術的な蛸壺の世界を見限ってアマゾンの奥地で人類学者としてのフィールドワークを始め、構造主義者として西洋哲学や近代科学のものの見方に特権的な正当性はないとする『野生の思考』を著すことで世界に絶大な影響を与えました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11884786421.html

 内田樹が重視するのも、こうした発信による世の中への影響力。
 大胆過ぎる彼の断言の揚げ足をとったり非難の声を浴びせたりする人たちは大勢いますが、世の中を住みよくしていくための発信に忙しい彼は「正しいかどうか」という言葉の上でのフィクションを真に受けているだけの批判者の言うことなどそもそも相手にしていません。
 19歳の頃から7年以上「言葉は物事を言い当てるためにある」という世間の固定観念の欺瞞と向き合ってきた当時の私にとって、パブリックな言論の場で「言葉尻の整合性なんて小さな問題だ」と言ってしまっても発言力を保っていられる彼は見習うべき大先輩だったのです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11799851146.html

 私が見習っているのは「言葉は影響を与えるためのものだ」と割り切って、そのことを隠そうともせず堂々と発信していくことで説得力を生んでいく彼の言論のスタイル。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 逆に言うと、見習っているのは発信の姿勢やスタイルの方であって、彼が発信する内容すべてに賛同しているわけではありません。

 例えば彼は「政府解釈の恣意的な変更をもって集団的自衛権の行使を可能とする今回の閣議決定に反対」だと主張する立憲デモクラシーの会の呼びかけ人の一人を務めており、安部政権が行った憲法解釈変更の閣議決定についてはTwitterで以下のように述べています。

2014年7月1日は日本が自滅への道へ大きく踏み出した歴史的な日付として記憶されることになるでしょう。
これから集団的自衛権発動のための法整備が始まるはずですが、国会にどこまで抵抗ができるのか。
ほとんど期待できないというのが率直なところです。

 この件に関して私は前回の記事で、内閣が内閣自身の憲法解釈を変更すること自体は民主主義の原則に何ら反しておらず、反対派は国会での審議や裁判所の違憲判断に影響を及ぼすような反対運動を正々堂々とやったら良いとする冷泉彰彦の見解を紹介しました。  
http://m.newsweekjapan.jp/reizei/2014/06/post-656_1.php
 立憲デモクラシーの会にも法律家たちが集まっていますので、安部政権のやり方が明文化された民主主義の手続きを違反していないこと自体は当然理解しています。
http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/setsuritsushyushi

 ですから、彼らが責めているのは民主主義の「明文化されたルールに反していること」ではなく「ルール化されていない理念に反していること」の方になります。
 野球に喩えて言うならば、強打者への全打席敬遠を卑怯な戦術だと責めるようなもの。
 確かに全打席敬遠は、多くの日本人が求めるスポーツマンシップからは逸脱する行為かもしれませんが、別に野球の公式ルールそのものを破っているわけではありません。

 前回の記事の前半で述べたのもそういうこと。
 安部政権の行った『全打席敬遠』が気に入らないと不快感を表明する権利は誰にでもあると思いますが、それを「ルール違反だ」という言い方でまるで不正を行ったかのように伝え広めるやり方に私は賛同できませんでした。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11899694171.html

 立憲デモクラシーの会などの解釈改憲反対論者たちは「集団的自衛権の発動を阻止したい」という目先の目標の方を優先していますので、たとえ安部政権のやり方が明確なルール違反ではなくても、ルール化されていない民主主義の常識や倫理観からは逸脱していると発信していきます。
 それを聞いた一般大衆が「安部政権は明確なルール違反をしている」と勘違いして受け取ったとしても、その勘違い自体は彼らの目標にとって好都合ですのでそこをわざわざ訂正したりはしません。
 大事なのはそれが正しいかどうかではなく、発信によって望む効果を獲ることなんですから。

 私は集団的自衛権がどうのという以前に、封建的なメンタリティのまま「単なるお上へのクレーム」としての政権批判をしている人々が民主主義の仕組みを理解できていないことを問題にしており、誤解を招きやすい煽動の弊害を軽減するための発信を優先しました。
 ですから、立憲デモクラシーの会などの解釈改憲反対論者たちがわざわざ訂正しようとはしない勘違いについて指摘しようと、前回の記事を投稿した次第です。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11899694171.html
 もしかしたらそのことが反対派にとっては不都合な発信になっているのかもしれませんが、私は私が重要だと思う発信をするだけで、賛成か反対かというただの党派争いに参戦する気は全くありません。

 前回のような政治問題について、10年前の私なら敢えて首を突っ込もうなんて思いもしませんでした。
 私がこうした発信もこなすようになったのは、内田樹の発信の姿勢を見習ってきたおかげ。
 発信する方向こそ違いますが、それでも内田樹は私の心の師匠なんです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 2014年7月1日、日本の安倍内閣は集団的自衛権に関する憲法解釈の変更を閣議決定しました。
 この話題について語る人々を1ヶ月近く観察してきましたが、「憲法の解釈を閣議決定で変更するのは民主主義の原則に反する」といった論調を見るたびに「この人たちは中学校で何を勉強してきたんだろうか」という疑問が拭えませんでした。

 中学校の社会科では、日本の統治機構は立法・行政・司法の三権分立で成立していると習います。
 国民が選挙で選んだ国会議員たちが法律を決定し、内閣はその法律に従って政治を行い、裁判所は法律や憲法が守られているかどうかというジャッジを行います。 

 この三すくみを、立法の手続きに注目して見てみましょう。
 現行の日本の法律では、内閣と国会議員とが法案を提出することができ、国会の多数決で過半数を獲得すればその案は新しい法律として採用されます。 
 そして裁判所には、国会で成立した法律が憲法に反していないかどうかを審査するという大事な役割が与えられています。

 この発案、決議、違憲審査という立法の手続きの中で、発案する人も決定する人も審査する人も、各プレイヤーがそれぞれの憲法解釈を持っていることでしょう。
 でも、最終的に違憲か合憲かを判断する権限を持つのは裁判所ですから、発案者や決定者がいくら合憲だと解釈した法案であっても、裁判所の解釈が違憲であればせっかく通った法律も覆ってしまいます。

 逆説的に言うならば、立法における発案者に過ぎない内閣がどんな憲法解釈をしていようとそもそも自由なはずです。
 内閣の憲法解釈は内閣が発案する法律の中身に関わるだけであって、原則的にそれ以降の決議や違憲審査には何の強制力もないんですから。
 つまり、内閣が閣議決定によって変更したのは内閣が法案を作る際の指針としての憲法解釈であって、裁判所が行うべき違憲判断の基準を勝手に変更したわけではないのです。
 
 誤解して欲しくないのですが、私の立場は別に賛成派でも反対派でもありませんし、だからと言ってただの冷やかしでもありません。
 この件に関する私の主張は、「集団的自衛権は是か非か」というふわっとした問いの立て方自体がそもそもどうでも良いというものです。
 日本は曲がりなりにも法治国家なんですから、集団的自衛権というくくりの曖昧な概念についてああだこうだと扇動し合うのではなく、一つ一つの法律の妥当性について具体的に議論を深めていくというのが本来あるべき姿ではないでしょうか。

 7月1日の閣議決定以降、こうした的外れな論調を諫める識者はいないものかとインターネットで検索を繰り返していましたが、先週になってようやくほぼ同意見の識者を発見することができました。
 News week日本版でコラム連載をしている冷泉彰彦というアメリカ在住の作家が、6月19日の時点で以下のような記事をアップしていたのです。

『何度聞いても分からない「解釈改憲」反対論』

集団的自衛権の議論が本格化しています。
この問題に関しては、現時点では私は合憲化には反対です。

~中略~

その一方で、現在盛んになっている「解釈改憲」反対論に関しては、反対ということでは一致している私ですが、何度聞いても分からないところがあります。

というのは、現在盛り上がっている反対運動では、安倍内閣が「憲法解釈の変更を閣議決定」するのは「民主的手続きを経ない改憲」だから阻止したいという主旨のものが多いからです。
もっと言えば、安倍政権の姿勢が「立憲主義に反する」というのです。

まず、私はこの「立憲主義に反する」というのが良く分かりません。
というのは、安倍政権は、現在の日本国憲法の規定を超越し、事実上憲法の規定を踏みにじるような行為を行っているとは思えないからです。

何故ならば、日本国憲法では、内閣には勝手に憲法解釈を変更して、実質的な改憲を行うような権限は与えられていないからです。
つまり、内閣が内閣法制局長官の立案に従って閣議決定するというのは、行政府が行政府としての憲法解釈をしたということ「以上でも以下でもない」のです。
国家権力を構成する三権分立の中の一つの機関である「行政府」が「勝手にそう思いました」と言うだけです。

その際に内閣法制局長官に大きな権限があるように思われていますが、この内閣法制局長官というのは、いわば内閣の顧問弁護士とか、法律アドバイザーに過ぎないわけです。
また、閣議決定というのは、あくまで内閣として「決定しました」ということだけです。

これは、ブラック企業が自分に都合の良いことを言う顧問弁護士を雇って「この従業員の解雇は合法だ」という解釈を表明しているのと何ら変わりません。
要は当事者の一方がそう言っているということだけです。

この場合は、その解雇が合法であるかどうかは、裁判所の判断に委ねられるのですが、今回の場合は憲法解釈ですから、少し手続きが異なります。

一つは、内閣が「自分の解釈に従って」関連法案を提出した場合に、それが国会という立法府の審査を経るということです。
そこで可決成立すれば、事実上の「解釈改憲」に近づくわけですが、その際には民意の反映ということが重要ですから、大いに反対運動をしたらいいのです。

もう一つは、最高裁です。
仮に法律が成立したとしても、最高裁が違憲だと判断すれば、その法律は事実上無効になり、内閣の企図した解釈変更も無効になります。
最高裁は、明治以来の歴史の中で民意からは「超然」としていましたが、そうは言っていられない時代です。
この段階でも大いに反対運動をして違憲審査を勢いづけることは可能と思います。

日本国憲法に規定されているのは、そのような「三権分立」によるチェックです。
それを、「閣議決定されたら立憲主義の終わり」だというような勢いで批判するというのは、要するに日本国憲法を信じていないということになります。

日本国憲法を信じていない人が、憲法を守れと叫んでいること自体が「大いなる矛盾」であるわけですが、別の言い方をすれば「反対」を叫べば叫ぶほど、「内閣に事実上の解釈改憲の権限がある」ということを「確認」することになっているわけです。

これは大変なパラドックスだと思うのですが、どうしてこの種の議論が起きないのでしょうか?

勿論、今の国会では「ねじれ」が解消されているので、立法府と言っても独立性が薄いとか、最高裁判事への国民審査制度が事実上機能していないなど、司法権の独立性にも疑問があるのは事実です。

だったら、「立憲主義」を脆弱なものにしているのは、そちらの方であるわけです。
例えば国会では首班指名以外の党議拘束をやめるとか、最高裁判事の国民審査には「罷免運動」を認めるとか、少なくとも各判事が2回の審査を受けるように初任年齢を下げるとか、「三権分立」を強化する方向での「解釈改憲」をやったらいいのです。
このような改革であれば、条文改正をしないでも可能です。

まさか、護憲派というのは、日本国憲法は「不磨の大典」であるから自分たちが「解釈改憲」をするのは畏れ多いと思っているのでしょうか?

「そうではない、自分たちは保守派政権のやることを理屈抜きに反対したい。それはロジックではなく情念なのだ」というのなら、まだ理解できます。
ですが、そうではなくて反対派の人々が大まじめに「私は内閣に解釈改憲の権限があると信じているので、安倍首相に改憲をしないように懇願している」(要するにそういうことです)構図、それが「立憲主義」だというのは、どうしても理解ができません。

 このように冷泉彰彦は、立憲主義や日本国憲法を信じていない反対派たちこそが「内閣に事実上の解釈改憲の権限がある」という思い込みで的外れな暴論を叫んでいると指摘しています。   
 これは集団的自衛権がどうのという以前のはるかに根本的な問題。
 要は、我々日本人のメンタリティが封建時代の「お上に従わされるだけの臣民」からさほど変わっていないということですから。

 内閣の主な仕事は第一に、法律に従って「①政治を行うこと」ですが、法律を決定する場である国会に「②法案を提出できる」という権限も持っています。
 そして多くの反対派の論点のズレは、「憲法解釈」という言葉を①の枠で見ているのか、②の枠で見ているのかという違いにあります。

 私は(そしておそらく冷泉氏も)②の枠で「憲法解釈」と いう言葉をとらえています。
 「憲法解釈変更は立憲主義に反する」と主張される方は①の枠で「憲法解釈」という言葉をとらえており、内閣が「憲法解釈を変更した」と宣言した途端に「従来許されていなかった政治を始める」といったミスリードを誘っているようにみえます。

 ですが実際には、新解釈による新しい法案が可決しなければ従来法で許されていなかった政治を行うことはできないはずですし、現政府もその建前をなし崩しにして超法規的な行政をしようとはしていません。
 内閣がどのように憲法解釈に基づいて法案を出そうとも、それを決める権限は立法府である国会にあり、決まった法律に違憲判断下す権限は司法府である裁判所にあるため、行政府である内閣が勝手な解釈で政治を行える仕組みにはなっていないのです。

 冷泉氏は別に現内閣を擁護しているのではなく、責任ある国民として反対運動を盛り上げるなどして、三権分立の仕組みにのっとって立法や司法に圧力をかければよいと訴えています。
 彼はそうした「筋の通った反対運動」を行うにあたって、「現政府は恣意的な解釈による超法規的な行政をしている」という風に的外れな言いがかりを付ける人間が仲間内にいるのは上手くないと感じているのでしょう。

 このように、日本には立憲主義を成り立たせるための日本国憲法というお膳立てが整っているはずですが、多くの日本人は「国家の主権を担う」という民主主義ゲームへの参加意識が希薄です。
 ですから現状の日本は、「逆らえないお上」としての政府に対してクレームだけは言いながらも、お上が好き勝手にやることを実質的には認めてしまっている社会なわけです。

 安倍政権が「集団的自衛権がどうの」といかにも批判を浴びそうなことをわざわざ閣議決定までして大袈裟に発表して見せたのは、国民の勝手な勘違いを引き出すためとも言えるのではないでしょうか。
 その狙いが当たったのか、閣議決定翌日の各紙を比較してみたところ、内閣に「お上としての権限」を認めてしまっている論調が数多くみられました。
 中でも極端だった朝日新聞の記事の一部を紹介してみましょう。

第2次世界大戦での多くの犠牲と反省の上に立ち、平和国家の歩みを続け、「専守防衛」に徹してきた日本が直接攻撃されていなくても他国の戦争に加わることができる国に大きく転換した日となった。
国会に諮ることも、国民の意思を改めて問うこともなく、海外での武力行使に道が開かれた。

 何の法律も成立していないこの時点では、法治国家としては方針転換もまだできてないし武力行使の道もまだ開かれていないはずなのに、この書き方では逆にただの閣議決定に過大な権限を認めてしまっています。  
 反対派のこうした言いがかりは、賛成派や保守派政権にとってはむしろ好都合。
 こういった「お上へのクレーム」としての物言いが溢れることで、日本人からは国民主権の意識が削がれ、世間からの注目や投票率も下がって、結果的に政府の好き勝手が叶うのですから。

 賛成派として、こうした勘違いを逆に利用していたのが産経新聞です。
 この日の閣議決定は内閣の発案方針の変更に過ぎないはずですが、産経新聞は以下のような書き方で「日本の憲法運用のあり方すべてが変わった」と読ませるミスリードを誘っています。

政府は1日の臨時閣議で、従来の憲法解釈を変更して限定的に集団的自衛権の行使を容認することを決定した。
閣議決定によって、長らく日本の安全保障政策を覆っていた「集団的自衛権」という"呪縛"から解き放たれた。
その意義は大きい。

 的外れなクレームを振りかざす反対派に対し、下手に立憲主義に目覚めて投票率を上げられたら困ると思っている人々は、「ただのクレームで済むのなら好きなだけ言わせておけ」などとほくそえんでいることでしょう。
 この国のお粗末な民主主義の実態を把握しているであろうThe Japan Times紙は、「Abe wins battle broaden defense policy」と書いて安倍政権の実質的な勝利を報じていました。
 読売新聞も、以下のようにバランスのとれた記事を装いながらも、密かなミスリードを誘っています。

今後、法整備が進めば、自衛隊の権限と活動範囲は広がる。
自衛隊をどう使うのか政府の責任は増す。
批判のための批判に堕することなく、報道機関としてチェックする役割を果たしていきたい。

 私が気になるのは、この「法整備が進めば」という軽い書き方では、「正式な立法の手続きよりも内閣の閣議決定の方が一大事」といった印象を与え兼ねないということです。
 読売新聞に限らず、「個別法」「法整備」といった軽い言葉づかいで「法律よりも内閣の憲法解釈の方が重い」という印象を振り撒いている論者たちは皆、「結局お上の決定にはかなわない」という封建的な臣民根性を刷り込んでしまっているのです。

 そもそも法治国家の一大事であるはずの「法整備」は、一内閣の閣議決定なんかよりはるかに重要な出来事です。
 もし日本にまともな立憲主義を根付かせたいのなら「日本を戦争のできる国にする気か」とか「隣人も守れない国が一人前と呼べるか」といった乱暴な総括論に終始するのではなく、「個別法」の具体的な内容を一つ一つ検討していくという着実な発信をしていく必要があります。
 そんな地味で大変なことをしても大衆には伝わらないからしないと言うのであれば、その論者はまともな立憲主義よりも単純でキャッチーな扇動の方を優先しているんでしょうね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 2012年12月29日に放送された「すべらない話」の中で、お笑い芸人のバカリズムは排泄に関するディープな告白をしました。
 それは彼が自宅のリビングでくつろいでいるときに起きました。
 テレビを観ているときに尿意を催した彼はわざわざトイレに行くのを面倒に感じ、「今まで意識的に服を着たままおしっこしたことないなぁ」と思って試しにやってみようと決心したのです。

 パンツとズボンは洗えばいいだけだからと思って試しにチャレンジしてみたところ、服を着たままおしっこをしたら駄目だと体が思っているらしくてなかなか出ません。
 それでも無理にやってみたら、えもいわれぬ開放感で大変気持ちよかったそうです。

 そこで翌日、もう一回やってみようと思ってチャレンジしたところ、前日よりもすんなりおしっこが出て、その分気持ちよさも減りました。
 それを最後に着衣のままの排尿行為は止めたそうですが、そこから1週間くらい彼はおねしょが止まらなくなったということです。

 このおねしょについて彼は、やってはいけないことをしたせいで「膀胱が馬鹿になった」という言い方をしていましたが、テレビで観ていた私は別の感想を抱きました。
 彼の体に起こった現象は、故障ではなくむしろ学習。
 物覚えの良い彼の膀胱は、「おしっこは服を着たままするものだ」という新たな習慣を、たった2回の指導で身に付けてしまったのです。

 疫学者の三砂ちづるは、私たち文明人のほとんどがバカリズムのような破天荒な排泄行為を一度は学習してきていると言います。
 それはおむつへの垂れ流しです。
 
 彼女は2006年度から2年間、トヨタ財団の助成を得て、伝統的な「なるべくおむつを使わない育児」の研究をしました。
 保育士、母子保健・育児関係者、民俗学者などをメンバーとする研究チームをつくり、日本やインドネシアでのおむつはずしの変遷を調査し、そこで獲たノウハウを現代のお母さん方に試してもらったそうです。
 そうして「おむつを使わないでいる方が赤ちゃんもお母さんも実は楽」だという結論に達し、その成果を『赤ちゃんにおむつはいらないー失われた育児技法を求めて』という本にまとめています。

 といっても特に難しい方法が書いてあるわけではありません。
 赤ちゃんが発する排泄のサインを読み取って、赤ちゃんが排泄したいときに服を脱がせてしかるべき所で促してあげれば、「ためて出す」という排泄のコントロールを自然と身に付けていくのだそうです。

 こうした赤ちゃんへの排泄の促す行為は「やり手水(ちょうず)」とか「ささげ」などと呼ばれ、昭和初期までは普通に使われていた言葉だったそうです。
 おむつ自体はこの頃も使われていましたが、それはあくまでもためておくことに失敗したときのために備えてあるものであり、最初からそこに垂れ流すために装着するものではありませんでした。

 戦前の『主婦の友』には、おむつを使っていると赤ちゃんはおむつで排泄することに慣れてしまうが、それは「悪い習慣づけである」とためらいもなく書いてありました。
 当時は遅くても二歳までには完全におむつがはずれていたみたいですが、だからといって母親たちはおむつをはずすこと自体には大して力を入れていなかったようです。
 赤ちゃんの様子を察知して、トイレ等でおしっこやうんちをさせるようにしていたら、いつのまにか自然に排泄の自立に至っていたというのが、当時の母親たちの実感でした。

 しかし、おむつ外しの時期は紙おむつの普及とともにだんだんと遅くなり、今では「三歳までにとれればよい」「幼稚園に入るまでにとれればよい」などと言われ、四歳児むけの大きなおむつも発売されています。
 近年では「無理しておむつをとろうとすると、子どもの心を傷つける」といういかにも科学的風な脅し文句が知れ渡っているため、ほとんどの母親がおむつを早くとろうとはしません。

 そんなわけで、文明人たちの多くは生まれて間もない頃からバカリズム式の垂れ流し排泄を学習させられます。
 おむつを長い間着けていれば「着衣のまま垂れ流す」という習慣はその分強化され、「トイレで出す」という別の習慣に乗り換えるのが困難になります。
 バカリズムのおねしょはたったの一週間で済みましたが、おむつに垂れ流す期間が長かったならその学習効果の分だけおねしょも長期間続くのかもしれません。

 近代化によって失われつつある文化として、三砂ちづるが調査したもうひとつの身体技法が月経血コントロールです。
 吸収力の高い生理用品の普及の影響からか、月経血に関しても「垂れ流してナプキンやタンポンに吸わせるもの」という新しい常識が近代社会には広まっていますが、月経血にも「ためて出す」という身体技法が存在するらしいのです。

 彼女は『昔の女性はできていたー忘れられている女性の身体に"在る"力』の中で、月経血を自然にコントロールしていた方にインタビューを行っています。
 昭和初期から芸事の道で活躍されていた加藤光江さんは、月経血のコントロールについて以下のように語っています。

私は若い頃はあまり月経の量が多くなかったので、月経中でも生理用品のようなものは何も使っていませんでした。
月経中はいつも粗相をしないように自分で気を付けていました。
歩くときなどは何か紙のようなものを股の間にはさむような姿勢で、あまり大きく足を開かないようにしていました。
そのうちおなかのあたりが気持ち悪くなってくるので、そろそろ出そうだなというのがわかるんです。
そしたら出ないように股を締めてお手洗いに行って、たまっていたものを出すんです。

舞台に出る前など、大切な時には必ず、「お手洗いに行った?」とお師匠さんに聞かれます。
月経中でもまめにお手洗いに行っておけば、その後、しばらくは大丈夫でした。
夜寝ている時にしくじったことも、あまりありません。
月経中は気にして寝ているので、夜中に何回も目が覚めちゃうんですよね。
1晩に3~4回くらいはお手洗いに行って出していました。

 また、現代女性の中にも自分なりの知恵として、いつの間にか月経血をコントロールしている人もいるようです。
 そんな一例として、日本出産教育協会の代表を努める戸田律子さんの話が紹介されています。

 彼女は中学・高校時代の排血量が多すぎて、授業時間である一時間ももたずにナプキンから横もれを繰り返していたそうです。
 そこで苦肉の策として排血の我慢を覚え、休み時間のたびにトイレに駆け込んでたまった月経血を出すようにして難を凌いだそうです。
 月経血コントロールを覚えた当時の感覚について、彼女はこう語っています。

排血をこらえている時というのは、意識して膣のあたりを締めた状態にしています。
排血しそうになると、ふわっと温かいものが膣のほうに下りてくるような感覚があるので、その時にさらに締めるようにする、という感じでやっていました。
こうして自分なりに月経血をコントロールしていたのですが、特別なことをやっているという意識はまったくありませんでした。

 つまり、赤ちゃんの排泄も女性の月経も「ただ垂れ流す」だけが唯一の自然状態ではないということ。
 「ためて出す」にしろ「受け皿に垂れ流す」にしろ、それは私たちの身体の勤勉な学習によって身に付けられる後天的な習慣なのです。

 三砂ちづるは月経にしろ出産にしろ育児にしろ、ご自身の発信される方法がより自然で、今普及している近代的な方法は問題があるというニュアンスで紹介していますが、私の着眼点はそこではありません。
 ここで私が言いたいのは、排泄の方法も学習で身に付けていくテクニックの一つに過ぎず、自然で正しい唯一の排泄方法など別に存在しないということです。

 そんなわけで、私が最後に紹介したいのは2014年6月28日放送の「すべらない話」におけるバカリズムのトイレの話です。
 彼は小学校1年生の時、ばれないようにウンコをする裏技を開発しました。
 その裏技とは以下のようなものです。

 まず、どうしても漏れそうになったら人目が付かない草むらなどに隠れる。
 そして、パンツに手を突っ込み、 手にちょっとだけ排便して捨てる。
 そうやって小分けにウンコを出し切って最後に手を洗う。

 学校のトイレでウンコをするのが恥ずかしかった当時のバカリズムは、どうしてもという時にこの裏技をやっていたそうです。
 最初は緊張するしウンコの量の調節も難しかったけど、やっていくうちに段々と気持ちも慣れて技術が向上していき、まん丸い小さなうんこを均等なサイズで出せるようになったということです。
 私はこのバカリズムが完成させた裏技を、おむつなし保育や月経血コントロールに負けるとも劣らない人体の神秘だと感じました。

 どの方法が正常でどの方法が異常かといった議論の小競り合いに、私は大して興味を持ちません。
 排泄の仕方は学習で身に付ける習慣でしかありませんから、ためてから出すにしろ、着衣のまま垂れ流すにしろ、手掴みで排出するにしろ、好きな方法を選んだら良いと思います。

 要はただの選択だということ。
 正しかろうが正しくなかろうが私たちは自分なりの選択をしていくだけ。
 不和の種をまくのはいつも、正しいとか間違ってるなどと言いたがる人々なのです。


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 以前勤めていた高校で10人にも満たない少人数クラスを受け持っていた頃、教室内にミニチュアの七夕飾りを作ったことがありました。
 そのときはクラスの全員が短冊に願い事を書き、教室で育てている鉢植えにそれらを吊るしていきました。

「10キロ痩せたい」
「お金持ちなイケメンに出会えますように」
「いいことがありますように」
「クラス全員が英検に合格しますように」
「人類に貢献できる偉大な人物になる」
「いつもと同じように幸せでいられますように」

 などなど、願い事は人によってさまざま。
 私も自分自身とクラスのことを念頭に置きながら、こんなことを書いてみました。

「今見えている景色とは違う景色が見えるようになりますように」

 すると、ある生徒に「先生の願い事は抽象的で難しすぎる」と指摘されました。
 そこで私は、内田樹が説く「学びのダイナミクス」について、私なりにざっくりと要約して以下のように伝えました。

学びとは、自己が変革していく過程のこと。
その意味では、努力と引き換えに知識や技能を手に入れるというだけの過程は、学びとは呼べない。
それは「欲しかったものを手に入れる」という単なる等価交換であり、広い意味での消費活動の一環に過ぎない。

真に学びが発動したならば、ただ単に「欲しかった知識や技能を手に入れる」というだけでは済まされない。
それまで見えていた景色とは違う景色が見えるようになり、「何を欲するか」という己の欲求の在り方すら変わっていく。
そんなダイナミックな変革の過程こそを学びと呼ぶ。

とまあ、だいたいこんな風に内田樹は言っているわけ。
何を以て「学び」と呼ぶかは人それぞれだと思うけど、少なくとも等価交換としての学びよりも内田樹の言っている学びの方が、人として成長している気がしないかな。
後になって自分を振り返ったときに「今現在の自分の望み」が幼く見えたとしたら、それは「成長できた」ってことなんだと思うよ。

 短冊にこう書いた私の意図は、学校教育で頻繁に行われるある典型的な刷り込みの緩和にありました。
 教育の現場では「夢を持て」「将来のビジョンを描け」「目的をしっかり持って進路を選択しろ」といったメッセージが頻繁にアナウンスされています。
 それはしばしば、人生の先輩たちの経験から導かれる教訓として伝えられます。

「目的を持って計画的に取り組んできたから望みを叶えることができた」
「目標を持たずにダラダラとここまで来てしまったけど、若いころから目標を持って人生に取り組んでくれば良かった」

 ですが、いくら目標や願いを持ったしても、その望み自体が途中で変わってしまうというのはよくある出来事。
 そうした「目標の途中変更」については、様々な解釈の可能性があるでしょう。

 「自分の本当の願いが何なのか」を理解できていなかったから、目標も途中で変わるハメになった。
 こう捉える人は、目標に対する過去の不十分な検討を反省して「しっかりとした目標の検討」を説きます。

 幼い頃に持っていた「本当の夢」を諦めて、安易に現実的な路線へと妥協してしまった。
 そう捉える人は、過去の目的意識の弱さを反省して「強い目的意識の堅持」を訴えます。

 ですが、「目標が変わったのは自分が成長したから」と捉えられる人は、現時点で目標を持っていないことも、しっかりとした目標を持っていることも、目標を途中変更してしまうことも、全てを成長のプロセスとして受け止めることができます。
 ビジョンを描けないのは単なる不真面目さの現れではないし、ビジョンを持ち続けられないのは単なる弱さの現れではない。
 どんな状態であっても立派な成長過程の一部なのです。

 記述信仰という固定観念からの卒業を促すために当ブログを更新している私の現状は、短冊を書いた3年前には全く想定していなかったもの。
 3年前の私の願い事は、どうやら無事に叶えられたようです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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 言葉の根本的な存在理由は人心を説得すること。
 世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするという役割は、言葉の本質とは全く関係がない。
 これが私自身の一貫した主張です。 

 それに対し、言葉はそもそも世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするためにあるもので、その副産物として「人心を説得する」という言葉の働きも生まれている、という解釈の方が世間ではまだまだ主流です。
 このように、記述の役割こそが言葉の本質だと捉える言語観のことを、私は記述信仰と名付けたいと思います。

 この記述信仰は、現代人を必要以上に悩ませてしまう病原体のようなもの。
 言葉の本質を記述だと信じ込んでいる人は「その言葉が言い表していることは本当か嘘か」という言葉上の○×ゲームに囚われ、○か×かの見極めこそが人生の本質だと捉える癖を身に付けます。
 ですが、現代社会に溢れている「○と認められるための基準」はむやみに高く設定されているため、ほとんどの信者たちは無意識のうちに「自分は×なのではないか」といった自己否定の念にさいなまれています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11870976520.html

 私がやろうとしているのはこうした記述と説得の主従関係を逆転させ、悩みを無駄に増幅させてしまう記述信仰からの卒業を促すことです。
 言葉の機能は説得でしかなく、「事実の記述」とは説得のための方便の一つに過ぎないという発信を通じて、記述信仰の罠にハマる犠牲者を減らしていきたいというのが私の悲願なのです。

 その目的を果たすため、記述と説得の関係についての私なりの解釈を簡単な図にまとめてみました。
 この図式は「記述による説得」は「言葉による説得」の一部であり、「言葉による説得」は「野生の説得」の一部であるという包含関係をざっくりと表したものです。
 この図式にはありとあらゆる説得法を入れ込むことができますので、いくつか例を示してみましょう。

 例えば、果物の実が動物にとって美味しく感じられ、種が苦く感じられるようにできているのは、植物の側からの「野生の説得」と言えます。
 美味しい実をつける植物たちは、実を動物に食べさせ種をそのまま捨てたり排泄させたりすることによって、種の移動を動物に手伝ってもらい広範囲での繁殖を実現します。

 また、動物の雄が肉体的な強さを誇示して雌たちを惹き付けるのも、言葉によらない「野生の説得」の一つ。
 雄たちは、弱肉強食の世界での生存率の高さを雌たちに向けてアピールすることによって、繁殖におけるパートナー探しを優位に進めるのです。

 イヌやイルカの調教、ヒトの赤ちゃんへのトイレの躾などは、事実の記述という物語に頼らない「言葉による説得」の一部です。
 これらの説得は、叩く、怒鳴る、威圧する、餌などの報酬を与える、やさしく撫でるなどの「野生の説得」を、「よしよし」とか「ダメ」といった具体的な音声に関連づけることで実現します。
 このように、させたい行動に対しては言葉と共に好印象を与え、させたくない行動については言葉と一緒に悪印象を与えることで、他にもいろいろな「言葉による説得」が産み出されています。

 最後の「記述による説得」は「言葉による説得」の応用形。
 「世の中はこうなっている」といった物言いで様々な情報を与えることによって、聴き手の印象や考え方や行動に影響を及ぼすのが「記述による説得」です。
 この手法のメリットは、話している内容がまるで客観的な事実であるかのような印象を与えるので、話者の「説得してやろう」という意図が見えにくくなるという点にあります。

 つまり「世の中はこうなっている」という言い方は、日常的な説得を目的として使われているのです。
 ですから「それが本当か嘘か」という言い方も、説得の場面におけるただの方便に過ぎません。
 占いや宗教や科学などは、集団心理によって造り出された「記述による説得」の代表格です。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11858425764.html

 そして、記述の言い方でされる発言を発信者による説得行為とは捉えずに、客観的事実についての純粋な意見表明なんだと信じ込んでしまうのが記述信仰です。
 客観的事実という作り話を鵜呑みにする信者たちは、「言葉が表している内容が本当か嘘かを見極めることが重要」といった類いの信念を抱きます。

 これは、「説得」という言葉の根本的な作用を度外視した一種の下剋上です。
 客観的事実の信者たちは、説得のために生まれた「記述」というただの方便を言葉の本質として祀り上げてしまいました。

 西洋哲学における「真理の探究」という考え方は、この記述信仰にとことんのめり込んだ人々に見られる典型的な中毒症状。
 こうした記述信仰の罠から抜け出そうとする試みを、哲学の世界では言語論的転回と言います。

 「語りえぬものについては沈黙せねばならない」の名言で知られるヴィトゲンシュタインは、そもそも言葉は日常的な使用のために発達したものであり、「真理の探究」なんて議論は哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題だと結論付けました。
 言語学者のソシュールは「言葉より先にまず世界が存在し、名前は後からつけられる」とする西洋哲学の伝統的な言語観を否定し、私たちにとっての世界は言葉の作用によって築かれており、言葉以前の客観的な世界など想定しても意味がないと述べています。
 そしてレヴィ=ストロースも、西洋哲学や近代科学における熱狂的な記述信仰のあり方はヨーロッパという地域限定の特殊な風習に過ぎず、他の地域でまかり通っている神話や迷信のあり方と何ら変わりはないと発信しています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11884786421.html

 そんな先人たちの発信にも関わらず、客観的事実という神話に飼い慣らされた文明人たちは、伝統的な記述信仰の呪縛からなかなか抜け出せていません。   
 例えば、私のこの文章を読んで「ここに書かれていることは本当だろうか」と疑問を持たれた方がもしいらっしゃるならば、その方は「言葉が記述として正しいか」にばかりこだわる記述信仰の罠に踊らされています。

 そうではなく、そもそも全ての言葉はあなたへの説得の圧力です。
 もちろんこの私の文章も、読んでいるあなたへの説得工作でしかありません。
 それは説得の道具として生まれた言葉の性質上、仕方のないことなのです。

 私の目的は、この弱肉強食の説得合戦の世の中で、記述信仰の罠にハマって苦しむ人を減らしていくこと。
 ですから私は「世の中はこうなっている」という言い方を説得のための方便としてしか使いませんし、この言い方が「記述による説得」であることを全く隠しません。

 私たち人間は動物である以上、好印象か悪印象かという感情における○×ゲームからは決して逃れられませんが、正しいか間違っているかという造られた○×ゲームからなら抜け出すことはできます。
 記述信仰から卒業できる人が少しでも増えていくよう、これからも「記述と説得の関係」についての発信を続けていきたいと思います。



※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。今回は、そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を図にまとめてみたわけです。
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 当ブログのテーマは、良くも悪くも私たちの生き方を振り回してしまう言葉の影響力。
 私たちの印象を左右し、行動の方針を説得し、ものの見方を刷り込み、気付かないうちに私たちを洗脳していくのが言葉です。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11858425764.html

 だからと言って、囚われを何もかも捨てようとか、言葉を使わずに考えようだとか、全ての刷り込みや洗脳から抜け出そうといった夢物語を目指しているわけではありません。
 私の目標は、無自覚のうちに自分が無数の言葉たちに影響されてしまっていることを謙虚に受け止める習慣を広め、「自分を理性的に制御する」といった身の程知らずな目標に挫折して傷付く人を減らしていくことです。

 世の中には「こうすれば刷り込みや洗脳をすっかり打ち破って望み通りに生きられる」といった甘い言葉もゴロゴロと転がっています。
 しかし、脱洗脳とはただ単に再洗脳の言い替えに過ぎません。
 そんな言葉の影響力によって「おかげで全ての洗脳や刷り込みから脱出できた」とか「素直に従えない人は余計な先入観を刷り込まれているからだ」といった、「目覚めの方法」を絶対視する新たな洗脳が生まれることになります。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11864744405.html

 こういった話題で必ず槍玉に挙がるのが宗教です。
 そして宗教からの「目覚めの方法」として、近代以降もっとも影響力を持っていたのが「科学的なものの見方」です。

 ですが現代になって「科学的なものの見方」も一つの偏見に過ぎないという考え方が広まってきました。
 その副作用として「これまでの科学的偏見からの脱洗脳」を自称する、カルト宗教やスピリチュアルや疑似科学といった勢力も続々と登場しています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11866547864.html

 どの勢力が本当の「目覚めの方法」なのかといった小競り合いに大した意味はありません。
 言葉を使って生きている限り、他人を洗脳しないことも自分が洗脳されないことも不可能。
 私たち人間はもともと、言葉によるお互いへの洗脳によって右往左往し合う生き物なのです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11809789350.html

 もちろん私のこうした文章も、読者の皆さんへの洗脳と言うことができます。
 世の中に溢れている無数の刷り込みの言葉のうち、どの洗脳を取り入れてどの洗脳を遮断するかは、読んでいる皆さん次第。
 私には「真実に目覚めよ」といった類いの洗脳を施すつもりは毛ほどもありません。

 このブログでの私の説得工作は、大きく5つのテーマに別れています。
 「ヒトの仕組み」では、なぜ人間は言葉による洗脳で右往左往してしまうのかという根本的な原因について考察しています。
 「乱暴な○×ゲーム」では、言葉によって起こる刷り込みや洗脳の荒波をいろいろと紹介していきます。 
 「私の泳ぎ方」では、刷り込みや洗脳の荒波に対して私自身はどう対処しているのかという具体例を紹介していきます。
 「それぞれの波乗り」では、刷り込みや洗脳の荒波に無理に逆らわずに乗りこなしている著名人の発信を紹介していきます。
 そして「当ブログの方針」では、この記事でやっているように、ブログ運営の意図をかいつまんで説明しています。

 これまで思い付くままに40本の記事を書いてきましたが、以下の10本にはその要点がギュッと凝縮されています。
「人類を飼い慣らした物語」
「全人類プロレス」
「責任ある大人のマナー」
「失われた神を求めて」
「○×はしんどい」
「真理ムラの癒着と圧力」
「常識の方程式」
「原子力発電は必要か否か」
「作り話の楽しみ方」
「科学の目的」
 当ブログを初めて訪れた方は、まずはこちらを読んでいただけると嬉しいです。

 不定期に更新を続けてきた当ブログですが、これからは毎週日曜日の更新を目指していく予定です。 
 私なりに知恵を絞りながら綴っていきますので、これからもどうぞよろしくお願いします。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html


 私たちのものの考え方は、物質的な状況や思想的な流行といった時代ごとの背景に大きく左右されています。
 以前の記事では、レヴィ=ストロースの提唱した構造主義やその著書『野生の思考』が現代社会を生きる私たちに与えている影響について、ごくごく簡単な一例を紹介させていただきました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11883543883.html

 ざっくり言うと、「普遍的な真理を解明するためのもの」という昔ながらの科学観は西欧独特のただの偏見だと徹底的に指摘したのがレヴィ=ストロースです。
 そして、科学や思想というのは「私たちにとっての世界」を作っていくためのツールに過ぎないんだから、道具としての利便性や弊害をその都度確かめながら試行錯誤をただただ繰り返していこうとする制度設計の考え方こそが構造主義です。

 今回は、構造主義の登場によって問い直されてしまった「科学の目的」について、「世界の普遍的な真理の解明」という伝統的な解釈と「私たちが生きる世界の構築」という現代的な解釈との根本的な違いを考えてみたいと思います。
 フェリス女学院大学の高田明典は、その著書『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』の中で、「制度設計の道具として有用な科学とはどんなものか」という切り口で以下のような解説をしています。  

「人が食事をするのはなぜか?」という質問には答えられません。
少なくとも、「科学者」はそのような質問に答えるべきではありませんし、事実答えることができない筈です。

そのような質問に答えることができるのは、神学者や宗教者です。
それはいわば「神の視点」に立脚した質問だからです。

しかし、「ある個人に食事をさせるためにはどうすればよいのか」という質問になら、答えることができます。
それは「真理」とは関係のない質問だからです。
そして、おそらく科学とはその程度のものです。

質問はつねに状況と目的を含んだ形式で為される必要があります。
つまり、「Aは何故か?――<形式0>」という質問は無目的かつ無意味だということです。

もちろん、一般的な文脈ではこの形式の質問は私もよく使います。
しかし重要なのは、それを「Bという状態にするにはどうすればよいのか?――<形式1>」という質問の形態に変換することです。
すべての「Aは何故か?」という類の質問は、<形式1>の形に変換することが可能です。

<形式1>の質問に対しての答えは、大きく三種類に分類されます。
一つは「できない」であり、もう一つは「する必要がない」です。
そして最後の一つが「~というようにする」という具体的なものであり、これこそが「有意な回答」であるといえます。

「有意な回答」は「有効」か「無効」かという試金石でその価値を試すことができます。
これが「有効な回答」であるか否かを試すのは簡単です。
やってみればいいわけですから。

従来の諸科学は「~とは何か」とか「~のはなぜか」という枠組みに捕らわれていました。
それは前述したように<形式0>の質問です。

構造主義の扱う質問はつねに「~するにはどうするばいいのか」<形式1>の形をとります。
そしてこうすることによって初めて「貴族の遊び道具」であった学問を「役に立つ・意味のある」ものに変化させることができるのです。

 高田氏が述べる科学の目的とは、単にこの世界がどうなっているかを解明することではなく、実際にこの世界を変えていくための具体的かつ煽動的な発信をすること。
 「ただ真理を知ろうとしている」だけに見える科学や哲学であっても、いかにも正しそうに聴こえる説明に影響を受けた人たちの行動によって世の中が動くことは多々ありますし、私たちの住む社会も実際にそうやって築かれてきました。
 「~とは何か」や「~のはなぜか」といった<形式0>の問題に答えているだけ見える発言も、「どのようにして世の中を変えていくか」 という<形式1>の問題に対する具体策の一例となりうるのです。

 こうした科学による世の中への作用のことを高田氏は「制御」と呼び、これこそが科学の本来の役割だと主張します。
 そして、レヴィ=ストロースの行った「制御」についてこう解説しています。

西洋の文化や考え方のみが「先進的」であってそれ以外の文化圏の文化は「劣っている」ものだという偏見を持っている人たちがいたとしましょう。
彼らに対して「基本的な部分は全く同じであって、違うのはこことここの部分だけだ」ということを提示したらどうでしょうか。
少なくともむやみやたらな「自文化中心主義」の呪縛からは脱却できるできる可能性があります。

レヴィ=ストロースの業績の意義は、おそらくそこにあります。
『野生の思考』が当事のヨーロッパに衝撃を与えたのは、その意味においてです。

レヴィ=ストロースの研究には、隠されていて表面には出ていないものの「制御」の対象が明らかに存在します。
本当のことを知りたいとか「真理に近づきたい」というような要求に基づいているのではなく、現実社会に存在する問題を解決する道具としてソシュール言語学や初期の構造主義や記号論の概念を用いたのが、レヴィ=ストロースです。

この「目的意識」が存在しないところに「科学」は存在しません。
「知的好奇心」を満足させるための「真理の探究」は科学の目的ではなく、単なる趣味です。
「制御」こそが科学の唯一の目的です。

 この高田氏の文章は、いまだに伝統的な科学観にしがみついて正しいことを言いたがる人々への痛烈な皮肉です。
 「制御」こそが科学の唯一の目的だなんて何の根拠もない決め付けだ、なんて反論は彼には通じません。
 だって彼は「科学の目的とは何か」という<形式0>の質問への応対には最初から全く興味がなく、「真理の探究という時代遅れな偏見から読者を卒業させるにはどうすればいいか」という<形式1>の質問への具体的な回答として、敢えて決め付けて書いているのですから。

 レヴィ=ストロースも高田明典も内田樹も構造主義者たちは皆、いつまでも「何が正しいか」にこだわってあら探しばかりしている素朴な批判者とは別の次元でものを語っています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11916964470.html
 私自身も「何を発信していくか」という「制御」の意志を持って生きていきたいし、このブログではそうした「制御」の意志を持った人の発信を紹介していきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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13歳で結婚。14歳で出産。恋は、まだ知らない。

 これは、途上国の子どもに教育を与えていこうと活動している国際NGO「プラン」の日本支部による、「Because I am a Girl」という啓蒙キャンペーンの広告です。
 このキャッチコピーを見て、あなたは何を感じとるでしょうか。

 素直に共感して「世界にはここまで人権を無視した風習がいまだに残っているのか」と問題意識を持つ人もいれば、民族固有の伝統や文化を尊重できない一方的な価値観の押し付けだと反発を感じる人もいるでしょう。
 ここに、インターネット上で表明されていた反感の声の一部を紹介してみたいと思います。

「この文化は間違ってる」と言いたいのか
何の特権があって線引きしているのか
文化・伝統の全否定を訴えているのか
先進国の価値観を基準に断罪して文化的圧力をかけるのが目的なのか

恋愛至上主義って気持ち悪い
恋愛結婚を理想と崇めて晩婚化・非婚化した社会と、こういった伝統社会とを比べると相対的にはどちらが幸福なんだろうか

一方的な価値観で他国の伝統文化を侮辱するな
異なる文化圏に自分たちの人権意識を持っていって「あなたたちは不幸だ」と吹き込むのは余計なお世話だ

生物として何も間違ってない
むしろ近代教育による先進国の晩婚化や高齢出産の傾向の方が生物としては異常だろう

 そもそも世界の見え方は立場や視点によって異なるものです。
 まるで「自立した個の概念が確立されていない前近代的な価値観は未熟で野蛮だ」と見下すかのような態度は、先進国特有の自文化中心主義的な思い上がりに過ぎません。

 ですが、それぞれの立場の在り方を尊重しようとするものの捉え方は、20世紀前半までそれほどメジャーな言い分ではありませんでした。 
 それが今ではごく普通の理想論として庶民の間でも市民権を得ており、人々の会話やテレビ番組での討論、そしてインターネットの書き込みなどでも頻繁に見られる態度となっています。 

 この新しい常識を世に広めていったのが、フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースです。
 レヴィ=ストロース以前の言論の状況については、内田樹がその著書『寝ながら学べる構造主義』の中で端的に説明しています。

1950年代のアルジェリア戦争のとき、ジャン=ポール・サルトルは「フランスの帝国主義的なアルジェリア支配」をきびしく断罪しました。
サルトルが「フランス人のものの見方」を相対化したことは確かです。

しかし、サルトルは「アルジェリア人民の民族解放の戦いは断固正しい」と言ったわけであって、フランス政府の言い分にもひとしく配慮したわけではありません。
国際的紛争においては、抗争している当事者のうちどちらか一方に「絶対的正義」があるはずだ、というのがその時代の「常識」であり、その「常識」はサルトルにおいても、少しも疑われてはいませんでした。

この時期に「フランスとアルジェリアの言い分のいずれが正しいかは、私には判定できない。どちらにも一理あるし、どちらも間違っている……」と正直に語ったフランス知識人は、私の知る限り、アルベール・カミュただ一人でした。
そしてカミュはこのときほとんど孤立無援だったのです。 

 と、こうした言論における世界情勢を変えるべく、レヴィ=ストロースは『野生の思考』という著書の中で、当事主流だったサルトルの実存主義思想を痛烈に批判しました。
 批判の論拠となる『野生の思考』を分析するにあたって、彼は群論という現代数学の成果を活用しています。

 数学というと、一般的には数値計算や数式が出てくる理系分野のものと思われがち。
 実際、数学が使われている学問も、自然科学や経済学、コンピュータサイエンスなど数値に換算できるジャンルがメインです。

 ですが19世紀以降、これまでの数学をより広い視点から見つめ直す「群論」という手法が導入され、「数以外の抽象概念も扱える数学」が誕生しました。
 そして、それまで数学とは無縁だった人文科学の領域に、こうした群論の考え方をセンセーショナルに持ち込んだのがレヴィ=ストロースだったのです。

 近代科学や西洋哲学における「人類の進歩を目指す」という価値観は、人類にとって普遍的なものではなくヨーロッパ文化圏における民族的奇習に過ぎないのではないか。
 そう疑っていた彼は「未開人」と呼ばれていた人々とともに生活しながら彼らの風習を学び、そこに西洋的価値観とは異なる知の構造が秘められていることを発表しました。

 たとえば、南北アメリカやオーストラリアの先住民などには、婚姻に関する複雑な規則が存在することが知られています。
 オーストラリア先住民のカリエラ族社会では、人々はバナカ、カリメラ、ブルン、パリエリという4つの姻族に分けられており、カリメラはパリエリと、バナカはブルンとしか結婚できないというルールがあります。
 そして、ブルンを母とする子はパリエリ、バナカを母とする子はカリメラ、パリエリを母とする子はブルン、カリメラを母とする子はバナカとなり、部族内での血縁関係は片寄ることなく巡り巡っていきます。

 「自立した個の確立」に執着する近代的な価値観からすれば、生まれながらに4分の3のグループとは決して結婚できないと定められているこの制約は、理不尽で無根拠な風習としか映らないでしょう。
 しかし、この婚姻による子の所属の変換を代数的な演算として捉えると、クラインの4元群という群論上の分類に合致することがわかります。

 レヴィ=ストロースは「未開人」の生活様式に現れる群構造を他にも多数発見しており、それらの構造を分析して『親族の基本構造』『構造人類学』『神話論理』などの著書を発表しました。
 これらの構造分析の目的は、「未開人は知性が未発達で合理的な思考ができない」と見下す進歩主義的な偏見の払拭にありました。
 彼らの有する合理的な知性の在り方を記した『野生の思考』において、レヴィ=ストロースは以下のように語っています。 

私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。
効率を昴めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。

いかなる時代、いかなる地域においても、「野蛮人」が、いままで人が好んで想像してきたように、動物的状況をやっと脱したばかりで今なお欲求と本能に支配されっぱなしの存在であったことは、おそらくけっしてないのである。

 このように彼らなりの合理性を踏まえた上で、自分の文化を基準に異文化を見下す傾向に関しては、「家畜化された文明人」も「野生の未開人」も五十歩百歩だと諭します。

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。
それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。

われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。

 そして最終章では、自らの属するヨーロッパ的知性に過大な自信を有しているサルトルの態度を、「目くそ鼻くそを笑う」ものだとして以下のように痛烈に批判しました。

サルトルはときに二つの弁証法を区別しようとしているように思われる。
すなわち、歴史ある社会の弁証法である「真の」弁証法と、いわゆる未開社会に彼が認めながらも、生物学のすぐそばに位置づける反復的でかつ短期の弁証法とである。

それらの社会にせよわれわれの社会にせよ、歴史的地理的にさまざまな数多の存在様式のどれかただ一つだけに人間のすべてがひそんでいるのだと信ずるには、よほどの自己中心主義と素朴単純さが必要である。

サルトルが世界と人間に向けているまなざしは、『閉じられた社会』とこれまで呼ばれてきたものに固有の狭隘さを示している。

サルトルの哲学のうちには野生の思考のこれらのあらゆる特徴が見いだされる。
それゆえにサルトルには野生の思考を査定する資格はないと私たちには思われるのである。

逆に、民俗学者にとって、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である。
私たちの時代の神話がどのようなものかを知りたければ、これを研究することが不可欠であるだろう。

 電車の中で「13歳で結婚。14歳で出産。恋は、まだ知らない。」という広告を見たとき、そのキャッチコピーの持つ自文化中心主義的な作為に私は胸くそが悪くなりました。
 ですが、インターネット検索によって同様の意見を持つ人が大勢いてくれることを知り、ほっと一安心することができました。

 レヴィ=ストロースがその100年の生涯を終えて今年で5年。
 彼が残していった偉大な業績には、いくら感謝してもしきれません。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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